はじめに
ぼくの母は,畑谷一郎(はたやいちろう)と,ふみ,の間に,大正12年8月24日(23日かどうか要確認),石川県江沼郡山代町字山代十八の五十番地,で生まれました,長女畑谷環(はたやたまき)です。その6年前の大正6年10月13日には,長男俊一(しゅんいち)が同地で誕生しています。環の後には,次女澄子が同地で生まれます。一男二女です。
このページでは,ぼくの母方の情報を示したいと思います。ただ,あまりに情報量が少なく,かぼそい上っ面の極めて一部しか描くことができません。母環から聞くべきではありましたが,ぼくの今の年齢になって,初めてこの種の情報に関心を持つことができるのですが,時遅しです。ぼくの子供達やその配偶者の皆さんには,今は関心がないかと思いますが,知っていただきたいと思います。
1 ふみ,でぐら屋
畑谷ふみは,旧姓伊豆蔵(いずくら)ふみで,山代温泉の旅館の娘でした。俊一さんの次男である正道(まさみち,昭和24年4月22日生)さんから頂いた,湯の曲輪の変遷(昭和8年6月発行)と後に示す古地図は,正道さんご夫妻が「魯山人寓居跡いろは草庵」を見学された際,「あらや滔々庵」の若主人(?が付加されている)から得られたものです。これには,寛政6年(1794)御郡之覚抜書以降の歴代商店の記事があり,すべてに亘って,つぎのように,「伊豆蔵」旅館は見えます。
寛政6(1794)年 御郡之覚抜書 デグラヤ左兵衞 享和3(1803)年 古地図 出倉屋清左衛門 文化未(1817)年頃 山中行記述 出蔵屋 明治20(1887)年頃 でぐら屋伊豆蔵安平 明治38(1907)年頃 温泉志 でぐら屋 昭和12(1937) 出蔵屋伊豆蔵梅次郎 昭和28(1953) いづくら伊豆蔵信一(この方が,ふみの弟)
信一さんの時代には,母の祖母存命中で,学校の夏休みに,母と姉とぼくと弟と,でぐらや,に出かけました。通りに面する大きくてきれいなお部屋であったことを覚えています。廊下や階段がピカピカ光って靴下であるくと滑りました。祖母のお部屋も覚えています。信一さんにも会っていますが,気が弱そうで,存在感を余り感じませんでした。比較的早くに亡くなりました。その時に節子さんと会っているのですがちょっと冷たい印象でした。
次の図1の写真は,母環の母である,ふみと,その弟である信一の写真です。ぼくの父母の長女で,ぼくの姉である祝子は,服部氏と離婚し,ぼくの父の昇天の後,一人娘夏江とともにタニハに一時身を寄せますが,その自分の部屋の本棚に飾っていた写真です。この写真額内には,図1の写真の左下に併せて,図2の写真が配置されていました。この額内の写真2枚は,木庭環が持っていたものです。図2の写真が誰かわからない。ふみの妹である可能性が最も高いと思われました。ふみと信一から少し歳が離れているので,別途撮影されたものではないか。信一と節子の子である伊豆蔵崇史さんが知っている可能性があるが,節子さん昇天後,短期のやり取りがあったが,今は途絶えています。
額から外してスキャンして,図1と図2を見比べると,目,鼻筋,口元,がかなり似ている。どうも図2は,ふみのより若年時の写真らしい。なお,ふみは当時の女性が入学する上で最もいい女学校に通っていたことを,親戚が金沢で集まった時に母環が聞き知って驚いていました。地元の方であればその学校名がわかると思いますが。
図1 女学生のふみ,と信一
図2 進学よりかなり前のふみ
ふみは畑谷一郎との間に,前述のように一男二女を得ましたが,結核に罹患して,伝染の危険があり,子供達から引き離されました。ぼくの母,環が小学生の時に,環の通学の様子を窓から遠く眺めていたとのことです。どの窓なのか,はたや旅館なのか,それとも,でぐら屋の窓からなのかは,わかりません。環のぼくへの説明が不明瞭だったように思います。
2 ホテルいづくら
ふみの弟である信一の奥さんが,故伊豆蔵節子さんで,87才で1998.4.15に昇天されました。関西大学教員組合での慰安旅行の下調べの際にお邪魔しました。高度成長期には,ホテルいづくら,は,大阪に出先機関もあったようです。本旅行の際はぼくは海外調査のために訪問できませんでした。その本旅行の際には,教員の皆さんを節子さんが,はたや旅館の跡地に公園が作られていて,そこに案内されたようです。信一は,関西大学に通ったということも節子さんから,関大教員に披露がありました。
いま,ウィキペディアを参照しますと,「1886年(明治19年)、前年の1885年に起こった大阪事件の公判のため大阪控訴院に臨時重罪裁判所が開設され、井上操判事・堀田正忠・小倉久両検事が赴任したことが契機となり、当時東京のみに存在していた五大法律学校などの特別認可学校を関西にも設けようとする動きが起こった」とあって,関西大学の前身の関西法律学校が誕生します。そして,「山岡順太郎をはじめとする関西経済界の有力者からの支援が得られたこともあって、関西大学は1922年には大学令による設立認可を受けて法学部・商学部の2学部および予科・専門部を設置する制度上の旧制大学へと昇格し、これが現在の新制関西大学の直接の前身」になるとあります。信一は節子の生まれが明治44年なので,明治40年頃とすると,ちょうど,旧制大学昇格時期と進学時期がほぼ一致しており,これを契機にして山代から大阪に出向いたのではないかと想像しています。
節子さんは歌人としても地元では著名のようで,頂いた本(地下温流)とネット上の古本の書誌,そして,著者略歴を次に示します。節子さんは元教師でした。
伊豆蔵節子, 1983. 舞独鼓―歌集 (女人短歌叢書〈第425編〉) - – 古書, 1983/10/1
伊豆蔵節子, 1994. 地下温流―歌集. 短歌新聞社.
