はじめに

 第一次大本事件という権力の弾圧があったからこそ,『霊界物語』発表が実現した。大本内部の障碍を越えることが可能となったのである。『大本七十年史』を通じて,『霊界物語』の成立をより深く理解することができた。この観点から,このページをまとめたい。『大本七十年史』は手許にあるが,次に示すリンク先には,飯塚弘明が入力した『大本七十年史』コンテンツがある。文面引用の際に利用させて頂いた。感謝する。

大本七十年史編纂会,1964. 大本七十年史 上巻. 826p. 宗教法人大本発行.
大本七十年史編纂会,1967. 大本七十年史 下巻. 1319p. 宗教法人大本発行.

https://reikaimonogatari.net/index.php?obc=B1954

以上 Nov. 18, 2020

 このページ,昨晩,Nov. 21に完成したが,丹精込めたコンテンツが何故か,消えた。この「はじめに」と中途半端な「第1章」しか残らなかった。Webコンテンツの作成プロセスとしては全く理解できない。繰り返し保存してきたからである。王仁三郎聖師がぼくに作り直すか,廃棄せよと言われたようで,昨晩三時間ほど混乱して眠れなかった。浅野和三郎氏を評価したのがまずかったのか,『霊界物語』第一巻に関わるコメントがまずかったのか。こういう感想を持つほど,消え去った理由がわからない。このページは『霊界物語』を理解する上で必要と考えていて,再度,完成形を思い出しつつ,作成したいと思った。以上,Nov. 22, 2020

1 権力の要望に沿って描かれた「大本教改良の意見」

 大本七十年史上巻pp. 591-594の,「大本教改良の意見」と題する項の最初の部分を次に引用する。なお,「一つ,」を,順を追って「a., b., ⋯⋯⋯⋯⋯」,に替え,ここで問題とされる皇道「大本信条」と「大本誓約」を前もって掲載したい。

神霊界 > 大正7年1月1日号(第55号) > 皇道大本信条

https://reikaimonogatari.net/index.php?obc=M192919180101c17

皇道大本信条

第一条 我等は天之御中主大神が一霊、四魂、三元、八力の大元霊にして、無限絶対、無始無終に宇宙万有を創造し給ふ、全一大祖神に坐ますことを敬信す。
第二条 我等は天照皇大神が全一大祖神の極徳を顕現せられ、八百万の神達を統率して、遍く六合に照臨し給ふ、至尊至貴の大神に坐ますことを敬信す。
第三条 我等は我皇上陛下が天照皇大神の霊統を継承せられ、惟神に主師親の三徳を具へて世界に君臨し給ふ、至尊至貴の大君に坐ますことを敬信す。
第四条 我等は日本国が世界無二の霊地にして、特に丹波国綾部本宮は、天神地祇の神集ひ給ひて、神律を議定し、古今東西の諸教を帰一して、金甌無欠の皇道を樹立し給ふ、地上の高天原たることを敬信す。
第五条 我等は国祖国之常立尊が、天照皇大神の聖旨を奉戴して、世の立替、立直を遂行し、宇内の秩序安寧を確立し給ふ、現世幽界の大守神に坐ますことを敬信す。
第六条 我等は豊雲野尊が国祖の神業を輔佐助成し、率先して至仁至愛の全徳を発揮し給ふ、主位の大神に坐ますことを敬信す。
第七条 我等は大本開祖が世界唯一の大教主にして、国祖国之常立尊はその肉体に憑りて、至純至貴の大本神諭を降し、皇道の規範を示し給ふことを敬信す。
第八条 我等は各自の霊魂が皆神の分霊にして、肉体は神の容器たることを覚り、常に霊主体従の神則に従ひ、以て神政の成就を期すべき使命あることを敬信す。
第九条 我等は各地に配置せられたる産土神と、各人に賦与せられたる守護神との保護指導によりて、心身の健全を保有し、又祈願の透徹を期し得る事を敬信す。
第十条 我等は心身正しければ神助天恵に浴し、心身不正なれば神罰天譴に触れ、現世幽界の別なく、厳格に神律に照らさるる時代の、正に到達せる事を敬信す。

神霊界 > 大正6年5月1日号(第47号) > 皇道大本誓約

https://reikaimonogatari.net/index.php?obc=M192919170501c12

皇道大本誓約

第一条
朝は五時に起き先づ身体を清め、東天を拝し次で神前に向ひ、天津祝詞及大本祝詞を奏上し、鎮魂を自修し、人生の天職を自覚すべし。
第二条
夜は神前に拝跪し、感謝祈願並に神言を奏上し、十時必ず寝に就く可し。
第三条
天地を以て経と為し、日月を以て教と為し、終日其業を勤む可し。
第四条
神を敬する如く人を敬し、身を敬す可し。
第五条
我霊性を自覚し、天分を超ゆ可らず。
第六条
衣食住は総て内国品を用ゐ、且つ質素を守るべし。
第七条
吾人の身魂は総て天地の神の分霊分体衛なれば、生に注意し無病、長寿を祈る可し。

