Table of Contents

Synopsis

 本文なども未だ完成していない。2024/09/06。

梗概

 本報告の「瑞霊ずゐれい世を去りて聖道しょうどうやうやく滅す」というのは出口王仁三郎『霊界物語』のいちフレーズから採っている。瑞霊というのは王仁三郎のことで,「私がこの世を去った後は私の築き上げてきた教えの世界は亡びてしまうよ」と言っている。このフレーズは第67巻第5章「なみ皷」つづみに見え,口述されたのは王仁三郎入蒙にゅうもう後の大正13 (1924) 年末のことである。王仁三郎は一貫して理想世界ミロクの世は近づいていると教えているのに,「瑞霊世を去りて聖道漸く滅す」と口述した。当時の奉仕者や信者は受け止めることができず,思案投首しつつ,正しく信仰の道を歩めば問題がないだろうと,警句として受け止めていたのである。

 ところが,王仁三郎の予言は卑近なところで的中した。昭和57 (1982) 年,王仁三郎と二代教主澄子の後継者である長女直日(三代教主)は,両親が早くから決めていた自らの長女四代直美とその夫栄二(元総長),さらには,王仁三郎が霊的には自らの実子であるとした伊佐男(うちまる,直日妹の三女八重野の夫)の長男和明やすあきを大本教団から放逐したのである。教主を出しうる二つの家系を放逐し,自らの長男京太郎の家系に教主をシフトする企みに加担したのである。直美と和明の家系は王仁三郎を最高神と仰ぐが,三代教主と京太郎は王仁三郎よりも,開祖ナオと三代教主の夫日出麿をより高く見て,極力王仁三郎をおとしめようとしてきた。三代教主は二度ふたたびに亘る国家権力の弾圧事件のトラウマを抱えたなか,半世紀に亘って,自らの父母ではなく戦前来の国家権力の影を信じていたことも明らかになった。

 開祖ナオや王仁三郎は三代直日を木の花咲耶姫または木の花姫の肉の宮とした。木の花姫は大本の最高教典『霊界物語』で大活躍する神である。王仁三郎だけでなく実は,開祖ナオの世界も破壊した三代教主が木の花姫であれば,『霊界物語』も王仁三郎も信じられなくなる,という著者としては切羽詰まった状況で,三代教主は何をしてきたのか?,と,王仁三郎の「三代教主=木の花姫」宣言の意味とは?,を追求してきた。その結果,王仁三郎と二代の昇天後であっても大本教団を統率しうる最高の神格を三代教主に与えるという王仁三郎独特の方便が使われていたことが明らかになったのである。

 この調査過程を通じて,三代教主が統括する大本年表がその嗜好によって改竄かいざんされていることも突き止めた。この改竄に見られる嗜好から,三代教主は,開祖と王仁三郎が開いた三五教=大本教ではなく,『霊界物語』に登場するウラナイ教に属することがわかったのである。以上の論を進めて行く上で,『霊界物語』が多くを語ってくれた。なお,父木庭次守が三代教主から受けた処遇を通じて三代教主の人となりも明らかにしている。

 この報告は2024年4月中旬から7月中旬の三カ月かけてウェブ上でまとめたものである。その作成過程故に,このウェブページは調査過程が反映されており,フィードバックもして新たな章〜節も追加挿入している。読者には順を追って読んで頂いて問題はなく,この形ゆえに,著者の推理過程も理解して頂けると思っている。

