はじめに

 信仰とは何か。宗教とは何か。倉田百三作の戯曲『出家とその弟子』で,親鸞が唯円に諭す。誓ってはならない。ただただ仏に任せる。その部分を次に引用する。

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以下引用————————————————
親鸞 それもみなで祈ってきめなくてはならないことだ。まあ心を静かにするがよい。(間。唯円をしみじみ見る)お前はやつれたな。
唯円 眠られぬ夜がつづきました。こころはいつも重荷を負うているようでございます。
親鸞 恋の重荷をな。だが、その重荷も仏さまにおまかせ申さねばならぬのじゃ。その恋の成るとならぬとは、私事ではきまらぬものじゃ。
唯円 この恋のかなわぬことがありましょうか。この私のまごころが。いえいえ、私はそのようなことは考えられませぬ。あめつちがくずれても二人の恋はかわるまいと、私たちは、いくたび、かたく誓ったことでしょう。
親鸞 幾千代かけてかわるまいとな。あすをも知らぬ身をもって!(熱誠こめて)人間は誓うことはできないのだよ。(庭をさして)この満開の桜の花が、夜わのあらしに散らない事をだれが保証することができよう? また仏さまのみゆるしなくば、一ひらの花びらも地に落ちることはないのだ。三界の中に、かつ起こり、かつ滅びる一切の出来事はみな仏様の知ろしめしたもうのだ。恋でもそのとおりじゃ。多くの男女なんにょの恋のうちで、ただゆるされた恋のみが成就するのじゃ。そのほかの人々はみな失恋のにがいさかずきをのむのじゃ。
唯円 (おののく)それはあまりにおそろしい。では私の恋はどうなるのでしょう?
親鸞 なるかもしらぬ、ならぬかもしれぬ。先のことは人間にはわからぬのじゃ。
唯円 ならさずにおくものか。いのちにかけても。
親鸞 数知れぬ、恋する人々が昔から、そう誓った。そして運命に向かってか弱いかいなをふるった。そして地に倒された。多くのふしあわせな人々がそのようにして墓場に眠っている。
唯円 たすけてください。
親鸞 私はお前のために祈る。お前の恋のまどかなれかしと。これ以上のことは人間の領分を越えるのだ。お前もただ祈れ。縁あらば二人を結びたまえとな。決して誓ってはならない。それは仏の領土を侵すおそろしい間違いだ。けれど間違いもまた、報いから免れることはできないのだ。
唯円 もし縁が無かったら?
親鸞 結ばれることはできない。
唯円 そのようなことは考えられません。私は堪えられません。不合理な気がいたします。
親鸞 仏様の知恵でそれをよしと見られたら合理的なのだよ。つくられたものは、つくりぬしの計画のなかに自分の運命を見いださねばならぬのだ。その心をまかすというのだ。帰依きえというのだ。陶器師すえものしは土くれをもって、一の土偶を美しく、一の土偶を醜くつくらないであろうか?
唯円 人間のねがいと運命とは互いに見知らぬ人のように無関係なのでしょうか。いや、それは多くの場合むしろ暴君と犠牲者とのような残酷な関係なのでしょうか。「かくありたし」との希望を、「かく定められている」との運命が蹂躙じゅうりんしてしまうのでしょうか。どのような純な、人間らしい、願いでも。
親鸞 そこに祈りがある。願いとさだめとを内面的につなぐものは祈りだよ。祈りは運命を呼びさますのだ。運命をつくり出すと言ってもいい。法蔵比丘ほうぞうびくの超世の祈りは地獄に審判されていた人間の運命を、極楽に決定せられた運命にかえたではないか。「仏様み心ならば二人を結びたまえ」との祈りが、仏の耳に入り、心を動かせばお前たちの運命になるのだ。それを祈りがきかれたというのだ。そこに微妙な祈りの応験があるのだ。
唯円 (飛び上がる)私は祈ります。私は一心こめて祈ります。祈りで運命を呼びさまします。
親鸞 祈りの内には深い実践的の心持ちがある。いや、実行のいちばん深いものが祈祷きとうだよ。恋のために祈るとは、真実に恋をすることにほかならない。お前は今何よりもお前の祈祷をきよいものにしなくてはならない。言いかえればお前の恋を仏のみ心にかなうようにきよめなくてはならない。
唯円 あゝ、私は仏のみ心にかなう、聖い恋をしたい。お師匠様どのような恋が聖い恋でございますか。
親鸞 聖い恋とは仏の子にゆるされた恋のことだ。いっさいのものにのろいをおくらない恋のことだ。仏様を初めとし恋人へも、恋人以外の人にも、また自分自身へも。
唯円 (一生懸命に傾聴している。時々不安な表情をする)
親鸞 (厳粛に)仏様に呪いを送らぬのに二つある。一つは誓わぬ事。他の一つは、たとい恋が成らずとも仏様を恨みぬ事。
唯円 つまり仏様にまかせることでございますな。
引用終わり————————————————

 貧困ゆえに遊郭に売られた,かえで,を遊郭から抜けさせて一緒になろうとする唯円の最後の頼みの綱,老境の親鸞との悲痛なやりとりがここに記されている。関係をもたずに心で繋がった唯円とかえでである。自力が否定された他力の神髄と考えて良いだろう。

 もう一つ,別の観点から,宮沢賢治『グスコーブドリの伝記』について考えてみたい。

以下引用————————————————
 グスコーブドリは、イーハトーヴの大きな森のなかに生まれました。おとうさんは、グスコーナドリという名高い木こりで、どんな大きな木でも、まるで赤ん坊を寝かしつけるようにわけなく切ってしまう人でした。
 ブドリにはネリという妹があって、二人は毎日森で遊びました。ごしっごしっとおとうさんの木をく音が、やっと聞こえるくらいな遠くへも行きました。二人はそこで木いちごの実をとってわき水につけたり、空を向いてかわるがわる山鳩やまばとの鳴くまねをしたりしました。するとあちらでもこちらでも、ぽう、ぽう、と鳥が眠そうに鳴き出すのでした。
 おかあさんが、家の前の小さな畑に麦をいているときは、二人はみちにむしろをしいてすわって、ブリキかんでらんの花を煮たりしました。するとこんどは、もういろいろの鳥が、二人のぱさぱさした頭の上を、まるで挨拶あいさつするように鳴きながらざあざあざあざあ通りすぎるのでした。
引用終わり————————————————

 このような幸せな時は,東北地方太平洋岸に何度も見られたような冷害が訪れて途切れる。父は家から出て,母も家から出て,妹と二人っきりになる。どこからか人が来て,妹を連れ去った。そして,グスコーブドリ一家の暮らした家を含めて森を広く買い占めたという男が現れ,彼は栗林の葉を餌とした天蚕糸作業に就かせられた。冬になって一人,工場と化した元の自宅で過ごすが,残された天蚕糸生産に関わる本に読みふける。翌年の春,また天蚕糸作業をするために戻った男ではあったが,火山噴火が始まってその作業場は放棄される。
 岩手山 いただきにして ましろなる そらに火花の涌き散れるかも,これは,盛岡高等農林学校3年の夏、岩手山に登った時に詠んだものである。岩手山の火山地質に関心があったことと関連があると思われる。
 途方に暮れながら里に行くと,水稲栽培を主とする赤ひげの主人に出合い,その下働きをするが稲が病気になって栽培が失敗する。