七十年史pp. 591-594引用開始—————

 大本事件にたいする記事が解禁となり、予審決定の発表によって、大本教団が不敬不逞の大陰謀団であると、各新聞が極端な捏造と悪罵をあびせかけている折りしも、京都府警察部高等課は、五月四日王仁三郎が予審に差しだしたという「大本教改良の意見」を、五月一二日午後三時、非公式で発表した。その内容はつぎのとおりである。

a. 大本信条の改正
 右は第五条、第六条、第七条、第八条、第九条、を改正又は削除すべき必要ありと自覚致し候

b. 大本誓約の改正
 右は第三条の「神を敬する如く人を敬し身を敬すべし」とあるを、「一、大神を敬し皇室を敬ひ国を愛すべし」と改正したき事
c. 出口直及び王仁に神憑りして、書きたる所謂神諭(筆先)なるものは今日に至り熟考致し侠へば第一に不敬なる文辞ありて畏れ多く且正しき神の教と認むる事能はず、次に予言等も偶々あれども的中せず万々一的中せし如く見ゆるところあるも偶然の暗合なりと考へられ候
 今まで私は明治三十二年頃筆先を初て見て、半信半疑なりしところ日露戦争ありて稍之を信ずる様になり、次に欧洲大戦争に見て筆先を九分半程も信じ浅野氏の来綾と共に全部信じたる次第に候。今日思へば実に私の精神も余程妙になり居りしことと思はれ畏れ多く且つ愧しさに堪へ兼て居ります。最初は極めて冷静なる態度を以て筆先に臨み古い信者や直より反対者と看倣され居りしものが二十余年の間にチクチクと曳き入れられ最早大正六年頃には筆先に対して抜く可らざる信仰を持し居りました。夫れが為に今回の如き不調法を致しました。今日考へますれば神憑の筆先なぞは邪神のイタヅラにて有害無益の代物とより考へられず今の内に直及び王仁に憑りて書きたる筆先を全滅させたきものと中心(メモ:忠心の誤りと思われる)より考へ神様へお詑申上げ
大君様へ朝夕謝罪致して居ります。
 次に私は今まで大正六年以来神諭(筆先)なるものに盲目的に信従いたしました為不敬の記事も余り不敬と強く感ぜず、邪神の為に良心を魅せられ居り実に今日となりては畏れ多く且つ愚昧なりしことの愧かしくて向ふむいて歩くのも心苦しく御座います。今日目が醒めてみれば一日も早く筆先を何とかして滅尽させ度く絶対に発布すべからざる物と覚悟致しました。是は私の神に誓っての真心であります。
d. 次に出口直及び私自身帰神の筆先を基礎として書き著したる文章や論説の脱線気味あるものも出口王仁三郎及び浅野和三郎以下役員信者の著作物も採用せざる決心に御座候。世の立替立直しの所説等は余り平穏ならず却て世の誤解を招く虞あり故に皇国固有の純の神道の教を以て大本教の教義と改める覚悟に御座候
e. 出口直及び出口王仁の神憑りの作物なる筆先は全部焼却して向後の迷ひの種を消滅せしめ度き覚悟致し居候
f. 皇道大本の名称は宗教的団体たる綾部大本教に対して不適当なるのみならず天下の誤解を招く虞ありと思考いたし候に付断然皇道の二字を遠慮し単に大本教と改称致し度候
g. 従来大本の祭神は出口直の唱導に従ひまして 日の大神 月の大神 天照皇大神 国常立命 艮の金神 坤の金神 金勝要の神 竜宮の乙姫 日の出の神 雨の神 風の神 荒の神 岩の神 大将軍 のこらずの金神 みろくの大神等の我国の古史典籍になき神名混合しありて、神道か仏道か区別し難きに就き奉祭神を改め度く候即ち皇典古事記に基きて
・天津神様にては天御中主大神 皇産霊大神 神皇産霊大神 天照皇大神 皇孫命 伊邪那岐神 伊邪那美神を奉祭主神と仰ぎ
・国津神にては 国常立命 豊雲野命 大国主命 須世理姫命 産土神 氏の神を奉祭崇敬することに改め真正の国教に致したき覚悟に候
h. 従来の大本の教義に就き誤れる点を指摘して各支部会合所及び信徒等に印刷物を以て通知致し度候
i. 旧信徒又は一部の信徒にして瑞の身魂、又は大化物の変性女子の言として反対に感取せざる様説明を為し且つ又能ふべくは身を以て之に当り疑惑を晴らし度く候
j. 私にして一身上の自由を得たる上は飽く迄も改革を断行し再び従来の如き不都合を来さざる様致し度考回り候
k. 大本神諭天の巻及び足立氏の写しの筆先其他の不合理不都合なる事由も神霊界紙上か或は他の方法にて発表し世人及び信徒の迷はぬ様に致し度考へて居ります。
   大正十年五月四日   出口王仁三郎(拇印)

