はじめに

 高熊山岩窟の正確な位置を示した地図はネット上などにはみつからない。昨日Sat., Jun. 20, 2020, 出かけた際に,iPhoneにインストールしているGPS地図ソフトGeographicaを使用してトラックを記録,主要分岐地点の写真も撮影した。幸い,昨日は梅雨の晴れ間に当たった。

 後に出口王仁三郎となる上田喜三郎は,『霊界物語』第1巻によれば,小幡神社の産土神に高熊山の岩窟へと導かれて,一週間の断食修行を行い霊界探検をする。その際の体験を中核にして後に口述筆記をした教典が『霊界物語』とされた。出口直の大本神諭とともに,大本の最高二大教典の一つとされている。

 このルートを歩いてみて,この聖地の現状と意味について,以前も考えていたことではあるが,改めて,考えさせられたので,アクセスルートの記述の次に述べてみたいと思う。

I. 高熊山岩窟アクセスルート

 そのルートは,次のGoogle Earth画像中の薄い紫色の線で示したものである。ただし,喜三郎は近隣の小幡神社から出発している。高熊山は穴太の里山であり,穴太の人であれば極めてポピュラーな場所である。

図1 高熊山岩窟アクセスルート

 車で大阪から出かけたので,図中の北端に近く無料の亀岡市運動公園第3駐車場に駐めた。ここから徒歩で南下して,1.交差点右,とした所を次の写真に示している。

 

図2 1. 交差点 道標: 丹波散策の道

この交差点を南下直進すれば,すぐに小幡神社に着く。私たちはこの交差点で右折して西進し,喜三郎生家跡地の瑞泉苑(ずいせんえん)に進んだ。

図3 2. 瑞泉苑 入口

瑞泉苑の入口である。手水,トイレなども利用できる。

図4 瑞泉苑の玉の井

瑞泉苑に入ると,玉の井,の立て札が見える。この後背が井戸で,聖師生誕時の産湯にも使われた。信者にとってこの水を頂けることは喜びではあるが,使用頻度が低く,鉄さびの味がした。

なお,玉の井は,もともとは井戸の意味ではなくて,これに近接する屋敷内の湧水池を意味する。この立て札は誤解を生じさせる。小学生の時にこの由来を父に尋ねた時,参拝客が並んでいたためだろう,説明を躊躇った記憶がある。その謎が今解けた。

図5 玉の井は瑞泉苑敷地南縁のトレンチ

玉の井は,左のGE画像の2.瑞泉苑敷地南縁に水が溜まる長さ35m余のトレンチである。この玉の井については,聖師の自叙伝歌集を通じて,後述する。

この穴太の里は,高熊山巌窟から続く扇状地上に立地しており,この玉の井の湧水は,扇端部特有のものである。この地は,高熊山からの地下水脈末端に位置しているのである。

図6 瑞泉苑歌碑など
図7 3. 瑞泉苑からさらに西に進んで,ここで左折

瑞泉苑入口の前をさらに西に進んで,ここで左折する。

図8

ほぼ中央の丸山の左後ろに岩窟が位置するが,ここからは見えない。後述する理由から,穴太の里からよりも,犬飼川から眺望すれば巌窟付近を見ることが可能と思われる。

図9 愛善苑の看板

愛善苑が立てた看板であるが,この地図はわかりにくい。この看板の後に赤い矢印があって,すぐそばの道を左折しないように注意喚起しているが,この看板の前に居る時には,その存在に気づかなかった。

この看板を気にせず,そのまま直進する。

図10 5. ゴミ持ち込み禁止看板

5. ゴミ持ち込み禁止看板: この汚い「穴太区」署名の看板は何を意味するのか。この分岐点から高熊山方面を遠望すると左の道は山中に迷い込むように見えて,右の道を見ると開けていて,「高熊山」に行けるように見える。実際,私たちは過って右に進んだ。

このゴミ看板の右には道路標識があるが,全く高熊山案内情報がない。

 穴太が生んだ巨人出口王仁三郎は,穴太でも,亀岡でも,正当に評価されていないように思える。マタイによる福音書13章55節で,イエスに対して「この人は大工の息子ではないか。母親はマリアといい、兄弟はヤコブ、ヨセフ、シモン、ユダではないか」とされ,マルコによる福音書6章3節でも,「このように、人々はイエスにつまずいた」とある。

 ゴミ看板右手のこの真新しい道標は京都府か亀岡市が設置したものであろう。大本(3教団)は表示を拒否しているのだろうか。信者からすると聖地への道で,このような下劣な看板には耐えられないので,大本と地元で話しあって欲しいものである。

図11 6. 関係者以外立入禁止 関係者は穴太区民だけか?