以下引用————————————————
次の春になると主人が言いました。
「ブドリ、ことしは沼ばたけは去年よりは三分の一減ったからな、仕事はよほどらくだ。そのかわりおまえは、おれの死んだ息子むすこの読んだ本をこれから一生けん命勉強して、いままでおれを山師だといってわらったやつらを、あっと言わせるような立派なオリザを作るくふうをしてくれ。」
 そして、いろいろな本を一山ブドリに渡しました。ブドリは仕事のひまに片っぱしからそれを読みました。ことにその中の、クーボーという人の物の考え方を教えた本はおもしろかったので何べんも読みました。またその人が、イーハトーヴの市で一か月の学校をやっているのを知って、たいへん行って習いたいと思ったりしました。
 そして早くもその夏、ブドリは大きな手柄をたてました。それは去年と同じころ、またオリザに病気ができかかったのを、ブドリが木の灰と食塩しおを使って食いとめたのでした。そして八月のなかばになると、オリザの株はみんなそろって穂を出し、その穂の一枝ごとに小さな白い花が咲き、花はだんだん水いろのもみにかわって、風にゆらゆら波をたてるようになりました。主人はもう得意の絶頂でした。来る人ごとに、
「なんの、おれも、オリザの山師で四年しくじったけれども、ことしは一度に四年分とれる。これもまたなかなかいいもんだ。」などと言って自慢するのでした。
 ところがその次の年はそうは行きませんでした。植え付けのころからさっぱり雨が降らなかったために、水路はかわいてしまい、沼にはひびが入って、秋のとりいれはやっと冬じゅう食べるくらいでした。来年こそと思っていましたが、次の年もまた同じようなひでりでした。それからも、来年こそ来年こそと思いながら、ブドリの主人は、だんだんこやしを入れることができなくなり、馬も売り、沼ばたけもだんだん売ってしまったのでした。
引用終わり————————————————

 このエピソードで,稲の病気発生と稲作農業大敵の干害を示している。グスコーブドリはそこもお払い箱になって,なにがしかのお金を貰って,クーボーを訪ね,授業中の教室を,ちょっと覗く。

以下引用————————————————
「そこでこういう図ができる。」先生は黒い壁へ別の込み入った図をどんどん書きました。
 左手にもチョークをもって、さっさと書きました。学生たちもみんな一生けん命そのまねをしました。ブドリもふところから、いままで沼ばたけで持っていたきたない手帳を出して図を書きとりました。先生はもう書いてしまって、壇の上にまっすぐに立って、じろじろ学生たちの席を見まわしています。ブドリも書いてしまって、その図を縦横から見ていますと、ブドリのとなりで一人の学生が、
「あああ。」とあくびをしました。ブドリはそっとききました。
「ね、この先生はなんて言うんですか。」
 すると学生はばかにしたように鼻でわらいながら答えました。
「クーボー大博士さ、お前知らなかったのかい。」それからじろじろブドリのようすを見ながら、
はじめから、この図なんか書けるもんか。ぼくでさえ同じ講義をもう六年もきいているんだ。」
と言って、じぶんのノートをふところへしまってしまいました。その時教室に、ぱっと電燈がつきました。もう夕方だったのです。大博士が向こうで言いました。
「いまや夕べははるかにきたり、拙講もまた全課をおえた。諸君のうちの希望者は、けだしいつもの例により、そのノートをば拙者に示し、さらに数箇の試問を受けて、所属を決すべきである。」学生たちはわあと叫んで、みんなばたばたノートをとじました。それからそのまま帰ってしまうものが大部分でしたが、五六十人は一列になって大博士の前をとおりながらノートを開いて見せるのでした。すると大博士はそれをちょっと見て、一言か二言質問をして、それから白墨でえりへ、「合」とか、「再来」とか、「奮励」とか書くのでした。学生はその間、いかにも心配そうに首をちぢめているのでしたが、それからそっと肩をすぼめて廊下まで出て、友だちにそのしるしを読んでもらって、よろこんだりしょげたりするのでした。
 ぐんぐん試験が済んで、いよいよブドリ一人になりました。ブドリがその小さなきたない手帳を出したとき、クーボー大博士は大きなあくびをやりながら、かがんで目をぐっと手帳につけるようにしましたので、手帳はあぶなく大博士に吸い込まれそうになりました。
 ところが大博士は、うまそうにこくっと一つ息をして、「よろしい。この図は非常に正しくできている。そのほかのところは、なんだ。ははあ、沼ばたけのこやしのことに、馬のたべ物のことかね。では問題に答えなさい。工場の煙突から出るけむりには、どういう色の種類があるか。」
 ブドリは思わず大声に答えました。
「黒、かつ、黄、灰、白、無色。それからこれらの混合です。」
 大博士はわらいました。
「無色のけむりはたいへんいい。形について言いたまえ。」
「無風で煙が相当あれば、たての棒にもなりますが、さきはだんだんひろがります。雲の非常に低い日は、棒は雲までのぼって行って、そこから横にひろがります。風のある日は、棒は斜めになりますが、その傾きは風の程度に従います。波やいくつもきれになるのは、風のためにもよりますが、一つはけむりや煙突のもつ癖のためです。あまり煙の少ないときは、コルク抜きの形にもなり、煙も重いガスがまじれば、煙突の口からふさになって、一方ないし四方におちることもあります。」
 大博士はまたわらいました
「よろしい。きみはどういう仕事をしているのか。」
「仕事をみつけに来たんです。」
「おもしろい仕事がある。名刺をあげるから、そこへすぐ行きなさい。」博士は名刺をとり出して、何かするする書き込んでブドリにくれました。
引用終わり————————————————

  クーボー大博士は,自立的に観察ができるグスコーブドリの能力を高く買ったのである。そしてグスコーブドリは,紹介されたイーハトーヴ火山局に行く。

以下引用————————————————
 ブドリはその日からペンネン老技師について、すべての器械の扱い方や観測のしかたを習い、夜も昼も一心に働いたり勉強したりしました。そして二年ばかりたちますと、ブドリはほかの人たちといっしょにあちこちの火山へ器械を据え付けに出されたり、据え付けてある器械の悪くなったのを修繕にやられたりもするようになりましたので、もうブドリにはイーハトーヴの三百幾つの火山と、その働き具合はたなごころの中にあるようにわかって来ました。
 じつにイーハトーヴには、七十幾つの火山が毎日煙をあげたり、熔岩を流したりしているのでしたし、五十幾つかの休火山は、いろいろなガスをいたり、熱い湯を出したりしていました。そして残りの百六七十の死火山のうちにも、いつまた何をはじめるかわからないものもあるのでした。
引用終わり————————————————

  グスコーブドリは,ペンネン老技師とともに,サンムトリの市に近いサンムトリ火山の噴火を予測し,ボーリングをして熔岩を強制的に吐き出させて,噴火を止めるのに成功している。さらに,稲の病気を抑えるために窒素肥料を空中散布する。その様子を次に引用する。

 以下引用————————————————
 受話器が鳴りました。
「硝酸アムモニヤはもう雨の中へでてきている。量もこれぐらいならちょうどいい。移動のぐあいもいいらしい。あと四時間やれば、もうこの地方は今月中はたくさんだろう。つづけてやってくれたまえ。」
 ブドリはもううれしくってはね上がりたいくらいでした。
 この雲の下で昔の赤ひげの主人も、となりの石油がこやしになるかと言った人も、みんなよろこんで雨の音を聞いている。そしてあすの朝は、見違えるように緑いろになったオリザの株を手でなでたりするだろう。まるで夢のようだと思いながら、雲のまっくらになったり、また美しく輝いたりするのをながめておりました。
引用終わり————————————————