七十年史pp. 591-594引用終了————————————————

 大本七十年史上巻では,種々のコメントが続くが,各位,参照して欲しい。次章では,「大本教改良の意見」から,国家権力が王仁三郎の変質を強要した論点を明らかにし,王仁三郎がその予言力でいかに柔軟に対応したのかを示したい。

2 「大本教改良の意見」から見えること

a. 皇道大本信条の改正について: 第五〜七条は,天照皇大神→国祖国之常立尊→豊雲野尊,という上下関係を示して,天照皇大神を最も上位と形の上ではしているが,読み込むと,豊雲野尊が,至仁至愛の全徳を発揮し,主位の大神であると言っている。第八,九条は,「天皇機関説事件以後の『君民一体の一大家族国家』(文部省『国体の本義』),と相容れない。王仁三郎からすると,削除することで神界が変わる訳ではないし,教え自体から見ても天照皇大神との関係を殊更示す必要性はない。

b. 皇道大本誓約の改正について: 第三条とされているが,第四条の誤り。「一、大神を敬し皇室を敬ひ国を愛すべし」,から見て,国家権力の要請がそのまま現れているに過ぎず,王仁三郎としてもこの内容に何の違和感も無いであろう。

c. 所謂(いわゆる)神諭,筆先,の廃棄: 出口直の筆先について,浅野氏の来綾とともに全部信じたる次第,という件は興味深い。浅野和三郎が積極的に直の筆先を解釈して第一次大本事件を引き起こす原因の一つとなったと主張しているような形を取らしめている。「今日目が醒めてみれば一日も早く筆先を何とかして滅尽させ度く絶対に発布すべからざる物と覚悟致しました。是は私の神に誓っての真心であります」という告白は,大本信者の信仰を根底から覆し得るものであり,最も国家権力が求めたものであったであろう。

 とはいえ,次章に示すように,王仁三郎自信も,出口直の昇天以降,幹部や信者の動揺を抑えるためもあって,伊都能売神諭を開祖昇天からほぼ一年間にわたって『神霊界』に発表しているので,浅野和三郎の影響があったとはとても言えない。この神諭に関わる告白は王仁三郎にとっては最も手痛いものであったであろうが,次章で示すごとく予言者である王仁三郎は,筆先の滅尽が回避されることは承知であったと思われる。

d., e., k. 大本文献の否定: c.同様の流れである。

f. 皇道の名称を外す件: 王仁三郎の皇道観はすでに発表されており,「皇道」というタームを外すことに問題はないであろう。

g. 神名の変更: これも王仁三郎にとって,特に問題はないだろう。『霊界物語』には古事記由来の神名とともに新たな神名も多数出現している。

h., i., j. 周知徹底: 組織内のネットワークの活用だけでなく,王仁三郎の出所後は改革を断行すると言っている。

 結局,この改良意見で大本にとっての実質問題と考えられるのは,大本文献廃棄を約束したことであるが,問題が生じることはなかった。神諭または筆先の様式は,この機に廃止され,『霊界物語』口述が開始されることになる。とはいえ,王仁三郎による神諭または筆先の否定は,社会的には大きなスキャンダルとなった。

3 王仁三郎の予言適中: 第一次大本事件

大本七十年史上巻p. 566

 大正十年二月十二日午前六時,京都駅に集合した警官隊は新舞鶴行きの乗車券を渡された。藤沼京都府警察部長は二条駅発車後になって警官隊にはじめて目的を発表した。それほど機密の漏洩が恐れられていた。総勢二百余人である。当日早朝には検事局は全国新聞や雑誌が今回の事件を掲載することを禁止した。検事局の一行は綾部に到着すると,まず郵便局にたいして,司法権をもって綾部からの電話電報の発信を中止させた。大多数の警官は加藤判事,中田検事,藤沼部長指揮のもとに大本本部を包囲し,残りは役員宅の家宅捜査をおこなった,などから始まる事件当日の様子が,大本七十年史上巻(pp. 566-574)に記されている。王仁三郎は当日,大阪梅田の大正日日新聞社から,浅野和三郎は自宅から,機関誌『神霊界』発行兼編集人であった吉田祐定は綾部から,京都監獄の未決監に収監されている。

