はじめに

 西村光月さんには,近所の都湯でよくお会いした。老齢ながら身長が高く,目立っていた。ぼくの同級生で一軒おいて隔たった家に暮らしていた品川君は,よく洗い場で,西村さんの横に座って武勇伝?をお聞きし,品川君から西村さんは凄いと聴いていたが,幼稚なぼくは人間に特に関心はなく,その内容を覚えていない。機会があれば,品川君から西村さんのお話を聞きたいとは思っている。品川君の家の斜め向かいが西村さん宅であった。

 その西村さんの武勇伝を今,知ることになった。父と一緒に歩いていて,西村さんに会うと,お互い何のわだかまりも無く,やあ,というような挨拶をしていたことを記憶している。西村さん宅には,一時期,毎晩のように母が出かけていた。西村さんの奥さんが大本の婦人会長で,その副会長を母がしていたらしい。天恩郷には当時,瀟洒な平屋の婦人会館というのがあって,ここでは幻灯会や映画会がよく開かれていた。反核そして反戦運動や少年少女向きの名画なども,頻繁に上映されていた。高い志をもった当時の担当者に遅まきながら感謝したい。婦人会の全国大会などもここで実施され,小学生の頃,母によく連れて行かれたことを覚えている。

 次の写真は,大本七十年史上巻(昭和三十九年 1964年 二月四日発行)第四編 第二章 教団の推移 2 新たな胎動 「バハイ教徒の来綾」pp. 691-695中の写真である。これから述べる時期よりも前の動きをこの写真で知ることができる。

(左端)バハイ教宣伝使フィンチ女史、出口澄子、王仁三郎、同宣伝使ルート女史、(右端)通訳として西村光月
大正12年4月22日、綾部神苑にて

 Oomotoというローマ字表記について論じる上で,エスペラント語での雑誌発行について記したページは次のものである。本ページに記した西村光月さんの活躍を知る前のもので,誤解がある。今後,この西村光月のページを作成しつつ,下記のサイトの修正追加をして行くつもりである。

 西村光月さんの活躍は,

大本七十年史上巻(昭和三十九年 1964年 二月四日発行)第四編 第四章 人類愛善運動 3 海外への発展 「宣伝使の欧州派遣」pp. 785-794

に記されている。その直前の項に「文書による海外宣伝」pp. 781-785があり,ここにはエスペラント誌Oomotoに関する記述があるので,まずはこの部分について紹介したい。

1 大本七十年史上巻(昭和三十九年 1964年 二月四日発行)第四編 第四章 人類愛善運動 3 海外への発展 「文書による海外宣伝」pp. 781-785 引用

飯塚弘明 オニドから  https://onidb.info/bview.php?obc=B195401c4431

 大本がはじめて、海外にひろくしられるきっかけになったのは、エスペラントの採用がおこなわれた直後に、当時京都大学の学生であったエスペランチストの八木日出雄(木庭注記:産婦人科医で元岡山大学学長。日本人初の世界エスペランチスト協会会長に選ばれ,1963年に開催された第48回世界エスペラント大会の会長を務めた)が、スイスの万国エスペラント協会機関誌「エスペラント」の一九二四(大正一三)年三月号に、「日本に於ける新精神運動」と題した一文を寄稿し、大本を紹介してからのことであった。この紹介記事はかなりの反響をよびおこし、やつぎばやに各国のエスペランチストから、続々と大本にあてて照会の手紙をよこすようになった。大本にたいする関心がどこにあったかを物語る好例として、たとえばフィンランドのアンチ・ラスクの手紙がある。それには

我々基督信者が偶像信者と云って嘲つて居るものが、却て大本の教が説いて居るやうに、和合と平和と純潔と進歩の裡に生活して行くことが出来ると云ふことを私は知ってゐます。而も何ぞや大多数の基督教徒は、争闘と反目と嫉妬のうちに暮してゐるではありませんか、我々の文明は余りに物質的であります。私の考へでは、東洋人の文化の方が我々西洋の文化よりも遙に精神的であります。