  グスコーブドリの努力は新聞で報道され,永く離ればなれになっていた妹のネリが彼のところに訪ねてくる。そして妹が幸せな結婚をしていることを知る。

以下引用————————————————
 そしてちょうどブドリが二十七の年でした。どうもあの恐ろしい寒い気候がまた来るような模様でした。測候所では、太陽の調子や北のほうの海の氷の様子から、その年の二月にみんなへそれを予報しました。それが一足ずつだんだんほんとうになって、こぶしの花が咲かなかったり、五月に十日もみぞれが降ったりしますと、みんなはもうこの前の凶作を思い出して、生きたそらもありませんでした。クーボー大博士も、たびたび気象や農業の技師たちと相談したり、意見を新聞へ出したりしましたが、やっぱりこの激しい寒さだけはどうともできないようすでした。
 ところが六月もはじめになって、まだ黄いろなオリザの苗や、芽を出さない木を見ますと、ブドリはもういても立ってもいられませんでした。このままで過ぎるなら、森にも野原にも、ちょうどあの年のブドリの家族のようになる人がたくさんできるのです。ブドリはまるで物も食べずに幾晩も幾晩も考えました。ある晩ブドリは、クーボー大博士のうちをたずねました。
「先生、気層のなかに炭酸ガスがふえて来れば暖かくなるのですか。」
「それはなるだろう。地球ができてからいままでの気温は、たいてい空気中の炭酸ガスの量できまっていたと言われるくらいだからね。」
「カルボナード火山島が、いま爆発したら、この気候を変えるくらいの炭酸ガスをくでしょうか。」
「それは僕も計算した。あれがいま爆発すれば、ガスはすぐ大循環の上層の風にまじって地球ぜんたいを包むだろう。そして下層の空気や地表からの熱の放散を防ぎ、地球全体を平均で五度ぐらい暖かくするだろうと思う。」
「先生、あれを今すぐ噴かせられないでしょうか。」
「それはできるだろう。けれども、その仕事に行ったもののうち、最後の一人はどうしても逃げられないのでね。」
「先生、私にそれをやらしてください。どうか先生からペンネン先生へお許しの出るようおことばをください。」
「それはいけない。きみはまだ若いし、いまのきみの仕事にかわれるものはそうはない。」
引用終わり————————————————

 冷害対処のために,二酸化炭素を噴出する火山を強制的に爆発させるプロジェクトを提案し,自らその犠牲となる。

以下引用————————————————
 すっかりしたくができると、ブドリはみんなを船で帰してしまって、じぶんは一人島に残りました。
 そしてその次の日、イーハトーヴの人たちは、青ぞらが緑いろに濁り、日や月があかがねいろになったのを見ました。
 けれどもそれから三四日たちますと、気候はぐんぐん暖かくなってきて、その秋はほぼ普通の作柄になりました。そしてちょうど、このお話のはじまりのようになるはずの、たくさんのブドリのおとうさんやおかあさんは、たくさんのブドリやネリといっしょに、その冬を暖かいたべものと、明るいたきぎで楽しく暮らすことができたのでした。
引用終わり————————————————

 この『グスコーブドリの伝記』の圧巻は,深い隣人愛にあるが,科学を学ぶロマンチシズムも底流にある。神頼みではなくて,人類が科学を発展させることで,幸せへの道を切り開いて行くという世界観である。

 宮澤賢治の実家は熱心な真宗門徒であるが,賢治は座右の書として法華経を選んでいた。雨ニモマケズ,は死後,彼が晩年使用していた遺品の革トランク(元晴メモ:『革トランク』という作品がある)から発見されたもので,賢治自らが生きる戒めを示したものと考えて良いだろう。

https://www.aozora.gr.jp/cards/000081/files/45630_23908.html

以下引用————————————————
雨ニモマケズ
風ニモマケズ
雪ニモ夏ノ暑サニモマケヌ
丈夫ナカラダヲモチ
慾ハナク
決シテ瞋(元晴メモ:いか)ラズ
イツモシヅカニワラッテヰル
一日ニ玄米四合ト
味噌ト少シノ野菜ヲタベ
アラユルコトヲ
ジブンヲカンジョウニ入レズニ
ヨクミキキシワカリ
ソシテワスレズ
野原ノ松ノ林ノ蔭ノ
小サナ萓ブキノ小屋ニヰテ
東ニ病気ノコドモアレバ
行ッテ看病シテヤリ
西ニツカレタ母アレバ
行ッテソノ稲ノ朿ヲ[#「朿ヲ」はママ]負ヒ
南ニ死ニサウナ人アレバ
行ッテコハガラナクテモイヽトイヒ
北ニケンクヮヤソショウガアレバ
ツマラナイカラヤメロトイヒ
ヒドリノトキハナミダヲナガシ
サムサノナツハオロオロアルキ
ミンナニデクノボートヨバレ
ホメラレモセズ
クニモサレズ
サウイフモノニ
ワタシハナリタイ

南無無辺行菩薩
南無上行菩薩
南無多宝如来
南無妙法蓮華経
南無釈迦牟尼仏
南無浄行菩薩
南無安立行菩薩
引用終わり————————————————

論理の流れが,ややそれるのを承知のうえで,吉本隆明の講演録を引用したい。『宮沢賢治の陰─倫理の中性点』という講演の『革トランク』を例に挙げた部分である。

以下引用————————————————
 そうしますと「革トランク」という作品は、物語の流れは語り手に化けた作者、あるいは作者を象徴した語り手がそれを語っている、そういう次元で物語が展開していくんですけれども、そのなかに節ごとに繰り返し挟まれてくる(そんなことは実にまれです)という括弧のなかに出てくる言葉は、作品、物語の流れを司っている語り手とは違う言葉の位相、次元から出てきている言葉だということがわかります。この言葉がどういうところから出てきているかということが、宮沢賢治の作品を決定する非常に大きな鍵だと思われます。
 この場合には芝居でいういわゆるプロムプターのところからこの言葉が出てきているわけです。この言葉は何に帰着するのかということは非常にわかりにくいところですし、あえてあまり決めないほうがいいように思います。つまり宮沢賢治の世界で、この言葉がどこから出てくるのか、どういう質でもって発せられてくるのかということはたいへん微妙なことでありますし、宮沢賢治の世界全体に関係することですから、あまり決めないほうがいいように思います。つまりどこかから出てくる言葉であって、ただ明らかなことは物語を語って進行させている語り手の言葉の次元、位相とは違うところから出てくる言葉だということは、非常に確かなことです。その違いということが、宮沢賢治の最初の世界のなかでの「幼児性」というものとオーソドックスな内面世界との葛藤のように思われます。つまりある場合には、物語の語り手のほうが幼児性を持っており、括弧のなかの言葉を発するプロムプターのほうが大人の言葉である場合もあります。もちろんその逆の場合もあります。いずれにせよ宮沢賢治のなかに、宮沢賢治の世界を宮沢賢治の世界自身と区別しているものがあるとすれば、それは作品の世界のなかでは括弧のなかの、あるいはプロムプターの言葉と、そうでない言葉の違いのなかにあらわれてきているということがわかります。
引用終わり————————————————

https://www.1101.com/yoshimoto_voice/speech/text-a073.html

 吉本隆明の幼児性という視点は僕には受け入れがたいが,彼の講演を通じて,賢治が残した革トランクに入っていた『雨ニモマケズ』の役割を示唆するものと思った。「(そんなことは実にまれです)」という小説の語りへのコメントが,賢治座右の銘『雨ニモマケズ』に真っ向から反対する声にあたるのではと思う。ちなみに,『革トランク』の青空文庫のリンクを次に示す。

https://www.aozora.gr.jp/cards/000081/files/4426_29930.html

 wikipediaによれば,『出家とその弟子』は,1916年(大正5年)から同人誌『生命の川』で連載され、1917年(大正6年)に岩波書店から出版された。『グスコーブドリの伝記』は,1932年(昭和7年)4月に刊行された雑誌『児童文学』第2号で発表されたもので,賢治が亡くなったのは1933年(昭和8年)9月21日である。