6. 関係者以外立入禁止: ここでは,松茸山だから入るなと鉄柵が設置されている。シーズンオフなのに。聖地へは,この右手の隙間からすり抜けて行かなければならない。

こういう柵をする権利は,穴太区には無い。道路の先に大本が所有する区画があるのだから。悪魔の仕業か。

図12 7. ちょっと開けた所 下山時に撮影

7. ちょっと開けたところ: スギの植林地が続く。他の地域に比べると,比較的よく管理されている。

図13 8. 高熊山登山口

8. 高熊山登山口: ここから遠くないが比較的急な登山道となる。

この手前に手水が用意されている。ここで口を濯ぎ手を洗ってもいいが,瑞泉苑の水はこの水が地下水となって浄化されたものであり,瑞泉苑で濯げば足りるだろう。

奥の看板も神域に思えぬ残念な注意書きがある。

図14 ピクニックでコーヒー

軽い昼食を取り,おいしいコーヒーを飲んだ。

図15 

登って,

図16

登って,

図17 9. 上古の小幡神社址

9. 上古の小幡神社址 この種の山地に珍しい比較的広いバットレス。この奥に高熊山岩窟がある。

図18 高熊山岩窟

岩窟壁面上には四十八宝座跡にあたる凹みが多数分布している。

岩窟前方には幅狭いが明瞭な棚が見られる。

図19

この岩脈は北西方向の日本タニハ研究所に延びる。

立て札には,奉唱する神号として,大本皇大御神,瑞之御霊大神とある。現在使われている大本祝詞とは異なっている。

中生代丹波層群ジュラ紀付加体に属する海成頁岩質互層には,宝座跡の凹みが見られる。下方はかつて人工的に削られた形跡が見られる。いつの時代か,狭い棚面の拡張工事が実施されたのである。

図20 ヒトツバ シダ植物ウラボシ科 Pyrrosia lingua

迫り出したバットレス縁辺には,シダ植物の一つ,ヒトツバの群落が見られる。

図21 南南東方向に犬飼川流域が見られる

この写真は南南東方向に向いて撮影している。

図22 巡礼ルート上の上古の小幡神社など

上の眺望を,左のGEの画像と比べると,高熊山岩窟眺望サイト候補として,亀岡市曽我部町犬飼寺尾1付近(南西に見える山地の麓に置いた黄ピン:高熊山巌窟眺望サイト候補)が考えられる。
34°59’32.69″N 135°31’54.12″E

近いうちに,出かけたいと思う。大阪からだと,423号線を使って法貴の坂を降りて(南端の黃ピン:423号法貴の坂の麓),茶屋下又の交差点を左折西進して麓沿いの道を使えば到達する。

図23 高熊山岩窟は南向き

このGE画像は上方が北で,3D表示している。聖師修行の場は,南向斜面にある。聖師修行中,日月,オリオン星座の記述があるが,この場からの眺望によく対応している。

高熊山岩窟の南西側に,9.上古の小幡神社址が位置している。

図24 高熊山岩窟から9.上古の小幡神社址を見る

以上 深夜,Mon., Jun. 22, 2020記,更新 Thu, Jun. 25, 2020

II. 聖師の穴太での暮らし

 前述のように,穴太区の高熊山岩窟というか大本に対して悪意が見える。この理由は,ゴミ看板や遮蔽柵を設けたコミュニティに聞けばいいのかも知れないが,その人々が正直に言ったとしても,その認識や内容が当を得たものかは,甚だ怪しい。ゴミ看板,遮蔽柵,そして大本の立て札,には残念ながら悪意という共通性がある。