とのべられている。西欧の人々は、世界大戦とこれにつづく世界的激動によって、西欧文明を懐疑しつつあった。有名な哲学者、シュペングラーが『西欧の没落』をあらわしたのも、この時期であったし、そして、西欧の哲学や文学に東洋的神秘の世界が紹介されだすのも、この時期である。大本が海外の人々から注目をあび、ふかい興味を示されるようになるのも、こうした背景を前提としていた。大本によせられてきたヨーロッパの人々の手紙は、そのおおくが西欧理念への疑問と、東洋への関心、また日本の美点などをのべたものであった。なかには世界大戦終了にともなう帝国主義列強の餌じきとなって、分割のうき目をみたハンガリーの元最高裁判所判事セベスティエン・イムレの手紙のように、「讃嘆すべき人」王仁三郎にたいし、「私達の惨状の為に神に祈って下さるならば、吃度神様は其お祈りを聞き届けられて、我々の為に正義が到るでせう」と記述するものもあった。最初はこれらの手紙にたいして、ひとつひとつ手紙で返事がだされていたが、それでは、とても間にあわなくなったので、一九二四(大正一三)年の九月一日には海外宣伝部が設置されて金竜池畔の神武館で事務をとりあつかうことになった。海外宣伝部はこれをエス語部・英語部及び支那語部の三部にわかち、エス語部と英語部の主任は西村光月の兼任、支那語部の主任は北村隆光、監督は当分教主補佐宇知丸があたることとなった。

 これよりさき由里忠勝に委嘱されていた「霊の礎」のエス訳は、一部分ではあったが、「神の国」六月号に掲載された。その後、英訳「霊の礎」とそのパンフレットが刊行されている。海外宣伝への活躍を示す第一声ともいうべきものに、「新精神運動大本」”Oomoto la Nova Movado”がある。これは海外宣伝部から一九二四(大正一三)年一二月一一日に発行されたが、この書の内容を摘記すると,

(以下は,木庭が箇条書きに変更している。中点の使用法に混乱があり [原文はエスペラント語なので七十年史編纂者の混乱の可能性が大],序数も追加している。現物を見ていないので誤りがあるかも知れない。中点「・」は明治中期ぐらいから日本に現れる世界に類を見ない不適切な用法で今尚,和文表記の混乱を生み出していると木庭は考えている)


序言
一、大本歴史の概要 1. 起源 2. 神諭─最初の神意のひらめき 2. 神の文章─霊界物語 3. 重要神殿の破壊
一、大本とはどんな所か 1. 大本の教義─大本の教旨 2. 処世上の四大主義 3. 四大綱領 4. 霊力体 5. 天地の律法 6. 鎮魂帰神 7. 精霊と人との関係 8. 言霊学 
一、大本と世界の将来 
一、瑞月師の入蒙

宇宙紋章

とよりなり(木庭:文体の混乱がある)、表紙には宇宙紋章(木庭追加:左図に示す)をあざやかにあらわした。鮮明なる写真五葉をいれたB6判四頁のこの小冊子は、大本の概要を世界に紹介するのには恰好のパンフレットであった。「新精神運動大本」は三〇〇〇部印刷され、日本はもとよりのこと、世界四八カ国のおもだったエスペランチストと各団体に配付された。その後その英訳書も全世界に送付されている。また中国文「大本須知」も発行されている。

 さらに翌一九二五(大正一四)年一月からは月刊「大本」(エス文)を発行して、大本についての教義宣伝もなされるようになる。入蒙後、責付をとりけされてふたたび入獄中であった王仁三郎にとって、海外におけるこうした反響は、おおいなるよろこびであった。そのことは、大正一三年九月一五日附の左の獄中だよりによっても推察されよう。

 大本の為記念すべき海外宣伝部の設置を聞き、枯木春に遇って花発くの思ひあり。吾人が平素の志望の端を発したる瑞祥と云ひつ可し。西村、北村両主任を始め一同の諸士の奮闘努力を希望して止まず。又信者諸氏の応援あらん事を切に冀ふ。