 『革トランク』は,「ものがたり散策」によると,生前未発表作品で,使われた原稿用紙から1923年(大正12年)の作と見られている。なお,エスカレーターが日本に初めて設置されたのは,銀座松屋で大正12年であった,とある。

 いずれも,豊かな思想に育まれた大正から昭和初期の作品である。この時代と大本の展開が一致するのは,私には驚きではあった。

 『出家とその弟子』,『グスコーブドリの伝記』,『雨ニモマケズ』などは,人の心の奥に深く訴える。ヒューマニズムだけでは片付けることはできず,より深い信仰心が底流を為しているとして問題はないだろう。信仰の基軸はここにあると思われるのである。

1. 『霊界物語』はスエデンボルグ『天界と地獄』の剽窃

 このページを今,書こうと思い立ったのは,次に示す一青年からの父への手紙であった。タニハの整理をして頂いていた隅田さんと山崎さんが,十五年ぐらいほど前に,未開封の父への手紙(昭和五十六年一月二十三日付)を発見し,開封の是非を問われて,開封に了解した。その文面について,特にスエデンボルグの『天界と地獄』から,多数のまるまるの引用があるという件について,私たちの間で問題となった。鈴木大拙全集を一部について確認したところ,指摘どおり,文章が全く一致した。とはいえ,その後,他の仕事があって,この件を等閑に付した。
 この文面の中核部分をまるまる,下に示す。わかりにくい部分もあるが,集中すれば理解できる。読点などは一部追加している。私的な手紙には通常,正確な句読点などはなく,スペースで判断できたりする。その観点から,読点は多少追加している。なお,次の,第二,と,第三,は,今,どう考えて良いのかわからないし,自ら確かめてもいないので,ここでは立ち入らない。ただし,この第二,第三を省くことは,この発信者の意図に反すると思われ,混乱が生じるとも考えたが,敢えてここに省略することなく掲載している。

以下引用————————————————
 私があらためて先生におたずねしようとする疑問とは,昨年五月,義父の家でお聞きしたものと同じものです。初めてお目にかかった席であるのに,突然こみ入った質問をする非礼をおかしたことを未だに申し訳なく思っておりますが,あの折のご回答は,充分なご検討の時間も経ぬ即座のものであったし,私も意をつくさぬ所があったと思いますので,あえて同じ質問を,文書でくり返させていただく次第です。

第一,
物語は,スェーデンボルグ著 鈴木大拙訳「天界と地獄」(明治四十三年刊)から剽窃しているのではないか?
 聖師様とスェーデンボルグの霊界観には必ず基本的に一致するものがあろうと,一昨年十月頃から「天界と地獄」を読みはじめました。そして昨年二月頃までかかって通読した結果,基本的な一致どころか,鈴木大拙訳のそっくりそのままの文章が,物語中に大量に取り入れられてあるのを発見し,驚きました。
 「霊の礎」では,百二十頁中三十八頁余 —— 即ち三分の一の多きに達しており,その他,第四十七巻,第四十八巻等にも見出せます。(両書における同文を対照したものをコピーしていますのでそれを別便でお送りします。もとより「天界と地獄」を一読する間に気付いたものだけですので,洩らしているものも随分あろうと存じます。)
元晴メモ:この別便は確認していません。
 問題はその取り入れかたです。他人の文章を借用した場合には,はっきりと何から引用したかを断るべきであります。引用を断った上で,それについて独自の見解を述べたものについては,また新しい価値が生じます。(古事記言霊解のごとき)
 しかし引用という一言の言明もなく,全く己の独創的な考えであるかのように使用するものは剽窃です。
 およそ著述にあって,尊いもの,その生命というべきものは独創性だと考えます。人々が精神の支柱と依拠する宗教教典にあっては,尚更だと思います。松村真澄氏を通しての間接内流によるというご説明をいただきましたが,剽窃であるという疑念を払い切れません。その超人的な記憶力には驚嘆しますが。

第二,
千利休は明智光秀である。(水鏡)?
 これは明らかな間違いであると考えます。両者の伝記を読み,当時の歴史を調べれば,真偽ははっきりとしてきます。
 利休は天正元年(西暦一五七三)末頃から津田宗及と共に信長に重んぜられるようになり,〔参考 今井宗久茶湯日記 天正元年十一月二十四日 京都妙覚寺茶会,宗易(利休)手前也。上様(信長)ご出座成サレ⋯⋯〕
その後,今井宗久を加えて,信長の三茶頭の一(人)としての地位をずーっと確保しています。
 一方,光秀は,永禄九年(一五六六)より信長に仕へ,元亀二年(一五七一)には,十万石を与えられて,坂本城を築いております。
 即ち,山崎合戦のある天正十年(一五八二)までの少なくとも十年余の間,二人は信長の下にあって,前者は茶頭として,後者は武将として,共に世によく知られていたのであります。
 それがどうして,山崎合戦後,突然,後者が前者になり代わることができましょうか。前者はどこに消滅したのでしょうか。
 百歩ゆずって,光秀が利休になり変わるという奇怪事が起こりえたとしても,以後,利休は信長以上に秀吉の寵遇をうえ,その命で,貴族,大名等を対手の大茶会を何回も催したりしているのですから,両人をよく見知っている当時に人達が黙っているはずはありません。しかし,そのようなことについて書かれた記録は一つもありません。

第三,
成吉思汗は源義経である(月鏡)?
 大正十三年頃小谷部論争があり,正統史家から,とるに足らず,愚説と退けられています。
 成吉思汗に義経が入れかわるというようなことを,成吉思汗の家族や家臣達が承認できたでしょうか。その他両人の間には,決定的な差異と考えられるものがいろいろとあります。
注記:両人を,得意な戦術,性格,体格,信仰,の点で大きく違うとしている。
 従来,聖師様は神様であり,そのご著作は百パーセント正しいものであると信じてまいりました。然し,右のような疑惑,批判生じてより,信ずる心は半減いたしました。
 神と霊界の存在を信じ,父祖の冥福を祈る——これが私の思想の基本でありますが,当分の間は,聖書やスウェーデンボルグに比重を置いて勉強していくつもりです。将来のことはわかりませんが,それにより心の底からキリスト教を信ずるに至るなら,その時は大本を離れるもやむをえぬと思っています。
 なお,私は現在,〇〇主任という教団組織の末端責任者でもありますので,自分の進退は公明正大に処し,その過程には明確な記録も残して置きたいと考えています。そのため,この同じ質問を大本本部に対しても提出させていただく自由を賜りますようにお願いします。
日付:昭和五十六年一月二十三日
引用終わり————————————————

2. 親鸞『教行信証』の成立

 三木清『親鸞』によれば,親鸞の『教行信証』がほとんど引用からなるという。どのような引用なのかが気になって,その翻訳をキンドル版でさきほど購入した。

浄土真宗本願寺派総合研究所 (編集)『顕浄土真実教行証文類(現代語版)』

 ざっと見て,次の引用が核になる部分であると思う。購入したものであり,多少の引用は許されると思っている。ただ,コピペしていたら,簡単に制限に達したというメッセージが出てしまった。

