はじめに
  大本教のWebサイトでは,かなで,「おほもと」とし,ローマ字でOomotoとしている。この点について,言語学の専門外ながら,疑問を感じて調べてみた。

1. 現代仮名遣「おおもと」と歴史的仮名遣「おほもと」

 「大本」の読みについて,手許の大部な国語辞典4種について見たところ,1978年と1981年発行のもの(学研国語大辞典と小学館国語大辞典)には,「おおもと」には「おほもと」も注記されている。1989年と1998年発行のもの(講談社日本語大辞典,三省堂新辞林)ではその注記は消えている。

 ウィキペディア「現代仮名遣」「歴史的仮名遣」の両記事から見ると,1986年7月1日(第二次中曽根内閣時代),現代仮名遣い(内閣告示第一号)が告示、訓令され,これに従って,辞典には,「現代仮名遣」が積極的に採用され,「歴史的仮名遣」が表記されなくなったのである。とはいえ,「現代仮名遣」は学校教育や公文書に適用されるもので,もちろん,商標などに強制的に適用されるものではない。

 歴史的仮名遣の「おほもと」と現代仮名遣「おおもと」,の関係を知る上で,ウィキペディア「字音仮名遣」中の「和語と漢語語彙の区別 ー オ段+オは必ず和語」を援用すると次のようになる。「大きい」の読みは「おおきい」で,これは日本語固有の和語である。「大きい」の歴史的仮名遣は「おほきい」になる。古音は,[oɸokii]となる。

 実際,The many varieties of Japanese regional speech(https://languagelog.ldc.upenn.edu/nll/?p=46527)にも,大きい /ookii/ “big” was historically written/pronounced 「おほきい」/oɸokii ~ owokii/ とされている。

2. アルファベット表現

 以上から,おほもと,の表記に拘れば,アルファベット表現では,oɸomotoとなる。ɸをfで転写すれば,ofomotoとなる。現代仮名遣で良いとなれば,おおもと,から,ローマ字では,Oomotoになる。
 両者がどのように発音されるか,を次のサイトで調べた。

How to pronounce https://www.howtopronounce.com/oomoto

3. Oomotoと「おほもと」は不一致

 ofomotoはオフォモト,Oomotoはオーモトに聞こえる。後者の方が日本人として違和感はないので,アルファベット表記のOomotoを受け入れることができる。Oomotoの発音のオーモトは,初発の音のストレスがかなり大きい。丹波の発音ならば一本調子でオ-オ-モ-トであるが。
 世の中が歴史的仮名遣から現代仮名遣に変わったから,「おほもと」も「おおもと」に替えるというのは,言霊学を中核とする大本(教)としては寂しく,「おほもと」を残す意義は低くはない。
 翻って,「おほもと」を残すのであれば,ローマ字表記も,Ohomotoとすべきと考えざるを得ない。英語発音もオ-オ-モ-トに近い。(以上,May 25, 2020記)

 Oomotoは見た印象が四個のオーが並んで印象的ではあるが,「おほもと」を曲げて,「おおもと」として,ローマ字表記したものである。教団の看板としても記録的観点からも適切ではないので,私は,「おほもと」のローマ字表記を,敢えてOhmotoとしたい。(この文のみMay 26追記)

 May 30, 2020追記
 大本が国に提出している文書から作成されたデータベースを昨晩見て,愕然とした。「国際宗教研究所」が運営する宗教情報リサーチセンターのものである。

http://www.rirc.or.jp/xoops/modules/xxxxx05/detail.php?id=30

これによると,
データベース更新年: 2014年,名称: 大本,読み仮名: おおもと
となっており,分裂後の大本(教)は,現代仮名遣いの「おおもと」を採用している。
 Wikipediaによれば,「公益財団法人国際宗教研究所」は,宗教に関する公益法人であるが,東京大学の教授・岸本英夫等を中心に、各宗教の交流等を目指して1954年5月4日に設立された,ものだそうだ。このデータベースでは宗教団体を検索できる筈であるが,分裂後の,「愛善苑」や「大本信徒連合会」はヒットしない。意図的に忌避されているようである。

4. 王仁三郎は平気でPropaganda優先 以降May 27, 2020追記

 Oomotoの意匠的価値は高く,ひょっとすると,言霊学などとは関係無く王仁三郎自ら採用したものではないか,Esperanto誌のタイトルに使っているのではと気になった。ネット検索すると,ナーント,あった。「日本の古本屋」から次の三点の画像を拝借した。

https://www.kosho.or.jp/products/detail.php?product_id=19362650

Esperanto誌「Oomoto」の表紙
Esperanto誌「Oomoto」の目次
Esperanto誌「Oomoto」の案内号(Konturoはcontour, outline)