さらに一〇月一〇日附の書簡には、つぎのようにうたわれている。

天の下四方の国々果てもなく生言霊のみいづ輝く
白雲の海の彼方の国までも真言を伝ふ人ぞ雄々しき
大神の依さしに酬ゆる時は来ぬエス語に英語支那語宣伝
歎かいの中より亦もほほえみぬ海外宣伝思ひ浮べて
愛の善信の真をば真向にかざして進め海の外まで

 このようにして、大本の海外宣教は、海外宣伝部の設立によって、ようやく組識的にその活動がおこなわれるようになった。海外宣伝部はその後、海外宣伝会とあらためられ、さらに一九二五(大正一四)年一月二〇日には、大本の組織改革によって「海外宣伝課」と改称された。

2 大本七十年史上巻(昭和三十九年 1964年 二月四日発行)第四編 第四章 人類愛善運動 3 海外への発展 「宣伝使の欧州派遣」pp. 785-794 引用

飯塚弘明 オニドから  https://reikaimonogatari.net/index.php?obc=B195401c4432

欧州宣教の開始 白山丸船上での西村

 文書による海外宣伝は、それなりの成果をあげたが、人類愛善会の各国支部が結成されるようになる直接的な理由としては、西村光月の欧州派遣とその活動をあげねばならぬ。王仁三郎から、欧州派遣の命をうけた西村宣伝使は、人類愛善会が設立された翌々日、すなわち一九二五(大正一四)年の六月一一日に、郵船白山丸で神戸港を出発した。その目的は、八月一日より六日までジュネーブで開催される第一七回万国エスペラント大会に出席するためと、あわせて人類愛善の趣旨にもとづく海外宣伝にあった。西村は渡欧のために、京都府庁にたいして海外渡航の手つづきを申請したが許可されな

かった。それは大本にたいする警戒が依然としてつよかったからである。そこでにわかに東京の住人として外務省に手つづきをしたところ、出発の二日前にはじめて許可された。出発する間ぎわまで、西村やその周辺の人々は、ひそかにしかもねばりづよく努力したのである。

 西村が大会に出席したところ、ただちに副議長に指名されることになった。西村は麻の白地カスリの着物に紋付羽織袴で出席し、満座の注目をあつめた。そのおりに西村は大本の特別講座をひらいて聴衆にふかい感銘をあたえた。そしてジュネーブに一ヵ月余滞在してエス文の「大本教祖伝」を発行した。これは日本人が、エス文の書籍を欧州で出版した第一号であったともいえよう。九月一日からパリで第二四回万国平和主義者の会議が開催されることをきいた西村は、仏文による宣伝パンフレット一〇〇〇部を用意して、同会議に出席するためにパリにむかった。 ジュネーブでは大本の後援者・共鳴者が続出して、ドイツ・フランス・ロシア・オーストリア・スペイン・ルーマニア・ハンガリー・チェコスロバキアなどの諸国から招待されている。出口王仁三郎著の『エス和作歌辞典』もすこぶる好評であって、各国の代表委員が政府当局にみせるといって、各自がもちかえるというようなありさまであった。

紋付き羽織袴は注目を集めた 現地の画家が描いた

 この万国平和会議はソルボンヌ大学で開催されていた。元来この平和会議は、五年ごとにひらかれる世界各国の平和主義者の会合で、政府の代表者はひとりも出席していなかった。九月四日は午前も午後も出席者の間において政治問題が論議され、午後になると討論は激化してきわめて険悪な状態になった。そのとき西村光月は「平和はこのような有様では到底こない。平和は宇宙の大元神を認めてすべてをこれに託するにある。そしてこれにいたる道程として各国の思想家や宗教家が相提携する必要がある」とのベて、愛善運動の精神を披瀝ひれきしたという。