以下引用————————————————
【四六】善導大師が『観経疏』にいわれている(定善義)。

「念仏以外のさまざまな行も善といわれるけれども、念仏にくらべたなら、まったくくらべものにならないほど劣っている。だから、数多くの経典の中に、いたるところで広く念仏のはたらきをほめておられるのである。たとえば『無量寿経』の四十八願には、ただひとすじに阿弥陀仏の名号を称えて往生することができると示されている。また『阿弥陀経』には、一日でも七日でも、ただひとすじに阿弥陀仏の名号を称えて往生することができると説かれ、またすべての世界の数限りない仏がたがこのことにいつわりがないと証明しておられる。また『観無量寿経』の中で定善・散善を説くところには、ただ、ひとすじに名号を称えて往生することができると示されている。このような例は少なくない。ここに広く念仏三昧について明らかにした」

【四七】また次のようにいわれている(散善義)。

「また、『阿弥陀経』に、あらゆる世界の数限りない仏がたが、すべての凡夫が間違いなく往生できることを証明して勧めておられると、疑いなく深く信じるがよい。(中略)仏がたの仰せになること、行われることには食い違いがない。釈尊はすべての凡夫に対して、命のある限りひとすじに念仏して、命が終れば間違いなく阿弥陀仏の国に生れることを示してお勧めになるが、すべての世界の仏がたもみなこれと同じようにほめたたえ、同じように勧め、同じように証明されるのである。なぜならそれらは、同じさとりからおこる大いなる慈悲のはたらきだからである。釈尊が教え導こうとされているものは、そのまま、すべての仏がたが救おうとされているものであり、すべての仏がたが救おうとされているものは、そのまま、釈尊が教え導こうとされているものなのである。すなわち『阿弥陀経』の中に、(中略)〈また、すべての凡夫に、一日でも七日でも、ただ一心に阿弥陀仏の名号を称えて、間違いなく往生するがよいとお勧めになる〉と説かれている。その次の文には、〈すべての世界にそれぞれ数限りない仏がたがおいでになって、釈尊をほめたたえておられる。すなわち、さまざまな濁りに満ちた時代にあって、人々は悪事を犯すばかりであり、思想は乱れ、煩悩は激しく盛んとな(元晴メモ:次の段落へ)

以上。顕浄土真実教行証文類(現代語版) (浄土真宗聖典) (Japanese Edition) (Kindle の位置No.17738-17810). Kindle 版.

り、仏法を聞いても疑い謗るばかりで信じようとしない。そのような世の中に釈尊はお出ましになって、阿弥陀仏の名号を指し示してほめたたえられ、念仏すれば必ず往生を得ると衆生を勧め励まされている。このことを仏がたはみな同じくほめたたえておられる〉と説かれている。これがその証拠である。また、すべての世界の仏がたは、衆生が釈尊の説かれた教えを信じないことをおそれて、みなともに同じ慈悲の心から、同時に、それぞれの国で広く舌相を示して、世界のすみずみにまで阿弥陀仏のすぐれた徳が真実であることをあらわし、まごころをこめて、〈そなたたち衆生はみな、釈尊が説かれ、ほめたたえられ、証明されたこの法を信じるがよい。すべての凡夫は、罪や功徳の多少、念仏する時の長短を問うことなく、長ければ一生涯から短ければ一日・七日に至るまで、ただひとすじに阿弥陀仏の名号を称えれば、必ず往生を得る。それは決して疑いのないことである〉と仰せになっている。このようなわけで、一仏すなわち釈尊の教えをすべての仏がたがみな同じように証明されるのである。これを、勧める人について信を立てるというのである」

【四八】また次のようにいわれている(散善義)。

「阿弥陀仏の本願のおこころからすると、ただ信心を得て名号を称えることをお勧めになっているのである。浄土往生について、その速やかなことは、自力で修める行と同じではない。『観無量寿経』をはじめさまざまな経典の中にいたるところで広くほめたたえられているのは、名号を称えることをお勧めになっているのであり、これをかなめとされるのである。よく知るがよい」

【四九】また次のようにいわれている(散善義)。

「『観無量寿経』の〈仏、阿難に告げたまはく、なんぢ、よくこの語を持て〉、すなわち〈そなたはこの言葉をしっかりと心にとどめるがよい〉と述べられているところからは、阿弥陀仏の名号を阿難に託して、はるか後の世まで伝え広めることを明らかにされたものである。『観無量寿経』にはここまで定善・散善の利益が説かれているけれども、阿弥陀仏の本願のおこころからすると、釈尊の思召しは、人々に阿弥陀仏の名号をただひとすじに称えさせることにある

【五〇】また『法事讃』にいわれている。

顕浄土真実教行証文類(現代語版) (浄土真宗聖典) (Japanese Edition) (Kindle の位置No.17810-17886). Kindle 版.

極楽は変ることのないさとりの世界である。人それぞれの縁にしたがって修めるような自力の善根によっては生れることができない。だから釈尊は本願の名号を選び取って、ただひとすじに信じ念仏して往生せよと教えてくださった

【五一】また次のようにいわれている(法事讃)。

「この世が終ろうとするとき、世界にはさまざまな濁りがあふれている。衆生はよこしまな考えにとらわれて、とても仏法を信じることができない。ただひとすじに信じ念仏するように教えられ、浄土往生の道に入ることがあっても、他のものに惑わされて、またもとのよこしまな考えに陥ってしまう。はかり知れない昔からいつもこの繰り返しである。この世に生れてはじめてそのことに気づいたわけではないが、すぐれた本願のはたらきに出会わなかったために、迷いの世界にさまよい続けてそこから抜け出ることができないのである」

【五二】また次のようにいわれている(法事讃)。

「仏のさまざまな教えは、みな迷いを離れることのできるものであるが、念仏して西方浄土に往生する教えにまさるものはない。生涯をかけて念仏するものから少ししか念仏しないものまで、阿弥陀仏は来迎して浄土に導いてくださる。仏がたは次々に世に出られて、その本意である阿弥陀仏の本願を重ねてお説きになり、凡夫はただ念仏して、ただちに往生させていただくのである」

【五三】また『般舟讃』にいわれている。

「すべての仏がたが方便の教えを説いておられることは、この世界に出られた釈尊と同じである。衆生の資質に応じて教えを説かれるから、衆生はみなその利益を受けるのである。それぞれ仏の思召しを心得て念仏の真門に入るがよい。(中略)仏教には八万四千の法門といわれる多くの教えが説かれている。これはまさに衆生の資質がさまざまに異なっているからである。安らかで変ることのない世界を求めるなら、まずかなめである念仏の行を求めて真門に入るがよい」

【五四】また『往生礼讃』にいわれている。

「このごろ、方々の出家のものや在家のものについて見たり聞いたりしたところでは、その理解も行も同じではなく、専修と雑修の違いがある。ただひとすじ(元晴メモ: 次の段落へ)

顕浄土真実教行証文類(現代語版) (浄土真宗聖典) (Japanese Edition) (Kindle の位置No.17886-17956). Kindle 版.

