はじめに
山城町平尾在住の西嶋美奇穂氏による地域活動と,桃山高校の阪本和則教諭による高校生のための自然防災学習機会の提供という観点から,木庭にお誘いがあり,南山城水害に関わって,特に鳴子川の主として天井川部分の自然地理学的巡検を実施する機会を得た。巡検に要する時間は,全域徒歩で,最大四時間ほどで,終了するものである。巡検で使用する資料のダウンロードサイトをここに掲載している。
京都府のウエブサイトの,京都府山城広域振興局 > 森づくり振興課 > 山城の災害記録(昭和28年)には,南山城水害の概要が記されているので,まずは,参照して下さい。
https://www.pref.kyoto.jp/yamashiro/no-nourin/saigai01.html
1 被災した鳴子川,不動川,天神川とその周辺の地形と地質
次の2図はGrassGISに国土地理院の数値標高モデルを取り込んで作成した水系図と流域区分図である。オレンジ色の南北に走る太線は鉄道でランドマークとして表現した。西縁の木津川左岸のものは近鉄学研都市線,木津川右岸のものはJR奈良線である。黄色で建物位置を示している。
左図は,山城町総務課,1983. 28災 南山城水害記念誌. からスキャンして得たものであるが出典が示されていない。恐らく国機関が発行したものであろう。
この地図の南西隅で,木津川は西から直角に北に流れを変える。大きな被害を出した天井川は南から,鳴子川,不動川,天神川と続く。
鳴子川の谷口から出た天井川部では,紫色円の災害発生個所として3個所が認められる。冠水とされている凡例は平野中の水路に限定されている。
この地で隣接する木津川支流の3河川,鳴子川,不動川,天神川は,樹状パターンを呈し,概して南西流する。河系判別のために,それぞれの最上流と木津川との合流点を河川名で示している。
当該3河川の流域はより詳細に見ると,この流域図とは異なる。それを区別するために,白い破線を追加している。
マゼンダ色で示した鳴子川の流域は「鳴子川流域」とした部分で,その南縁は白い破線である。それゆえ,建物記号の黄色で塗られた神童子は鳴子川流域ではなく,南に隣接する谷川流域にあたっている。
紺色で示した不動川流域も鳴子川同様,南縁は白い破線で限られている。薄青緑色の天神川流域については,より小さな字で示した「天神川流域」の南北に白い破線で限っている。
茶系で塗られた領域は段丘面に相当する。濃さが強いものから,上位,中位,下位となる。河道付近の網目模様は扇状地または沖積錐であるが,ここでは,堤防など人口構造物に起因するものが主である。
薄く緑色に塗られた領域は主に木津川の氾濫原である。木津川の堤防がなければ,この領域で氾濫する。
茶色の崖パターン線は実際に観察された活断層で,黒い破線は推定のものである。
ピンクの岩体1330は後期白亜紀の花崗岩でマサ化が進む。薄い黄色の部分は後期中新世〜鮮新世の堆積物で,山地縁辺の薄い黄緑色22の部分は7〜1.8万年前の段丘堆積物にあたっている。
左図のマーク点は木津川の流路変換点である。東西性の断層に規制のもとで西流していた木津川が北流に転換する。多数の南北性断層のためである。そういう意味で木津川は構造谷と言える。
鳴子川,不動川,天神川の最上流部に位置する標高473mの三上山などの濃い茶色の部分は,ジュラ紀付加コンプレックスのチャートで侵食に強くこの付近の最高峰となっている。薄い茶色の部分440は主にジュラ紀付加体で堆積岩または変成岩からなっている。
以上,Figs. 2〜5,の4枚の図から言えることを次にまとめたい。Fig. 3が示すように,3河川の谷口はいずれも,巾着状にほぼ閉じられているが,それはFigs. 4, 5に見える構造谷木津川の流路を決定した南北方向の断層活動によるものである。
Fig. 5が示すように,この場所はジュラ紀付加体に対し,白亜紀にマグマが貫入し,その後の造山運動と大規模の侵食過程を経て,新生代第三紀中新世の終わりには,小規模の凹地に,大阪層群や琵琶湖層群が堆積した。新生代第四紀に入って,主に太平洋プレートの側圧が強化されて断層活動が活発になって,紀ノ川などとともに,木津川でも,構造谷が形成され,その活動の中で,山地縁辺に小規模の堆積物が貯まった。
