はじめに

 継承を意味する「ひつぎ」のうち,天照大神系統は日嗣,素戔嗚尊系統は火継を使う。両者は元々,ヒ,つまり霊威を嗣(継)ぐという意味である。大本の火継について,このページを作成しつつ,考えてみたい。

 木庭次守(2002, 新月の光,下巻,p. 53)のタイトル「予審廷」の初めには,( )付きで,十六人の被告の予審調書を聖師に読まして予審判事が聖師の訊問調書を創作した,という断り書きがある。これは,残された予審調書が,聖師を含めた被告全員の証言が全く無視されて予審判事によって創作されたものであることを示している。残された裁判記録は,全く事実からかけ離れたものであることを注意喚起しているのである。

「予審廷では,十六人の予審調書を読まされたので,(つまり,)大本文献を十六回(も)読まされたので,(改めて)良い所がみんな判った。(当局が)大本信条を悪く取り扱ったのは,大失策である。天津日嗣天皇は,お前だろうと言ったので(大本と当局の優位性が)これでひっくりかえる。予審判事が不敬だと思った。大本の文献を見れば,どこも良い所ばかりである。」(元晴メモ:( )内を追加した)

 第二次大本事件の真相は,当時の天皇制の思想的根幹を大きく揺るがしかねない大本の教えを抹殺するために仕組まれたものであった。予審判事がこの企みを自白した結果となった。天津日嗣天皇を支持する大本の考えはすべての大本文献に表れている。このように王仁三郎は言っている。この宣言は大本の現世での基盤の一つを明示している。その上で,「ひつぎ」を捉える必要がある。

 このページ中で取り扱う大本の「火継の神事」は,島根県八束郡八雲村熊野に鎮座する熊野大社宮司(国造)襲任の火継式に模したもので,大本については,教主の継承にあたっている。大本教主は,大本開祖出口直,出口王仁三郎,すみ子,直日と続いた。なお,直日の長女が直美であり,聖師存命中に直美が生まれ栄二と結婚している。

1. 直美さまが直日さまに継ぐ教主であること

 聖師聖言集『新月のかけ』の四タイトルから,四代教主直美さまの証左を次に示したい。なお,2002年版(八幡書店)は1988年版を網羅しており,聖言内容に違いは無く索引などが追加されて,利用しやすいものになっている。

a. 一つ目は,『新月のかけ』であっても,1955年版のものと1988年版のものとでは,タイトルが異なる。1955年版(p. 205)では「四代決定」とあり,1988年版(p. 497)では「有栖川宮の血統」となっている。

「栄二は有栖川宮(熾仁たるひと親王)の血統だから養子にきめたのである」(昭和二十年)

元晴メモ: 下手な解説は聖言を汚すものではあるがお許し頂きたい。父から聞いたことであるが,王仁三郎自身が有栖川宮の落胤であることを念押しするために,敢えて有栖川宮の血統である栄二氏を直美さまの養子に迎えた。それは,王仁三郎の血筋が有栖川宮家に繋がることを次代教主直美さまに繋ぐためである。それゆえにこそ,木庭次守はこの聖言のタイトルとして1955年版では「四代決定」としたのである。ところが,直美さまは「昭和57年(1982年)に教主後継者から外され」,その騒動への影響を木庭次守は危惧して,1988年版では「有栖川宮の血統」とした。

b. もう一つは,1955年版(p. 186),1988年版(p. 482)のいずれのタイトルも「聖師の出現」であるが,1955年版では「直美」と明示されていたが,1988年版では○○として伏せられている。

「王仁は直美の腹に宿って生まれてくる。(昭和二十年 田中ふみ子氏拝聴)」

元晴メモ: 多少解説すると,大本には主に開祖と聖師が繰り返し教祖として生まれ変わってくるという思想がある。直美さんは開祖の生まれ変わりであり,さらに直美さんから教主を受け継ぐ子として聖師が生まれ変わるということである。直子さんがそれにあたるであろう。

c. 三つ目は,1955年版(p. 230),1988年版(p. 498)いずれにもあって,ほぼ変更はない。いずれもタイトルは「女の御世継」。

「出口栄二様が直美様の婿さんになられて早々、昭和二十年のことでしたが『聖師様が(大本は)女の御世継と書いてあるところを木庭さんに聞いてこいと言われました』と頭をかきかき二度たずねてみえましたので、文献の場所を書いて差し上げた事がありました。」 なお,「(大本は)」は木庭(1988)で新たに追加されたところである。

d. 最後は,1955年版(p. 159-160),1988年版(p. 491-492)いずれにもあって,ほぼ変更はない。いずれもタイトルは「大本事件解決報告祭」。これは昭和十年(1935年)の第二次大本事件が始まった十二月八日を定めて開催された。聖師以下の教団関係者の受難もあるが,全国から身代もろとも大本に居を移した人々を含めて多くの信者そして家族に対する大本神の慰労会でもあったと考える。一部,句読点などを追加している。

