綾部の秋寂し one day trip to Ayabe’s desolation    

はじめに

 愛善荘に恒例の年祭に訪れた。「瑞霊世を去りて聖道漸く滅す」の研究の関連で,小さなタウントリップも実施したので,備忘録としてここに記す。

1. 八年間の教主不在

 「瑞霊世を去りて聖道漸く滅す」の論の展開で,出口直美の四代教主が聖師の約束通り実現していたことを,愛善荘の教学主任にあたる方に伝えた。この論の「9. ミロク三会」の部分のコピーも手渡した。その結論の一つである次のAdobe Illustratorの図も別途3枚。

図1 聖師が約束した三十年サイクル

2. 愛善荘

 11月の年祭参拝を姉の昇天以来,続けてきた。

図2 愛善荘の祭壇
図3 聖師(鬼誌)の上谷での揮毫(写)
図4 聖師揮毫「綾乃タカアマハラ」
図5 聖師揮毫「真善美」

3. 月山不二の現行大本本部による蹂躙

 昭和45(1970)年10月に発行された聖地案内用の冊子『大本 ー綾部・梅松苑ー』の「月山不二」の部分を次に(誤記などは修正)。
「昭和二十一年六月完成。本宮山上の長生殿敷地あとに出口聖師の設計・監督により築造された。大本の至聖所の一つ。頂上には延暦(えんりゃく)二十一年の富士大爆発のさい噴出したとされる霊石を安置し,三つ葉の松が植えられている。
 旧七月六日の夕べから七日間,神集祭(七夕祭)が挙行されている。このお祭りの期間中に,天地八百万の神が集われて,一年間の世界の経綸(しぐみ)が定められる。」

 聖師は二代様とともに敗戦後,そして保釈後はじめて綾部に帰られて,第二次大本事件で破壊された石材を積み上げて,その上を白砂で覆って,天皇傘下の権力による大弾圧にあっても破壊を辛くも免れた富士の霊石を安置し,そのそばに憑代として三つ葉の松の木を植えられた。この三つ葉の松には後述の奇跡譚がある。なお,月山は築山に対する当て字で,不二は富士山に見立てている。

 気象庁の 富士山有史以降の火山活動 に掲載されている表を次に示している。

年代現象活動経過・被害状況等
▲800~02(延暦19~21)年噴火800年4月15日噴火、降灰多量、スコリア降下、溶岩流。噴火場所は北東山腹。
801年も噴火し、降灰砂礫多量、足柄路は埋没、802年に箱根路が開かれた。(VEI3)
表1 延暦時代の噴火

 富士山の霊石というのは図6,7のように丸くて,火山弾としては大きすぎるし外形も不適当である。遠目であるが,河谷の円磨作用を受けているようだ。つまりは溶岩層から河谷に大きな岩が崩落して,その後円磨作用を受けた結果と考えられる。2000年前以降の新しい地質時代の岩石として,かつ,延暦時代の火山活動にかかわる溶岩とすれば,西暦800年春以降の溶岩流に想定される。この岩石の採取地や岩質が明確にならないと延暦時代と限定するには無理がある。とにかく,霊石というからには何らかのご利益があったと考えるのが宗教的には自然であろうかと思う。
 何といっても天皇配下官憲による破壊を偶然免れたという点で,開祖元屋敷そばの榎が伐採されずに残って,その前に簡易の祭壇が置かれていることと付合するのである,

図6 憑代の三つ葉松などの抜根前の月山不二
図7 抜根後の月山不二

 綾部の「最高の至聖所」である月山不二山頂の憑代の三つ葉松を三代教主昇天の一年余り後,三代の傘下にあっていまなおその配下によって支配されている現行大本本部によって,事もあろうに,抜根された。『愛善世界』1992年3月号には,「大本神の斎庭を破壊する暴挙」として,現行本部の大黒主的本性がまたも暴露されている。1992年節分祭直後の破壊まもない時期に,大本信徒連合会によって現地調査が実施されており,抜根前後の写真も掲載されている。抜根を証する写真が図6と図7である。霊石周辺の神木は綺麗さっぱりと消失している。
 図7のキャプションによれば,憑代のひもろぎ三つ葉松が消えて,五葉松と梅は切り株が残っている,つまり伐採されたようである。

