スライドショーの画像は僕の飛鳥藤原京の概観を示している。人文地理学会特別研究発表「飛鳥藤原京に隠された天香具山軸と大和三山太極の都市2軸モデル」のパワーポイントの最初の導入部分を次に示して,僕が飛鳥藤原京の研究に入る問題意識を知って頂きたいと思う。
研究の流れからお伝えしたいこと
1. 飛鳥寺伽藍を包む寺域の異形にまずは関心を持ちました。寺域西を限る境界線に近接して伽藍が立地し,寺域東を限る境界線は西に振った斜辺からなります。この異形の追求を通じて,飛鳥寺が天香具山軸を指向していることをGISを使って,見いだしました。
2. 天香具山軸とは,天香具山山頂を通過する子午線=天の北極軸です。これは1.の飛鳥寺の研究から発見しました。そして,水落遺跡基壇中央が南北2km近く離れた天香具山山頂を通る子午線から6cmしかずれていないことなどをGIS技術を使って,発見しました。この点から水落遺跡は天文台であったとしました。これに関連して,天球を観測して独自に暦数を獲得し元嘉暦を行用したのは推古期であることを得ました。異才小川清彦の暦日研究もそれを支持しています。
3. 飛鳥川の水落付近で河川争奪地形を発見しました。その争奪時期を,空中写真による地形分類によって, 斉明期の西暦656〜660年の5年以内であるエビデンスが得られました。
4. この結果から,飛鳥川の開削は,水落遺跡天文台を正しく天香具山軸上に設置するためであったと考えました。
5. 飛鳥の谷の南縁に位置し飛鳥時代の初めに成立した橘寺,これは推古天皇の命により聖徳太子が創建したとされます。この仏塔心を始め,ほぼ北縁に位置し飛鳥時代末期から建設され,その途中711年に焼失した文武大官大寺の仏塔心まで,高い精度で天香具山軸上に立地していることを見いだしました。天香具山軸が飛鳥時代を通じて主要な都市軸になっていることが明らかとなりました。
6. 天武天皇の藤原宮の占地については,岸俊男の三古道等距離説がこれまで有力だったと思います。この説では天武天皇が拘ったとされる大和三山と結びつきません。GISで三山を頂点とする三角形の5心を求め,垂心が藤原宮の大極殿と朝礼院の間の閘門に比較的近接することを知りました。文献を調べて千田稔もこの垂心を得ていたことを知りました。
7.三山の垂心,つまり太極の根拠を記紀万葉集から探して,御井の歌と出会い,その持統天皇の儀式の意義を読み解きました。遺跡と発生的観点から,この三山太極は推古期に見いだされ,推古天皇から持統天皇まで引き継がれてきたことを知りました。推古期に三山太極から等距離に横大路,中ツ道,下ツ道が設置されたことになります。それ故,藤原宮は三道等距離にではなくて,その原点である太極にいわば直接,設置されたことになります。
8. 三道の一つ,中ツ道が飛鳥の谷を貫通しています。この中ツ道によって飛鳥寺域西部が切断されました。岸や黒崎直などによれば,この中ツ道に関わって伽藍などが配置されています。以上のことから,飛鳥(宮都)の谷では,二つの都市軸が並行して存在していることが明らかになりました。木庭の今回の報告では,この二つの都市軸の観点からまとめています。以上の木庭の考えをご理解頂くために,幾つかの眼目については詳細を述べます。
今後もこの種の研究を継続してゆきます。日本では理解する人が少なくて,このサイトそして書籍などで,英語で発信したいと思っています。