 聖師の自叙伝を改めて見ることも,この問題を解く鍵があるかもしれないと思った。歌集自叙伝は,私が大阪に来て,父からまとめて受け取っていて,面白くて,一気に読んだ記憶があるが,三十年余り前のことである。

 この復刊歌集の第1巻『故山の夢』の自序の一部を引用する。

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私は本年六十一歳になりました。丹波国南桑田郡曽我部村大字穴太小作農上田吉松の伜として明治四年陰暦七月十二日見るもささやかな破屋に産声をあげたのです。七八歳頃からのことは朧気ながら記憶して居ますが,それ以前のことは少しも覚えて居りませんから如何ともすることは出来ません。只幼少の時の記憶を辿って僅かにその一小部分を歌に詠んで発表しました。
見るもいぶせき水呑百姓の伜で,小学校時代から種々の圧力や虐げを中産以上の児童や百姓連や地主から受けずいぶん慷慨悲憤の涙を搾って来たものです。その頃の地主と小作人の関係は今日から見れば比較にならない程の惨めなものでありました。地主は小作人に対しては全然暴君そのものの様であり,貧乏人を軽蔑することは実に現今人の想像も及ばない位です。故に私も若い時は随分自暴自棄になったり徒ら遊びをして無念を晴らそうとしたものです。大抵のことは拙著霊界物語捨身活躍子,丑の巻に記述しておきましたが,それに漏れたものや記憶に著しい事件を三十一文字に散文の代用として詠んでありますので,もとより歌の調だとか巧拙だとかには留意せず,可成的解り易き様にと平易に述べ歌っておきました。(後略)
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 自叙伝にあたる歌集は復刊歌集全5巻に及び王仁三郎が綾部に移るまでの第一〜三巻に,聖師が道を求めて奮闘された穴太の暮らしを知ることができる。高熊山岩窟修行を経て開眼する聖師に関わっての地元民との関係を見ることができる。

 ここでは主に玉の井に関わって,『故山の夢』から抜粋する。

 狭田 十二,三歳の頃 p. 16
半段に たらぬわが家の稲の田は 山上よりは目にもいらざり
君が家の 田は何処ぞと柴のともに 問はれて顔をあからめにけり
p. 18-19
地主らは 父の名までも呼びすてに 奴僕のごとくあつかふを憤(いか)りぬ
ひまあれば 地主の家をおとづれて 小夜ふくるまではなしてかへる
富める人も 次第次第にしたしみて われを特別あつかひにせり


 教鞭 十三歳より十六歳まで p. 28-31
背の高き 生徒におぶさりボールドに 白字しるして教鞭をとる
十三の 教師のわれは何も知らず 女工場の女にからかひつづけし
まん二ねん 小学校に教鞭をとりて 十五の春にしりぞく
玉の井の 池に関して村びとの 圧迫つよく窮地におちいる
プロレタリア 小作の父は地主らに 小作田のこらずとり上げられたり
雇はれし 主家にいとまをこひながら 村全体と論争をなす
論争の 結果やうやくわれ勝ちて 池の年貢を村より収むる
弱ければ 踏みつぶさるる世としりて 心の駒をたてなほしたるも
小作田も 少なくなりてやむを得ず 車をひきて生活をなす

 「過去の経緯」で小作農の喜三郎宅ではあるが灌漑池「玉の井」があって,聖師は,嫉妬心と我欲から取り上げようとする周囲の圧力に抗して,見事守り抜いている。

 過去の経緯,についてであるが,『大本七十年史』上巻 p.107によれば,「喜三郎の生家上田家は,古くは,藤原を名乗り,八代前の藤原政右衞門の代に,「上田」に改姓したといわれている。上田家の産土神社である小幡神社(穴太)所蔵の文書によると,『一巴上田・二巴斎藤・三巴藤原』と記されており,家紋の取り決めがなされていたが,喜三郎の生家の家紋は,藤原にちなんで三巴であった。上田に改姓後も,家紋だけは引きつづき藤原のものを使用したのであろう。生家の上田家は,もとはゆたかな農家で,良田をあわせて広い山林を持っていたと言われている」,とある。回りくどい説明ではあるが,もう少し引用p. 108を続ける。「村の伝承によると,上田家のもとである藤原家は,文明年間に大和国から一家をひきいて,丹波国曽我部の郷へ落ちてきたが,当地に五町歩のニ毛田の上田を所持していた(中略)。上田久兵衛の時に,屋敷の西南隅に灌漑用の池を掘って,ひでりに備えていた。(中略)村人は,この池を「久兵衛池」とよんでいた」 。