Fig. 4には,Fig. 5の8万年前以降の地形形成作用の結果を見ることができる。新生代第四紀後期から木津川構造谷の変動が活発になって,構造谷縁辺に河岸段丘が形成されており,木津川は下刻傾向にあることがわかる。封建時代特に江戸時代には,米作域の拡大の要請のもと,河谷平野つまり現成の氾濫原の無理な利用が始まり,その結果として,天井川が生まれることになるのである。
本来,人が住んではならない氾濫原に住居を構えることで,大災害の時代が到来した。その典型例の一つが天井川である。数百年に及ぶ無理の結果としての現在があるのだが,実はもう天井川は,自然地理学から見ると,この地では不要になっており,廃棄することが可能になっている。その手法などを巡検終了後に提示したいと考えている。
2 巡検資料の掲載
二つのPDFファイルを用意した。一つはMicrosoft Wordで作成したもので4ページからなる。もう一つはAdobe Illustratorで作成したもので2ページからなる。
南山城鳴子川下流部と木津川接続部の防水災目的の地形巡検 説明書
南山城鳴子川下流部と木津川接続部の防水災目的の地形巡検 ワークシート
個々にクリックして,表示の上,ダウンロードして,印刷して下さい。
Oct. 8, 2020記 巡検前までに空中写真について,アップロードします。
3 空中写真から見えること
空中写真とは,航空写真のうち,地図作成が可能な品質を持った実体視が可能な鉛直写真で,国土地理院の規格に従っている。もともとは米軍の技術である。次の5枚の空中写真の基本的な情報を箇条書きする。
CKK2008-C13-31について 略称:2008年カラー空中写真
撮影年月日 2008/05/15(平20),撮影地域 奈良,撮影高度 2274m,撮影縮尺 1:8000,焦点距離 100.500mm,カラー種別 カラー。備考:ネット上の提供形態では実体視に問題があり,単写真のみ掲載している。
MKK612-C21-87, -88 略称:1961年白黒空中写真
撮影年月日 1961/05/25(昭36),撮影市町村名 相楽郡精華町,撮影高度 1800m,撮影縮尺 1:10000,焦点距離152.950 mm,カラー種別 モノクロ。備考:5000分の1程度の基本図作成に耐えうるものであるが,無料は配信されているものの画質は米軍の写真と大差がない。
USA-M27-2-5, -4 略称:米軍写真
撮影年月日 1948/03/27(昭23),撮影市区町村名 木津川市,撮影高度 2438m,撮影縮尺 1:15875,焦点距離153.600 mm,カラー種別 モノクロ,撮影計画機関 米軍。備考:占領政策遂行のために日本全国撮影された。都市部は2万分の1,地方は4万分の1であるが,幸いここでは都市部の精度で撮影されている。解像度が高く,高い技術を感じさせる。
空中写真の実体視
実体鏡を使わずに,二枚の隣接する実体写真を実体視することを裸眼実体視と呼ぶ。空中写真を専門的に利用する者でも必ずしもこれができない。適正のある人はすぐにでもできる。次のWebページのうち,一つ目は木庭が作成した教材である。二つ目が一般の方には役立つものと思い,一例としてリンクを張った。
http://motochan.sakura.ne.jp/public_html/Kyozai_Frameset.html
http://www2c.airnet.ne.jp/kawa/photo/rensyuu.htm
次の3シリーズの空中写真では,1948年,1961年,2008年の鳴子川とその周辺の地形などの環境変化を知ることができる。南山城水害は昭和28年,西暦1953年夏に生じたので,この前後の水路幅が拡張されていることなどの変化を,前後1948年撮影と1961年撮影の空中写真から見ることができる。
3時期の空中写真の,地形,植生,土地利用などの違いを観察して,気がついたことを各自,まとめて下さい。
4 天井川廃棄の提案
この章は,巡検の後に掲載したいと思う。
以上,Oct. 10, 2020記