 左の書「正月五日天」は,王仁三郎大正八年筆のものである。検挙の日,二月十二日は,旧暦の正月五日にあたっている。

 さらに次の神諭が大正7年12月22日には次の神諭が出されていた。第一次大本事件の部分を引用する。

 神霊界 > 大正8年1月1日号(第77号) > 神諭(伊都能売神諭)

https://reikaimonogatari.net/index.php?obc=M192919190101c02

変性女子は神界の経綸で明治四年の七月の十二日に斯世へ出して、二十七年の間は是も普通の人民では出来ぬ苦労を致させ、二十八歳の二月九日から、神が高熊山へ連れ参りて、身魂を研かして、世の立直しの御用の経綸が致してあるぞよ。二十八の歳から此の大本へ引寄して、有るにあられん気苦労を致さして、いよいよ身魂が研きかけたから、三十九歳からボツボツと大本の経綸にかからしてあるが、此の先まだ十年の気苦労を致さすから、其積りで居りて下されよ。三年さきになりたら余程気を付けて下さらぬと、ドエライ悪魔が魅を入れるぞよ。辛の酉の年は、変性女子に取りては、後にも前にも無いやうな変りた事が出来て来るから、前に気を付けて置くぞよ。

 

 変性女子とは王仁三郎のこと。辛酉の年は,大正八年=西暦1919年から後では,大正十年=1921年,昭和56年=1981年,などとなる。大正八年の三年先は,大正十年=1921年となり,第一次大本事件の年にあたる。大正八年から「此の先まだ十年」の年号は昭和二年で,この年に免訴の判決が下り,事件は終了している。七十年史上巻p.579から次に引用する。「『辛の酉の紀元節,四四十六の花の春,世の立替立直し,凡夫の耳も菊の年,九月八日のこの仕組』(大正八年一月二十七日)という神諭も出されていた。(中略)事件の検挙は,神諭に示してあった辛の酉の紀元節の翌日であった。従って教団本部も信者も,すべてこれは予言が適中したものであって,『変性女子を神が御用に連れ参る』ことは,『神界の経綸のご用』であるとして,むしろ仕組がいっそう進展したことにほかならないと解釈したのである」。

4 第一次大本事件下の『霊界物語』口述開始

 大本七十年史上巻の「責付出獄」の途中から次に引用する。王仁三郎と浅野和三郎の出獄に関わる部分である。

大本七十年史 > 上巻 > 第三編 > 第二章 第一次大本事件の勃発と影響 > 2 事件の影響 > 責付出獄

https://reikaimonogatari.net/index.php?obc=B195401c3228

引用開始 p. 618-620————————
 ところがさらにもうひとつの問題がおこってきた。大正八年いらい工事がすすめられていた本宮山神殿にたいする干渉がはじまったのである。六月一六日、伊尻京都府建築課長は、高芝警部・遠藤綾部署長の案内で本殿を調査したが、社殿は伊勢神宮を模したとみなされ、開祖の奥都城と同じ運命をたどることが予想されるにいたった。
 統率者をうばわれて四ヵ月。あらたな求道者の数は激減してきた。ところが六月のなかばにいたって重大な変化が生じてきた。すなわち六月の一七日、在監一二六日にして突然、王仁三郎と浅野が責付出獄してくることになったのである。その前日に蚊帳のさしいれをしたばかりの信者らにとっては、まったく予期しないところであった。いや、権力の側にとってもこれは意外な処置であったようである。なぜなら、保釈については検事側はつよく反対していたからである。古賀検事正は、そのときの検事側の態度についてこうかたっている。

責付出獄に関しては当職としては、折角墓地取毀問題や本宮山の社殿問題などが起って来た矢先であるし、王仁三郎本人にも、信者と否を問はず危害を加へたりするやうな危険があるだらうし、色々新しい事件が発生しては困るとの懸念から不同意であった。……(「大阪朝日」大正10・6・21)

 検事側の反対をおしきって責付を決定した裁判長佐藤共之は、「冷静に判断して職権を行使した」ものであるとのべている。
 一七日の午後一〇時すぎ、信者にむかえられた王仁三郎と浅野は綾部に帰ってきた。夜一一時半、二人はみろく殿に参集した信者の前に姿をあらわし、すぐ神前において責付出獄の奉告をなした。王仁三郎の帰綾は、信者の心に火を点じ、複雑化しつつある教団情勢を一変させるにあずかって力があった。改良意見は、当局の圧迫に対応して神懸りでかいたものであるとする王仁三郎のと弁明は、おおくの信者にうけいれられた。しかしそれによって、王仁三郎らの責任を追求し、幹部の辞職を要求する意見がまったく影をひそめてしまったわけではない。だが結局のところ、教団はふたたび王仁三郎によって運営されることになった。
引用終了 p. 618-620————————————————