 小学校の時に父と弟と三名で高熊山に参拝する途中,松茸を収穫して帰る地元の老人と出会った。父は挨拶をして,松茸2〜3本を購入した。5000円を支払ったのを見て,驚いた。そのあと,家計圧迫の意味も込めて,父に高いなあと感想を言ったら,確かになあというような返事があった。これも,大本と緊張関係にある地元民への配慮だったかと今更ながら,理解した。

歌集3巻の書誌

復刊歌集第一巻: 出口王仁三郎,1931年. 歌集『故山の夢』 天声社,昭和六年八月五日初版. 昭和五十一年八月七日復刊(大本教学研鑽所).
本巻には特に注記にあたるものはない。目次から数え年,十歳の頃〜二十八歳の春,の期間のものであることがわかる。

復刊歌集第二巻: 出口王仁三郎,1932年. 歌集『霧の海』 天声社,昭和七年三月廿五日初版. 昭和五十一年九月十八日復刊(大本教学研鑽所).
自序p.1: 「本歌集は丹波に因んで『霧の海』と名付け第六歌集として発刊しました。拙著『故山の夢』の続編であって四歳(復刊あとがき: 明治八年)の頃から廿八歳の冬(復刊あとがき: 明治三十二年一月)までの追懐集」とある。
霧の海復刊に際して: 「復刊の底本は,出口王仁三郎第六歌集『霧の海』に拠る」とある。大本教学研鑽所によって差別用語などに換わる用語が適用されている。

復刊歌集第三巻: 出口王仁三郎,1932年. 歌集『青嵐』 天声社,昭和七年七月廿五日初版. 昭和五十一年十二月八日復刊(大本教学研鑽所).
本巻序文p.9: 若山喜志子によるものである。ここには聖師の要望によることが記されている。その編者の凡例には,「本歌集は『故山の夢』『霧の海』に続く著者出口聖師二十九歳(元晴注記: 数え年)の歳の懐古歌集であります。第一次大本訪問を了へ一旦退綾せられた聖師が神機熟して翌明治三十二年再度参綾せられ大本開祖に再会し愈々大本に入られた前後の経緯を詠まれたもので聖師伝中,著者としても大本としても最も深い意義を有する部分であろうと思われます」とある。
青嵐復刊に際して: 大本教学研鑽所によって差別用語などに換わる用語が適用されている。「本歌集は聖師二十八歳(元晴注記: 満年齢),明治三十二年一月から同年冬までの回顧であり,『故山の夢』『霧の海』につぐ第三回顧歌集である」とされる。

III 一週間高熊山修行とその前後の広がり

 聖師生誕日は,『大本七十年史』上巻p. 107によれば,1871年(明治四年)8月22日(旧暦七月十二日)。数え年では生まれた日に一歳,翌年の正月一日には二歳とする。霊界物語第一巻に記述されている岩窟前の一週間の修行を開始したのは,1898年(明治三十一年)三月一日(旧暦二月九日)であり,これは数え年二十八歳にあたる。満年齢だと二十七歳になる。聖師の時代の年齢は数え年なので,聖師文献は数え年になっている。『大本七十年史』などは,わざわざ満年齢に換えている。混乱が生じるので,数え年で一貫すべきであろう。生誕日が不確かな時代に対してだけでなく,実施日などが必ずしも不確かなイベントには,満年齢よりも合理的な算法だと思う。ここでは,聖師の記述同様,数え年で記している。

 「一週間の高熊山修行」について,『霊界物語』第一巻の記述だけを見ると,読者は,突如高熊山修行に出かけたように感じるが,歌集自叙伝を見ると,青年期の喜三郎は,救済または道を求める姿勢を貫いており,その大きな転機となったのが,この一週間の高熊山修行であったことがよくわかる。その観点から,私は自叙伝歌集の第一〜三巻を見た。

