小幡神社の説明板(亀岡市管理,May 19, 2020撮影)。元宮司上田正昭によって確認されている
小幡神社は,犬飼川の現氾濫原にあたる低位段丘面上に立地。後背には高熊山に続く山脚が見える
社殿が鳥居奥に見える

 小幡神社は大本に深い繋がりがある。上田喜三郎(出口王仁三郎の旧名)は,ここから徒歩数分の旧宅地(現瑞泉苑)で産声を上げた。

木庭次守編, 2002. 『出口王仁三郎玉言集 新月の光』上巻,八幡書店.
pp. 333-336.
○開化天皇の御神業

 穴太の産土様は稚日本根子彦大日日命である。若き日本の根本の神様ということだから開化天皇はおくり名である。世界を統一される神様である。王仁は今は開化天皇の御神業をやっているのである。それだから開化天皇の宣伝歌「若人の奮ひたつべき時は来ぬ若き日本の春は近めり」(昭和青年会会歌となる)を日本中歌って廻らしたのである。日本は古いけれども若い国である。(昭和六年十二月発表)

 開化天皇は朝鮮、満洲、支那、蒙古、マレーまで行幸になったのである。王仁は今は開化天皇の仕事をやっているのである。(昭和十七年十月十二日夜 大本農園有悲閣にて)

(参照)『神霊界』大正八年十二月一日号「随筆」二十四頁 
△新十一月十八日、丹波南桑田郡曾我部村大字穴太の産土小幡神社へ一行と共に参拝し、神饌並に玉串を奉献しました。抑も当社の祭神は開化天皇様で、延喜式内の旧い由縁の在る御宮で、屋根には十六の菊の御紋と、三ツ巴の紋が附けてありますが、私(註=王仁)が去る明治二十一年二月帰神状態に成つた時、大心願を籠めて置いた神様であります。神名は稚日本根子彦大日日命様で、此御神名を日本言霊学の上から奉釈すると、新の日本国建設大本皇威発揚の神言霊と曰ふ事に成ります。
 私が此神様の氏子と生れ、綾部の地の高天原へ参上り、五六七神政成就の御用を勤めさして頂いて居るのも、決して偶然では無いと曰ふ事が、首肯されるので在ります。

(参照)小幡紳社への出口王仁三郎献詠歌 
天狗さくら春の陽気に浮きたちて風に花の枝ふる宮に舞ふ    月の家
 神さひし小幡の森の花見かな 王仁
 この花そ咲耶の姫の姿かな  王仁
 桜 行く春の名殊惜しみて忙し身も小幡の宮のさくら花見し   王仁⦿
 桜 おたふくの桜の主人はるはると訪つれて見る天狗のさくら木 王仁⦿
 庭 おそ桜咲きほこりたる幹の下に薫りもたかき月桂樹さく   王仁⦿

(参照)『霊界物語』第一巻第一章「霊山修行」。第十九巻第一章「高熊山」
(参照)出口王仁三郎歌集『青嵐』
 稚日本根子比古大毘毘天皇の神を祭りし小幡の大宮
 あたらしき若き日本の根本の宮の氏子と生れしわれなり
 新日本もとつ光を地の上にあまねく照さむ御名ぞかしこき
 大毘毘の神の命のあれまさむ世は近づきぬこの地の上に
 石の上ふるきゆかりのあらはれて世人おどろく時近みかも
 いつはりの殻ぬぎ捨てて天地の真木の柱の道光るなり
 古のいつはりごとのことごとくさらけ出さるる神の御代なり
 最上の善とおもひし事柄のあやまちあるを悟る神代かな

(参照)出口王仁三郎歌集『東の光』「道歌(二九)」
 産土の神の形に生れたるひとの世にたつ年の初秋

○開化天皇と霊界物語

 「開化天皇を知らずして『霊界物語』を読んでも判るものではない」と厳然として言われた。(昭和十七年冬)

(昭和四十九年十月十七日に小幡神社の宮司、京都大学教授の上田正昭氏にお願いして、日本タニハ文化研究所の神床に開化天皇の御神霊を奉斎。京都府亀岡市本梅(元は本目)町平松原谷二十六番地百道。研究所の完成は十月十八日、『霊界物語』口述開始から五十四周年目の日)

同書, p. 155
○木庭の産土様

 昭和十七年秋のこと、亀岡の鍬山神社の秋の祭礼に御奉仕しまして、中矢田の聖師様のお家に参上いたしまして「産土様へ行ってまいりました」と申し上げますと、「貴男の産土様は小幡神社である」と教えられました。長男元晴の結婚式を小幡神社でお願いしましたことに、今更驚いているのであります。

以上,小幡神社に関する『新月のかけ』の関連部分を抜粋した。小幡神社は,次のGoogleEarthの写真に見えるように高熊山に続く山陵末端に位置する。前宮司上田正昭は2016年に昇天し,遺志に従って御長女のお子さんが宮司を嗣ぐ。

May 20, 2020記, Jun. 9, 2020修正

 

高熊山岩窟遠望

 高熊山を平地から直接望む場所を探した。巌窟のそばの岩棚から遠く山麓の集落を見ることができる。それゆえ,その集落から高熊山が遠望できると考えたのである。高熊山岩窟が位置する斜面は,平地から見るとほとんど陰になっていて,低い場所から見るのは難しい。眺望の軸上にあっても高い場所を選ぶ必要がある。その結果得られたのが,法貴の坂の麓にある天王寺の境内であった。法貴の坂から亀岡盆地に降りる手前左手に,幸い,この寺の墓参者用と思われる小さな駐車場がある。結構交通量が激しく,路上駐車は不可能である。駐車して,石段を登ってより高い位置に上ることができる。そういえば,この法貴の坂を上がったドライブイン「峠の茶屋」に家族共々入って,高熊山(丁塚山)が見えると父が嬉しそうにぼくに語りかけたことがあった。この茶屋はかつて亀岡盆地の夜景を楽しむ食事の場であったが,今は建物が朽ち果てて,道路を隔ててあった山側の駐車場も資材置き場になっていて,駐車することが難しい。

Nov.6, 2020撮影の写真を次に示している。

手前は天王寺,山頂付近の星印が巌窟そばの岩棚と思われる
天王寺から高熊山岩窟そばの岩棚の位置 Google Earth

GrassGISで正確な位置決めはできるが未だ実行する気持ちになれない。Nov. 15, 2020記