4. 憑代ひもろぎの三つ葉松は生き残っているのか

 上記『愛善世界』によれば,伐採を免れたのが,ひもろぎ三つ葉松であり,図8のものだという。この場所がどこか。であるが,この写真と『大本七十年史』下巻の折り込み地図から,図9で三つ葉松の移植場所を特定した。
 

図8 神籬ひもろぎの三つ葉松

 図9の左図は昭和10年12月で第二次大本事件突発直前のもので,右図は昭和37年12月現在とある。本宮山は両図の上部(南部)に位置しており,昭和10年には長生殿の基礎があり,事件で打ち壊され,昭和37年にはその跡地に月山不二が立地している。前述のように聖師と二代様によって昭和二十一年六月に完成している。

図9 『大本七十年史』下巻の梅松苑見取図

 

 図8の右端には下から上がってくる参道が見え,この参道の左手に三つ葉松があるので,図9右図の「本宮山」の字の山のそばに☆印を置いてみた。

以上,2024年11月11日記。

5. 禁足地を試す

 現行本部によって抜根され移植?された三つ葉松は枯れたのではないか。松は他の樹木に比べて圧倒的に中心の主根は地に深く降ろしている。樹齢十年以上に及ぶ松の移植は難しい。移植時には主根を掘り込んだとしても側根を切ったりする。十年後にこのことで枯死する可能性もある。ぼくの体験に基づいている。

 次の章に述べるが,種名が気になる。Pinus rigida ではないか。アパラチア山脈の固有種である。この生態を知らないが,奇跡とされてきた事実が,この種の特質かも知れないと思っている。

 以上の関心をもって,年祭のあと,本宮山に向かった。かつて父と参拝したのであるが,1回限りだったかも知れない。

 次の5枚の写真は禁足地に踏み入れた結果だ。おっさんに妨害された。図a2の後ろの坂を登っている途中に呼び止められた。このおっさんの顔を見たことあるような。このおっさんの努力で通路などが維持されているのであるが,年に1回のお祭りだけと言っていた。おかしい。せっかくの聖地が無駄になっている。ゆたかな信仰生活を支える場を教団が私物化している。なさけない。いくつかおっさんに問いかけた。頭おかしいって。

図a1 禁足地の看板
図a2 おっさんに阻止された
図a3 おっさんが
図a4 続おっさんが
図a5 念押しで撮影

6. 三つ葉松の種名は

 現場に行けなかったので,ご神木の種名はわからない。日本ではアカマツとかクロマツなどとマツを呼んでいるが,多様だ。アカマツ Pinus densiflora 英Japanese Red Pine,は雑種が生じやすく,かなり多様な種である。

タイワンアカマツ(バビショウ) Pinus massoniana 英Masson’s pine, Chinese red pine: 中国南部及び台湾を原産とするマツ。葉はアカマツと同じように二本一組(稀に三本一組)で生じるが、長さが20センチ近くあり、その様子が馬のシッポに似るとして現地では馬尾松(バビショウ)と呼ばれる。マツボックリはアカマツよりも小さい。: 中国南部及び台湾を原産とするマツ。葉はアカマツと同じように二本一組(稀に三本一組)で生じるが、長さが20センチ近くあり、その様子が馬のシッポに似るとして現地では馬尾松(バビショウ)と呼ばれる。マツボックリはアカマツよりも小さい。

Pinus rigida Mill. 英Pitch Pine
この可能性もある。このリンクにアパラチア山脈固有種の生態などの情報が掲載されているが,切り株からひこばえが出るかどうかについての記述はない。

三鈷の松 さんこのまつ: 御影堂の前にあり、空海が入唐留学からの帰途船上から密教相応の地を占するために所持してい三鈷杵空中に投げたが、帰朝して登山した折、その三鈷がこの松に懸かっていたと伝える三葉の松である。寛治二年(一〇八八)の「白河上皇高野御幸記」は「影堂前二許丈有一古松、枝条痩堅年歳遐遠、二宿老云、大師有唐朝、占有縁之地、遥擲三鈷、飛彼万里之鯨波、掛此一株之竜鱗、聞此霊異、永人感傷、称為結縁、折枝拾実、無不齎待為帰路之資」と記している。

