『霊界物語』成立と第一次大本事件 the inaugulation of extremely-long monologue, “Reikai Monogatari”.
はじめに 第一次大本事件という権力の弾圧があったからこそ,『霊界物語』発表が実現した。大本内部の障碍を越えることが可能となったのである。『大本七十年史』を通じて,『霊界物語』の成立をより深く理解することができた。この観点から,このページをまとめたい。『大本七十年史』は手許にあるが,次に示すリンク先には,飯塚弘明が入力した『大本七十年史』コンテンツがある。文面引用の際に利用させて頂いた。感謝する。 大本七十年史編纂会,1964. 大本七十年史 上巻. 826p. 宗教法人大本発行.大本七十年史編纂会,1967. 大本七十年史 下巻. 1319p. 宗教法人大本発行. https://reikaimonogatari.net/index.php?obc=B1954 以上 Nov. 18, 2020 このページ,昨晩,Nov. 21に完成したが,丹精込めたコンテンツが何故か,消えた。この「はじめに」と中途半端な「第1章」しか残らなかった。Webコンテンツの作成プロセスとしては全く理解できない。繰り返し保存してきたからである。王仁三郎聖師がぼくに作り直すか,廃棄せよと言われたようで,昨晩三時間ほど混乱して眠れなかった。浅野和三郎氏を評価したのがまずかったのか,『霊界物語』第一巻に関わるコメントがまずかったのか。こういう感想を持つほど,消え去った理由がわからない。このページは『霊界物語』を理解する上で必要と考えていて,再度,完成形を思い出しつつ,作成したいと思った。以上,Nov. 22, 2020 1 権力の要望に沿って描かれた「大本教改良の意見」 大本七十年史上巻pp. 591-594の,「大本教改良の意見」と題する項の最初の部分を次に引用する。なお,「一つ,」を,順を追って「a., b., ⋯⋯⋯⋯⋯」,に替え,ここで問題とされる皇道「大本信条」と「大本誓約」を前もって掲載したい。 神霊界 > 大正7年1月1日号(第55号) > 皇道大本信条 https://reikaimonogatari.net/index.php?obc=M192919180101c17 皇道大本信条 第一条 我等は天之御中主大神が一霊、四魂、三元、八力の大元霊にして、無限絶対、無始無終に宇宙万有を創造し給ふ、全一大祖神に坐ますことを敬信す。第二条 我等は天照皇大神が全一大祖神の極徳を顕現せられ、八百万の神達を統率して、遍く六合に照臨し給ふ、至尊至貴の大神に坐ますことを敬信す。第三条 我等は我皇上陛下が天照皇大神の霊統を継承せられ、惟神に主師親の三徳を具へて世界に君臨し給ふ、至尊至貴の大君に坐ますことを敬信す。第四条 我等は日本国が世界無二の霊地にして、特に丹波国綾部本宮は、天神地祇の神集ひ給ひて、神律を議定し、古今東西の諸教を帰一して、金甌無欠の皇道を樹立し給ふ、地上の高天原たることを敬信す。第五条 我等は国祖国之常立尊が、天照皇大神の聖旨を奉戴して、世の立替、立直を遂行し、宇内の秩序安寧を確立し給ふ、現世幽界の大守神に坐ますことを敬信す。第六条 我等は豊雲野尊が国祖の神業を輔佐助成し、率先して至仁至愛の全徳を発揮し給ふ、主位の大神に坐ますことを敬信す。第七条 我等は大本開祖が世界唯一の大教主にして、国祖国之常立尊はその肉体に憑りて、至純至貴の大本神諭を降し、皇道の規範を示し給ふことを敬信す。第八条 我等は各自の霊魂が皆神の分霊にして、肉体は神の容器たることを覚り、常に霊主体従の神則に従ひ、以て神政の成就を期すべき使命あることを敬信す。第九条 我等は各地に配置せられたる産土神と、各人に賦与せられたる守護神との保護指導によりて、心身の健全を保有し、又祈願の透徹を期し得る事を敬信す。第十条 我等は心身正しければ神助天恵に浴し、心身不正なれば神罰天譴に触れ、現世幽界の別なく、厳格に神律に照らさるる時代の、正に到達せる事を敬信す。 神霊界 > 大正6年5月1日号(第47号) > 皇道大本誓約 https://reikaimonogatari.net/index.php?obc=M192919170501c12 皇道大本誓約 第一条朝は五時に起き先づ身体を清め、東天を拝し次で神前に向ひ、天津祝詞及大本祝詞を奏上し、鎮魂を自修し、人生の天職を自覚すべし。