近代短歌 石川近代文学全集,17巻,能登印刷出版部,にも収録されています。http://notoprinting.xsrv.jp/publication/cat61/17.html
著者略歴(地下温流から): 明治44年1月19日 金沢市生れ。 現在日本歌人同人。女人短歌北陸支部長。 日本歌人クラブ会員。石川県文芸協会会員。 石川県歌人協会常任幹事。加賀市書道協会参与。
次の歌碑(図3)は頂いた本に挟まれていたものです。設置場所不明。
図3 伊豆蔵節子の歌碑
次の図4は頂いた地下温流の扉の直筆。
図4 地下温流の扉の直筆
旅館でぐらやから,ホテルいづくらにしたのは,節子さんだろうと思います。高度経済成長期には発展しましたが,その狂乱から日本が冷めてゆくなか,急激に経営が厳しくなっていったことと思います。破産状態になっても,名前だけは残ったと人づてに聞いていました。節子さんの昇天は1998年4月15日前後で,破産に近い状況だったのではないでしょうか。節子さんには失意のなかの昇天ではなかったかと想像しています。節子さんのお話では信頼する男性がおられて,そのアドバイスに従って経営されていたようです。
ネット上に,廃墟検索地図というのがあります。 https://haikyo.info/s/12629.html
ここに,ホテルいづくらの情報がありました。
概要: いづくらは石川県加賀市山代温泉のホテル。「ホテルI」等として紹介されていることもある。5階建ての新館と,5階建ての加賀殿から構成され、客室総数74室、豪華特別室4室を備えるホテルだった。150畳の舞台付き大広間に加え、50畳の中広間二箇所、加賀殿60畳中広間があった。 住所: 922-0257 石川県加賀市山代温泉桔梗丘4丁目17 種類: 廃ホテル・宿泊保養施設・温泉 現況: 2000年閉館。解体され現存していない。
図5 ホテルいづくらの昭和35年移転
旅館でぐらやは,歴史ある山代温泉古総湯の場に立地していたのですが,図5のように,より南の谷底の更地に移転して殺伐とした歴史も何も放擲したホテルに変身してしまいました。前述の「湯の曲輪の変遷」の注記に,いづくらは,昭和35年桔梗丘4丁目1区に移転,とあります。高度成長期の移転時期としては最も早かったようです。湯治客からすると砂漠のような場で,ぼくもこの場所にはガッカリしました。自らは県レベルの文化人として活動されていたのに,旅館の女将としては,単なる集金マシーンを作ってしまったと残念です。ブレーンが居たようで,全く人を見る眼も歴史を育んでゆく思想も低かったのではと思ったりします。なお,Google mapで表示するには,前もって次の緯度経度データをコピーして,Google mapを開いて,ペーストしてください。 36.283971007059286,136.35694572229707
https://www.google.co.jp/maps/
以上,Feb. 23, 2021記,Feb. 24修正
なお,山代温泉古総湯に立地した一時代(享和3(1803)年)の古地図と現在の位置関係を図6に示します(古地図は畑谷正道さんから頂いたカーボンコピー)。古道との関連に注目して,まとめました。現地調査をすればすぐにわかることですが,それを実施していません。出蔵屋と角屋は大聖寺に行く道の角に立地していました。母環によれば,畑谷旅館の経営者夫妻(ぼくの曽祖父と曽祖母)には子供に恵まれず,角屋の息子を養子にしたそうです。ところが後(のち)に一郎が生まれましたので,その角屋の子供を返して学費を出し,その方は小松製作所に入って出世したとのことです。母は専務か何かと言ってましたが確かな情報ではありません。現在の出蔵屋の旧址はかなり狭い配置になっていますが,古地図とは一致しませんので,おそらく,古総湯を囲むロータリーの北側は狭められたものと考えます。図6左図や現在の空中写真で見ても,そのように推定することができます。図6左右の図で,NW入り口,としている地点が対応するようです。右の古地図で,「新屋」とした宿は,左図の「あらや滔々庵」に対応しています。
図6 出蔵屋の古総湯立地 享和3年と現在
図6とこれに関する文は,Feb. 24, 2021,追記。
3 一郎,はたや旅館
図7’ 図7の絵葉書の表書き
3-1. はたや旅館の景観と位置
図7として掲載していた写真写しは畑谷正道さんから得た資料でしたが,長男太郎にぼくの妹嬉子からヤフオクにはたや旅館の絵葉書が出ていると連絡があり,太郎が1500円で落札?したものです。「はたや」の全景と客室が見えます