 ここでの論証の流れから外れるが,次の略年表では,
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大正14年(1925)1月 宣教のため「神教伝達使」を任命(5月に「宣伝使」と改称)
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 キリスト教の宣教師または伝道師に替わって,「宣(教)+伝(道)」使が考案されている。この宣伝こそ,Oomoto誌発行元の「Oomoto Propaganda Oficejo」のPropagandaに対応するものである。父から宣伝という言葉は大本から始まっていると聞いたことに対応すると思う。

エスペラント誌「OOMOTO」についての情報が次の本に示されている。
Erica Baffelli, 2016. Media and New Religions in Japan. Routlege,178p.

 この本の関連部分(pp. 29-31)を次に引用する。
    One of the forerunner groups in implementing a savvy use of media for enhancing the group’s public image was Oomoto, a group founded in 1892 by Deguchi Nao (1836-1918). It was under the co-founder Deguchi Onisaburo (1871-1948) that the group’s media strategies were implemented. In 1908, the group published its first magazine, called Hokyo kasha, and by 1929, it owned thirteen magazines. In 1920, the group bought an Osaka newspaper, the Taisho Nichinichi Shinbun, published a magazine in the Esperanto language called Oomoto in 1925 and opened its own publishing house in 1931. Deguchi Onisaburo, in particular, extensively employed print media and recognized the power of visual images. Oomoto also implemented what we would now define as “media mix” (in Japanese media mikkusu), a combination of different media technologies and advertising strategies to promote the group and target difference audiences: magazines, journals, photograph albums, and visual media, in particular, film. Movies could be used to attract larger audiences and reach viewers outside the sphere of Oomoto’s members, a strategy that, as will be seen later, was implemented by other groups by using public events and spectacular rituals (such as Agonshu’s Hoshi Matsuri discussed in Chapter 3 in this volume). Furthermore, movies were used by Oomoto to enhance the leader’s charismatic aura and create visual associations between the leader and various figures in the Japanese religious pantheon. In the film Showa no shichifukujin (“The Seven Lucky Gods of the Showa Period”), for example, Onisaburo dressed in costumes representing each of the Seven Lucky Gods (shichifukujin, Stalker 2008, 133-137) and embodied the deities. It is clear that Oomoto’s legacy is important for new religions’ media strategies, especially for the importance placed on visual media. 

5. Esperanto誌Oomotoの出版について

 上記引用文は,ジャーナリスト的視点から記述されていると言っても良いかと思う。ここで注目したいのは,エスペラント誌の発行年が1925年で,実際の発行元が吸収した大正日日新聞のように読めることである。この1925年(大正十四年)の大本の動きを知るべく,オニドットコムの略年表の一部を次に示す。

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出口王仁三郎 略年表
https://www.onisavulo.jp/modules/ond/index.php?content_id=15

大正14年(1925)1月
宣教のため「神教伝達使」を任命(5月に「宣伝使」と改称)

同 5月20日
北京で「世界宗教連合会」を設立
同 6月9日
「人類愛善会」設立。世界各地に本部・支部が設置されて行く。『人類愛善新聞』が創刊され、昭和9年には100万部を頒布する
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  上述のBaffelli (2016)では,「In 1920, the group bought an Osaka newspaper, the Taisho Nichinichi Shinbun, published a magazine in the Esperanto language called Oomoto in 1925 and opened its own publishing house in 1931」とある。繰り返すが,1920年(大正九年)に大正日日新聞を吸収し,1925年(大正十四年)にOomotoを発行した。オニドットコムの略年表には次の項がある。

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大正10年(1921)2月12日
第一次大本事件で入獄(49歳)(起訴されるが昭和2年に大正天皇崩御による大赦令で免訴)
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 大正日日新聞については,スピリチュアリズム研究ノートの「大本教機関紙「大正日日新聞」とは」に,記されている。

https://1411.cocolog-nifty.com/ks802/2016/06/post-c78b.html

 参考文献は主に『大本七十年史』上巻である。ズボラして,この記述をコピペする。

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■経営危機により転々と売却

大正日日新聞の大株主には、勝本忠兵衛(第一次大戦中に続出した鉄成金の一人)や細川護立(元熊本藩主の家柄の侯爵)がいた。また経営陣として社長には貴族院議員の藤村義郎、編集局長・主筆に鳥居素川(「白虹事件」で大阪朝日新聞を退社した元編集長)が就任し、記者には後に著名人となった丸山幹治、稲原勝治、花田大五郎、青野季吉、鈴木茂三郎(戦後の社会党委員長)などが名を連ねていた。