第二条夜は神前に拝跪し、感謝祈願並に神言を奏上し、十時必ず寝に就く可し。第三条天地を以て経と為し、日月を以て教と為し、終日其業を勤む可し。第四条神を敬する如く人を敬し、身を敬す可し。第五条我霊性を自覚し、天分を超ゆ可らず。第六条衣食住は総て内国品を用ゐ、且つ質素を守るべし。第七条吾人の身魂は総て天地の神の分霊分体衛なれば、生に注意し無病、長寿を祈る可し。 七十年史pp. 591-594引用開始————— 大本事件にたいする記事が解禁となり、予審決定の発表によって、大本教団が不敬不逞の大陰謀団であると、各新聞が極端な捏造と悪罵をあびせかけている折りしも、京都府警察部高等課は、五月四日王仁三郎が予審に差しだしたという「大本教改良の意見」を、五月一二日午後三時、非公式で発表した。その内容はつぎのとおりである。 a. 大本信条の改正 右は第五条、第六条、第七条、第八条、第九条、を改正又は削除すべき必要ありと自覚致し候 b. 大本誓約の改正 右は第三条の「神を敬する如く人を敬し身を敬すべし」とあるを、「一、大神を敬し皇室を敬ひ国を愛すべし」と改正したき事c. 出口直及び王仁に神憑りして、書きたる所謂神諭(筆先)なるものは今日に至り熟考致し侠へば第一に不敬なる文辞ありて畏れ多く且正しき神の教と認むる事能はず、次に予言等も偶々あれども的中せず万々一的中せし如く見ゆるところあるも偶然の暗合なりと考へられ候 今まで私は明治三十二年頃筆先を初て見て、半信半疑なりしところ日露戦争ありて稍之を信ずる様になり、次に欧洲大戦争に見て筆先を九分半程も信じ浅野氏の来綾と共に全部信じたる次第に候。今日思へば実に私の精神も余程妙になり居りしことと思はれ畏れ多く且つ愧しさに堪へ兼て居ります。最初は極めて冷静なる態度を以て筆先に臨み古い信者や直より反対者と看倣され居りしものが二十余年の間にチクチクと曳き入れられ最早大正六年頃には筆先に対して抜く可らざる信仰を持し居りました。夫れが為に今回の如き不調法を致しました。今日考へますれば神憑の筆先なぞは邪神のイタヅラにて有害無益の代物とより考へられず今の内に直及び王仁に憑りて書きたる筆先を全滅させたきものと中心(メモ:忠心の誤りと思われる)より考へ神様へお詑申上げ大君様へ朝夕謝罪致して居ります。 次に私は今まで大正六年以来神諭(筆先)なるものに盲目的に信従いたしました為不敬の記事も余り不敬と強く感ぜず、邪神の為に良心を魅せられ居り実に今日となりては畏れ多く且つ愚昧なりしことの愧かしくて向ふむいて歩くのも心苦しく御座います。今日目が醒めてみれば一日も早く筆先を何とかして滅尽させ度く絶対に発布すべからざる物と覚悟致しました。是は私の神に誓っての真心であります。d. 次に出口直及び私自身帰神の筆先を基礎として書き著したる文章や論説の脱線気味あるものも出口王仁三郎及び浅野和三郎以下役員信者の著作物も採用せざる決心に御座候。世の立替立直しの所説等は余り平穏ならず却て世の誤解を招く虞あり故に皇国固有の純の神道の教を以て大本教の教義と改める覚悟に御座候e. 出口直及び出口王仁の神憑りの作物なる筆先は全部焼却して向後の迷ひの種を消滅せしめ度き覚悟致し居候f. 皇道大本の名称は宗教的団体たる綾部大本教に対して不適当なるのみならず天下の誤解を招く虞ありと思考いたし候に付断然皇道の二字を遠慮し単に大本教と改称致し度候g. 従来大本の祭神は出口直の唱導に従ひまして 日の大神 月の大神 天照皇大神 国常立命 艮の金神 坤の金神 金勝要の神 竜宮の乙姫 日の出の神 雨の神 風の神 荒の神 岩の神 大将軍 のこらずの金神 みろくの大神等の我国の古史典籍になき神名混合しありて、神道か仏道か区別し難きに就き奉祭神を改め度く候即ち皇典古事記に基きて・天津神様にては天御中主大神 皇産霊大神 神皇産霊大神 天照皇大神 皇孫命 伊邪那岐神 伊邪那美神を奉祭主神と仰ぎ・国津神にては 国常立命 豊雲野命 大国主命 須世理姫命 産土神 氏の神を奉祭崇敬することに改め真正の国教に致したき覚悟に候h. 従来の大本の教義に就き誤れる点を指摘して各支部会合所及び信徒等に印刷物を以て通知致し度候i. 旧信徒又は一部の信徒にして瑞の身魂、又は大化物の変性女子の言として反対に感取せざる様説明を為し且つ又能ふべくは身を以て之に当り疑惑を晴らし度く候j. 