 月見不二の松を献上したのは和歌山の人であり,この三鈷松かも知れないと思ったが,GKZ植物事典にこの記載があり,写真を見ると樹皮が明らかに異なる。Pinus bungeana 英Lacebark pine 白松。京都永観堂,三嶋神社などにもある。写真b1〜b4を次に。

図b1
図b2
図b3
図b4

7. 神殿の向きは

 図9には参拝者が祭壇に面する方向を紺色の矢印で表している。この逆方向が神殿の面する方向である。
 月山不二は南面しており,参拝者は北面することになる。図9の昭和10年の長生殿基礎の場合,神殿が南面する予定だったか北面する予定だったかは分かりにくい。この北隣に配置されている神声碑,教学碑,歌碑が北面しているので,長生殿の神殿も北面しているのではないかと想像していたが,後述する月宮殿が南面しており,同じ思想で設計されていたので,間違いなく,長生殿の神殿も南面する予定だったことがわかるのである。長生殿も月山不二もいずれも祭壇は南面である。
 昭和10年の長生殿基礎は南面,五六七殿祭壇はなぜか北面,している。昭和37年のみろく殿の神殿はおよそ北西面している。聖師が築造された月山不二は南面している。昭和10年の五六七殿と昭和37年のみろく殿はいずれも南面していない。
 みろく殿は「二代教主によって心血がそそがれ,信徒がひとしく待望していたみろく殿は,ついに昭和二八(一九五三)年四月一六日(旧三月三日)に完成した」(『大本七十年史』下巻, p. 1009)とあるので,二代教主の意向があった可能性はある。天恩郷の万祥殿は少し南に振った東面である。これは純粋に三代教主時代である。戦後のみろく殿と万祥殿の神殿の向きはどうにも理解できない。

 図10には,iPhoneナヴィアプリGeographica上で梅松苑と天恩郷の位置を示している。ほぼ,北西ー南東軸上にある。みろく殿からすると天恩郷は南東方向にあり,万祥殿からすると北西方向にある。図9右図のみろく殿で,信徒はほぼ南東方向の神殿に向かう。いまだ図化していないが,万祥殿はすこし北寄りの西方向の神殿に向かう。なんとも方位設定が粗っぽいが,両聖地に拝むとすれば,一応,意味はわかるが,教えの欠如した神殿拝殿設計である。

図10 Geographica画面 綾部と亀岡
図11 Geographica画面 梅松苑

以上,2024年11月11日記。

8. 本宮山は天恩郷の月宮殿跡地同様,禁足地に当たらない

 聖師の時代は,天恩郷万寿山の月宮殿跡地も梅松苑長生殿跡地も禁足地には当たらず,梅松苑については図9に示しているが,建物や石碑が並んでおり,連日,信者が参拝していた。ぼくの体験では万寿山については昭和四十五年ぐらいから下品な結界や石碑が作られて,禁足地になった。聖師の教えを理解できず,それに反発し,三代教主が考えたことであった。
 現行大本本部のスタッフは全然,聖師の教えを理解せず,三代の人間的観念にいまだに支配されている。

 聖地は,古生代後期〜中世代中期の付加体を構成する太平洋プレートの沈み込み時に付加された岩石で構成されている。父と天恩郷月宮殿跡地を巡拝している時に聞いたことであるが,聖地の底つ磐根は,チャートからなるという。

大本七十年史 > 下巻 > 第五編 > 第一章 宣教の積極化 > 1 現界的活動へ > 大祭後の動き,には,木庭次守の調査結果の一部が記されている。木庭次守の業績は七十年史では排除されたが,無難な部分だけ,採用されている。