 次に,大本七十年史上巻の「教団の改革」の末尾から引用する。浅野和三郎の教団からの撤退に関わる部分である。

大本七十年史 > 上巻 > 第三編 > 第二章 第一次大本事件の勃発と影響 > 3 公判 > 教団の改革

https://reikaimonogatari.net/index.php?obc=B195401c3231

引用開始 p. 624-625————————
 出獄いらい王仁三郎は、このような一連の改草をおこなったわけであるが、その「大本の立替え」によって、大本はどう変化したであろうか。それは、この改革に浅野がまったく参与していないことに端的に示されているように、「大正維新」および「大正十年立替え説」がもはや宣教の中心ではなくなり、鎮魂帰神が主たる布教手段ではなくなったことがまずあげられる。浅野和三郎は教団指導者の地位から完全にしりぞいていったのである。「浅野派」の信者の離脱が決定的になるのは、彼等が信じていた大正一〇年の立替えが実現されなかったことがだんだんとあきらかになり、それにつづいて、あたらしい教典として『霊界物語』が発表され、立替え立直しのあらたな解釈が成立してきたからである。
 一九二一(大正一〇)年の七月二九日付の「大正日日新聞」には、浅野和三郎・岸一太らが発起人となって、現実社会に復帰し、社会的な事業経営をおこなうという宣言書が掲載されているが、「今正に一大方向転換を行はねばならぬ重大時機に際会して居る事を信ずるものであります」というように、それは言外に大本から独立して「社会事業経営」をおこなおうとする一部の離反のきざしを物語るものにほかならなかった。その動きが、いまや決定的となってきたのである。こうして「大本の立替え」の胎動が開始されるのである。
引用終了 p. 624-625————————————————

 次に,大本七十年史上巻の「本宮山神殿破壊」の末尾から引用する。『霊界物語』口述開始の部分である。

大本七十年史 > 上巻 > 第三編 > 第二章 第一次大本事件の勃発と影響 > 3 公判 > 本宮山神殿破壊

https://reikaimonogatari.net/index.php?obc=B195401c3233

引用開始 p. 640————————
 大本はいまや事実上解体したかにみえた。本宮山神殿の破壊の槌音は、その解体の合図とさえうけとられた。しかし信仰の純粋性はかえって、そのようなときにかがやくものである。じつは、そのとき、その槌音のなかから教団再建の準備がすでにはじめられつつあったのである。筆先にかわる教典すなわち『霊界物語』の口述は、そのような状況下にはじまったのである。
 大阪控訴院では、一九二四(大正一三)年の七月二一日、天野裁判長によって第一審どおり有罪の判決言渡しがあった。そして事件はそのまま上告された。大審院では横田裁判長によって、一九二五(大正一四)年七月一〇日の公判で王仁三郎にたいする原判決は事実の誤認を事由としてこれを破棄し、事実審理をすることに決定した。その審理中に大正天皇の崩御があり、一九二七(昭和二)年五月一七日、王仁三郎・浅野・吉田の三人は、「大赦令」で免訴の判決をうけた。六ヵ年余にわたるこの事件はいちおう解消したが、それはつぎの第二次大本事件の遠因ともなってゆく。
引用終了p. 640————————————————

5 『霊界物語』口述

 口述に到る解説が大本七十年史上巻の第四編1霊界物語の口述,に記されている。引用文で,年月日や句読点などの表現に違和感があり,一部,表現を変更している。

大本七十年史 > 上巻 > 第四編 > 第一章 霊界物語の発表 > 1 霊界物語の口述 > 物語の発表

https://reikaimonogatari.net/index.php?obc=B195401c4111

大本七十年史 > 上巻 > 第四編 > 第一章 霊界物語の発表 > 1 霊界物語の口述 > 口述の由来

https://reikaimonogatari.net/index.php?obc=B195401c4112

愛善荘に移築された松雲閣 Nov.22, 2020

 王仁三郎の『霊界物語』口述筆記(王仁三郎が口述し,それが筆録者によって筆記されるという意で使用)開始は,第一次大本事件の神殿破壊のなかであった。内外からの大きなストレスの中,開始された。これは次の引用文の「『霊界物語』の発表が、いかにいそがれ、かつ経綸上において重視されたかをうかがうことができる」というような事ではなく,内外のストレスは比較的早く解消され,『霊界物語』の完成が予知されているからこその,まさに神技と考えられるのである。

引用開始 p. 644————————
 1921(大正十)年の十月八日(旧九月八日)、王仁三郎にたいし、「明治三十一年旧二月に、神より開示しておいた霊界の消息を発表せよ」との神示があった(『物語』第2巻総説)。さらに十月十六日には、開祖の神霊から、その発表についてのきびしい督促があった(『物語』第8巻総説)という。それから二日のちの十月十八日から、『霊界物語』の口述がはじまるのである。当時王仁三郎は、大本事件の中心人物として責付出獄中であった。そして大本は前述のように、事件によって非常な苦境にたっていた最中である。信者は今後大本の運命が、どうなるかについて一抹の不安をいだいていたし、事実教団の内外には想像的な流言がしきりにとりざたされていた。そのうえ口述のなされたときは、あたかも本宮山の神殿が、当局の破却命令によって破壊されつつあったさなかである。まさしくそのような状況下にあって、綾部並松の松雲閣で、神殿破壊の騒音を身近かに聞きながら、王仁三郎による物語の口述が開始されたのである。『霊界物語』の発表が、いかにいそがれ、かつ経綸上において重視されたかをうかがうことができる。
引用終了 p. 644————————————————