以上,2024/07/13。

はじめに

 このウェブページで論じる観点は,大本(教)の創始者である出口なお,その第五女出口すみの夫上田喜三郎(大本名:出口王仁三郎)が立てた教えに信奉し,研究奉仕活動をしていた父を尊敬するという立ち位置の著者のものである。ぼくは宗教二世にあたるのだろう。父はぼくが生まれてすぐに入信登録をしたと思うが,教団からぼくへの会費の請求もないし,何らかの機関誌なども届かない。
 ただ,父自身が入信時に先祖代々のお祭りの登録をしていて,誰々の150年祭だから葬祭費を送付せよというような連絡は今なお来ている。当方の家系の年1回のお祭りの連絡もある。これは姉のぼくへの要望があって,三ツ野眞三郎さん(ぼくの母の妹の配偶者)が綾部の責任者をされていた時に,姉と三ツ野の立ち会いのもと,綾部に建つ「みろく殿」内の事務所で,ぼくが手続きをした結果のようである。教団から心が完全に離れていても,物故者の葬祭登録故に,完全に教団から離脱することは難しい。もちろん,繰り返し送金しなければ,祖霊社での名前の読み上げリストから外れて,やがては連絡データベースから削除されてゆくのであろうが,亡くなった親族が絡むことで,元の勤務先よりも金銭的な繋がりは続くのである。元の勤務先からは機関誌などが今なお届くが代金請求はない。
 この意味でも教団そして教主の信者に対する責任は重いのである。自らが築き上げた社会的関係をなげうって教団活動に入ってきた奉仕者を,二世教主はまるで自らの下僕のように考えてきたふしがある。考え違いである。創業者が一つ一つ積み上げてきた信者との信頼関係に思いが及ばないのである。この二世教主の動きが現在の教団の状況を作ってしまった,ぼくは,このウェブページをほぼ完成した現在,そう思っている。

 山田さんは,父が敗戦後まもない若い時代に派遣された大本活動の活発な地域のご出身で,父はその親御さん宅に泊まることもよくあった。父は生前,時々この山田さん宅に数日泊まることがあった。父の昇天後は,ぼくが時々その山田さん宅に呼ばれることになった。父の教えをぼくに伝えたいという思いがあるためだろう。お会いすると,その時々の気にかかることを繰り返し話される。聖師(出口王仁三郎)が宣言されたように三代教主が木の花咲耶姫または木の花姫の肉の宮だったら,なにゆえ大本(教)はこのような事態になってしまったのか,という命題が何回も提示されたことがこの文章を書く契機になったのである。

 ぼくのかつての寝ながらの愛読書は,退職後は漱石や藤村など明治末〜敗戦の小説であったが,繰り返し読むと流石に飽きて,今は数千册もある古典英原書の多読が中心になっている。そして,山田さんの触発もあって,離れていた『霊界物語』も併せて読むことになった。そして,『霊界物語』を読む際には,木の花姫や木の花咲耶姫の取り扱いに注意し,このウェブページを固定ページの形で作成することになる。作成過程で,当初の素朴な疑問から何とも情けない世界を知ることになった。三代教主とその周辺による,王仁三郎およびその周辺への排撃の「仕組しぐみ」は驚くべきものであった。以下,論じて行くが,このウェブページの作成過程がほぼそのまま反映されているので,ぼくの認識過程がほぼ現れた形になっている。もちろん,フィードバックする必要もあった。

 以下,冗長を避けるためもあって敬称を略したい。『霊界物語』原文引用などには,飯塚弘明の霊界物語ネットを利用させて頂いた。心より感謝する。 

 なお,このウェブページは,ウェブサイト作成アプリWordpressの固定ページ Pagesである。Wordpressには,二種類のウェブページの様態が用意されている。固定ページと投稿であり,その固定ページを選択している。次にアプリWordpressでの説明を引用しておく。
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固定ページ(ページ): サイト自体や管理者についてなどの「静的な」情報を書くのに使われる。固定ページの良い例は「About」ページに置く情報など。投稿 と呼ばれる、時間で変わるオブジェクト と固定ページを混同しないこと。
 固定ページは性質上、一般に “永続”型で、ブログの “外側” にある。“page” の訳語「ページ」は長年、Web の HTML文書を指す言葉として使われてきた。しかし WordPress では WordPress Version 1.5 で導入以来 “Page” が特定の機能を指しているため、「固定ページ」と訳し分けている。

Page (post type): A Page is often used to present “static” information about yourself or your site. A good example of a Page is information you would place on an About Page. A Page should not be confused with the time-oriented objects called posts. Pages are typically “timeless” in nature and live “outside” your blog.
 The word “page” has long been used to describe any HTML document on the web. In WordPress, however, “Page” refers to a very specific feature first introduced in WordPress version 1.5.
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 宗教二世への信仰の強制が,現在,大きな社会問題になっていることは承知しており,その観点から考えると,三代教主出口直日は,生まれる前から次のナオ(出口直)の神諭に出ているように,自らの人生を選択する余地なく,過酷な運命を背負っていたことは確かなことであろう。否応なく権力も付与されるので,「不敬」と感ぜられる方も居るかも知れないが一種,天皇の嫡子の運命に類似するものかも知れないとは思う。