大本事件解決報告祭 (昭和二十年十二月八日)
 祭典前に聖師は,山水荘にて面会者一人一人に白い紙に拇印を一つずつおして下された。本宮山をご神体とし,彰徳殿(綾部町が事件中に建てた武徳殿を聖師が改名)を式場として,祭典が執行された。彰徳殿に着席していると,地元の人は地方の人に席をゆずって下さいとのことで,木庭は殿の外に出て礼拝。
 報告祭次第書
 一、修祓(入口にて)
 一、祝詞奏上(天津祝詞)聖師様,二代様御先達
 一、玉串奉呈 聖師様,二代様,直日様代理出口栄二,直美様,町長,綾部商工会長
 一、慰霊祭 二代様先達
 一、玉串奉呈 二代様,直日様代理出口栄二,直美様,遺族代表,参拝者代表
 一、聖師様,二代様,宇知麿様,挨拶
 挨拶の時、聖師様は一同に一礼され、「お話は宇知麿が致します」と。二代様は「おめでとう」。 総長挨拶 (参照)『愛善苑』第一号。
 本宮山参拝 聖師様、二代様は籠にて本宮山へ。(参照)『愛善苑』第一号 四頁、五頁
 奉告祭挨拶 聖師が挨拶は宇知麿(出口伊佐男)にさせますと代講させられたもの。 栄二氏はお下りのお餅くばり。私は二つ頂く。
 参拝者全国より千五百余名参集。国鉄の好意によりキップを全員に販売され無事帰郷。

元晴メモ: 解説するまでもなく,直美さまは将来の四代として待遇されている。さらにその夫である栄二氏の重用ぶりも見えている。

本宮山のお灰 (元晴メモ: 部外者が居ない本宮山で参拝者に対してか)
 (聖師が本宮山の十年間の塵を命じて焼かれた灰を信者にお下げになり左の如く教えられた)
 どんな病気でも癒るように守ってやる。花咲爺の型だ。(童話を予言として活用)
 元晴メモ: 第二次大本事件を経験しても逃げなかった信者に対する聖師の思いが伝わる。

世間並に言え (元晴メモ: 部外者が居ない本宮山で参拝者に対してか)
 一厘の仕組のあるということは言ってはならぬ。世間並に言っておればよいのである。
 こうならぬとお仕組は成就せぬ。(以上,昭和二十年十二月八日)
 元晴メモ: 秘密を共有することで信者の結束を高める意図が感じられる。

 玉串奉呈の順序が,直美さまが次期教主であることを示している。

 以上の四件の聖師聖言や大本再生の祭典は,三代教主の後継が直美さまであることを明示している。

ここまで,Jul. 12, 2020記。

2. 道統の継承

 開祖出口直は数え年八十三歳(満年齢82歳)1で,大正七年(1918年)十一月六日(旧暦十月三日)に昇天され,その一カ月後の十二月六日には本葬が執行された。「(天王平)一の瀬の斎場では,本葬の祝詞奏上についで(中略)。本葬がおわって,このときまで消されずに燃えつづけていた霊前の灯の神火が持ち帰られ,教祖王仁三郎とすみに,古式にのっとった道統継承の『火継の神事』がおこなわれた」(『大本七十年史』上巻,p. 382-383)とある。

 折口信夫の「大嘗祭の本義」にあるように,大嘗祭と即位式は一連のもので,「悠紀・主基両殿の中には、ちやんと御寝所が設けられてあつて、蓐・衾がある。褥を置いて、掛け布団や、枕も備へられてある。此は、日の皇子となられる御方が、資格完成の為に、此御寝所に引き籠つて、深い御物忌みをなされる場所である。実に、重大なる鎮魂ミタマフリの行事である」などとあって,日嗣の神事では,次期天皇は一人で籠もられる。それに対して,この大本の「火継の神事」では,王仁三郎とすみ(子)が火継の神事の場に連れだって居る。