私にして一身上の自由を得たる上は飽く迄も改革を断行し再び従来の如き不都合を来さざる様致し度考回り候k. 大本神諭天の巻及び足立氏の写しの筆先其他の不合理不都合なる事由も神霊界紙上か或は他の方法にて発表し世人及び信徒の迷はぬ様に致し度考へて居ります。 大正十年五月四日 出口王仁三郎(拇印) 七十年史pp. 591-594引用終了———————————————— 大本七十年史上巻では,種々のコメントが続くが,各位,参照して欲しい。次章では,「大本教改良の意見」から,国家権力が王仁三郎の変質を強要した論点を明らかにし,王仁三郎がその予言力でいかに柔軟に対応したのかを示したい。 2 「大本教改良の意見」から見えること a. 皇道大本信条の改正について: 第五〜七条は,天照皇大神→国祖国之常立尊→豊雲野尊,という上下関係を示して,天照皇大神を最も上位と形の上ではしているが,読み込むと,豊雲野尊が,至仁至愛の全徳を発揮し,主位の大神であると言っている。第八,九条は,「天皇機関説事件以後の『君民一体の一大家族国家』(文部省『国体の本義』),と相容れない。王仁三郎からすると,削除することで神界が変わる訳ではないし,教え自体から見ても天照皇大神との関係を殊更示す必要性はない。 b. 皇道大本誓約の改正について: 第三条とされているが,第四条の誤り。「一、大神を敬し皇室を敬ひ国を愛すべし」,から見て,国家権力の要請がそのまま現れているに過ぎず,王仁三郎としてもこの内容に何の違和感も無いであろう。 c. 所謂(いわゆる)神諭,筆先,の廃棄: 出口直の筆先について,浅野氏の来綾とともに全部信じたる次第,という件は興味深い。浅野和三郎が積極的に直の筆先を解釈して第一次大本事件を引き起こす原因の一つとなったと主張しているような形を取らしめている。「今日目が醒めてみれば一日も早く筆先を何とかして滅尽させ度く絶対に発布すべからざる物と覚悟致しました。是は私の神に誓っての真心であります」という告白は,大本信者の信仰を根底から覆し得るものであり,最も国家権力が求めたものであったであろう。 とはいえ,次章に示すように,王仁三郎自信も,出口直の昇天以降,幹部や信者の動揺を抑えるためもあって,伊都能売神諭を開祖昇天からほぼ一年間にわたって『神霊界』に発表しているので,浅野和三郎の影響があったとはとても言えない。この神諭に関わる告白は王仁三郎にとっては最も手痛いものであったであろうが,次章で示すごとく予言者である王仁三郎は,筆先の滅尽が回避されることは承知であったと思われる。 d., e., k. 大本文献の否定: c.同様の流れである。 f. 皇道の名称を外す件: 王仁三郎の皇道観はすでに発表されており,「皇道」というタームを外すことに問題はないであろう。 g. 神名の変更: これも王仁三郎にとって,特に問題はないだろう。『霊界物語』には古事記由来の神名とともに新たな神名も多数出現している。 h., i., j. 周知徹底: 組織内のネットワークの活用だけでなく,王仁三郎の出所後は改革を断行すると言っている。 結局,この改良意見で大本にとっての実質問題と考えられるのは,大本文献廃棄を約束したことであるが,問題が生じることはなかった。神諭または筆先の様式は,この機に廃止され,『霊界物語』口述が開始されることになる。とはいえ,王仁三郎による神諭または筆先の否定は,社会的には大きなスキャンダルとなった。 3 王仁三郎の予言適中: 第一次大本事件 大正十年二月十二日午前六時,京都駅に集合した警官隊は新舞鶴行きの乗車券を渡された。藤沼京都府警察部長は二条駅発車後になって警官隊にはじめて目的を発表した。それほど機密の漏洩が恐れられていた。総勢二百余人である。当日早朝には検事局は全国新聞や雑誌が今回の事件を掲載することを禁止した。検事局の一行は綾部に到着すると,まず郵便局にたいして,司法権をもって綾部からの電話電報の発信を中止させた。大多数の警官は加藤判事,中田検事,藤沼部長指揮のもとに大本本部を包囲し,残りは役員宅の家宅捜査をおこなった,などから始まる事件当日の様子が,大本七十年史上巻(pp. 566-574)に記されている。王仁三郎は当日,大阪梅田の大正日日新聞社から,浅野和三郎は自宅から,機関誌『神霊界』発行兼編集人であった吉田祐定は綾部から,京都監獄の未決監に収監されている。 左の書「正月五日天」は,王仁三郎大正八年筆のものである。