河西春子の家族の墓でのお婆ちゃん孝行のチャンス finding a chance to salvation at the Kawanishis’ tomb of my grandmother in law
母の父の配偶者であった河西春子は,ぼくが小さい時から,ぼくの唯一のお婆ちゃんだった。お婆ちゃんと畑谷一郎との間に子どもは居なかった。畑谷一郎は,この河西春子と再婚し,そして,山代温泉の畑谷旅館破産の後,三人の子どものうち,母だけを連れて,北陸を放浪し,大本(教)の聖地のある亀岡に辿り着いた。その亀岡で,母畑谷環と木庭次守は結婚した。理由はわからないが,木庭次守は一時,河西家の養子となっている。父昇天の後,戸籍謄本から知った。
お婆ちゃんの家が亀岡小学校に近く,自宅に帰る前に,お婆ちゃんの家に立ち寄ることを求められた。そして,言われるまま,庭掃除をして,帰る時にお駄賃十円を貰った。あまり嬉しく無かった。
中学生の頃だったか,お婆ちゃんからお婆ちゃん一人の正装写真を受け取った。大事にしてくれとのことであった。その時のおばあちゃんの思いは何となく,伝わった。今も,その写真はアルバムにある。河西家は京都市街地の中にあった。亀岡に定着する前に,おばあちゃんの実家にお爺ちゃんと母も入ったようである。母は,お爺ちゃんの北陸放浪中に富山市の女学校を卒業していて,京都市街地内の商店の事務員をしていた。その時の母の写真はどこかにある。小学校の頃,母に見せられた。
その後,お婆ちゃんら三人は,聖地亀岡に移り住んだ。おばあちゃんは日舞の名取(なとり)で,近所の子女を集めて教えていた。その稼ぎで暮らしが成り立っていた。お爺ちゃんは,大本の機関紙である愛善新聞をボランティアで配達し,自分の娘である母の家,つまりはぼくの家に立ち寄り,旦那さん時代に培った歌舞伎の舞台中継(TV)を見ていた。
父には三十年余り前に一回だけ,文子と川西家の墓に案内されただけだったが,7月22日,ぼくは長男夫妻と共に,この河西家の墓に再会した。その際に,一つ置いて隣の墓石に倒木がのしかかっていた。長男も,倒木の下の墓は大変だなと感想を洩らしていた。
これまで,お婆ちゃんをはっきりとは理解することができなかったが,この墓参を通じて,お婆ちゃんの思いを感じることができたかも知れない。そして,それに応えるのは,いわばご近所の倒木を処理することだと感じたのである。そこで,昨日,タニハで,作業用の登山靴とズボンに履き替え,伐採用の小さなノコと軍手,そして,途中マーケットとコンビニで購入したウナギ弁当と凍結した茶とカルピスを携えて,丸山墓地に向かった。
再訪すると,図1に見える墓石の上にのし掛かっていた倒木が,図のように右手に動かされ,多少の処理がなされたようであった。この作業をされた墓地管理者の管理姿勢には感謝している。とはいえ,隣接の墓所に移動しただけなので,図2のように,この周辺のものを伐採などして,片付けた。1時間余りの作業であったと思う。主に倒木はクヌギ,ナラ,アカマツなどであった。
ずっと感謝を伝えることができなかったお婆ちゃんにちょっとは孝行ができたのではないかと,勝手に思っている。お婆ちゃんのお墓を掃除してもそれは当然なので,他の「社会貢献」の機会を得ることができて,はじめて,お婆ちゃん孝行ができたということです。
図3は河西家の墓所からの眺めで,丑松山が見える。これは,左手の富士山型の山で,亀岡盆地に面する山々のうちで最高峰となっている。手前に見える小さなプレハブの倉庫には,掃除道具などが入っているようである。覗かなかったが開いていたので閉めた。このプレハブの右手にアザミが茂る空き地があったので,伐採処理した草木片などを積み上げた。
この場を去るときに,甲高い動物の一啼きがあった。22日に長男夫妻とともに,この墓所を去るときにも,同じ場所から,この一啼きがあったのである。長男夫婦と来た時には鹿の子とも出会えたが,この日のタニハでの掃除の帰りには能勢町と川西市の府県境になる峠でも,鹿の子と会った。
以上,Jul. 28, 2021記。