 九月五日は平和会議の事実上の最終日でもあったから、経済および軍備撤廃などの問題について白熱した討議があり、あわせて、一年前から懸案になっていたエスペラントの採用につ

いて、イード語使用者との間に討論がなされた。イード語の賛成者はわずかにひとりであって、他は全部エスペラントの採用に賛成した。この会議には日本人いや東洋人として、西村光月ただひとりが出席したのも注意をひく。この会議中に、西村は渡航の船中で、英訳した人類愛善会の規約を老判事アイケンにみせたところ、非常に感銘して早速仏文に訳してくれた。これが英語以外の外国語に大本関係の文献が翻訳された最初のものであり、これを契機として、ひきつづきハンガリー語・ポーランド語・独語など一二ヵ国語に訳されることになってゆくのである。

国際大本と日本人

 この平和会議が機縁で西村はパリにとどまることになり、ルウ・デ・パウギラード街四番地のストラスブルグ・ホテルの一室に欧州宣教の本拠をおき人類愛善会欧州本部を設置した。そして一九二六(大正一五)年一月から月刊エス文「国際大本」”Oomoto Internacia”(タブロイド判四頁、のち八頁)をパリで発刊し、五〇〇〇部を印刷したのである。これには、タイトルの横に宇宙紋章がすりこまれていたので、いっそう光彩をそえることになり、読者の喝采をはくしたという。

 さらに人類愛善の立場から、大本主義と人道主義との鼓吹のために、一九二六(大正一五)年六月一日からは日本式ローマ字新聞、旬刊「日本人」”Nippon-zin”が発刊されることになった。この編集には神戸からきていた岡延太郎が援助した。欧州在住の日本人は、比較的にあたらしい思想をもつものがおおく、よく世界の情勢に通じ、内地の日本人よりも容易に大本主義を理解することができたようであった。また日本人のみならず、ハンガリーをはじめとする各国に熱心な日本語学習者がいたので、読者層もひろがった。

ロカルノ会議 左端が西村光月

 一九二五(大正一四)年秋、英・仏・独の外相があつまって、いわゆるロカルノ会議がスイスのロカルノ市においてひらかれたが、同じ会場の「正義の殿堂」で一九二六(大正一五)年四月三日から六日までエスペラント中央委員会が開催された。欧州におけるほとんどの国々より委員がつどい、東洋代表としては西村宣伝使がひとり出席した。この会合には三〇余人の出

席者があり、万国エスペラント協会の指導者エドモン・プリヴァー博士会頭のもとに、プログラム中の四二ヵ条以外に、ラジオ・商業・諸種の統計・新聞雑誌・夏期大学・大会・会議・科学出版物等々に関する協議がなされた。西村は、この会議では、「大本」ということをしいて口にはしなかったが、すでに一般にしられていて相当の収穫をおさめたと本部に報告している。

 西村宣伝使のこうした活動のなかで、注目すべきもののひとつに、ドイツの新精神運動団体であるドイツ白旗団(ワイス・ファーネ)との提携を促進したことがある。 西村はこの年の五月一四日にパリを出発して、一五日の午後には、南ドイツのプフリンゲンにあるドイツの新精神運動白旗団本部を訪問した。同団の機関誌「白色旗」の編集人オー・ケイ・シュミットは、すでに「へロルド・デ・エスペラント」誌上で大本の紹介記事をよんでいたし、シュミットから大本海外宣伝課にあてた一九二五年七月一日附での長文の手紙には、大本の運動についてなみなみならぬ関心が示されていた。この手紙には、物質文明を超越して、近代人の退嬰的な傾向を克服し、実生活においても精神面においても不幸な分裂を救済するためには、「内的外的ともに統一されたところの完全なる人間」をつくることを主張していた。それはインドのヨガや日本の禅のような、「背後意識」や「無意識性」への追求にそそがれている。白旗団本部は、団長シュヴァイツェル博士の住宅の一部があてられ、そこで十数人の事務員がはたらいていた。博士はよくこえた老人であったが、シュミットはまだ二三才の育年で、同誌の発行についての全責任をおってその編集に尽力していた。西村はエスペランチストでもあるシュミットと会談して、左記のとりきめをおこなった。