検挙の日,二月十二日は,旧暦の正月五日にあたっている。 さらに次の神諭が大正7年12月22日には次の神諭が出されていた。第一次大本事件の部分を引用する。 神霊界 > 大正8年1月1日号(第77号) > 神諭(伊都能売神諭) https://reikaimonogatari.net/index.php?obc=M192919190101c02 変性女子は神界の経綸で明治四年の七月の十二日に斯世へ出して、二十七年の間は是も普通の人民では出来ぬ苦労を致させ、二十八歳の二月九日から、神が高熊山へ連れ参りて、身魂を研かして、世の立直しの御用の経綸が致してあるぞよ。二十八の歳から此の大本へ引寄して、有るにあられん気苦労を致さして、いよいよ身魂が研きかけたから、三十九歳からボツボツと大本の経綸にかからしてあるが、此の先まだ十年の気苦労を致さすから、其積りで居りて下されよ。三年さきになりたら余程気を付けて下さらぬと、ドエライ悪魔が魅を入れるぞよ。辛の酉の年は、変性女子に取りては、後にも前にも無いやうな変りた事が出来て来るから、前に気を付けて置くぞよ。 変性女子とは王仁三郎のこと。辛酉の年は,大正八年=西暦1919年から後では,大正十年=1921年,昭和56年=1981年,などとなる。大正八年の三年先は,大正十年=1921年となり,第一次大本事件の年にあたる。大正八年から「此の先まだ十年」の年号は昭和二年で,この年に免訴の判決が下り,事件は終了している。七十年史上巻p.579から次に引用する。「『辛の酉の紀元節,四四十六の花の春,世の立替立直し,凡夫の耳も菊の年,九月八日のこの仕組』(大正八年一月二十七日)という神諭も出されていた。(中略)事件の検挙は,神諭に示してあった辛の酉の紀元節の翌日であった。従って教団本部も信者も,すべてこれは予言が適中したものであって,『変性女子を神が御用に連れ参る』ことは,『神界の経綸のご用』であるとして,むしろ仕組がいっそう進展したことにほかならないと解釈したのである」。 4 第一次大本事件下の『霊界物語』口述開始 大本七十年史上巻の「責付出獄」の途中から次に引用する。王仁三郎と浅野和三郎の出獄に関わる部分である。 大本七十年史 > 上巻 > 第三編 > 第二章 第一次大本事件の勃発と影響 > 2 事件の影響 > 責付出獄 https://reikaimonogatari.net/index.php?obc=B195401c3228 引用開始 p. 618-620———————— ところがさらにもうひとつの問題がおこってきた。大正八年いらい工事がすすめられていた本宮山神殿にたいする干渉がはじまったのである。六月一六日、伊尻京都府建築課長は、高芝警部・遠藤綾部署長の案内で本殿を調査したが、社殿は伊勢神宮を模したとみなされ、開祖の奥都城と同じ運命をたどることが予想されるにいたった。 統率者をうばわれて四ヵ月。あらたな求道者の数は激減してきた。ところが六月のなかばにいたって重大な変化が生じてきた。すなわち六月の一七日、在監一二六日にして突然、王仁三郎と浅野が責付出獄してくることになったのである。その前日に蚊帳のさしいれをしたばかりの信者らにとっては、まったく予期しないところであった。いや、権力の側にとってもこれは意外な処置であったようである。なぜなら、保釈については検事側はつよく反対していたからである。古賀検事正は、そのときの検事側の態度についてこうかたっている。 責付出獄に関しては当職としては、折角墓地取毀問題や本宮山の社殿問題などが起って来た矢先であるし、王仁三郎本人にも、信者と否を問はず危害を加へたりするやうな危険があるだらうし、色々新しい事件が発生しては困るとの懸念から不同意であった。……(「大阪朝日」大正10・6・21) 検事側の反対をおしきって責付を決定した裁判長佐藤共之は、「冷静に判断して職権を行使した」ものであるとのべている。 一七日の午後一〇時すぎ、信者にむかえられた王仁三郎と浅野は綾部に帰ってきた。夜一一時半、二人はみろく殿に参集した信者の前に姿をあらわし、すぐ神前において責付出獄の奉告をなした。王仁三郎の帰綾は、信者の心に火を点じ、複雑化しつつある教団情勢を一変させるにあずかって力があった。改良意見は、当局の圧迫に対応して神懸りでかいたものであるとする王仁三郎のと弁明は、おおくの信者にうけいれられた。