この注記として,「千旗屋と姻戚関係の『はたや』の建物は細長い。上等客室には絨毯があった。」とあります。電話番号も12番ですから,新しい旅館としてはその時代,先進的であったのでしょう。この史料も畑谷正道さんが「魯山人寓居跡いろは草庵」で収集されたものです。図7’は,絵葉書の表書きです。
図7 畑谷旅館全景と部屋
次の図8は,図7とは別の絵葉書で全景だけになっています。これも太郎がヤフオクから購入したものです。これには,はっきりと,畑谷旅館が屋根並みの中にあることが見えます。
図8 全景だけの絵葉書
図9 加賀市山代温泉18
図9には,はたやのかつての所在地を示しています。住所から判明しました。現在は公園と畑地になっています。敷地の形からしますと,そもそも旧河道にあたり,地下水の通り道でもあったのだと思います。図8の道路の手前には河道があって,はたや旅館の後背には家屋が連なっています。宿が道路とともにコンベックスに曲がっていますので,川筋は,はたや旅館の北西側で,旅館の背面が南東向きにあったと思われます。
図9右下のスケールから判断しますと,不確かですが100メートル近い長さがあったようです。ぼくが小学校の時に,茶の間で母から聞いた景観と符合します。城下町のスケール観でいえば,2ブロック分です。この図9の南東隅の森のそばに明治時代の古総湯が見えます。直線距離で500mほど離れています。図6で言いますと,古総湯から北西500m付近には加賀市立山代小学校がありますが,図9にも旧はたや旅館の西120ほどにその小学校のグラウンドが見えます。母環が通った尋常小学校はここに当たる可能性が高く,環の母ふみは,はたや旅館から寂しく娘を見ていたことがわかります。
挿入追加 Apr. 27, 2021 ____________________ なお,太郎とその配偶者である周子さんが,コロナの中の結婚であったので温泉旅行に行くということで山代温泉を選んでくれました。その出発前にたまたま小松市に住む妹から太郎にヤフオクに出ている写真の情報がメールでありました。そこで三人は山代温泉で合流することになります。いずくらとはたや旅館の跡地について三人が,「れんの羊羹」http://www.yorunoume.com/youkan/ の若主人に聞いたところをぼくが図化すると次のようになります。ちなみにこの羊羹は母の大好物で嬉子からのお土産として太郎,周子さんから渡されました。
図9’ れんの羊羹の若主人から得たはたや旅館といずくらの位置 すみやも追加している
絵葉書の屋根並みからすると,この説の方が正しいように思うのだけど,伊豆蔵節子さんが1990年頃,関西大学教員組合執行委員会を案内された「公園」はどこにあるのでしょうか。九谷焼ギャラリーに化けた可能性もあります。
次の,3-2. はたや旅館での温泉湧出の可能性と加賀温泉郷 ,は,「れんの羊羹」若主人が正しい場合,意味のないコンテンツになるかもしれないが,はたや旅館跡という観点でなくても,意味があるだろう。 ____________________
さて,はたや旅館で温泉が使えたのか,という疑問が出ますが,間違いなく温泉が出たから古総湯に対抗できたのだと思います。
3-2. はたや旅館での温泉湧出の可能性と加賀温泉郷
この問題を知るために,図10と表を作成しました。図10左図では,山代温泉の位置に赤マークし,大阪,名古屋,そして,金沢との位置関係を示しています。山代温泉は加賀温泉郷の一つです。図10右の地質図で,No. 152は日本でも古い岩体に属するほぼ2億年前の飛騨変成岩ですが,それ以外の山地を構成する岩石は,比較的新しい第三紀のもので白山火山帯とは直接には関係ありません。温泉郷が立地する付近の黄緑色の堆積物は,より新しく未固結で,Nos. 170〜172のものはそれぞれ,低位段丘,中位段丘,高位段丘の構成物です。表中の,地形(区分名)と海抜高度は,ぼくがGoogle Earthを見て決めました。泉質,水温,故事については,おもに加賀温泉郷のサイト から抽出しました。
表 加賀温泉郷の特色
ぼくは,温泉学の素人ですので,伏流水によって運ばれた温泉と思っていたのですが,表から見ると,違いますね。「霊峰白山の恵みにより育まれた」加賀温泉郷という表現は悪くはないけれども,もちろん白山から温泉水が来ている訳ではない。熱源は加賀温泉郷の直下にあります。その熱源に地下水が触れて温泉が湧出する。海に近い片山津温泉が最も高温であるのも,そういう場であるからですね。なお,上記の故事は全部怪しいように思います。著名人などにこじつける文化は寂しい。
図10 加賀温泉郷と地形地質
3-3. はたや旅館の創設者