 次の引用では,いわば,みろくの世到来の福音書としての『霊界物語』の口述が開始されたとしている。ユダヤの旧約聖書も,キリスト教の聖書も,コーランも論語も,仏典も,地球の人々を必ずしも幸せにはして来なかった。もちろん,『霊界物語』も過去の例に漏れないであろう。『霊界物語』は地球上の全ての人々を対象にして,幸せにすると宣言しているのだろうか。そういう具体的内容は感じられない。救いの教えが,誰を対象にしているのか,幸せとは何か,これについても語っていないように思われる。かなり関心の範囲は狭い。ついつい,人は世界宗教のターゲットを全人類としがちであるが,そういう宗教もバイブルも,過去にはなかった。では,『霊界物語』の価値は何か。影響範囲はわからないが,予言書であることは確実。他のバイブルに無い価値であるが,何故か,編纂者にはこの視点が欠けている。

引用開始 pp. 645-647 ————————
したがって、瑞霊の肉の宮である王仁三郎は、開祖昇天の後にあっては、開祖の神業をもうけつぐとともに、瑞霊の神業を完成するため、厳瑞二霊の神業をあわせて統一的に遂行する伊都能売の神の神業をくりひろげるのである。
 開祖在世中の王仁三郎のつとめについては、筆先につぎのように示されている。すなわち「出口は三千世界のこと、世界一さいを知らす役なり」(明治三十四年旧八月五日)とか、あるいは「出口は将来さきのことを知らす役、海潮(王仁三郎)は、それを説いて聞かせて世界を改心させる役じゃぞよ」(明治三十三年旧十二月十三日)などとのべられていた。つまり開祖は,神幽顕の三界すなわち三千世界の立替え立直しをしらせる役であって、王仁三郎はその由縁を詳細に解説し、人民に理解させて改心させるのが、その使命とされていたのである。したがって筆先の真解者は、大本にあっては、王仁三郎その人であって、他のものが勝手な解釈をすることは許されていなかったのである。
 けれども王仁三郎は、これまでは、本格的なその発表はおこなっていなかった。もとより瑞霊としての裏の神諭は断続的に発表されてはいたが、それは全体からみればまだわずかであり、すべてについてまとめられたものではなかった。しかも王仁三郎は筆先の真解ということばかりでなく、開祖の期待していた「みろく」の教説についても、まだ発表していなかった。それらが発表される時節が、いよいよ近づいてきたとする認識は、つぎの言葉にもあきらかである。そのことについて『霊界物語』第一巻の発端には、「天地剖判の始めより五十六億七千万年の星霜を経て、いよいよみろく出現のあかつきとなり、みろくの神下生して三界の大革正を成就し、松の世を顕現するため、ことに神柱を建て、苦集滅道を説き、道法礼節を開示し、善をすすめ、悪をこらし至仁至愛の教えをしき、至治太平の天則を啓示し、天意のままの善政を天地に拡充したもう時期に近づいて来たのである」と記されている。みろくの神・救世主神としての教説を開示し、あわせて筆先の真解釈を解説的におこなうために、大本事件という重大時期にさいして、その口述がはじめられたのである。大本の教義を確立し、信仰のありかたを立替え立直す統一的集大成の教典として、ここに『霊界物語』をいよいよ公にされるときをむかえる。
引用終了 pp. 645-647————————————————

 次の引用では,『霊界物語』全巻の口述期間が整理されている。

引用開始 pp. 649-650 ————————
 1921(大正十年)十月の後半から年末までに第四巻までが口述され、1922(大正十一)年には第五巻より第四十六巻までが口述されている。なんと一年間に四十二冊のおおきにのぼる。ついで1923(大正十二)年には、七月までに第六十五巻までの十九冊、1924(大正十三)年には第六十八巻までの三冊、1925(大正十四)年には第七十巻までの二冊、1926(大正十五)年に第七十二巻までの二冊の口述がなされた。そして数年間中止されていたが、1933(昭和八)年十月に霊界物語第七十三巻から、特別編として「天祥地瑞」の口述がはじめられ、1934(昭和九)年の八月までに、第八十一巻までの口述がおこなわれた。 一巻より三十六巻までを一輯として四十八輯、すなわち一千七百二十八巻をもって『霊界物語』の意がつくされるのであるが、せめて百二十巻で、その大要をのべることにしたいという口述者の希望(『物語』第37巻序文)ではあったけれども、第八十一巻(通巻一千八百六十八章)で最終の巻となってしまった。それにしても、『霊界物語」はじつに原稿用紙約十万枚(一枚百字づめ)の大長編物語として具体化したのである。
引用終了 pp. 649-650————————————————

