はじめに
自らの世代を記録する思いにはなかなか到達しない。これまで,両親の世代またはさらに前の世代に関心があったが,ほぼ出尽くしているので,いよいよ自らの世代についてまとめた方がいいように思った。これを実行するのはかなり大変なので,手許にある写真などから記録しようと思う。時系列ではなくて,利用の容易度順である。ある程度まとまった段階で時系列に整理しつつ。図番号は記述の順番に依存するので記事タイトルを付加することにした。パスワードを知る関係各位には,忍耐強く,ご拝読頂きたい。記述に誤りや不確かの場合,ご連絡ください。
2020東京オリンピック期間中 Jul. 29, 2021記
1 希望ヶ丘へ
タニハにあったぼくが父に送った写真,図1〜3,である。
1980年1月には,東北大学理学研究科(地理学,指導教授西村嘉助)で理学博士号取得(1979年12月)後,福岡県大牟田市にある国立有明高等専門学校(一般科助教授)に就職した。ここでの4年3ヶ月後,大阪府吹田市の関西大学文学部(地理学助教授)に赴任した。次郎は文子のお腹の中であり,ほどなく,福島の実家に夢子と太郎を連れて行くことになった。帰るまでに自動車の免許を取るようにお達しがあった。車の免許を取らないのがぼくのスタイルだったが,子ども三人ずれでは買い物もできない,どうするんだというご指摘であった。
ぼくは関大赴任の一ヶ月後の頃か文子一行が福島に発ったあと,解放同盟や部落問題研究会などに,まあ言わば僕のヒューマニズムと正義感から来る脇の甘さから,いわれなき糾弾に遭遇することになり,毎週水曜日の午後七時半からの「地学」の授業の前には教室の入り口で待つこの集団と関大当局の黒集りの中に僕は突入し,彼らに授業後の糾弾会への参加を約束して,教室に入った。これは春学期終了まで続いたのである。この対応をしつつ,密かに吹田自動車学校に通ったのである。
熊本県荒尾市の助丸高専宿舎を家族4人(+半年)で立って,福岡県筑後市の船小屋温泉に一泊,そして,さらにJRで移動して,箕面国定公園内の河鹿(かじか)荘に一泊した。そして,かねて布団など家具一式を送ったフォルク北千里のわが家に到着したのである。
大阪の最初の新居は,箕面市農協が企画運営するフォルク北千里であった。阪大千里キャンパス北の箕面市小野原2???(4桁)番地フォルク北千里C102である。このC棟の現在の住所表示は,大阪府箕面市小野原東5丁目3,となっている。
ここは当時,梅花短大の助教授(地理)であった故福本紘さんの情報から得た。豊中市のご自宅と梅花短大の間を走るスクールバスの車窓から,フォルク北千里入居案内の看板が見えていたのである。ぼくはこの情報を得て,農協に応募して,新築のこの集合住宅に入居することができた。4階建の1階で,内法66㎡,3DK,南側に小さな芝生があって,子供たちはここで行水などをすることができた。南側にはリビングダイニングと和室,北側には和室と洋室の二部屋があった。北側の洋室はぼくの書斎になった。南側には,木庭清江からのジャングルジムと滑り台があった。よく,現?梅花大学学長の長沢さんの百合ちゃんが遊びに来ていた。
免許を取ってはじめて購入した車がNISSANサニー1300ccであった。とにかく安くて家族で乗れる車ということで,文子の妹のみどりちゃんの旦那がNISSAN社員で,その最初の紹介はより良いというかより高級な車のディーラーであったが,ぼくらは貧乏性なので希望して経済車のディーラーに変更した。サニーが到着した夜には,家族で乗って,暗がりのなか,フロントパネルの青白い輝きを見て,家族一同感激したものである。そして,フォルク北千里構内を恐る恐る徐行したのである。
夢子は藤白幼稚園に通った。通園が始まって間もない頃,登園拒否で副園長さんが駆け込んできて,引っ張っていったか,翌日には必ず行くという約束をしたのか,はっきり覚えていない。夢子は幼稚園のプールの講習も受けて,最後は7級だった。JALがお盆の頃,御巣鷹山に激突して,それに登場していた園長先生が亡くなり,告別式に参列したことを覚えている。後任は,副園長ではなく,奥さんであったように覚えている。
この四年後,1988年に希望ヶ丘に移った。この計算は,次のようである。太郎は被昇天幼稚園に1年,その後,東能勢幼稚園に1年,そして,東能勢小学校に入学した。太郎は1982年11月22日生まれだから,小学校の入学は1989年4月になる。それゆえ,希望ヶ丘に移ったのは1988年になるのである。
住所は,〒563-02大阪府豊能郡豊能町希望ヶ丘3-5-3。この選定は,父母の自宅があった亀岡市下矢田町2-18-7と,関西大学吹田学舎のほぼ中間位置にあったことが大きな理由である。周辺の住宅開発地を廻ったが,高いか住みたくない場であった。朝日新聞のビラで希望ヶ丘の宅地3個所(乾さん所有)が販売されているのを知り,近鉄不動産だったか,電話して,現場に向かい,3個所のうち,西端のものを購入した。1300万円だった。バブル直前で,売れない時期であり,乾さんが売り急いでいたことも,功を奏したようである。他の販売額は1700〜1900万円だったように思う。この場所の選定には,ぼくの専門性が生かされた。1/500の大縮尺の都市計画図を余野の豊能町役場で手に入れて,現状の開発図と対照し,谷地形が回避できたのは3区画の西端のものだけであった。棲み着いて,ある時に地下に轟音が聞こえた。一段高い雛壇の敷地の一部が谷地形に沿って陥没した際の轟音であった。その谷は,当方の敷地に隣接する区画に続いており,後背のコンクリート擁壁には苔が生えていた。
さて,建物をどうしようかと,亀岡市つつじヶ丘のパナホームを訪ねて,その店長の中村さんが有能で,頭金が無くても,全然問題無いとのことで,それに乗った。スタンダードから削り取る作業をした。ベランダも何もいらない,屋根さえあればいい,というような姿勢であった。建築費は1800万円ほどであったと思う。
さて,図1には,母,父,文子,元晴,夢子,太郎,次郎がいる。父には生気が無いように思われる。写真を見て気付くことである。母は嬉しそうだ。子供たちも爺婆が来て,嬉しそうだなあ。僕たちも若い。
希望ヶ丘へ図1 集合写真
図2と図3はぼくがサニーで亀岡に父母を送る直前の写真であろう。1988年春の写真である。
希望ヶ丘へ図2 父母と元晴
希望ヶ丘へ図3 父母と文子
以上,Jul. 29, 2021記。