 聖師はこの自叙伝では,「一週間の高熊山修行」の開始日は,自叙伝では,歌集第1巻『故山の夢』p. 367-の「憧憬の神光」にある。この最初の項,「神愛」に,

月のま下に 白梅薫り 二月八日は風冷え渡る

で始まって,以下,喧嘩の詳細が示されている。『大本七十年史』上巻p. 142-143を次に引用する。「大石某の家で開かれた浄瑠璃の温習会に加わり,かみしもつけて,『絵本太功記,尼ヶ崎の段』を語った。この時,かねて,喜三郎が喧嘩の仲裁に入ったために顔がつぶれたと,そのことを遺恨に思っていた宮相撲取りの若錦が,四,五人の子分をつれて,藪垣をおし破ってあばれこんだ。そして喜三郎を高座から曳きずりおろして,近くの桑畑へかつぎこんで袋叩きにした」,「喜三郎は,祖母や母にいらぬ心配かけまいと,鄕神社(現神明社)の前に借りうけてあった小屋(喜楽亭)に傷つけられた身をかくした。翌朝母がそのことを知って,小屋にやってきてくやんでいると,つづいて,当時八十四歳であった祖母宇能が入ってきて,『お前は最早三〇歳に近くもなって,物の道理のわからぬはずはあるまい。侠客だとか人助けだとかいって,たまに人を助けても,助けたよりも一〇倍も二〇倍も人に恨まれ,自分の身に災難がかかってくる。お前は悪人をくじいて弱い善人を助けるのが,男の魂じゃというておるが,鬼神なれば知らぬこと,そんな病弱な身体でできることではない。今年八四になる年寄や,一人の母や小さい妹のあることを忘れたのか。この世に神はないとか,哲学がどうのと,カラ理屈ばかりいって,神様にもったいないご無礼をしたむくいがいまきたのであろう。昨晩のことは全く神様のお慈悲の鞭なのだから,若錦や他の人を恨んではなりませんぞ。一生の恩人じゃと思って神様にお礼を申しなさい(後略)』」。

心改め 天地の神に 痛みこらへて 手を合わす
如月九日 夕べの月は 私の心を照らしてる
夢か現か わしや白雪の 富士の神山の神使ひ
神のよさしの 松岡天使 吾をかかへて天翔る

 『故山の夢』p. 372の3歌を上に掲載する。これが高熊山岩窟一週間修行に至る時の境界を示している。以下,『霊界物語』第一巻の記述とは違った視点で,一週間修行,さらに,その直後の様子が記されていて興味深い。

p. 387-の歌を幾つか引用する。

p. 387
七日七夜 寝ねたる朝(あした) 神に感じて予言する
神よ天狗よ お稲荷さんと 人がうるさく訪うて来る
やむを得ずして 神占すれば 百発百中となりわたる
(中略)
p.392
朝から治郞松 わが家に来(た)り 山子するなと睨めつける
もしも神なら これあてみよと 銅貨をコップに包み来る
ぢつと透視(すか)して 銅貨をあてりや 治郞松けげんな顔をする
飯綱(いずな)使ひよ 相手になるな などと治郞松ふれまはす
松と弟が 村中まはり 山子してるといひちらす
松と弟の さまたげもかまはず 数多(あまた)の人が来る
(中略)
p. 396
牧場は 如何してくれると 組合の人より吾に抗議もちこむ
神様に 身を任したる吾なれば 牧場なんかは知らぬと自棄(やけ)言ふ
村上氏 舌打ちしながら 餓鬼やなあ餓鬼やなあとぼやいて帰る
折角に ここまで出来た牧場を 捨ててはならぬと治郞松が言ふ