 大本七十年史上巻のp. 389-395には「3 道統の継承」と題する開祖以降の世継ぎに関する記述がある。明治四十三年(1910年)の五日間の筆先は側近に託され,その拝読は許されなかった。開祖の「次の教主にわたせよ」との遺言にしたがって,それは教主王仁三郎に手渡された。直はそれも承知である。その内容は『神霊界』十二月一日号と十二月十五日号で公表される。それには,「変性男子の後のお世継ぎは,明治二十五年に初発に,出口直の筆先に一度かかしたことは違いはたさん,何事も出口直の後の二代の御用を勤めさすのは末子のおすみが定めて有るなり,三代の御用をいたすのが,出口すみの総領の直霊に渡る経綸に定まりてあるぞよ。この三代の直霊が世の元の水晶の胤であるぞよ。綾部の大本の御世継は末代肉体が婦女であるぞよ」(明治四十三年旧四月十八日)とあった。王仁三郎は,坤の金神のご用をつとめて開祖をたすけ,実質的には一切を統理してきた。開祖の昇天は,当時の役員信者のほとんどには,信仰からすると受け入れられず,大きな衝撃を与えている。その動揺を王仁三郎は鎮める努力を続け,大正八年十一月二十五日(旧暦十月三日)に開祖一周年祭を執行し,王仁三郎は教主の地位を二代すみ子に譲り,自分は教主輔の地位についている。
 すでに王仁三郎とすみ子は直から火継の神事で継承権を受け取っているので,教主交替を開祖のお祭りに合わせて公表する形で済ませている。(引用にルビをふった)

 王仁三郎は亀岡の瑞祥館(ずいしょうかん)で昭和二十三年(1948年)一月十九日に数え年七十八歳(満年齢76歳)で昇天した。『大本七十年史』下巻の「葬儀」(p. 804-819)から一部引用する。聖師昇天後,「霊前にともされた神火は消すことができないため,燈心にうつしたものと,万一を考慮して,三〇年前,開祖の葬祭の時にもちいたという火縄が用意された」(p. 806)。「一方,聖師が昇天された日から霊前にともしつづけられた神火は,綾部へ遷柩(せんきゅう)のとき捧持されて彰徳殿(しょうとくでん)にうつされ,さらに炬火(きょか)によって天王平(てんのうだいら)にともされた。葬祭のすべてがおわると,炬火は彰徳殿にもちかえられ,その神火(しんか)をかまどの火にうつして,すみ子夫人の儀式の食膳のものをつくり,開祖昇天のとき,聖師が道統(どうとう)をひきつがれた行事にならって,『ひつぎの神事』がおこなわれた」(p. 815)とある。

 開祖昇天後の火継の神事では,王仁三郎とすみ子が同席しているが,改めて,聖師昇天後についても火継の神事が実施されている。この意味は,すみ子が開祖だけでなく,聖師の系統を継ぐ意味合があった可能性がある。『大本七十年史』下巻の「道統の継承」(p. 826)では,聖師昇天後の一月二十七日に亀岡天恩郷で臨時審議会が招集され,会則の一部変更と教統の継承に関する規定が決定された。第三条には,「本会は開祖および聖師の教統の継承者を以て苑主とする」(元晴メモ:過った表現を修正している)とし,二代教主があらたに開祖および聖師の教統であることが確認されている。二代教主が単に開祖の血縁関係で,聖師の妻というだけでなく,教えの正統の継承者であることが確認されているのである。

 火継の神事は,周辺の思惑で強行される可能性もあり,火継の神事だけでなく,いわば教団信者の総意とする必要性があったのであろう。それだけ,開祖と聖師の神格は,当時の教団だけでなく信者にとっても別格であったことを示すと思われる。

 聖師昇天後の「火継の神事」についてのより詳細な資料がある。次に引用する『新月のかけ』の記述は,1955年版『新月の影』にはない。これは聖師のお言葉を集めたものと徹底したためであろう。1988年版『新月のかけ』(p. 429-430)の「大本の火継の神事」を実際に体験し担った木庭次守の証言を次に示す。なお,木庭次守は『大本七十年史』の編集委員であり,この一部はこの年史に反映されてはいる。