———————————————— 引用〜三五神諭(その二)
霊界物語 > 第60巻 > 第5篇 金言玉辞 > 第21章 三五神諭(その二)
 明治三十二年旧七月一日付の出口なおの神諭に,

艮金神大国常立尊(うしとらのこんじんおほくにとこたちのみこと)三千年(さんぜんねん)経綸(しぐみ)は、根本(こつぽん)(あま)岩戸開(いはとびらき)()るから、(あく)霊魂(みたま)往生(わうじやう)さして、万古末代善一(まんごまつだいぜんひと)つの()(いた)すのであるから、(かみ)(くに)(ただ)一輪咲(いちりんさ)いた(まこと)(うめ)(はな)仕組(しぐみ)で、木花咲哉姫(このはなさくやひめ)霊魂(みたま)御加護(おてつだひ)で、彦火々出見尊(ひこほほでみのみこと)とが、守護(しゆご)(あそ)ばす時節(じせつ)(まゐ)りたから、モウ大丈夫(だいぢやうぶ)であるぞよ。
引用〜おわり ————————————————

とあって,明治35(1902)年3月7日,王仁三郎とすみ(澄子)の間に,出口朝野(後の三代直日)が生まれ,なおと王仁三郎によって,朝野が木花咲耶姫だと宣言された。昭和3(1928)年には,二番目の夫高見元男(後の出口日出麿)(明治30(1897)年12月28日生)と結婚し,日出麿が彦火々出見尊,とされた。

 朝野は三代教主として生まれながらに決定され,それを否応無く引き受けなければならなかったのである。朝野のような才能豊かな人にとって,このような自らの思いとは別のところで,神定めとして決定された境遇は,過酷なものであっただろうが,出口なお,出口澄子,王仁三郎に,教団を託されて,周囲からの期待にも応えて,昇天されるまで,懸命に本人が思うところの世界を繋いできたことであろう。

 この報告は,三代教主は木の花姫か,をテーマに書き始めている。出口王仁三郎口述『霊界物語』を信じて良いのか,いては出口王仁三郎の教えを信じて良いのか。三代教主が木の花姫だとすると,ぼくの王仁三郎信仰は瓦解する。
 ぼくの三代教主の個人的記憶は,少年時のささいな印象に基づくものであるが,三代教主が普通の人なら全然問題ない。単に,「おばさん」の住居前の庭で目が合っての印象に過ぎない。愛に満たされた神(に近い存在)とされるから,ぼくは拘っている部分もある。
 『霊界物語』では,木の花姫の活躍は繰り返し述べられている。何らかの成果を謳う文脈で唐突に木の花姫が挿入されることも多々ある。三代教主に木の花姫が宿っているとするなら,『霊界物語』の記述は,単に「大本運動」または「出口家」の宣伝に使用されていると考えざるを得ない。二代苑主(出口すみ,澄子)昇天後だろうと思うが,月刊誌『木の花』が創刊され,タニハ(日本タニハ文化研究所)の資料整理過程で『木の花』を斜め読みした感想では,三代教主は「木の花姫」であるがゆえに,周辺に大いに盛り立てられてきたようだ。