極楽は変ることのないさとりの世界である。人それぞれの縁にしたがって修めるような自力の善根によっては生れることができない。だから釈尊は本願の名号を選び取って、ただひとすじに信じ念仏して往生せよと教えてくださった
引用終わり————————————————

 以上,『顕浄土真実教行証文類』=『教行信証』では,ただ一心に,南無阿弥陀仏,と唱えることで救われるとしている。

 上記資料の親鸞聖人略年表によれば,
1175年(承安5年)源空(法然)専修念仏を唱える,とある。
 源空(法然)は,専ら阿弥陀仏の誓いを信じ「南無阿弥陀仏」と念仏を唱えれば、死後は平等に往生できるという専修念仏の教えを説き、のちに浄土宗の開祖と仰がれた。その6年後の,
1181年 親鸞9歳,慈円坊舎で出家得度。
1201年(建仁元年) 親鸞29歳,比叡山を下り,六角堂に参籠。聖徳太子の示現にあずかり,源空の門に入って専修念仏に帰す,とある。
 この『教行信証』の最終章にあたる「化身土文類」のしかもほぼ最終段[一一八]では,
以下引用————————————————
ところでこの愚禿釈(ぐとくしゃく)の親鸞は,建仁元年に自力の行を捨てて本願に帰依し,元久二年,源空聖人(げんくうしょうにん)のお許しをいただいて,『選択集(せんじゃくしゅう)』を書き写した。(中略)同年閏七月二十九日,その写した絵像に銘として,「南無阿弥陀仏(なもあみだぶつ)」の六字の名号(みょうごう)と,「本願には,<わたしが仏になったとき,あらゆる世界の衆生(しゅじょう)がわたしの名号を称え,わずか十回ほどの念仏しかできないものまでもみな淨土に往生するであろう。もしそうでなければ,わたしは仏になるまい>と誓われている。その阿弥陀仏は今現に仏となっておられるから,重ねて誓われたその本願はむなしいものでなく,衆生(しゅじょう)が念仏すれば,必ず淨土に往生できると知るべきである」と述べられている『往生礼讃』の真実の文(もん)を,源空聖人自らが書いて下さった。また,わたしは,夢のお告げをいただいて,綽空(しゃくくう)という名を改めて善信とし,同じ日に,源空聖人は自らその名を書いて下さった。この年,源空聖人は七十三歳であった。
引用終わり————————————————
顕浄土真実教行証文類(現代語版) (浄土真宗聖典) (Japanese Edition) (Kindle の位置No.22222ーNo.22282). Kindle 版.

 この親鸞自身の言葉から,『教行信証』の根幹は,淨土真宗七高僧の第七番目にあたる源空(法然)が学び醸成してきた教えであり,淨土真宗七高僧の教えを改めて自ら研鑽したものともいえる。この記述は,見事に学者的態度である。親鸞が高度な学僧であったことが理解できる。結局,他力信仰に自らが救われ,他の凡夫もこの他力で救うしか選択肢がないということを感得したと思われるのである。もちろん,この直近の引用は,親鸞が淨土真宗七高僧の正統の後嗣であることを明示している。

 信仰とは何かを語る上で,「悪人正機説」などの独創的な教えは重要であるが,ここでは親鸞が単に聖人として認められるだけでなく,比叡山スクールそして法然聖人スクールの最高位の学僧であることを確認するに留める。

 熱心な真宗の家に生まれた宮澤賢治の雨ニモマケズの最後に挙げられた名号(みょうごう)に,浄土(真)宗などの南無阿弥陀仏はなく,釈尊にあたる南無釈迦牟尼仏,がある。「日蓮宗を信じ世の中に役に立ちたいと願った宮沢賢治」には,「その賢治が盛岡中学に入学した頃より、浄土真宗に疑問を持ち始めたと思われ、島地大等編『漢和対照、妙法蓮華経』を読んで感動し、法華経に傾注していった」とあるが,その理由は示されていない。が,賢治は,ただただ阿弥陀仏の本願を(消極的に)受け取る教えである親鸞に対して,日蓮は攻撃的実存的である,と判断したからではないか,と私はただ想像する。しかしながら,親鸞の思想は実は消極的ではなくて実存的であり,それゆえにこそ,反権力運動「一向一揆」がくり返されたのでは無いだろうか。

 父にいわば背水の陣で,『霊界物語』はスエデンボルグの『天界と地獄』の剽窃ではないか,と問うた青年は,『教行信証』を著した親鸞に絶大の信頼を寄せるであろう。信仰とは何かのテーマを以下に続けたいと思う。

3. 三木清未定稿『親鸞』:「宗教は真実でなければならない」

 三木清の『親鸞』での『教行信証』の独自の分析的解釈に私は学ぶところが多かった。この作品は未定稿かつ遺稿であり,「四 宗教的真理」の終わりの原稿の欠損部から「五 社会的生活」まで,推敲されておらず,「五 社会的生活」については哲学的執筆態度から多少,外れているように見え,論理も尻切れトンボになっている。それゆえに三木清の原稿作成プロセスが未完成の「五 社会的生活」の記述に現れているようで,大変興味深くはあった。「四 宗教的真理」で執筆宣言された内容も描かれていないので,第五章以下,更に執筆予定であったに違いない。

 三木清『親鸞』は,次の青空文庫に掲載されている。三木清獄中死ののちに,疎開先の埼玉県鷲宮町の住居から発見された。「展望」1946(昭和21)年1月号に掲載されたが,全体では大詰めにあたる部分が未定稿になっている。

https://www.aozora.gr.jp/cards/000218/card46946.html

 次に第四章と第五章を引用する。なお,「親鸞は『真実』を獲得したのか」という視点で,論理を追う点で私が不要と思われる箇所は削除し,適宜コメントしている。

以下引用————————————————
四 宗教的真理

 親鸞がこころをつくして求めたのは「真実」であった。(中略)真実の教、真実の行、真実の信、真実の証を顕わすことが彼の生涯の活動の目的であった。(中略)彼が明らかにした真実の教と行と信と証とがいかなるものであり、また相互にいかなる関係にあるかについては、私の研究の全体を通じて次第に述べられるであろう。(元晴メモ:前述のようにこの論文では必ずしも実現していない)ここではまず一般に真実というものが何を意味するかについて、その一般的性格を論じておかねばならぬ。
 宗教は真実でなければならない。それは単なる空想であったり迷信であったりしてはならぬ。宗教においても、科学や哲学においてと同じく、真理が問題である。ただ宗教的真理は科学的真理や哲学的真理とその性質、その次元を異にするのである。もとより宗教の真理も真理として客観的でなければならぬ、客観性はあらゆる真理の基本的な徴表である。親鸞の宗教はしばしば体験の宗教と称せられている。かく見ることはある意味においては正しい。(中略)真理は決して単に体験的なもの、心理的なもの、主観的なものであり得ない。もとより宗教的真理の客観性は物理的客観性ではない。その客観性はにおいて与えられている経は仏説の言葉である。信仰というものは単に主観的なもの、心理的なものではなく、経の言葉という超越的なものに関係している。「それ真実の教をあらはさば、すなはち大無量寿経これなり。」と親鸞はいっている。経は釈尊の説いた言葉であり、その真実性は釈尊の自証に基づくのである。しかし釈尊は歴史的人物であるとすれば、その言葉はいかにして真の客観性、真の超越性を有するであろうか。釈尊の自証といっても、それはいかにして真の客観性、真の超越性を有するであろうか。仏教における聖道門は釈尊を理想とする。それは釈尊によって自証された法を自己自身において自証しようと努力する。経の言葉とはそれ自身として絶対性を有しない。かくしてそれは宗教であるよりも道徳ないし哲学であることに傾くのである。聖道門は釈尊を理想とする自力自証の宗教として、そこに真の超越性は存しない。しかるに浄土門は釈尊を超越した教である。親鸞は真実の教である『大無量寿経』について、「如来の本願をとくを経の宗致とす。すなはち仏の名号をもて経の体とするなり。」といっている。弥陀如来の本願や名号は釈尊を超越するものである。真に超越的なものとしての言葉は釈尊の言葉ではなくて名号である。名号は最も純なる言葉、いわば言葉の言葉である。この言葉こそ真に超越的なものである。念仏は言葉、称名でなければならぬ。これによって念仏は如来から授けられたものであることを証し、その超越性を顕わすのである。本願と名号とは一つのものである。経は本願を説くことを宗致とし、仏の名号を体とする故をもって真に超越的な言葉であるのである。かくのごとき教として『大無量寿経』は真実の教である。
(元晴メモ: まとめると,客観性が真理の基本的な属性であり,その客観性は釈尊の言葉で約束されている,浄土門では釈尊を超越した教えであり,弥陀如来の本願や名号は釈尊を超越するから,真実の教えだと,三木は言っている。親鸞が釈尊の教えに全幅の信頼を置いているという観点からではなく。)