一、大本と白旗団とは相互に記事や講演の交換をおこなうこと。二、新精神運動は独逸にて大本に関する独逸語の単行本を発行すること。三、新精神運動は大本の主宰する世界宗教連合会に加入すること。四、たがひに其機関紙に広告を交換すること。五、新精神運動「白旗団」は大本の支部たること、同時に大本の欧州本部に新精神運動の支部を設けること。もって協同一致の宣伝をおこなうこと。

 このとりきめによって、大本と白旗団との関係はかたくむすばれることになり、白旗団はドイツ文の大本宣伝冊子「新精神運動大本」(菊判三四頁)を発刊した。初版は一万八〇〇〇部印刷された。そのうち一万部は新精神運動の団体やドイツおよび外国における会員に、二〇〇〇部を全ドイツの新聞・雑誌社におくった。これをうけて約五〇の新聞や雑誌がそれを紹介した。こうして、世界宗教連合会に白旗団はくわわることになったのである。なお西村はとなりの町ロイトリンゲンにおもむいて二〇日には大本に関する講演をなし、つづいて五月二三日にドイツのミュンヘン市で開催された全独エスペランチスト大会のまねきに応じて、これに参加した。大会は旧市役所の大会堂でひらかれ、参加人員は約四〇〇人にのぼった。その大会で市長や知名人の歓迎の辞、各地方代表員の挨拶のあとに、西村光月も挨拶した。その翌日には西村はミュンヘン放送局から幹事のコッホ氏と共同放送をおこなっている。材料はゲーテ原作の「イフイゲニーオ」で、そのドイツ文をまえもって各々エス語と日本語に訳しておき最初にその自国語と日訳文を放送して、どのように両国語がことなったものであるかをあらかじめしらしておき、ついで両人がエスペラント文を放送して、日本人もドイツ人もエスペラントの発音においてはほとんどかわりのないことを示すという趣向をこらしたものであった。こうした西村の不断の努力はその後もつづけられる。

 二五日にはレストラン・ワグネルを会場として午前八時より大本講演会が開催された。下院議員がエスペラントについて講演した後、西村が登壇して約四〇分にわたる講演をした。聴衆は三〇〇人をこえ、大学教授や牧師そのほか多数の知名人が列席した。この会合を介して、「国際大本」の購読者も多数できた。フランケ博士のいうところによれば、ドイツの当時の政情ははなはだ不安であって、国家主義が擡頭しつつあり、エスペラント運動のような国際的なものについては、せいぜい二〇~三〇人ぐらいしか出席しないであろうと思っていたとのことであった。

 二六日はプレヒトルの招待をうけてドイツ国境ブルガウゼン市に旅行した。同市の古城は独逸で最長の規模をほこる城塞でかこまれており、ダニューブ河をへだてて、オーストリアに面しているところにある。さらに西村は、八月一日から英国エジンバラ市に開催された第一八回万国エスペラント大会に、マヨール、サムソン両人とともに出席した。この大会でも大本講演をなし、また帰途ロンドンにたちよって大本の宣伝をおこなった。八月六日発行のロンドンの「デーリー・へラルド」紙およびエジンバラの「イヴニング・ディスパッチ」紙は西村の写真と彼の訪問の記事を掲載し、とくにへラルド紙は、第二面の冒頭に「エスペラント共通語をもちいる世界的宗教大本、エジンバラ会議に派遣された日本紳士」と題して大本を紹介し、西村の談話をのせている。そのなかで、西村はつぎのように語っている。