引用はじめ ————————————————
(前略)月宮殿の敷地は、高熊山辺りからつらなっているチャート(Chert)質の岩磐で、天恩郷のなかでもっとも高く盛りあがったところである。その頂点が亀のかたちをしていたから、古くより亀岩とよび、その上に月宮殿が建てられることになったのである。
 聖師は、一九二七(昭和二)年の七月九日から、月宮殿建設の高台に「国魂石」を引きあげさせ、自ら作業衣をまとうて一石一石を配置し、月宮殿を中心にした八字型の国魂宝座がつくられた。まったく昼夜をわかたぬ緊張した作業であって、一三〇〇個の石が四〇日間で積みおかったのである。これについては、『水鏡』の「月宮殿の宝座」の章に、大要つぎのようにのべられている。(中略)
 すなわち聖師にあっては、高熊山修業以来約三〇年のあいだ、月宮宝座を築造する日が待望されていたのである。月宮殿は、聖師によって霊界において見分されたものを基本としてつくられたところの、わが国建築史上に類例のない建造物であった。その用材は「信真」に相応させて全部石材で、棟は十字形の構造である。屋根の構造や窓・天井などのつくりかたについては、東西文明の合流点てあるイラン、イラク地方の古代建築物を研究し、アジア古代の伝説的絵画を参考にした独得な構想からなるもので、家でもなければまた塔や堂宇でも神道的な神殿でもない。まことに創造的な建物であったといえよう。したがってその構造工作には多大の苦心がはらわれた。使用されたおもな石材は、力石・本小松石ほんこまついし・月の出石・日の出石・更沙石さらさいし・旭石・黄竜石・桜花崗石・曙石・班糲はんれい石・白大理石・蒼竜石・那智黒石・月石などで、それらの石の色によって立体的な色彩をあらわし、合計九〇〇〇個の石材がこれに使用された。なお月宮殿・国魂宝座の周囲は、青・白・黄の石材を粉砕して三色に色別したコンクリート塀でかこみ、正面の入口にはけやきで門がつくられた。この門を瑞月門とよんでいる。これらの工事は、一九二八(昭和三)年一一月一二日に完了したもので、着手から約一ヵ年の歳月がついやされた。
 聖師の歌には、〝霊界の姿をそのまま築きたる月宮殿の崇厳なる哉〟〝久方の天津神国の石宮を地にうつしたる月宮殿哉〟とよまれているが、月宮殿のたたずまいは、天恩郷の高台にそそり立ち一大偉観を呈していた。したがって完成後は、地元はもとより全国から拝観にくるものがおおかった。(後略)
———————————————— 引用おわり

 産総研の「日本シームレス地図」(20万分の1)では,天恩郷や梅松苑の地質は,前者は中世代ジュラ紀の海成砂岩,後者は古生代ペルム紀の海成層砂岩になっている。いずれもこの南方には古生代ジュラ紀のチャート帯が見えるが,この岩体が天恩郷と梅松苑の蓮の台はすのうてなである月宮殿跡地と長生殿基礎跡地に分布しているのである。木庭次守は,これを蓮の台と言っていた。聖師の言葉であろう。

 現在,「長生殿」なるものが本宮山の西麓に建設されている(図11)。この建物にはぼくは違和感があって,一度も訪れていない。木庭次守の批判的な態度に影響されたのであろう。父はタニハの人々の希望で長生殿に一度参拝しているが,その後の父の態度を見てても長生殿に関心がなかったようである。ここでの祭式の様子が現行大本のWebページにみえるが,入ったことがないのでわからないが,図11からしても,神殿は南南西に向き,信徒は東北東に向かうことになる。図11からすると本宮山の蓮の台のほぼ中央に向かっている。

図c1 長生殿 後背に本宮山
図c2 長生殿
図c3 四尾山(世継王山)長生殿の外の道から

 長生殿が本宮山に向かっているのは,聖師の心不在ゆえの結果だ。

大本七十年史 > 下巻 > 第五編 > 第四章 教団の発展と充実 > 2 教団の充実 > 神苑の造営と祭事,から次に引用する。

引用はじめ ————————————————
 一九三五(昭和一〇)年一〇月二七日、鶴山(本宮山)山頂に建設される長生殿の斧始式がとりおこなわれた。長生殿については、八月の主会長本部長合同会議の席上、聖師によってつぎのようにのべられている。「皇道を天下に宣布発揚せんとせば、どうしても大神様の神霊の奉安所を建てて神様に奉る必要が迫つてゐる……それで本年の一〇月二七日の記念日(第一次大本事件により大正一〇年一〇月二七日に本宮山神殿の破壊完了)に斧始式を執行したい。月宮殿は十字の形になつてをる。……乾坤に通じてゐるといふ精神から、皇道の本意を体し今度の長生殿も神様をお祀りするから、十字の神殿にした」。
 しかし万祥殿といい、長生殿といい、ともに未完成のままに第二次大本事件をむかえるのである。
———————————————— 引用おわり

