西村光月の大本国際化への貢献 contribution to Oomoto’s globalization by NISHIMURA Kogetsu
はじめに 西村光月さんには,近所の都湯でよくお会いした。老齢ながら身長が高く,目立っていた。ぼくの同級生で一軒おいて隔たった家に暮らしていた品川君は,よく洗い場で,西村さんの横に座って武勇伝?をお聞きし,品川君から西村さんは凄いと聴いていたが,幼稚なぼくは人間に特に関心はなく,その内容を覚えていない。機会があれば,品川君から西村さんのお話を聞きたいとは思っている。品川君の家の斜め向かいが西村さん宅であった。 その西村さんの武勇伝を今,知ることになった。父と一緒に歩いていて,西村さんに会うと,お互い何のわだかまりも無く,やあ,というような挨拶をしていたことを記憶している。西村さん宅には,一時期,毎晩のように母が出かけていた。西村さんの奥さんが大本の婦人会長で,その副会長を母がしていたらしい。天恩郷には当時,瀟洒な平屋の婦人会館というのがあって,ここでは幻灯会や映画会がよく開かれていた。反核そして反戦運動や少年少女向きの名画なども,頻繁に上映されていた。高い志をもった当時の担当者に遅まきながら感謝したい。婦人会の全国大会などもここで実施され,小学生の頃,母によく連れて行かれたことを覚えている。 次の写真は,大本七十年史上巻(昭和三十九年 1964年 二月四日発行)第四編 第二章 教団の推移 2 新たな胎動 「バハイ教徒の来綾」pp. 691-695中の写真である。これから述べる時期よりも前の動きをこの写真で知ることができる。 (左端)バハイ教宣伝使フィンチ女史、出口澄子、王仁三郎、同宣伝使ルート女史、(右端)通訳として西村光月大正12年4月22日、綾部神苑にて Oomotoというローマ字表記について論じる上で,エスペラント語での雑誌発行について記したページは次のものである。本ページに記した西村光月さんの活躍を知る前のもので,誤解がある。今後,この西村光月のページを作成しつつ,下記のサイトの修正追加をして行くつもりである。 西村光月さんの活躍は, 大本七十年史上巻(昭和三十九年 1964年 二月四日発行)第四編 第四章 人類愛善運動 3 海外への発展 「宣伝使の欧州派遣」pp. 785-794 に記されている。その直前の項に「文書による海外宣伝」pp. 781-785があり,ここにはエスペラント誌Oomotoに関する記述があるので,まずはこの部分について紹介したい。 1 大本七十年史上巻(昭和三十九年 1964年 二月四日発行)第四編 第四章 人類愛善運動 3 海外への発展 「文書による海外宣伝」pp. 781-785 引用 飯塚弘明 オニドから https://onidb.info/bview.php?obc=B195401c4431 大本がはじめて、海外にひろくしられるきっかけになったのは、エスペラントの採用がおこなわれた直後に、当時京都大学の学生であったエスペランチストの八木日出雄(木庭注記:産婦人科医で元岡山大学学長。日本人初の世界エスペランチスト協会会長に選ばれ,1963年に開催された第48回世界エスペラント大会の会長を務めた)が、スイスの万国エスペラント協会機関誌「エスペラント」の一九二四(大正一三)年三月号に、「日本に於ける新精神運動」と題した一文を寄稿し、大本を紹介してからのことであった。この紹介記事はかなりの反響をよびおこし、やつぎばやに各国のエスペランチストから、続々と大本にあてて照会の手紙をよこすようになった。大本にたいする関心がどこにあったかを物語る好例として、たとえばフィンランドのアンチ・ラスクの手紙がある。それには 我々基督信者が偶像信者と云って嘲つて居るものが、却て大本の教が説いて居るやうに、和合と平和と純潔と進歩の裡に生活して行くことが出来ると云ふことを私は知ってゐます。