 このような文脈で,生まれ育った穴太での修行の詳細が種々示されている。

 『故山の夢』には,「高熊山岩窟一週間修行」に遡る,二十二,三歳の頃,として,

産土の 神に夜な夜なまゐ詣で 迷信家よとわらはれしわれ

とあり,狂女から追っかけられたエピソードが添えられており,例えば六年前にはすでに小幡神社に通っていたことがわかる。

 「高熊山岩窟一週間修行」後,同巻pp. 454-464に記されているように,二十八歳の春,大石凝真素美による旅費の援助で下清水の長沢雄楯に会っている。

稗田野の 大石翁(をう)を訪れて わが身のさまをつぶさに語りぬ
大石翁 耳をかたむけて聞き終わり 双手を拍ちて出かしたといふ
静岡の 師匠の許に詣で来よと 旅費ととのへて渡したる翁(をう)
静岡の 駅より汽車を乗換えて 江尻の駅にあした下車せり
ぶらぶらと かばんかたげて下清水 長沢翁(をう)の館(たち)を訪(と)ひけり
丹波より 弟子きたれりと長沢氏 いとねんごろに迎へたまへり
師の君の 審神者(さには)をうけて高熊の 山の修行のたふとさを知る
師の君も わが神業の進展を よろこび給ひて人に説かせり

 『故山の夢』に続く『霧の海』には,二十八歳の頃として,「一週間の高熊山修行」後の修行のようすが描かれている。『霧の海』のp.51以降は,春の「浪速の空」から始まる。「深夜の祈り」p. 67-には,次の歌に始まる小幡神社での祈りが記されている。

産土の もりのさくらは散り果てて 梟の啼く真夜中さびし

 「高熊山」p. 75-84の幾つかの歌を次に示す。

きくものは若葉をわたる初夏の風 時鳥(ほととぎす)のみ高熊山の夕べ
如月の さむき夕べにひきかへて 夜あたたかき高熊の山
四十八 宝座のうへに端坐して われ幽斎の境にいりけり
天かけり 国かけりつつわが魂(たま)は 天の八街(やちまた)さしていそぎぬ
汝こそは 三千世界の救世主 われを救へといひつつなみだす
何気なく ゆるすと言へば老武者は 鎧(よろい)ぬぎ捨て若人(わかうど)と変わる
雲の上 たどるがごとき心地して われにかへれば高熊の巖窟

 「草刈女」p. 229-236の幾つかを次に抜粋する。

高熊の 山のふもとの谷の辺(へ)に 草刈るをんなの声かしましも
高らかに 天津祝詞(あまつのりと)を宜りつれば 草刈女あやしみのぼり来
何事の 願ひあるかは知らねども 帰り給へと一人の女(め)は言ふ
草刈女 雨をよけむと巌窟に なだれこみつつ騒ぎたつるも
かくの如き 白衣をつけたる御姿 深夜にみれば恐ろしからむを
修行場を みつけられたる残念さに 高熊山の急坂下りぬ

おわりに

 高熊山巌窟は,穴太の入会地で,里のものは誰もが知っている場であったことがわかる。山ごもりは,聖師の時代の少し前までは,男子の一人前になる儀式として行われていた。折口信夫によれば仏教伝来や神道成立よりも前から日本にある慣習である。この「草刈女」を歌って後に,喜三郎はより深山に赴くことになる。このように,小幡神社から始まる高熊山岩窟での一週間の修行の成功は,人の入らない真冬に実施されたことも寄与していることがわかる。

 聖師は少年時代から実験意欲と正義感が強く,実験をくり返し,世直しの手段として神の道に進んだ。幕末には持て囃された平田篤胤の国学も,零落した天皇制を巧みに利用した藩閥政府が推し進める文明開化によって,簡単に投げ捨てられ,日本はただただ立身出世主義,物質主義の渦中にあった。物質主義渦中ではあるが,その立身出世の流れから外れた田舎の青年だからこそ見いだし得た聖なる世界のようにも感じられるのである。この三巻の自叙伝歌集を通じて,聖師の修行が高熊山巌窟での一週間に留まることなく続けられたことを知った。聖師をより深く信頼しえた次第である。

 父は,聖師を生き神とあがめていた。深い思惟から仏法に対した親鸞などとはかなり異なり,聖師は自らの出現をキリストの再来とし,奇蹟を数限りなく実現している。この点を確認しようとするのが,私のこのサイトでもある。

Jun. 25, 2020記,May 1, 2021図番号追加