追記 Jun.16, 2024: 十和田龍(1986)『第三次大本事件の真相』,この種の本にはあえて近づかなかったが,数日前にある方に紹介されて,無視する訳にも行かず,Amazonで古本を注文した。そして本日届いた。p. 191以降の「第三次大本事件」の章を走り読みした。大本教団の要職を歴任され出口家の内情に詳しく,『大地の母』などの丹念な取材を基に優れた読み物を発表されてきたストーリーテラー出口和明故に,興味深いドキュメンタリー作品になっていると思う。宗教法人内の善玉と悪玉の争いが詳細に綴られているが,ここに現れている三代教主の言動は喜劇的ですらあった。近しい日常的関係ゆえに見える世界がある。和明の記述姿勢は,出口家にむやみに畏敬の念を払って切り込めない信者ごとき者とは違うのである。これが和明の最大の強みで,現状を正確に把握する上での貢献度はかなり高い。
 ぼくのこのウェブページは,父木庭次守の思いを感じつつ,主に『霊界物語』を読み込みつつ,書き上げたものである。『第三次大本事件の真相』とは大いに趣が異なっている。ぼくの眼目は,三代教主が木の花姫だとすると,王仁三郎も『霊界物語』も信じられないというものであり,得られた結果からすると,三代教主は『霊界物語』の木の花姫とは無関係で王仁三郎が教団を守るために使った方便であることが明らかになった。ぼくは,辛くも王仁三郎からの離脱を免れることができた。このウェブページの読者には,信頼できる資料に基づくぼくの推理過程を楽しんで頂ければと思う。

1. 瑞御霊神業に対する半世紀に及ぶ破壊工作の結実

1.1 四代直美と栄二の放逐 昭和57 (1982) 年

 三代教主は自らの長女直美を神(王仁三郎)定めの教主と認めながらも,直美の夫「栄二」の思想が「社会主義的」であることを理由(いわば公式見解)に,長女直美とともに勘当し,三女の聖子(きよこ)(資料1)を四代教主とした。『ウィキペディア』の出口直日,の項は,現大本本部の捏造が一方的に誌されており,ここでは当初掲載していた引用を削除するのが妥当と考えた。

資料1(https://webcatplus.jp/creator/735428): 出口 聖子(でぐち きよこ、1935年2月19日 – 2001年4月29日)は、宗教法人大本の四代教主。 昭和10年(1935年)、三代教主出口直日・教主補出口日出麿の三女として出生。三諸齋(いつき)と結婚。昭和55年(1980年)、英国聖公会大主教座教会カンタベリー大聖堂で三代教主名代として能「羽衣」を舞う。 昭和57年(1982年)5月、教嗣となる。昭和63年(1988年)1月、直日の命により教主代行。三代教主のそば近くに長く仕え、その指導と影響を強く受けた。 平成2年(1990年)9月23日、三代教主直日の昇天により道統継承、四代教主となる。(2024/04/23閲覧,現大本本部の記述のようだ)

 タニハ玄関そばの本箱にあった残り数部ほどあったカラー版の冊子を何となく覗いてみた。『愛善世界』,No. 91, 1990.11.1,愛善世界(編者山本滋)発行,印刷: 島根印刷株式会社。この号には,出口王仁三郎が直美を四代教主とした証拠の品やお歌などが披瀝されていた。p. 30には,直美の,結婚(昭和20年4月16日)に関わる記事がある。それをそのまま,次に。
「聖師様,二代様のお帰りになった中矢田農園は明るさを取り戻した。しかし日本の戦況は日増しに悪化していった。終戦を迎える四カ月前,聖師様が自ら選ばれた栄二先生とお見合いして結婚をされた。直美様は数え年の十七歳という若さであった。」