而も何ぞや大多数の基督教徒は、争闘と反目と嫉妬のうちに暮してゐるではありませんか、我々の文明は余りに物質的であります。私の考へでは、東洋人の文化の方が我々西洋の文化よりも遙に精神的であります。 とのべられている。西欧の人々は、世界大戦とこれにつづく世界的激動によって、西欧文明を懐疑しつつあった。有名な哲学者、シュペングラーが『西欧の没落』をあらわしたのも、この時期であったし、そして、西欧の哲学や文学に東洋的神秘の世界が紹介されだすのも、この時期である。大本が海外の人々から注目をあび、ふかい興味を示されるようになるのも、こうした背景を前提としていた。大本によせられてきたヨーロッパの人々の手紙は、そのおおくが西欧理念への疑問と、東洋への関心、また日本の美点などをのべたものであった。なかには世界大戦終了にともなう帝国主義列強の餌じきとなって、分割のうき目をみたハンガリーの元最高裁判所判事セベスティエン・イムレの手紙のように、「讃嘆すべき人」王仁三郎にたいし、「私達の惨状の為に神に祈って下さるならば、吃度神様は其お祈りを聞き届けられて、我々の為に正義が到るでせう」と記述するものもあった。最初はこれらの手紙にたいして、ひとつひとつ手紙で返事がだされていたが、それでは、とても間にあわなくなったので、一九二四(大正一三)年の九月一日には海外宣伝部が設置されて金竜池畔の神武館で事務をとりあつかうことになった。海外宣伝部はこれをエス語部・英語部及び支那語部の三部にわかち、エス語部と英語部の主任は西村光月の兼任、支那語部の主任は北村隆光、監督は当分教主補佐宇知丸があたることとなった。 これよりさき由里忠勝に委嘱されていた「霊の礎」のエス訳は、一部分ではあったが、「神の国」六月号に掲載された。その後、英訳「霊の礎」とそのパンフレットが刊行されている。海外宣伝への活躍を示す第一声ともいうべきものに、「新精神運動大本」”Oomoto la Nova Movado”がある。これは海外宣伝部から一九二四(大正一三)年一二月一一日に発行されたが、この書の内容を摘記すると, (以下は,木庭が箇条書きに変更している。中点の使用法に混乱があり [原文はエスペラント語なので七十年史編纂者の混乱の可能性が大],序数も追加している。現物を見ていないので誤りがあるかも知れない。中点「・」は明治中期ぐらいから日本に現れる世界に類を見ない不適切な用法で今尚,和文表記の混乱を生み出していると木庭は考えている) 序言一、大本歴史の概要 1. 起源 2. 神諭─最初の神意のひらめき 2. 神の文章─霊界物語 3. 重要神殿の破壊一、大本とはどんな所か 1. 大本の教義─大本の教旨 2. 処世上の四大主義 3. 四大綱領 4. 霊力体 5. 天地の律法 6. 鎮魂帰神 7. 精霊と人との関係 8. 言霊学 一、大本と世界の将来 一、瑞月師の入蒙 とよりなり(木庭:文体の混乱がある)、表紙には宇宙紋章(木庭追加:左図に示す)をあざやかにあらわした。鮮明なる写真五葉をいれたB6判四頁のこの小冊子は、大本の概要を世界に紹介するのには恰好のパンフレットであった。「新精神運動大本」は三〇〇〇部印刷され、日本はもとよりのこと、世界四八カ国のおもだったエスペランチストと各団体に配付された。その後その英訳書も全世界に送付されている。また中国文「大本須知」も発行されている。 さらに翌一九二五(大正一四)年一月からは月刊「大本」(エス文)を発行して、大本についての教義宣伝もなされるようになる。入蒙後、責付をとりけされてふたたび入獄中であった王仁三郎にとって、海外におけるこうした反響は、おおいなるよろこびであった。そのことは、大正一三年九月一五日附の左の獄中だよりによっても推察されよう。 … Continue reading 西村光月の大本国際化への貢献 contribution to Oomoto’s globalization by NISHIMURA Kogetsu