 釈迦、キリスト、マホメットはそれぞれ偉大なる予言者であった。しかし現在の教団では、あはれその教は最早権威を失ひ、無視されてしまった。そして宗教の名に於ていろんな罪悪が行なはれている。大本は世の立替を標榜しており、宗教を国際的に組織せんとしている。大本人は全人類が出口王仁三郎氏の周囲に蝟集する日が来ることを信じている。王仁三郎氏は大本の教主であって亀岡に陣取っている。彼も亦他の改造先駆者の如くに迫害を免れることは出来なかった。そして六ヶ月入牢した。奇蹟家王仁三郎教主は、大本を開いた出口なお(養母)の後を嗣いだのである。この両人とも霊感者であって、王仁三郎氏は山中で神より「人類の救済」を告げられたといふことである。大本エスペラントが世界的となるやうに、また宗教も世界的たることを主張している。

 西村光月の精力的な宣伝の旅はさらにつづく。八月下旬に、いったんパリにひきあげたが、九月七日にはふたたびパリを出発して、チェコスロバキア国の宣伝の旅にたち、同国のおもだった町村を巡回して大本を紹介した。各町村では、講演会や或いは幻灯会をもよおし、グロッタワでは聴衆のもとめによって謡曲「隅田川」などをうたったりした。

 一〇月二四日、首都プラハ市を、チェコスロバキアにおける最後の講演地とした。西村が入国して以来、この日までの四八日間の、講演回数は三〇回にたっしている。彼はその後、「チェコ国宣伝旅行─見聞及び感想─」を本部によせているが、そのなかでこうかいている。

将来大本より更に多数の宣伝使が欧州に来らるるとも、少くとも二ヶ年は滞在する覚悟をもって出発されん事を希望致します。そして欧州へ来る宣伝使はエスペラントの外、英、独、仏語の一つを学習して居ると好都合であります。尚其外宗教史、哲学史、東西文明史、東西歴史等の大略を習得して置く必要があって、ただエスペラントが少々出来る位では、赤恥をかかぬまでも不便を感じ、多少馬鹿にされる事があるのは、小生の経験上から申し上げて置く次第であります。殊に日本、支那等に関する風俗習慣乃至政治実業界の趨勢等を知悉してをれば一層便利であります。

 欧州本部がパリに設置され、一九二六年一月からは「国際大本」が発刊されていたが、その発行部数は五〇〇〇であって、購読者は約五〇〇、その他は無料配布されていた。とおく南米ブラジルからの購読者もあり、アフリカの奥地をのぞくほかは全世界にゆきわたっていた。最初は英文・仏文・独文などを挿入していたが、欧州の国際関係上、このましからぬ感情をひきおこしたり、あるいは不平を申しこまれたりしたために、全部エスペラントのみによることにした。

 なおブルガリアうまれの青年シシコフは、秘書として一九二六(大正一五)年八月から前後六ヵ年間、西村と同居して編集の実務に最も忠実に勤務したことも忘れるわけにはいかない。

 「国際大本」の編集には、前記のシシコフのほかにグレンカムブ、マヨール及びヂュヂェフなどが、逐次交替で尽力した。寄稿者のおもだった人々は、マーチャン卜、カール、アイナール・ダル、ユリオ・バーギ、ゲオ・ハルセフ、シュミツなどであった。英文の「大本とはなにか」の編集はマヨールがてつだった。また同文をフランスの言語学者に仏訳してもらって発行したこともある。『霊の礎』はマヨールの助力をえて全訳を完成したが、これはリヨン市のサンデリオンが好意をもって大版のプリント刷で数百部印刷してくれた。

 他方、人類愛善会の支部はスイス・フランス・イタリア・チェコスロバキア・ドイツ・ブルガリア・ハンガリア・ポーランド・ペルシア・スペインなどの各地に設立された。欧州宣教の第一期をおえて、西村は本部とのうちあわせのために、一九二七(昭和二)年一一月八日、いったん、シベリア経由で帰国した。

3 西村光月「エス訳の苦心」 霊界物語の栞 第1号 1967.8.7 第1回配本 p. 14

 氏のエッセーが上記「霊界物語の栞」に掲載されている。その全文を次に示す。霊界物語の栞,なので,『霊界物語』関連のエス語翻訳が執筆テーマとなっている。ゴチ変更は私木庭元晴によるものである。