ぼくの曽祖父の名前がわからなかったのですが,母の兄の俊一さんのご次男の正道さんから次のような情報を得ましたので追加します。この情報に基づいてこの章の文も一部修正しました。May 3, 2021記 一郎除籍謄本を取り寄せてみたところ、畑谷一郎の両親は父甚七、母登起です。 祖父一郎は明治二十六年四月二十六日生まれ、昭和四十二年一月三十一日逝去 祖母ふみは昭和四年一月七日逝去(生年月日は不明) 婚姻は大正五年二月五日になっています。
図11は,畑谷正道さんから頂いた遺影です。
図11 曾爺さんと曾婆さんと畑谷一郎
この図11に見えるひよわな少年は畑谷一郎か角屋からの養子と考えられます。壮士然とした中央の男性は,ぼくの曾祖父甚七に当たることになるのでしょう。彼の後に立つ二人の女性はかなり似ていますが,右の女性が角屋から貰った養子の母で,左の女性が,ぼくの曾祖母に当たる登起なのではないかと思います。それ故に,女性二人と撮影されているのではないでしょうか。二人の女性は姉妹で,右の姉から養子を得たと考えました。
1:55, Feb. 25, 2021記
それで,畑谷正道さんから本年2月初めに頂いた平成20年11月7日付けのメモを見ますと,父の妹(澄子)の夫,三ツ野真三郎氏より連絡,とあって,この問題に関する部分は,次のようになっています。
「祖父の父は○○家の美人3姉妹の次女を嫁にした。長女(たか)は千旗屋に,3女はたまやに嫁いだ。しかしながら,畑谷に嫁いだ○○(May 1, 2021追加:登起)には当初子供ができず,角谷から養子をもらったが,のちに祖父の一郎が生まれ,養子を解消したとのこと。角谷清(?)その子供が隆で,小松製作所に勤務していた。当方の結婚式に参列している。」(元晴メモ: 角屋から養子を貰ったので,角谷に違和感がありますが,畑谷も,はたや,旗屋と変えることは可能ですので,本名は角谷で屋号が角屋である可能性があると思います。)
角屋からの養子,という情報だけで,図11を解釈しましたが,矛盾があります。この時代,写真撮影は,かなり改まった機会だと思いますが。後の女性はおしゃれし,子供も正装はしていますが,壮士さんは浴衣でタバコだし。養子記念の写真ではないということは確定ですね。後の二人の女性が姉妹であると考えて問題ないと思います。鼻,眼,口元が大変よく似ています。髪型が同じなのは姉妹の証拠にはもちろんならないのですが。壮士さんも二人の女性に眼が似ています。ひょっとすると,三人は兄弟姉妹かも知れない。
畑谷一郎は1967年1月31日に73歳8ヶ月ほどで昇天されています。今年の母環のお祭り(昇天1998年1月15日,74歳4ヶ月)に併せて,はじめて,一郎も一緒にお祭りさせていただきました。祖母ふみは,昭和4年(1929年)1月7日に昇天しされており,概算するとあたら30歳で昇天されているようだ。来年は, 畑谷ふみ 93年祭,畑谷一郎 55年祭,木庭環 24年祭,を挙行しようと思う。
先に引用した「湯の曲輪(ゆのがわ)の変遷」に,はたや旅館が無いのは,「湯の曲輪」が明治時代の古総湯とその周辺に限定されているためと思われます。はたや旅館の開業期間がわからない。この壮士さんは若いので,その両親が資産家で,温泉業界に新たに参入したものと思われます。それも,湯の曲輪から離れた場所に開業したのです。用地の限界もあるかと思いますが,今で言えばリゾートセンターを作ったと考えていいのではと思います。May 3, 2021追記: はたや旅館が総湯そばに立地していた可能性が高く,この段落のロジックが通らないようにも思っている。
図7の右手には,「千旗屋と姻戚関係の『はたや』の建物は細長い」とあります。この注記は写真の時代とはかなり後に付加されたものと思われます。姻戚関係が成立したのは,○○家の美人3姉妹を介してのことと考えればわかりやすいと思います。はたやと千旗屋のつながりはそれ以前はなかったのであろうと思います。次に幼い畑谷一郎の写真を示しますが,図11の壮士と二人の女性は同じ眼をしてますが,一郎はそういう眼ではありません。つまり,図11の写真の大人三名は兄弟姉妹と考えます。はたやに養子を迎えて,はたや家の三人兄弟姉妹が,養子と記念写真を撮ったと考えます。残念ながら,曾祖母はこの写真には写っていないと考えるのです。畑谷俊一さんはどう判断していたのでしょうか。
なお,畑谷正道さんの令和3年2月1日付のお手紙には,次の曾祖父のエピソードが添えられていました。
「そういえば,寿美子叔母さんの五十日祭の懇談の場で,年配の女性から声を掛けられました。『あなたのひい爺さんは美人三姉妹の次女をお嫁にしたのに,すごくもてて,あちこちに奥さんがいて大変だったそうだよ』。なんと答えて良いのか苦笑してしまいました」。
3-4. 畑谷一郎
母環が持っていた額入りの写真をここに示します。愛らしく綺麗な眼をしています。図11の大人3名の眼ではないと思います。富士額で,図11の養子の男の子とは違っています。図11の大人三名も富士額ではない。母親似なのだろう。ちなみにぼくの母環はちょっと狭いが富士額であったりする。図14c,図16の俊一さんも富士額だ。