 この引用にあるように,第二次大本事件直前では,長生殿は基礎ができただけだ。そして,「月宮殿は十字の形になつてをる。……乾坤に通じてゐるといふ精神から、皇道の本意を体し今度の長生殿も神様をお祀りするから、十字の神殿にした」とあるから,同様の設計思想に基づいていることがわかる。

 『大本七十年史』下巻折り込みの天恩郷の昭和10年の復元図を見ると,月宮殿に向かう入り口は瑞月門がある。その中心軸のほぼ北方向の延長に月宮殿がある。信徒はその月宮殿に拝する。つまり北面するのである。月宮殿は南面しているのである。そして本宮山の長生殿基礎も,月山不二も南面である。

 祭壇は何故,南面するのか。信徒が北面して祈るように設計されているのである。祈りは何に向かっているのか。北斗である。北斗七星は街の明かりがなければ,北天の一部が晴れていれば通年ほぼ毎日観察することができ,同時刻に観察すると,北極星を年に1度周回する。この現象は多少注意力があれば,誰でも自ら発見できる。祈りは天の北極に向かうのである。その祈りの場を提供しているのが神殿である。それゆえ,おそらく権力三代教主の設計で,本宮山西麓に建設された長生殿の祭壇が南南西に向いているのは,神殿設計としては出鱈目と断言できる。本宮山の西麓であっても,長生殿は十字形で祭壇は南面すべきなのである。本宮山を御神体とするのは全くの誤謬である。

 人は祭壇に向かって神に祈るが,祭壇に向かって拝んではいるが,祭壇は単に神につながる発信そして受信基地なのである。人は手近の祭壇に向かって祈るが,祭壇に祈るのではなく,祭壇を通じて宇宙の神に向かう覚悟が必要である。物理的祭壇にのみ祈っていては,神に通じることはできない。自ら信じる祭壇を通じて宇宙の神に祈る。祭壇を手掛かりにすると,たとえば聖師,開祖,二代,を通じて,独一真神に通じることになるのである。

 無神論者はこの基本に思いが及ばない。ちっちゃな聖地に神は居ない。

以上,2024年11月12日。

9. 出口直美追放記念碑

 図13はみろく殿で,この写真の左手の神苑入口左手に図12の看板がある。この絵図の左手には,図9右図に,つるやま工房や要荘,として赤マルで囲っており,現存しているが,二代教主(三代の母)と四代教主(三代の長女)の施設故に,消去されている。なんとも情け無いことである。恥ずかしい。図14には,不自然なアカマツの樹形が見える。マツクイムシが猛威を振るった時代の生き残りを残しているのだろうと思う。図13のススキが配されているのはなかなかいいセンスだと思う。これがないとかなり寂しくなる。

図12 出口直美追放後の梅松苑案内板
図13 みろく殿
図14 みろく殿と金竜海の間のマツ


 図12から外された要荘などに初めて向かった。図15〜17は,つるやま工房と要荘などの一画のみろく殿北側の車道から見た。

図15 つるやま工房と要荘などへの入り口
図16 図15の左手
図17 さらに左手の終端

 図9によると,掬水荘らしい。大本神苑内にありながら,この種の注意書きがあるのは,現行大本本部への警戒に間違いない。

図18 二代教主と四代教主の工房
図19 同入口の注意書き
図20 この工房裏にも

 図21〜23は掬水荘の外観である。

図21 掬水荘入口
図22 掬水荘を裏から
図23 花壇植えの準備

 図24〜26は掬水荘の北東に隣接する掬水荘別館,図29は要荘など。仄聞するところ,三代教主体制のなか,出口直美を放逐し,このつるやま織工房など全施設の吸収を謀ったが,裁判で四代教主直美側が勝訴したらしい。

図24 掬水荘別館
図25 同
図26 同注意書き
図27 木の花庵ではないか
図28 木の花庵の手前にありその付属施設か
図29 要荘など

 図9には,みろく殿の正面手前に,開祖由来のエノキがある。ここには簡易の祭壇があって,父に聞いた記憶があるが説明はなく,ただ拍手して二礼をしていた。図32のように,エノキ独特の葉脈で認定は簡単であった。大木ではあるのだが,ぼくの勤務先のものとほぼ同サイズだ。二度の大本事件でも天皇配下の官憲による伐採を免れている。