 大本にエスペラントが導入されたのは昭和十二年(木庭:大正十二年の誤り,おそらく校正者のミス)七月のことで京都の同志社大学生重松多喜三(木庭:重松太喜三の誤り)氏を招聘して二週間(木庭:下記の資料ではこの時は一週間になっているがいずれが正しいかは不明),更に続いて八月の始め(木庭:「初め」が用法としては適切)から一橋大学生由里忠勝氏から三週間(木庭:下記の資料では5日間)の指導を受けたが,半年後にはヴェルダモンド(木庭:ラ ヴェルダ モンド 緑の世界)という月刊のエス語学習雑誌を発刊し,翌十三年に入るとオオモト(木庭:西村の原稿はOomotoではなかったか)と称する対外的月刊誌を発行するに至ったこの編輯に当たっては,由里氏の指導援助に頼る事多大なものがあった。由里氏は間もなく霊界物語中の「霊の礎」を二篇訳され,やがて単行本として天声社から出版された。霊界物語の著者出口聖師は傍らエス語の記憶便法として,エス和作歌辞典を僅か二週間(木庭: 下記の資料では4日とされているが杖立温泉で考案された際の日数が4日であって,大正十三年二月四日発行の「記憶便法エス和作歌辞典」O.DEGUCHI PERPOEMA VORTARO ESPERANTO-JAPANA原稿の作成日数が二週間ではないか。これは由里氏によるエス語訳であろう)で著作されたが,由里氏のエス文序言は実に立派なものである。(木庭:¶)

 私も神書を所々訳出したが何分言いおきにも書きおきにのないといわれる程の難物なので大分閉口した。今でも記憶に残って居るのは,「霊主体従」「体主霊従」の訳語である。屡々出て来る句であるので説明的であっては具合が悪い。そこで Animo-super-korpismo, Korpe-super-animismo と訳して発表した所,早速和歌山県の某エスペランチストから,「あれでは判らない」と抗議が来た。ところが其後パリーに行って同地のエスペランチストに尋ねて見た所,あれでよく判る,との事であったので安心した。物語中の「霊の礎」は最初の二編は由里氏が訳されたが,私はパリーで其全訳を試みた。所がリヨン市のサンデリオンという未識の同志が非常に興味をもち,大版で赤い表紙のプリント版を五十部ほど費用向こう持ちで寄付してくれたのは有り難かった。

 本部には一部も残って居ないが,墺太利のウイン市にあるエスペラント博物館には館主のセルツェル氏の熱心なる要望に任せて他の大本文献(エス,英,仏,独語)と共に寄付したから,今尚保存してあるに相違ないと思っている。

 一番弱ったのは霊界物語中の「神示の宇宙」であった。どんな辞典にもない言葉が続々出てくるので全く閉口した。それに続々質問が来るので大いに弱らざるを得なかった。中にはまた甚だ珍説ではあるが,もっと詳細に論述すべきであるというのが相当多かった。慥(たし)かに「神示の宇宙」は学会に大いに論議されるべきものであると思う。何といっても霊界物語は大部なものであり,その訳出紹介したものは僅かにその一小片鱗に過ぎなかったけれども海外エスペランチストの注目を浴びた無類の珍本であり将来世界を動かす貴重な文献であるには間違いないと思われる(大本審査局長)。引用以上

4 西村光月の時代のエス語と英語による大本文献の翻訳と出版

 本ページの第1,2章は『大本七十年史』上巻からでこれは1964年発行,第3章は「霊界物語の栞」第一号からでこれは1967年発行である。内容から見ても,発行年次から見ても,『大本七十年史』の内容に新たなページを加えるものである。