図12 畑谷一郎 七五三祝の写真か 自宅にて
図13 畑谷一郎 七五三祝の写真か 金沢市の写真館か
以上,Feb. 25, 2021記
畑谷一郎が結婚前までどういう教育を受けたかはわかりませんが,ぼくのお爺ちゃんに対する印象では,生来,学ぶ姿勢があったように思います。湯の曲輪(ゆのがわ)に立地する老舗温泉旅館でぐら屋の一人娘伊豆蔵ふみと結婚するのは,はたや旅館からすると望む結婚であったろうと想像しますし,学歴も釣り合っていたのではないでしょうか。
畑谷正道さんの平成20年11月7日の覚え書きを,再び次に引用します。真三郎さんからの情報と認識です。
「聖師さまは,はたや旅館に3回宿泊している。1回目は大正,2回目は昭和7年1月19日,3回目は11月頃。2回目にはお歌を頂戴している。従って,昭和5年に山谷氏に譲ったことになっているが,実際は7年〜8年頃と思われる。なお,山谷氏は昭和21年から30年まで山代町長であった。また,はたや旅館の番頭だったとも言われていますが,確証はありません。」(一部,元晴が表現を変えています)
一郎が明治26(1893)年に誕生したとし,聖師の1回目の訪問が大正5年だとすると,1916年に聖師が訪れている。一郎23歳の時であるから,聖師を招待したのは,曾祖父と曾祖母と考えて間違いは無いと思います。昭和7(1932)年だと,一郎39歳。曾祖父が40歳の時に生まれたと考えると,曾祖父は79歳。ひょっとすると曾祖父昇天後まもない日に聖師が訪れている可能性があります。なお,1916年の聖師の訪問は,一郎とふみの結婚式の際であった可能性も高いと思われる。
母環によれば,一郎には骨董屋が足繁く訪れていて,結果として,騙されていたと言います。はたや旅館破産の直接の原因は,知人の保証人になった結果だということです。母環が祖父や春子さんから聞いたことでしょうから,実際のところはわかりません。なお,この伝説について,正道さんも俊一さんから聞いているとのことでした。とはいえ,この種の話は昔は実に数多くありますね。映画や小説だけでなく,実際そういう破綻はあったようです。保証人にだけはなるな,という家訓を持っている家は多いのです。父次守もお金は人には貸さず,できる範囲で譲った方がいいと言ってました。
畑谷一郎は後妻として,河西春子を迎えます。母環によれば,後妻になるかなり前から,はたや旅館を牛耳っていたようです。はたや旅館に出入りする芸者さんだったようです。肺結核療養のためではあろうが,子供たちに会えなかった祖母ふみの寂しい思いを感じてしまいます。
破産後,一郎は知人を頼って,春子と富山県〜福井県まで放浪します。母環が,兄俊一さんと妹澄子さんについて,苦労したのだろうと言ってました。一郎と春子は母環だけを残して,子供二人を他の人に預けて(渡して)しまいます。母環は,幸い,父一郎と離れることがなく,成人することができました。俊一さんと澄子さんがどういった関係の方に預けられたのかは,情報がありません。
母は富山の女学校を卒業しています。正式名称は聞いていませんが,ほこりに思っていました。北陸地方放浪の後,河西春子の実家のある京都市に移ります。環は,ここで小さな事務所に勤めます。その時の同僚と撮った写真を母環から見せてもらった記憶があります。どこかに残っていると思います。あるとき,母環が中学生だったかのぼくに,その事務所の先輩男性が凄く優しくて,その人と結婚したら良かったと言ってました。父次守が冷たい人だという心の反射です。
図14 父木庭次守,父の弟輝男,父の母,そして畑谷春子
春子さんは,性格のきつい人ですから,わがままは許されなかったと思います。戦前の大本を見渡して,第二次大本事件の裁判活動で一人目立つ青年木庭次守の将来性を見抜いて,まずは木庭次守を河西家に養子にとって,その上で,畑谷環と結婚させました。
どうもその養子に関わった時の写真が図14だと思います。この写真はすでに,次のページに掲載しています。
図14′ 畑谷瑞江
なお,この場で,畑谷一郎が同席していないのが,一郎と春子の関係を示していると思います。河西春子が,畑谷環と木庭次守の婚姻を導きました。そういう意味で,ぼくは河西春子に感謝しなければなりません。
図14’の写真は,父が管理する資料の山の中ありました。集合写真の拡大です。111.7mm x 168.5mmです。この写真の裏に,「畑谷瑞江」と墨書きされていました。ひょっとすると,瑞江さんが葬式写真として,母に指定したいたのかも知れません。踊りの師匠ですので,何からの同僚との集合写真ではないでしょうか。
