下記資料に,木庭次守「物語を読んでいるか」というエッセーがある。以下,引用したい。
霊界物語のしおり,第5号(1967.12.8, 第5回配本 大本教典刊行会), pp. 14-15.
昭和七年春のことである。姉に「お祭りに行きましょう」とさそわれて,山元弥一氏宅にゆき純日本式の祭典の後,「大本の話」という本を貰って一読,大本三大学則を拝読して,私の科学万能の迷夢は忽ち醒めた。数え年十六歳のときであった。
つづいて王仁文庫を読み,霊界物語第一巻を一円はりこんで求めて拝読したが,実に言語に絶する愉快な心境となり,第二巻からは山元さんから拝借して拝読した。
在学中であったので,帰宅して毎日一巻拝読し,通学の往復八キロの徒歩中には,物語から抜出した宣伝歌集を音読した。これをくり返すうちに,大本の大精神にふれたというべきか,十六歳の私の提唱で六月二十六日の日曜日に大神さまを奉斎し,祖霊様を鎮祭させて頂いた。
物語はすべて,聖師様のお言葉のままに音読した。「三日で一巻よめ」とあったが,毎日一巻音読してしまった。拝読する毎に実に愉快になり,睡眠時間は三時間でよいこととなった。とざされていた心の窓が開いたと言うのか,天空海潤(元晴:天空海闊の活字組みミス)の心境となった。日曜日には三巻音読した。
拝読中は正座して,清潔な服装で次々と拝読し二十六巻拝読して,夏休みとなり,聖師さまの生誕祭へ参拝した。聖地で聖師様にご面会し「ようおまいりやした」と余りにやさしい声で話かけられて度肝を抜かれた。帰宅後は,ますます拝読して八年の三月には,とうとう当時出版されていた七十二巻全部拝読さしていただいた。
こうして私は霊界物語の拝読によって不知不識のうちに大本の信徒となったわけである。昭和七年七月には,日出麿先生のお言葉で,九州別院に奉仕し大本運動に参加させて頂くこととなった。愛善新聞の一部売りで九州から亀岡,綾部の聖地に参拝したときも,物語の中の宣伝使たちの気がいそのままであった。
もっぱら九州で宣教に従事し佐賀県にて第二次大本事件を迎えたが,十一年四月十九日に検挙されて遂に京都市の中立売署に勾留されて聖師さまの房のあとに入れられた。ところが私の心には何一つのくゆるものはなかった。大本こそ正義の教であるとの一念のみであったのも霊界物語のご神徳であると思われる。
出所後十三年三月から裁判の弁論資料づくりに当ったが,判らないことは真剣にお祈りすると霊界物語をはじめ大本文献をハッキリ心の中にテレビの様に示されて資料あつめや弁論の作成に従事さしていただいた。
聖師さまは「文献を読まずに信仰できるのは天下の奇蹟である」と教えられているが,昭和十七年八月七日未決からご出所後お側に行きますたびに「物語を読んでいるか」と教えられ,そのお言葉にはげまされ拝読し,側近にいかして頂くたびに質問して教えて頂き,今日の世界のあらゆる問題を達観することが出来るようになったのは,全く,聖師さまと霊界物語のご神徳である(大本教学委員)。
木庭次守とその姉。小さな写真のために画質は良くない。姉の熊本の嫁ぎ先での写真のようである。姉は結婚して小原フサエとなる。撮影年次は不明だが,フサエさんの次女さんにお聞きし,時折父が訪ねていたことがわかった。
木庭輝男は大正八年四月七日生で,父は対象六年一月一日生だから,学年的には3年下の弟になる。共に大本運動に参加し,早世したが父は尊敬の念をぼくに漏らしたことがある。父は敗戦前に私の母,畑谷環と結婚した。環(清江)は,父畑谷一郎と(旧姓伊豆蔵)ふみの間で生まれた。一郎の二番目の妻が川西瑞江である。ぼくにとってお婆ちゃんと言えば,この瑞江さんであった。
昭和十七年十一月十八日撮影
亀岡町中澤写真館にて
聖師の姓名読み込み歌(歌集『神国の花』)
木庭次守: 青木茂る宮の斎庭を次き次きにきよめすまして仕ふる宮守
木庭輝男: 木庭々々とした神懸りうろついて人に先たちあは輝男なりき
木庭フデ: 木庭しこくフテを手にきり夜も昼も神の御為にはけむまめひと
もちろん,木庭輝男が生存中の歌である。かなり才気あふれた人だったらしいが,「人に先立ち慌てる男」を早くに亡くなると読めなくもない。ぼくは,父に輝男さんの死因を聞いたことがあったかと思うが,その返事を得ることが出来なかったように思う。父は言いたくなかったという感覚は覚えている。木庭次守編(1988)『新月のかけ』(p. 308)には「姓名読込歌」があるが,輝男さんの歌は掲載されていない。この『新月のかけ』には,父とともに大本事件裁判で活躍したことが書かれている。Jul. 19, 2020輝男とフデに関して修正
以下追加 Jul. 10, 2020
一昨日,黒川忠行,肇子夫妻宅にお邪魔した。ぼくの退職祝をして頂いた。黒川さんは,肇子さんの母である中井和子さんから次の事実を聞いたという。和子さんと次守二人だけの時に,輝男さんは勤務中の潜水艦が沈められて亡くなったことを父が伝えたという。以下,次の文献。
木庭次守編,1955. 『出口王仁三郎お言葉集 如是我聞 新月の影』
木庭(1955, p. 155)の昭和20年(西暦1945年)の「弟の帰幽」には,
「(弟の帰幽のことを申し上げたら)あの宣伝に歩いていた,元気のよい男だろう。可哀想な事をしたなあ」,とある。他方,
木庭(1955, p. 12-13)の昭和17年10月12日夜(西暦1942年)の「戦争と信仰」には,
二代様: 「先生,戦争はなかなか片づきませんな」
聖師: 「片づくもんか」
二代様: 「それでも大本の信者の死んだのは余り聞きませんな」
聖師: 「信仰があれば死なぬ。ここの親類でも信仰のない者は死んでいるけれど。日露戦争の時はお守(大本の)を持って行った二人の信者は二十聯隊全滅の時に助かって帰った。常陸丸の時もお守りを忘れて取りに帰って見たら船が出ていて乗りおくれた為,助かったので自首したら『それはよかった』とほめられたことがある」。
父は聖師すべてを信仰していたので,二つの言葉からすると,弟の信仰は浅かったということになってしまう。父は輝男さんを高く評価していた。昭和17年の「戦争と信仰」を信じていたので,弟は戦死することなく帰ってくると信じていた。それが帰ってこなかった。聖師を採れば,弟は信仰が薄かったと断定せざるを得ない。それゆえに,弟の戦死をそういった形で受け入れざるを得ず,ぼくにも言えなかったと考えて間違いが無い。父は何とかこの件では信仰を落とさなかったのである。 Jul. 10, 2020 追加終わり
父が,山藤暁(やまふじあきら)という名で原稿を書いているのを聖師が知って,その名はどうしたのか,と聞かれ,直日様から頂いたことを告げたら,次守を使うように言われたと父に聞いたことがあった。信者は聖師から新たに名前を頂いてそれを名乗ることが多いが,父は聖師から新たな名前を頂かなかった。Jun. 16, 2020
何故か姉が父のカラー写真をもっていたのでそれをスキャンしてここにリンクする予定である。ファイルサーバーSeaMonkeyで,用意したいと思っている。