 次の引用は,『霊界物語』の内容はいつ頃から用意されていたのか,が論じられている。一人の王仁三郎の信仰者からの立場でいえば,基本は高熊山での修行であるが,その内容は第一巻での霊界探検の記事に限られる。国祖の神政以降の展開は,高熊山の修行で得たものとは極めて考えにくい。いわゆる神懸かり状態の繰り返しと,人々に伝える手法の研鑽が結実したものと推測される。過去に心ない人々によって焼却された原稿には,予言などがかなり直接的に示されていたのではないかと想像している。神霊界で発表されたものと『霊界物語』のもので,同定できる記述があって,木庭次守が聖師に尋ねたところ,神霊界での発表が真実であると聞いている。余りに悲惨なものには救いを差し伸べているという。第一次大本事件が勃発して官憲の検閲を通す必要性もあったであろう。予言はそのまま出せず,いわばオブラートに包まれてしまったのである。次の引用文中のうち,「『霊界物語』第一巻の第十二章までは、大本事件直前の1921(大正十)年二月八日までに執筆されており、それが当時の『神霊界』(回顧録 大正10年2月)に、すでに掲載されていた」については,必ずしも正確ではない。これより前に,『神霊界』などの記事は,新たなヴェールを被って『霊界物語』に反映されている。

引用開始 pp. 651-653————————————————
1898(明治三十一)年の二度にわたる高熊山修業の体験が、『霊界物語』の内容の基本となっている。そのことについて、つぎのようにものべられている。「明治三十一年以後今日に至るまで、ほとんど二十五年間艱難辛苦を積み、神界の真相の一端をきわめた結果、宇宙真理の一部を霊界物語として発表することとなったのである」(『物語』第38巻1章)とあるごとく、高熊山修業を起点とする道の究明や体験がくわわって、『霊界物語』の口述がなされたのである。したがって、「霊界物語そのものは、つまり瑞月の肉身であり、霊魂であり、表現である(『物語』第40巻モノログ)とも意味ぶかくのべられているのである。
 それならなぜ、『霊界物語』がもっとはやく公にされなかったのであろうか。その点については、つぎの序文にあきらかである。

この物語は、去る明治三十二年七月より、三十三年の八月にかけて一度筆を執り、これを秘蔵しておき、ただ二、三の熱心なる信者にのみ閲覧を許していました。しかるにこれを読了したる某々らは、ついにいろいろよからぬ考えを起し、妖魅の容器となって帰幽したり、また寄ってたかって五百有余巻の物語を焼き棄ててしまったのであります。それから再び稿を起そうと考えましたが、如何にしても神界からお許しがないので、昨年(大正十年)旧九月十八日まで、口述を始めることが出来なかったのであります(『物語』第5巻序文)。 

 じっさいに、1899~1900(明治三十二~三十三)年にわたって執筆された五百有余巻の『霊界物語』は、王仁三郎に反対する当時の役員並びに信者の手で焼きすてられてしまった。そしてその後の大本内部の情勢は、ふたたび王仁三郎がその執筆をなして発表することをゆるさない雰囲気があった。だが、第一次大本事件の発生を媒介として、大本じたいの立替えがはじまることによって、ついに発表の時運が到来してきたのである。そしてその心づもりは、事件直前よりなされていたとみることが可能である。というのは、『霊界物語』第一巻の第十二章までは、大本事件直前の1921(大正十)年二月八日までに執筆されており、それが当時の「神霊界」(「回顧録」大正10年2月)に、すでに掲載されていたからである。
 なお、事件の第十二回予審調書(大正10年3月26日)に附されている王仁三郎の手記「霊界の組織」には、国祖隠退の事情についで、「盤古大神」や「八王大神」などの神名があげられ、国祖再現にいたるまでの概要がのべられていることが注意をひく。それによれば、第一審判決後のとりしらベにたいして、大本の教義や神々の因縁と物語などをさらにくわしくのべるための準備が、事件の進行中からなされており、王仁三郎はその入獄中から、高熊山における霊的体験を回想し、『霊界物語』の大体の構想は、前々よりまとめられつつあったと推定することが、あるいは可能かもしれない。しかしそのいずれにしろ、大本事件の発生が、『霊界物語』を口述され発表される大きな契機となったことはあきらかである。開祖の筆先は、表現の辞句も素朴直截であり、かつ断片的である。したがってその真意は、まま「取違い」をされてきたことがおおかった。そこで、「海潮はそれを説いて聞かせる役」としてのつとめがさだめられていたのである。
引用終了 pp. 651-653————————————————