ここまで述べた畑谷家の流れがあったからこそ,いま,ぼくが居ます。そして,ぼくの子供たち,配偶者,その間の子供たちがいます。
3-5. 畑谷一郎とふみの子供
畑谷正道さんから届いた写真をここに紹介します。図15と図16はスキャンしたもので,図14a,b,cは添付されてきたものです。図14a,bは,母ふみ発病の前の時期の写真であろう。
図14a 幼児期から少年期の俊一さん
図14b 幼児期から少年期の俊一さん
図14c ご親族の結婚式参列か
図15 畑谷俊一
図16 畑谷俊一
畑谷俊一おじさんとは,一郎の葬式で来亀された際に初めて会いました。大蔵省のお勤めだったので,その関係でしょう,自民党の著名な政治家の花輪が飾られました。当時の天声社に隣接する日本建築で葬儀が挙行されましたが,参列した大人が感心していたように思います。
俊一さんには,亀岡の中心街北町にあった亀岡で最も大きい山崎書店に一緒に行って,セーラーの万年筆を買ってもらいました。胃潰瘍の手術をされたかなにかで,少し痩せておられたようであった。母から聞かされたところでは,俊一さんは苦学されたようです。眼と口元が母に似ているように思う。
図17 母環(右)と妹澄子
図18 澄子
図17は一体どういう扮装なんでしょうね。北陸特有のものでしょうか。母環の眼はかなり大きく下ぶくれ。口元は図1のふみ,図16の俊一さんに似ていますね。
澄子さんは,当時刑事だった三つ野真三郎さんと結婚されました。真三郎さんの実家は農家で,夏休みに一度,母,姉,弟と結構長く滞在しました。
三つ野さん宅では,大規模に養鶏もされていて,澄子さんは一人休みなく働いておられました。忙しすぎて,ぼくたちへの愛想もなかったように記憶していてぼくは緊張していました。大阪からというおっさんとその奥さんが長逗留されていて,包丁を携帯したそのおっさん夫妻と一緒に,毎朝,スイカ畑に行って,スイカを切って食べるという醍醐味も味わいました。朝露で冷えていました。
その後,真三郎さんは,北陸の有力者である嵯峨さんが経営する北國新聞に入られて専務にまで出世されました。その後,三代教主に大本に呼ばれて,出口聖師と二代教主すみ子によって四代教主とされていた直美様に対立して,三代教主派の中心的役割を果たされることになります。種々ご苦労があったと思います。
ぼくと妻文子は何かの時にご自宅に呼ばれて,三つ野さんが,老人性痴呆症になった澄子さんを介護されている様子を見せていただきました。胃に穴を開けて流動食を入れる過程も見せていただきました。2009年10月24日には澄子さんが,2010年12月19日には後を追うように真三郎さんが,昇天されました。三つ野さん夫妻は四人のお子さんに恵まれました。女子3名,男性1名。女子2名の方は大本の奉仕者と結婚されています。男子の方は潤也さんで,新聞社の勤めもこなしつつ,にしきさんとともに,北陸本苑で奉仕されています。
3-6. 畑谷一郎と畑谷春子
図19 畑谷一郎
畑谷春子は,聖師から瑞江を頂いています。昭和44(1969)年8月30日に昇天し,2019年8月30日には50年祭がありました。一郎は,昭和42年1月31日に昇天した。2017年1月31日が50年祭でした。墓地復祭番号は 本0014 0050014 天A0276です。畑谷一郎は聖師から名前を頂いていないようです。木庭次守も変更する必要性はないと言われた。聖師は,信者に新たな名を付ける人とそのままがいいという人を区別していたようです。母環は,清江を頂いていて,ぼくが物心つく頃には清江で通していた。しかし亡くなる何年か前から,環を称するようになりました。健康保険証では本名を使いますので,それに慣れたこともあるかとは思いますが,環の方が好きだと言っていました。
この節には,将来,写真をさらに追加しようと思います。畑谷正道さんから頂いた情報をスルーしないように,このページを作成しているのです。無精しています。
以上,Feb. 26, 2021記,May 3, May 8, 2021追記
4 河西家の墓地 Jul. 22, 2021
畑谷瑞江の旧姓は,河西である。結婚前は,河西春子。河西家の墓を,亀岡市の共同墓地の大本本部関係の区画に,用意して,昇天の後は,この墓地と綾部の天王平に納骨されているようである。これはぼくの父母が生前から頼まれていたようだ。推測である。
車で移動中,父木庭次守がちょっと寄ろうかと言って,この墓地に文子とともに案内された。1984〜1990年の間ぐらいである。太郎の奥さんの周子さんから,昨年二人の結婚式をした小幡神社にご挨拶に行きたい話があって,併せて,河西家の墓地を案内したいと告げていた。昨日,連絡があって,本日,三人で出向いた。文子の体調がもう一つなので。