「御昇天の昭和二十三年一月十九日の翌日より、瑞祥館で十日間にわたり、聖師の聖体の近くで聖師著の讃美歌を唱え、『霊界物語』を拝読し徹夜してお通夜に仕えまつり、いよいよ一月三十日午後十二時より天恩郷を出発することとなる。
 聖師の霊爾は天恩郷の瑞祥館から亀岡の町はずれまでは二代教主が更生車にのって抱いてお供された。そこから綾部梅松苑まで出口宇知麿氏がお供された。(行列の順序は、御神燈、霊爾、御柩、お供)
 木庭は瑞祥舘の聖師の霊爾の前に供えられた燈火、カワラケに種油で燈芯にとぼされたお燈火をそのままでブリキでつくられた容器に入れて捧げ持ち、も一つは火縄(火縄は大本開祖より出口王仁三郎聖師への火継に用いられたものを使用)にとぼして歩いて先供として先駆する御用である。天佑で珍しく雪の少ない丹波高原を、聖師の御柩をのせた、飛行機の車輪二つをつけて造られたにわか造りの車を、若い人達が引いて行く、その先登に立って歩くのである。雲の模様の布をかけて、金塗雲車かとフト思いつつ。三の宮で一時間ほど休息。予定より三時間も早く綾部へ着く様子なので。二百余名の大本の宣伝使と信者が無事におともして、夕刻早く、綾部の本宮山麓の彰徳殿に安着し、聖師の御柩を安置した。私の服装は昭和青年会服に、熊本県立師範学校時代に着用していた外套を着し、足は地下足袋に手造りの草鞋をはいて、ゲートルを巻いて十五里を徒歩で先どもをさせて頂いた。
 二月二日の葬祭には、綾部の総本苑から電話ありて着物を着て来るようにとのことで、有合わせの紋服に下駄をはいて奉仕した。彰徳殿の葬祭に参拝して、竹製の炬火に霊前の燈火をうつしてささげて、天王平の奥都城まで再び先駆を仕え、墓前の埋葬祭に奉仕した。炬火をささげもちてかけ足で彰徳殿に持ち帰り、火継ぎの神事の御用に用意された、素焼の釜に炊飯の準備された下におかれた素焼の七輪のかまどに炬火の竹を差し入れて、神事の一端に仕えまつることが出来た。実に有難き極みである。この神事により出口聖師より二代の出口すみ子刀自に道統が惟神のまにまに継承された。
 火継ぎの神事とは、大本の道統の継承者と神定される人が、出口なお大本開祖の血統と出口王仁三郎教祖の血統で、出口の姓を名のる女性が、開祖、教祖、教主の霊前に供えられ、墓前祭で炬火として捧げられし燈火によって、炊きあげられし御飯を食べることによって、大本の教主と神定められる神事である。『大本神諭』に示された『お世継』『御用継』の神定の神事である。ああ惟神霊幸倍坐世。 (昭和二十三年二月二日)」

 上記の「出口なお大本開祖の血統と出口王仁三郎教祖の血統で、出口の姓を名のる女性」が実現するのは,三代教主が最初である。「開祖、教祖、教主の霊前」というのは,三人まとまってという意味でなく,開祖昇天後は聖師(教祖)が開祖の霊前で,聖師(教祖)昇天の後は二代教主が聖師(教祖)の霊前で,二代教主昇天の後は三代教主になる直日さまが二代教主の霊前で,という意味になる。大嘗祭=即位式になっている。

 二代教主すみ子の昇天は昭和二十七年(1952年)三月三十一日,数え年七十歳(満年齢69歳)で,聖師昇天の,わずか四年の後であった。「昇天の日からともしつづけられた神火は,遷柩とともに亀岡から綾部にうつされ,天王平の炬火にうつし,埋葬後は梅松苑の要荘にもちかえられ神前にそなえ,葬祭の終了を報告したうえ,あらかじめととのえおかれたカマドに火をうつし,道統を継承された三代教主の調饌(ちょうせん)にもちいた。これは『火つぎの神事』として開祖から聖師,聖師から二代教主と伝承された神事である。彰徳殿において帰家祭をおえられた三代教主は,二代教主が病いをやしなわれた思い出も深い彰徳殿裏の部屋で,神事の膳につかれ,出口直美,出口栄二,出口伊佐男が陪席し,出口直子,お遊が同席して食膳の儀式を終わった」(『大本七十年史』下巻, p. 937-938)とある。直美さま一家が招待されており,次の「火継の神事」の継承者を三代さまが直美さまと決めているのは明らかである。火継の神事としては,複数同席での食膳は異例ではある。