 『霊界物語』の世界観が示されている。この引用の末尾の「この『霊界物語』は、過去,現在,未来に通ずるところの霊界の物語なのである」は,王仁三郎のことばである。こういう表現は,王仁三郎によって初めて使用されたものではないだろうか。歴史はくり返される,という意味ではなく,世界には十二の国魂があって,その国魂の影響下で,歴史は動く,という主張である。

引用開始 pp. 654-655 ————————
したがって『霊界物語』は、みろく胎蔵の教であることもに、筆先の内義をも解明した教典でもあった。王仁三郎によって『霊界物語』を、〝五十六億七千万の年をへて弥勒胎蔵経を説くなり〟とよみあげられているのも、きわめて理由あることであった。 そのことは『霊界物語』の内容にもあきらかである。『霊界物語』には宇宙創造から主神の神格・神々の地位因縁と活動・神の世界的経綸・大本出現の由来・神と人との関係・霊界の真相・世界観・人生観・哲学・宗教・政治・経済・思想・教育・芸術などあらゆる問題にふれられている。そして基本的な態度には、神霊の世界が主で現界(物質界)が従であるという「霊主体従」の原則がつらぬかれている。「霊界とは霊妙な世界ということで、顕、幽、神の三界を総称していうのである」(『三鏡』)とある意義にもとづいて、『霊界物語』という題名がつけられたのも、それがみろく胎蔵の教典であったからにほかならない。だが霊界を神霊界のことばかりとうけとるのは尚早である。そこに、現界のこともあわせてふくまれていたことを見逃すべきではないだろう。そのことについては『霊界物語』第一巻の序文に、つぎのようにあきらかにされている。

この霊界物語は、天地剖判より太古の神代の物語および霊界探険の大要を略述し、苦集滅道を説き道法礼節を開示せしものにして、決して現界の事象に対し、偶意的に編述せしものにあらず。されど神界幽界の出来事は、古今東西の区別なく現界に現はれ来ることも、あながち否み難きは事実にして、単に神幽両界の事のみと解し等閑に附せず、是に依りて心魂を清め言行を改め、霊主体従の本旨を実行されん事を希望す。

とある。また『霊界物語』第十巻第十五章の記述には、この物語はすべて神人の霊を主とし、その肉休を閑却したる、いわゆる霊界物語であるが、すべて地上の神人は霊より肉へ、肉より霊へと明暗生死、現幽を往来して神業に従事するものであるから、太古の神人が中古にあらわれ、また現代にあらわれ、未来にあらわれ、若がえり若がえりて、永遠に霊すなわち本守護神、すなわちわが本体の生命を無限に持続するものなるが故に、その考えを頭脳においてこの物語を読まれたい。とのべられている。つまりこの『霊界物語』は、過去,現在,未来に通ずるところの霊界の物語なのである。
引用終了 pp. 654-655 ————————————————

以上,Nov. 24, 2020

おわりに

 左の写真は二代様直筆の写真である。Nov. 22, 2020に年祭に愛善荘にお邪魔した際に,玄関に掲げられていた。自画像がいかにも二代様を彷彿とさせる。父は二代様のおそば近くにいたので多くのお話をお聞きし記録した。大変可愛がられたようである。ぼくの名前「もとはる」は二代様から頂いた。1883年2月3日誕生 – 1952年3月31日昇天であるから,昇天される三年前であったことになる。父は出張中で,旧亀岡町役場提出期限の関係で母が漢字「元晴」を充てて出した。父が出張から帰ってきて,「本張」と充てるべきであったと母に告げたとのことである。

 教主は信者の子の名付け親になった。その作業を通じて,教主と子の間に繋がりができる。次のページには父が初めて王仁三郎と会った時の印象が記されている。

 聖師と二代様は,信者一人一人に声をかけられた。いわばそれだけで,教え主と信者の間に深い絆ができた。三代様にはそれが無かった。四代教主の直美様も同様だろう。親が生み出した組織と創業者の子供,そして孫の信者との関係は自ずから変わる。かつての大本に多くの人々が集まったのも,聖師と二代様の大きな包容力故であろう。もちろん,知識人や軍人が集まった理由は出口直の予言が大きかったのであるが。

 大本,愛善荘,愛善苑,これら三団体の低迷の大きな原因は,包容力の欠如にあることだろう。そういう力を持っているのは,天理教,立正佼成会,生長の家,創価学会,などである。いわば現在の大本三団体は,偉人が残した博物館になってしまったのである。ミロクの世,って何なんだろう,って思ってしまう。

 なお,大本七十年史上巻 p. 656から,「2 霊界物語の内容」があるが,信仰を持たない者が物語のスクラップをしているし,しかも内容にかなりの誤りがある。失格である。

Nov. 25, 2020記