石丸のマックスバリューで,綺麗な生け花2組,おいしそうな弁当2個,高級?プラム,桃,ブドウなどを購入して,亀岡市の丸山共同墓地に向かった。
図20 丸山墓地の場所
亀岡市運動公園から市役所に向かう途中(図20の赤〇の場所),図21の赤線のように,右手に入って,参道途中,進行方向の左手(図21では赤線南端の右手)の空き地に駐車した。そして参道を伝って,マークした場所に進むべきであったが。
図21 河西家の墓
仲良し二人組と分かれて,ぼくは西方面を探した。ぼくはすぐに「河西家の墓」には出会えたが,覚えていた雰囲気ではないし,畑谷瑞江の字もみつけることができなかった。後に,太郎さんがこの墓に辿り着いて,瑞江と書かれているとのことで場所が判明した。周子さんは,鹿の子どもと出会えて喜んでいる。
図22 河西家の墓の前で
図23 墓石を洗って,お供えできた
図24 墓石右手の情報
燧石を忘れて来てしまった。天津祝詞,祖霊拝詞,基本宣伝歌を三人で詠った。その後,お下がりをこの場で頂いた。いいお墓参りであった。何十年もぼくは放置していたのに,よく管理して頂いていると思う。深く,感謝した次第である。年間二千円の会費は支払ってきたのであるが。太郎,周子さんに受け継いで貰えるであろう。周子さんと太郎のサポートは得られるだろうから,畑谷のおばあちゃんも安心だねえ。お陰で一つ,荷が軽くなったなあ。
図25 記念写真 太郎と
図26 遠くに河西家の墓が見える。
図26上段の右から6番目奥の小さな墓石が河西家のものである。利用されていない墓地区画が周辺にあるので,このような景観は変化して行くであろう。
後背の山地は珪岩から構成されており,風化も進んでいるが崖の崩壊は,幸い,免れているようだ。
追加挿入 Jul 27, 2021再訪: すぐそばの墓石に大木が被さっているのを見て,帰宅後に気になって,昨日,再訪した。撮影したと思っていた墓石の左手の刻まれた文字の写真がiPhoneに残っていないので,これを撮影する意図もあった。
図26a 畑谷家の墓,再訪
図26b 畑谷家の墓とその周辺
図26c 左側面上
図26d 左側面中
図26e 左側面下
倒木処理は次のサイトに示す。
河西家の墓所での出会い
図27 小幡神社の拝殿に木庭次守の名が
この後,運動公園から左折して,小幡神社に向かった。これまで,気がつかなかったが,図27のように,木庭次守の名前がある。100万円ほども寄付したか。
神殿前で,天津祝詞を上げ,木庭元晴と文子銘,そして,木庭太郞と周子銘,で玉串を上げて,父がやっていたように,上田正昭さんのご自宅を訪ねて,次女さんに直接,手渡した。
何故か,太郎と周子さんの記念写真は撮っていないなあ。
小幡神社から自宅に戻る途中,タニハに寄って,祝詞を三人で上げて,タニハの掃除や整備などについて説明した。タニハに忘れていたサングラスも持ち帰った。玄関を出て,サングラスの鼻サポート部品を不用意に落としたが,周子さんの指摘で紛失せずに済んだ。どこに行ったのか,日がな一日悩むところであった。
タニハから自宅に向かう途中,野間の大ケヤキに,幸い,訪問することができ,アオバヅクにも会うことができた。
以上,Jul. 22, 23, 2021記 写真のuploadが何故かできないので今日は中止する。
図28 野間の大けやきの説明
図29 遠景
図30 遠景もういっちょう
図28〜30の野間の大けやきに,このコロナ下,結構の人が集まっている,何故か?
アオバヅクでフィーバーしていたのである。アオバヅクの画像は,次のサイトに掲載した。
はじめてフクロウを見た
このアオバヅクが居る野間の大けやき,でのツーショットを図30〜32はツーショットに。
図30 太郎と周子さん
図31 続 太郎と周子さん
図32 ぼくと周子さん
まあ,ここに寄れて良かった。空間が開放的で,結構滞在したけど,蚊に刺されなかった。
以上,Jul. 23, 2021記。
5 畑谷瑞江の聖師への依頼が無かったら,木庭次守は畑谷環と結婚しなかった
タイトル通りである。昨晩,ぼくの河西家の墓コンテンツ紹介に関わって,嬉子から,返事があった。嬉子は,母清江(環)から,聖師の勧めで木庭次守は,畑谷環と結婚したと聞いていた。父のような偏屈な人はそうでもしないと結婚しないから,と。自分の娘だからの発言であろう。
聖師が石川県に来られた際には,故三ツ野真三郎さんの母環の告別式の際の挨拶では,畑谷旅館に少なくとも二回は泊まっておられる。そういう関係だろう,畑谷瑞江が聖師にご面会し,畑谷環の結婚相手を紹介して頂いたか,畑谷瑞江が,第二次大本事件の最中,大きく貢献していた有力若手の木庭次守を見定めて,環の結婚を進めて頂くように,お願いしたことに間違いはない。