3. 道統継承の転換

 以上,王仁三郎と二代すみ子が神定めし,そしてその道統の三代直日が次の四代は直美と了解していたのは確実である。では何故,転換(断絶)が生じたのか。三代教主がわが子の直美さま,そして孫の直子さまへと続く道統の継承を望んだのは当然のことである。転換の主要原因は,三代教主周辺の出口栄二氏に向けた反感と,もちろん三代教主の迷い,にあるのではないか。この反感は,出口和明氏にも向けられる。氏は王仁三郎とすみ子の間から生まれた八重野と,伊佐男の子である。出口栄二氏と出口和明氏は,三代教主率いる大本教団から離れて,それぞれ現在の愛善荘(大本信徒連合会)愛善苑を設立することになる。大本教団は三分裂して現在に至っている。

 出口栄二氏への対策として,指揮権をもつ者の常套手段として役職を取り上げれば済むのに,何故,次の神定めの教主もろとも排除したのか。それは次代にも影響を及ぼそうとした結果であろう。直美さまと栄二氏との関係は,二代様と王仁三郎,更にいえば直子さまと信一氏,との関係とも類似性があるようにも見える。この三名の男性には,ご神業だけではなく,矛盾だらけの現代社会の改革に貢献しようとする姿勢がある。教団の特色は教主を支える夫,教主補の個性によっても発揮されるが,三代直日の夫出口日出麿氏は聖師の期待のもとに重職を歴任し,聖師の後継と目されていたが,第二次大本事件の過酷な取り調べで大きな傷を負い,三代教主の補佐役は難しかったのである。

 蛇足ではあるが,出口和明氏の父である出口伊佐男(宇知丸)氏は聖師に始まって三代教主まで,いわば「教主補=秘書」として付き添っておられた。小学生の僕にとって,宇知丸さんは三代教主の前には決して出ないかつ知的な印象であったが,絶大な信頼があったものと思われる。残念ながら,1973年に昇天されている。

 とはいえ,三代教主だけで判断できるのであれば,現在の大本のような不幸は生じなかったと思う。これまで述べてきたように,二代さまが勝手に次の三代教主を決めることができなかったように,三代さまが勝手に次の四代教主を決めることはできなかった筈であった。直美さまは開祖の生まれ変わり,直子さまは聖師の生まれ変わり,とされている。それが外された。「神に二言なし」,聖師の言葉である。厳しい。

 この三分裂の展開のなかで,奉仕者だけでなく,大本信者の混乱は著しい。信仰(おかげ)を落とす。第一次大本事件,第二次大本事件は,外部の権力からの弾圧であるが,この三分裂は何とも情けないお家騒動に過ぎない。艮の金神の救世のための一大獅子吼(ししく)にはじまる大本は,自ら躓いてしまった。救世の宗教団体とは到底言えなくなってしまった。

 三代教主こそ,元の道統継承への一刻も早い軌道修正を望んでおられたに違いない。ただ,軌道修正と言っても傀儡教主では収まらない。現在の日本では,いわば同族会社的組織であっても,信仰者があって成り立つ宗教団体だからこそ「世襲制」を続けるには,それを支える創業者の教えに違わない運営は必須であった。継承者が,教団にとっても最も重要な次の教主に関わる創業者の言い置きを違えれば,そこで教えの流れは終わる。

おわりに

 かなり,僭越なことを書いてきたが,このように書き込むことで,大本の現状を私なりに整理できたように思っている。退職するまでこの大本の状況を順を追って考えてこなかった。それにしても返す返す,生き通しの聖師はなぜこのような三代様の脱線を放置されたのかと信者の一人としては思い,おかげを落としそうなぎりぎりの状況である。木庭次守はどのように理解しようとしたのだろうか。父から聞いた一言があるが,ここでは控えたい。
 不勉強と無知ゆえの誤解もあるかと思われる。ご指導頂きたい。なお,このページを書くモチベーションは,三代教主を敬愛される黒川忠行氏,肇子夫人との会話から得たものである。お二人に感謝したい。

Jul. 14, 2020, revised Jul. 17, 2020.

 

 

 

 

 

 

 

 

 

Footnotes

  1. 西暦1836年(天保七年)1月22日生〜1918年(大正七年)11月6日没