しかしそれによって、王仁三郎らの責任を追求し、幹部の辞職を要求する意見がまったく影をひそめてしまったわけではない。だが結局のところ、教団はふたたび王仁三郎によって運営されることになった。引用終了 p. 618-620———————————————— 次に,大本七十年史上巻の「教団の改革」の末尾から引用する。浅野和三郎の教団からの撤退に関わる部分である。 大本七十年史 > 上巻 > 第三編 > 第二章 第一次大本事件の勃発と影響 > 3 公判 > 教団の改革 https://reikaimonogatari.net/index.php?obc=B195401c3231 引用開始 p. 624-625———————— 出獄いらい王仁三郎は、このような一連の改草をおこなったわけであるが、その「大本の立替え」によって、大本はどう変化したであろうか。それは、この改革に浅野がまったく参与していないことに端的に示されているように、「大正維新」および「大正十年立替え説」がもはや宣教の中心ではなくなり、鎮魂帰神が主たる布教手段ではなくなったことがまずあげられる。浅野和三郎は教団指導者の地位から完全にしりぞいていったのである。「浅野派」の信者の離脱が決定的になるのは、彼等が信じていた大正一〇年の立替えが実現されなかったことがだんだんとあきらかになり、それにつづいて、あたらしい教典として『霊界物語』が発表され、立替え立直しのあらたな解釈が成立してきたからである。 一九二一(大正一〇)年の七月二九日付の「大正日日新聞」には、浅野和三郎・岸一太らが発起人となって、現実社会に復帰し、社会的な事業経営をおこなうという宣言書が掲載されているが、「今正に一大方向転換を行はねばならぬ重大時機に際会して居る事を信ずるものであります」というように、それは言外に大本から独立して「社会事業経営」をおこなおうとする一部の離反のきざしを物語るものにほかならなかった。その動きが、いまや決定的となってきたのである。こうして「大本の立替え」の胎動が開始されるのである。引用終了 p. 624-625———————————————— 次に,大本七十年史上巻の「本宮山神殿破壊」の末尾から引用する。『霊界物語』口述開始の部分である。 大本七十年史 > 上巻 > 第三編 > 第二章 第一次大本事件の勃発と影響 > 3 公判 > 本宮山神殿破壊 https://reikaimonogatari.net/index.php?obc=B195401c3233 引用開始 p. 640———————— 大本はいまや事実上解体したかにみえた。本宮山神殿の破壊の槌音は、その解体の合図とさえうけとられた。しかし信仰の純粋性はかえって、そのようなときにかがやくものである。じつは、そのとき、その槌音のなかから教団再建の準備がすでにはじめられつつあったのである。筆先にかわる教典すなわち『霊界物語』の口述は、そのような状況下にはじまったのである。 大阪控訴院では、一九二四(大正一三)年の七月二一日、天野裁判長によって第一審どおり有罪の判決言渡しがあった。そして事件はそのまま上告された。大審院では横田裁判長によって、一九二五(大正一四)年七月一〇日の公判で王仁三郎にたいする原判決は事実の誤認を事由としてこれを破棄し、事実審理をすることに決定した。その審理中に大正天皇の崩御があり、一九二七(昭和二)年五月一七日、王仁三郎・浅野・吉田の三人は、「大赦令」で免訴の判決をうけた。六ヵ年余にわたるこの事件はいちおう解消したが、それはつぎの第二次大本事件の遠因ともなってゆく。引用終了p. 640———————————————— 5 『霊界物語』口述 口述に到る解説が大本七十年史上巻の第四編1霊界物語の口述,に記されている。引用文で,年月日や句読点などの表現に違和感があり,一部,表現を変更している。 大本七十年史 > 上巻 > 第四編 > 第一章 霊界物語の発表 > 1 霊界物語の口述 > 物語の発表 https://reikaimonogatari.net/index.php?obc=B195401c4111 大本七十年史 > 上巻 > 第四編 > 第一章 霊界物語の発表 > 1 … Continue reading 『霊界物語』成立と第一次大本事件 the inaugulation of extremely-long monologue, “Reikai Monogatari”.