こういう流れがあって,木庭次守は,救世主と崇める聖師の勧めだから,もうただただありがたく受け容れたのである。一時的にしろ,河西家に養子として入ったようだ。その時の写真が図14になるのだろう。一郎が,この顛末に関与していないことはまあ間違い無いだろう。ぼくが覚えているだけでも,瑞江の一郎への言動はかなり高圧的であったし,歴史的に一郎は低く評価されてしまっていたと考えて良いだろう,残念ながら。
まあ,そういうわけで,木庭次守と清江ファミリー,そしてその後続の面々は,畑谷瑞江と聖師に感謝しなければならない。この遠因を作ったのは,畑谷一郎の破産であるが。
以上,Jul. 30, 2021記。
5.1 聖師の畑谷旅館宿泊の証拠
追記: 2024年8月8日。瑞霊世を去りて聖道漸く滅す の原稿を書いていて,聖師が畑谷旅館に泊まっていた文書をみつけた。大本七十年史 > 下巻 > 第五編 > 第四章 教団の発展と充実 > 1 巡教 > 聖師の巡教と歌碑,にあった。
一九三二(昭和七)年
一〇月一八日、聖師と二代教主は竹田の愛善郷へおもむいた。随行したのは平松・大国・藤原らであり、全町あげての歓迎式があって、一九日には立雲峡を探勝した。ついで鳥取分所に入り分院に昇格、神刕別院・米子分所をへて、二一日島根別院についた。平松・藤原は出雲大社・日御碕神社に代表参拝した。二三日に海潮支部にむかい八雲山に登山した。この八雲山は神話につたえる素盞嗚尊と櫛稲田姫のゆかりの土地である。頂上の宮跡に祭壇をもうけ祭典後この地を神跡として整備するようにとの指図があった。二五日は地恩郷別院に入り、木の花支部・松江分所をへて鳥取県の東伯分所につき、東伯分所を由良分院とし、城の崎支部をへて二八日には但州別院にはいった。そして苑内に平安石を指定し、神美支部を分所とした。 一一月一五日、聖師は随行の岩田と北陸山代温泉畑屋旅館 に宿泊し、北陸別院の予定地を検分した。おわって金沢の金城分院に入り、富山県の福野・富山・山王の各支部をへて二〇日新潟県の寺泊支部につき、ここを分所とした。二一日に東北別院にはいり、秋季大祭につづいて歌碑完成式がおこなわれた。歌碑には、〝北海の旅路遙けしわれは今出羽の大野の雨聴きてをり〟とうたわれてあり、神声歌碑と命名された。 そのとき聖師は「神代の昔国常立尊は北海道の芦別山に、豊雲野尊は鬼界島の宮原山に御隠退遊ばしたのである……坤の金神が遥々ここまで御出になり、鳥海山にお登りなされ、遠く芦別山の夫神を偲ばれた涙ぐましい縁の深いところで……北海道の歌碑はすでにできあがり、宮原山の歌碑が最近できあがるので、いよいよ両歌碑を結びつけるここの歌碑を開くためにわざわざ出て来た。歌碑の歌は私のよんだ歌でなく神様の歌である」と信者に語っている。 なお、北海別院の神生歌碑、〝芦別の山はかなしも勇ましも神代ながらの装ひにして〟、鹿児島県大島郡喜界村宮原山の神声歌碑、〝世をおもふ心のふねに棹さして宮原山にはるばるわが来つ〟とあり、この二碑の除幕式には日出麿総統補が聖師の代理としてのぞんでいる。
5.2 聖師を介しての木庭環と父のつながり
追記 2024年8月8日。 木庭環の誕生日は大正12 (1923) 年8月23日だと思う。木庭次守(2010a: pp. 178-179)『新月の光』下巻には,「芦別山から四王の峯に」の記事を見ていて気付いた。父もきっと気付いていただろう。
聖師はさきに大正十二年八月二十三日旧七月十二日(誕生日)を,熊本県阿蘇郡小国町杖立温泉にて迎えられ,七月十二夜の月を仰いで竹の杓子に, 万有の みたまをすくう 此釈氏 心のままに 世人す九へよ 王仁 この杓子 吾うまれたる 十二夜の 月のかたちに よくも似しかな 王仁 と染筆して,大本の神器とさだめられたことに相応する大経綸であった。
とある。この日は母,畑谷環の誕生日である。この杖立温泉に父は歌碑を立て,この御手代を肌身は成さず持っていた。
6 2021年タニハ祭 Sep. 20, 2021
図33 13夜 Sep. 19, 2021
タニハ祭は昨年来,一年ぶり。昨年はコロナでぼくと加納さんとだけ。今年は,長男夫妻のコロナ罹患に加えて,台風などで3回日程の変更があり,本日実施。この内容は,畑谷ではなくて,木庭家の方だけど,写真の公開の制限から,このページに掲載することにした。 長男夫婦とぼくで計三名で実施した。二人はよくやってくれました。二十八年祭になる。木庭次守昇天,Aug. 17, 1993。 図35を見て,改めて自覚しなかった自らの老いを感じた次第である。後背の花はタニハ北ヤードのテッポウユリとハルジョオン。花を買うのを忘れた,お供えは以前の半分ほどにしている。
図34 お供え完了
図35 片付け終了後の記念写真
以上,Sep. 20, 2021記。