 しかしこの超越的真理は単に超越的なものとしてとどまる限り真実の教であり得ない。真理は現実の中において現実的に働くものとして真理なのである。宗教的真理は、哲学者のいうがごとき、あらゆる現実を超越してそれ自身のうちに安らう普遍妥当性のごときものであることができぬ。それはそれ自身のうちに現実への関係を含まなければならぬ。弥陀の本願はかくのごとき現実への関係において普遍性を含んでいるそれは「十方衆生」の普遍性である。すなわち第十八、十九、二十の三つの重要な願はいずれも「十方衆生」という語を含んでいる。十方衆生という現実の普遍性への関係は、本願において、後天的に付け加わってくるのではなく、かえってもともと本願のうちに内在するのである。したがって本願の普遍性は単に経験的普遍性ではなく、先天的な超越的な普遍性である。普遍性は真理の基本的な徴表であるが、単に経験的な普遍性は真の普遍性であることができぬ。しかしまた単に超越的な普遍性は現実との関係を欠いて真の普遍性の意義を有しない。本願の普遍性はかくのごとき抽象的な普遍性ではなく、十方衆生の普遍性をそれ自身のうちに含んで、現実的普遍性への傾動をそれ自身のうちに含んでいる
(元晴メモ: 真理は現実に働かなければならない。弥陀の本願は十方衆生への働き掛けを含んでいる。〈なお,十方衆生じっぽうしゅじょうとは,新纂浄土宗大辞典によれば,「すべての世界の生きとし生けるもののこと。十方とはすべての方角を意味し、衆生とは、六道輪廻するすべての生き物を意味する。阿弥陀仏の本願はすべての衆生に行き渡る」とある〉。その先天性ゆえに真理の基本的な属性である普遍性を持つ。弥陀の本願は地上の生きとし生けるものに対して現実的普遍性を持つとする。)

 しかしながら十方衆生の普遍性もなお抽象的である。宗教においてはどこまでも自己が救われるということが問題である。(中略)宗教的真理は実存的真理、言い換えると、生ける、この現実の自己を救う真理でなければならぬ。親鸞が求めた教法はまさにかくのごとき実存的真理であったのである。「弥陀の五劫思惟の願をよくよく案ずれば、ひとへに親鸞一人がためなりけり。」と『歎異鈔』にいわれている。(中略)『教行信証』において種々の経論を引いて諄々として教法を説き去り説き来る親鸞は、諸所において突如として転換していわゆる自督の文を記している。この劇的な転換の意味は重要である。この自督の文は電撃のごとく我々の心を打つ。今や彼は自己にかえって客観的普遍的な教法を自己自身の身にあてて考えるのである。自督とは自己の領解するところをいう。教法の真理性は自己において自証されるのでなければならぬ。教は誰のためでもない、自己一人のためである。かくして「十方の衆生」のための教は実は「親鸞一人」のための教である。普遍性は特殊性に転換する。かかる転換をなしおわることによって普遍性もまた真の普遍性になるのである。今や特殊性に転換した普遍性は現実的に普遍性を獲得してゆく。教をみずから信じた自己は人を教えて信じさせる。(中略)それは同朋同行によって地上に建設されてゆく仏国にほかならない。(中略)
(元晴メモ: 親鸞は,一人,求めて求めて終に,釈尊から直接教えを受けた,釈尊の教えを体得した,そういう親鸞だからこそ,他の衆生に釈尊の教えを伝えることができる。親鸞を介して釈尊が衆生に語りかけることが可能となる。実存的真理となる,と言っている。)

「我が歳きはまりて安養浄土に還帰すといふとも、和歌の浦曲の片雄波よせかけよせかけ帰らんに同じ。一人居て喜ばば二人と思ふべし。二人居て喜ばば三人と思ふべし。その一人は親鸞なり
 われなくも法は尽きまじ和歌の浦
   あをくさ人のあらんかぎりは。」
といわゆる『御臨末御書』の中には親鸞の遺言として伝えられている。「親鸞一人」のためのものと思われた救済の教は、救済の成立すると同時にそれがもともと「十方衆生」のためのものであることが理解されるのである。
 ところで本願は言うまでもなく弥陀の本願である。経によれば、この仏は仏と成る前には法蔵菩薩といい、世自在王仏のもとにおいて無上殊勝の四十八の願を建て、それに相応する行をかぎりなく長い間修め、願が成就して仏と成って阿弥陀仏と称した。本願は弥陀の本願として特殊のものである。しかしながらこの仏は単に自己のみが成仏することを志願したのではなく、弘く世とともに救われんことを誓ったのである。弥陀の本願はこの仏〔以下欠〕
(元晴メモ: 遺言からすると,親鸞は自らは迷いから脱して,釈尊の声を聞こうとするあなた達のそばに居るよ,と声かけしている。その親鸞の姿勢は,実は法蔵菩薩が仏となった流れと対応している,と三木は言う。)