このような個性の強い者が集まった寄り合い世帯であったため、まとまりの悪さがネックとなっていた。さらには武家商法や、大阪朝日(大朝)と大阪毎日(大毎)による徹底的な業務妨害などがあり、1年と持たずに翌年(大正9年:1920年)7月に廃刊となり解散した。解散の際に『大正日日新聞』という紙名は大本教団に売却されて、大本教団の下で9月25日に復刊第一号(9月26日付)が出された(発行部数48万部)。

新たにスタートした『大正日日新聞』の陣容は、社主に出口王仁三郎、社長に浅野和三郎、編集局長に岩田久太郎などが就任した。しかし当初40数万部の発行が3カ月目には20万部に減少し、その後さらに減少して経営が厳しくなり、経営の責任をとって浅野和三郎は大正10年1月に社長を退任し、社主の出口王仁三郎が社長を兼務し大正10年1月12日から本社社長室に起居して陣頭指揮にあたった。

その後の『大正日日新聞』は、大正11年(1922年)7月15日に売却されて大本から離れた(参照:『大本七十年史』上巻、491頁~510頁)。
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 大正十年の第一次大本事件では,大正日日新聞の社長室に詰めていた出口王仁三郎が逮捕される。その翌年に売却されて大本から離れるから,エスペラント誌Oomotoは大正日日新聞とは無関係ということになる。Baffelli (2016)の文脈は誤解を与えるものであることがわかった。

 出口王仁三郎は加藤明子にエスペラント語を学ぶように指導している。この件については別途調べたいと思うが,エスペラント誌Oomotoの発行年1925年(大正十四年)は,先のオニドットコム略年表の大正十四年の記事のように,破竹の勢いで宣伝網が世界に広がった年である。これに『大正日日新聞』時代の人材が登用された可能性は高いように思われるが,表層としては加藤明子の働きがあるのか。いずれにしろ,王仁三郎の許諾が必要で,王仁三郎がOomotoを許容したのは確実である。

6. 参考: 加藤明子の役割を考える上で

 次の大正十四年(1925年)の情報を通じて,加藤明子の仕事の内容の一端を見ることができる。

 霊界物語第七十一巻の口述は,霊界物語ガイドブックp. 353によれば,大正十四年十一月七日,大正十五年一月三十一日,二月一日の3日とされる。計三日であるが,三ヶ月に近い期間での3日である。聖師かなり多忙な中での口述であった。それに,次の資料がある。

https://www.kosho.or.jp/upload/save_image/12032400/01121609_5694a6a590f41.jpg

大本教秘本(霊界物語 第71巻・総説~第22章 口述筆記本(手書きしたものを複写したもの)大正14年8月19日~21日筆記) 出口瑞月口述/松本真澄、北本隆光、加藤明子筆録 刊行年 1925
解説: 霊界物語第71巻・総説~第22章を口述筆記したものを罫紙に複写した冊子、『大本教秘本』とタイトル書き。大正14年8月19日~21日筆記。副羊羹書店の商品

 出口王仁三郎自筆のコピー一枚が公開されている。ここでは,「大正十四年八月十四日に,筆録者の松本(松村の前名か),加藤,北村,三氏らとともに,由良の港に到着したこと,毎日,日本海の波に親しみ,大本の最も由緒の深き男島女島の神域を拝し乍ら,口述する決意など」が八月二十一日付けで認められている。

 この『大本教秘本』では口述日は八月十九日〜二十一日で総説~第22章,出版されたヴァージョンの口述の日付は三ヶ月ほど後になっており,章立ても20章と異なる。霊界物語一巻の口述が大きく二時期に亘ることには驚きを隠せない。筆録者の負担は編集作業にも及んでいた可能性を感じている。加藤明子女史が,霊界物語の筆録,編集,などを実施しつつ,エスペラント誌の実質編集長として,活躍した可能性は低いと感じている。

 このページ作成後,新たな情報を元に,次のページを追加した。Jun. 15, 2020記