図30 開祖由来のエノキ
図31 同
図32 エノキの葉

 父の案内で開祖の元屋敷にも出かけた。このケヤキの裏手にある。図33の石碑の裏手には三代教主によるとされているのだろう。確認しなかった。素直ないい字だと思う。案内板には二棟あるので,図34は金明水の井戸になるのだろう。酷寒の日でも必ず水ごりをされてお筆先執筆に向かわれたと読んだことがある。元伊勢お水のご用 に由来が記されている。「第二次大本事件のときに埋められ、後日、金明水と銀明水の井戸は元のごとく掘りだされた」。元屋敷は大本開教の地である。貧しい開祖の小さな敷地から現在の神苑の拡大をみたのは聖師とその協力者の功績であろう。

図33 梅松苑碑
図34 
図35 おおもと開教の地

 図36〜40の石碑は元屋敷に隣接して配置されている。偽四代擁立のために,聖ヨハネ大聖堂での神事が利用された。この石碑こそ,四代直美を放逐した記念碑といえよう。聖師が,直美を開祖の生まれ変わりとして三代に続く四代として,高らかに宣言したのだが,その聖師の約束がその長女によって反故にされたのである。聖ヨハネへのこだわりは,開祖こそメシアとする価値世界を示しているのである。

図36 1982年 聖ヨハネ大聖堂提携記念,四代教主直美放逐記念
図37 説明
図38 凝灰角礫岩
図39 凝灰角礫岩
図40 凝灰角礫岩

10. 熊野新宮社参拝

 梅松苑から山陰線を渡って,熊野新宮社にたどり着いた。図11の北寄りの「ふしみや」という料理旅館の前にある。なんとなく雑然としている。将来の六代教主の夫,出口孝樹さんが神官をされているということで訪問したが,社務所は閉まっていた。日曜日は休みなのか。図41中の左手に大きな石碑が見える。図43〜45はそれを。
 すみこ 一行目:しみせんざんに こ 二行目:しおかけ うしと 三行目:らのこんじんまも 四行目:るとよ。
 開祖第五女の出口すみこの歌である。開祖の獅子吼を繰り返し,とよ,と引用している。開祖と熊野神社がどうつながるのか,わからない。

図41 熊野新宮社前
図42 同
図43 二代様の石碑
図44 同
図45 

 境内拡張記念碑なるものが入って右手にある。聖師の歌の上にタイトルはどうかなあ。お歌を見ると,このお宮の拡張時のものか。日付がない。見えなだけか。七月二十八日の夏祭り(水無月祭り)が歌われているのか。

図46 王仁三郎の碑
図47 同
図48 裏書

恵比寿神社。

図49
図50
図51

 本宮の左手の白藤(図52),中央(図53),右手の白藤(図54)。白藤は開祖のお手植えだそうだ。「この白藤が栄えると綾部は神都となる」とお筆先にあるようようだ。樹齢は百年以上になるのか。

図52 向かって左の白藤棚
図53 中央
図54 右手の白藤棚

 総産土社,って,大本人の産土さんとされる小幡神社と,どういう関係になるのだろうか。

図55 総産土社

 二代様がやまももを植えるように言われたとどこかで読んだ。図56〜58。

図56 やまもも
図57 やまもものタネが残る
図58 他のやまもも
図59 榊か
図60 その葉
図61 エノキ
図62 山陰線下り方面か
図63 大本通りに交差する商店街

さて,なんとも寂れている。

図64 山陰線上り方面か

 この規模の神社は,なにか共通して,うらぶれている。ガーデニングの観点から再設計する必要がありそうだ。狭い場所では喬木の植栽はやめた方がいいかも知れない。お宮の配置は替えることは難しいので,植栽かなあ。大きな鳥居,石碑,狛犬,石の柵なぞも,廃止だなあ。全体的にコンパクトがいいような。座るベンチもないしねえ。置いたら浮浪者が寝てしまうとか。エノキなぞは膝以下に切り揃えるとか。常緑樹は,ひこばえが生えて潅木的に管理ができるようになる。

おわりに

 4時間余りの綾部滞在であった。このウェブページでは,次の結果がいいんじゃないかなあ。

7. 神殿の向きは 8. 本宮山は天恩郷の月宮殿跡地同様,禁足地に当たらない 9. 出口直美追放記念碑

以上,2024年11月12日。