五 社会的生活

 (中略,宗教は真実でなければならない,という文脈とはつながらないので元晴は省略している)
 すでに述べたごとく、末法時の特徴は無戒ということである。そこには道俗の本質的な区別はなくなる。賢愚、善悪、凡聖、老少、男女の区別も意義をなくする。それは聖道自力の教とは異なる絶対的な教が出現すべきことを意味している。この教は信心を根本とする教である。「弥陀の本願には老少善悪のひとをえらばず、ただ信心を要とすとしるべし。そのゆへは罪悪深重、煩悩熾盛の衆生をたすけんがための願にてまします。しかれば本願を信ぜんには、他の善も要にあらず、念仏にまさるべき善なきゆへに、悪をもおそるべからず、弥陀の本願をさまたぐるほどの悪なきがゆへに」と『歎異鈔』にはいわれている。すなわち真理あるいは仏法、出世間の法は「信心為本」である。往生のためには他の善は要なく、念仏で足りるとすれば、すべての念仏者は、僧俗を分たず、貴賤貧富を論ぜず、平等でなければならぬ。末法時における無戒は諸善万行を廃してただ念仏のみが真実であるということの徴表である (注*)。
無戒ということは諸善万行の力を奪うものであり、そして積極的には念仏一行の絶対性、念仏の同一性、平等性を現わすものである。念仏はあらゆる人において同一であり平等である。念仏の行者はたがいに「御同朋御同行」である。かかる御同朋御同行主義は浄土真宗の本質的な特徴であり、そして、そこに信者の社会的生活における態度の根本がなければならぬ。かかる兄弟主義の根柢は全く「同一念仏無別道故」である (注**)。
しかも念仏がすべての人において平等であり、同一であるのは、この念仏が自力の念仏ではなくて他力の念仏であるがためである。もしも念仏が自力の念仏であるならば、各人の念仏に勝劣があり、平等ではないであろう。すべての念仏は弥陀廻向の念仏であるが故に、同一であるのである。そこにはもはや師弟の差別さえもあり得ないのである。「親鸞は弟子一人ももたずさふらふ」という。「専修念仏のともがらの、わが弟子、ひとの弟子といふ相論のさふらふらんこと、もてのほかの子細なり。親鸞は弟子一人ももたずさふらふ。そのゆへはわがはからひにて、ひとに念仏をまうさせさふらはばこそ、弟子にてもさふらはめ、ひとへに弥陀の御もよほしにあづかりて、念仏まうしさふらふひとを、わが弟子とまうすこと、きはめたる荒涼のことなり。」と『歎異鈔』は記している。同朋同行主義は念仏は弥陀廻向のものであるというところにその超越的根拠をもっている。そこには我はなくわが弟子もなく、ただ教法のみが人を尊厳ならしめるのであって、互いに「御同朋御同行」として相敬うのである。(中略)「ああ弘誓の強縁、多生にもまうあひがたく、真実の浄信、億劫にもえがたし、たまたま行信をえば、とほく宿縁をよろこべ。」と『教行信証』総序にはいわれている。弥陀の法を聞くということは重縁によるのであり、如来の方から我々に結ばれた強縁によるのである。たまたま信心を得たものはかかる宿縁をよろこぶべきであり、念仏の行者はかかる宿縁においてつながるものとして原始歴史的自覚において、同朋の意識を深めるのである。(中略)
注解説
*「問ていはく、聖人の申す念仏と、在家のものの申す念仏と、勝劣いかむ。答へていはく、聖人の念仏と、世間者の念仏と、功徳ひとしくして、またまたかはりあるべからず。」と法然は書いている。
**曇鸞の『往生論註』下には「同一に念仏して別の道無きが故に、遠く通ずるに、それ四海のうちみな兄弟とするなり」と示されている。(中略)
 そこで親鸞は諸経典を根拠として真実の教と虚偽の教とを分別し決著して外教邪偽の異執を教誡する。『涅槃経』には「仏に帰依せん者はつゐにまたその余のもろもろの天神に帰依せざれ」といい、『般舟三昧経』には「みづから仏に帰命し、法に帰命し、比丘僧に帰命せよ。余道につかふることをえざれ、天を拝することをえざれ、鬼神をまつることをえざれ、吉良日をみることをえざれ。」といって、仏教徒の帰依すべきはただ仏と法と僧との三宝であり、もっぱら仏道につかえて、天を拝したり、鬼神をまつったり、日の吉凶を卜したりするがごときことをしてはならぬと教えている。(中略)
 仏教と外教とはどこまでも区別されねばならぬ。道家のごときは虚無恬淡を説いて一見仏教の根本思想と等しいようであるが、これに対して親鸞は『弁正論』を引いて批判を加えている。儒教の説くところは正しいにしても、「ただこれ世間の善」に過ぎない。仏教は絶対的である。この絶対的真理に対してその余の教はすべて邪教である。『涅槃経』には道に九十六種があって、ただ仏の一道のみが正道であり、他の九十五種はみな外道であると述べている。「九十五種みな世を汚す、ただ仏の一道のみひとり清閑なり」と善導はいっている。仏教とその他の教との価値の差別は絶対的である。我々はまずこのことを知らねばならぬ。仏教は絶対的真理であり、他の教の真理は相対的価値を有するに過ぎぬ。しかも、相対的真理はその相対的価値においていかに高まるにしても、またそのすべてを加え合せても絶対的真理となることはできない。
 我々にとって何よりも必要なことはまずこの絶対的真理を把捉することである。しかもこれはただ超越によって捉えられることができる。信とはかくのごとき超越を意味している。相対的真理から絶対的真理へは非連続的である。これに反して絶対的真理から相対的真理へは連続的である。前者は後者の根拠としてこれを含むことができる。親鸞は信巻において『浄土論註』から次の文を引いている。「もし諸仏菩薩、世間出世間の善道を説きて、衆生を教化するひとましまさずば、あに仁義礼智信あることを知らんや。かくのごとき世間の一切善法みな断じ、出世間の一切賢聖みな滅しなん。」すなわち世間の法たる仁義礼智信の五常もまた仏道におさまるのである。仏法があるによって世間の道も出てくるのである。
(元晴メモ: 専修念仏観は,末法説に立っているが故に,南無阿弥陀仏の前には,十方衆生はすべて平等という。在家,出家に関わらず,神道を含めて,仏道以外はすべて外道である。外道に落ちないように緊張して,社会的生活をしなければならない。孔子の『論語』にいう五常も仏道に含まれる。仏道は絶対的真理,である。)
引用終わり————————————————

 三木清は,この『親鸞』で,宗教は真実でなければならない,というテーゼが真なることを証明すべく,書き込んでいる。しかし,自ら発表するには至らなかったのである。特に最後の第五章では,親鸞の教えが絶対的真理であると,言い切っている。三木の論文作成プロセスを反映したものと私は考えている。とはいえ,宗教は真実でなければならない,を『教行信証』から論じるには,親鸞の時代そして我々が暮らす現代も,末法にあたらなければならない。この前提が崩れたら『教行信証』の根幹が崩壊する。これについても三木清の思いは及んだであろうか。
 この世に,時空を超越して,絶対的に不動の高く聳える価値世界は存在しない,と考えるのが世の常識であろう。誰にでも見える(ように思っている)ものは存在し,極めて少数の者にしか見えないものは存在しない,という考えも,世の常識であろう。
 しかしながら実際は,親鸞が仏となって親鸞の見た世界に自らの人生を懸けた人々の数は数知れず,確かに一定の衆生の間では確たる世界が作られている。親鸞と関わらない人々はより多いのであるが,例えば中世の欧州を主とする地域でのキリスト教世界となると,圧倒的な多数派はクリスチャンである。人類史の時空のなかで宗教が占める場は圧倒的に「科学」を越えている。言い換えると,日本などの限られた場での多数派が「科学」に過ぎない。
 宗教と科学を対立させる場合,科学を優位に考えるのが,現代ではこれまた常識であろう。私も科学の一端を担ってきたのでよくわかるが,学会の「研究者」達は科学をするというよりも,伝統に則ってただ決まり切った作業をしてきただけである。ましてや学会に属していない人々は,科学とは何かも知らないであろう。三木清が,宗教と科学の問題に果敢に取り組んだことは,三木清の『人生論ノート』など多数のエッセーを見れば,凄く自然に感じる。ただ,文面には現れていないが,仏道以外は外道とする排他性については,首をかしげていたかも知れない。

 宮澤賢治の『グスコーブドリの伝記』で,クーボー大博士は,自立的に観察ができるグスコーブドリの能力を高く買った。賢治の時代は今以上に学歴幻想の高い時代である。全く学歴のないグスコーブドリであったが,彼の高い観察力を見抜いたのである。世の常識や世の流れに乗るのではなく,いわば実存している少年の力を見抜いた。この力は科学に向けられるというより,人の幸せに向けられる。宗教より,世の中に流されるだけの似非科学が優位に立つ,想像力の欠落した見せかけの社会には早めに決別した方がいい。

 このように考えてくると,三木清が述べた,宗教においてはどこまでも自己が救われるということが問題,と言い切ることができるのだろうかと思う。釈尊がそういう(狭量な)思いを持った衆生を救いたいと思うだろうか。死後の淨土よりも,生きている今,隣人を愛し行動してこそ,人は救われるのではないだろうか。宮沢賢治の「雨ニモマケズ」に歌われている生きる姿勢こそ,時代と文化を超えた信仰ではないか。三木清の信仰観は,果たして今なお生きているのだろうか。

4. 王仁三郎の『霊界物語』口述筆記の考え方

 親鸞は学者的=理知的,王仁三郎,イエスは,神懸かり的,第二次大本事件裁判。 

出家とその弟子による,専修念仏の意味を,教行信証,のあとに,追加すること。

Jul. 8, 2020途中