 『大本七十年史』の取材方法がいかなるものであったのかを知るには,編集会議の記録を見る必要があるが,この二冊の出版物には,西村の証言がどの程度活かされたのかは見えない。上巻の「凡例」を見ても,下巻の「あとがき」にも何らこの種の情報は記されていない。ただ,興味深いところは,「上田正昭氏には全文のリライトをおねがいした」,点であった。『大本七十年史』には,教えの中味は一切触れられていない。いわば事務的または社会的内容に限定されている。『大本七十年史』が,「歴史学」または「宗教学」的研究法で描かれたものであることを確認しておきたい。

 このページの情報と,大本七十年史上巻(昭和三十九年 1964年 二月四日発行)第四編 第二章 教団の推移 2 新たな胎動 「エスペラントとローマ字の採用」pp. 695-702,から,担当者に注目すると,エスペラント関連の歴史は次のようになる。

  1. 1923(大正十二)年五月二十七日,王仁三郎は加藤明子にエスペラント語を学習するように命じる
  2. 同年六月一日〜十二日,同志社大学致遠館で開催されたエスペラント講習会で加藤明子が受講
  3. 七月一日〜七日当時同志社大学学生であった重松太喜三を大本に招いて講習会を開く
  4. 八月初め,当時東京商科大学学生の由里忠勝が大本で日常会話の講習会を開く
  5. 八月,王仁三郎は杖立温泉滞在中に『記憶便法英西米蘭統作歌集』をわずか四日で作成
  6. 1924(大正十三)年九月一日,海外宣伝部設置(金竜池畔の神武館)エス語部と英語部の主任は西村光月の兼任,支那語部の主任は北村隆光、監督は教主補佐宇知丸
  7. 十二月十一日,”Oomoto la Nova Movado” 海外宣伝部から発行
  8. 1925(大正十四)一月〜,”Oomoto,monata organo de Oomoto movado” 発行
  9. 六月十一日,西村光月,郵船白山丸で神戸港を出発
  10. ジュネーブでエス文「大本教祖伝」発行,王仁三郎著『エス和作歌辞典』”O.DEGUCHI, PERPOEMA VORTARO – ESPERANTO-JAPANA” 配付
  11. 1926(大正十五)年一月〜,”Oomoto Internacia”(月刊,タブロイド判四頁)をパリで発刊
  12. 六月一日〜,日本式ローマ字新聞、旬刊”Nippon-zin”発刊
  13. 西村は上述のように多様な活動をして,
  14. 〜1927(昭和二)年十一月八日帰国

 なお,「霊主体従」「体主霊従」の訳語,Animo-super-korpismo, Korpe-super-animismoについて見ると,animismoはアニミズムを意味しており,混乱が生じている。いずれの訳語についても,末尾のismoを外さざるを得ない。
 la filozofio de animo-super-korpo,la filozofio de korpo-super-animo とすれば,意味は通じるとは思うが,長たらしい。ぼくはエスペラント語の素人であり不確かではある。

 果たして,「霊主体従」「体主霊従」が文字通りの意味なのかどうか。spiritual way of being, physical (unspiritual) way of beingという英語表現の方がより簡潔で適切かもしれない。原罪との関連で表現しすぎると聖書の影響が大きく出てより誤解を生むと思う。改めて,この木庭のサイトでの木庭次守文献の英訳が,かなり困難な作業であることを痛感する。

5 改めて,Oomoto,の表現について

 上記のように,王仁三郎の語学習得能力はかなり高いものであり,おほもと,に対するローマ字表記を判断する力は十分にあったと考えられる。雑誌発行作業は,加藤明子の手から早期に離れており,由里忠勝または重松太喜三の指導のもと西村光月が主導したことだろう。雑誌名について聖師に指導を仰ぐことは当然行われていた筈であり,Oomotoは王仁三郎公認であることに間違いがない。このことから,王仁三郎によって,言文一致的視点でローマ字表記がなされていたことがわかるが,日本式ローマ字新聞”Nippon-zin”などがどのような表記になっているのかは興味深いところであり,日本語とローマ字との対応を見ることは,王仁三郎の言霊学を理解する上でも助けになるように思われる。Jun. 15, 2020記