 直美の夫,出口栄二(旧姓家口)を聖師が選んだのは,栄二が有栖川宮熾仁ありすがわのみやたるひと(資料2)の落とし子の家系の子であることが世間的に認知されていたからと父から聞いていたが,ぼくは確かめてはいない。
 上田喜三郎(出口王仁三郎が出口家に養子に入る前の名前)は,有栖川宮熾仁と母よねが伏見の上田家の親戚が営む船宿で出会って授かった子供と,和明はしている。有栖川宮熾仁から御歌と懐刀を頂いた。この歌と懐刀については,毎日新聞昭和53(1978)年12月10日号(京都2丹波版)などに紹介されている。なお,戸籍上の父は母よねの養子である。
 熾仁に係わる次の資料2で経歴を見ると,間違いなく,北朝系であり,おほもとの言い伝えなどでは南朝系とされる明治天皇以降とは異なる。朝日新聞の文化欄でのかつての著名な知識人丸谷才一が現令和天皇に男子の子が無い件で,北朝があるではないか,と書いていたのは印象深い。熾仁が明治政府下で要職を歴任しているのは南北朝天皇入れ替えを受け容れた故かもしれない。
 五年前に百歳で亡くなった堀文子のアトリエでのNHKインタビュー番組が以前放映された。その時は存命中であったと思うが100歳近いのに知的な色気もあり,彼女が築いた満たされた世界を強く感じた。千代田区麹町平河町の自宅そばで1936年(昭和11)2月に起きた二・二六事件の際の父(中央大学勤務のロシア史学者)の話しとして,南朝後醍醐天皇を支えた楠木正成などが教育の場で英雄扱いされているが誤りだと聞いた,と尊敬する父の紹介エピソードとして堀文子は話していた。堀文子が視聴者に明治維新の際の天皇入れ替えを示唆したものではないかと感じた記憶がある。ぼくの高校三年生の時(昭和42 (1967)年)には,南朝を礼讃するような日本史を習っており,北朝の系図で明治維新後の天皇も記述されているのを見て,父に現在の天皇は北朝だからダメだろうというようなことを言ったら,父は否定的な雰囲気を醸し出しつつ,黙っていた。それが気になって,現在は北朝の天皇なのに教科書はなにゆえ南朝礼讃なんだろうと思いつつ,はたと気付いたのである。ぼく一人でこの程度のことは学生時代に考えついた訳で,ましてや江戸時代と明治時代の南朝評価の激変を体験した多くの人々にとっては,北朝から南朝への転換はよく知られていたことではあったろうと思う。そして王仁三郎,栄二が北朝系であることに意味があるように思うのである。

資料2(国立国会図書館,近代日本人の肖像,熾仁親王): 天保6年2月19日 〜 明治28年1月15日(1835年3月17日 〜 1895年1月15日)。有栖川宮第9世。有栖川宮幟仁親王の第1王子。嘉永元 (1848) 年仁孝天皇の猶子(補記: 親族または他人の子を自分の子としたもの。養子,義子)となり、翌年親王宣下。4年仁孝天皇皇女和宮と婚約したが、和宮が徳川家茂に降嫁のため沙汰止みとなる。幕末以降国事に奔走し、慶応3 (1867) 年総裁職に就任し、戊辰戦争では東征大総督となり官軍を率いて東下、江戸に入った。明治10 (1877) 年西南戦争には征討総督として出征、その後陸軍大将となり、参謀本部長、参謀総長となる。日清戦争中に病没。

1.2 瑞霊聖師転覆事件 昭和7 (1932) 年

 最近,仄聞するところによると,昭和六年の満州事変後,昭和7 (1932) 年(元男と朝野結婚後4年ほど後)か,出口日出麿(旧高見元男)は王仁三郎に満州に派遣され,かなり危険な目に遭って(後述するようにむしろ積極的な隠退策動),そういう王仁三郎を早期に隠退させるべく策動し,それが王仁三郎とその周辺に露見したという。王仁三郎の周辺からの怒りを避けるべく,乳飲み子を抱えた三代とともに列車に乗って日本海沿いに進み,北海道に渡り東部(釧路だったか)に逃れたという。これは徳重高嶺から聞いたということであるが,当時の役職を考えると,徳重は大国以都雄(大本名:大国美都雄)から得た情報ではないか。なお,この乳飲み子は第二子の広瀬麻子(昭和7年2月13日生)であろう。

 次の図1は,大本信徒連合会特別委員会(2005)の第一部末尾p.16に掲載された裁判資料などである。この大本信徒連合会特別委員会(2005)には読み下し文はなく,ここにぼくが示したいと思う。敢えて適当な文字を宛てた部分もある。文章として流れを壊す部分は削除修正した。カタカナは頭に入りにくく,カタカナ部分をひらがなに替えた。漢字にルビを振ったり,漢字を今風に替えたり,語尾や句読点を付け加えたところもある。
 なお,大本七十年史編纂会(1967: p. 112)にもこの図1にあたる資料について解説されていることをぼくは発見した。この解説では,王仁三郎の証言の臨場感や大島豊の役割部分などが,意図的に丸まる削除されていることに気付いた。これまで七十年史は宗教団体史として捨てたものではないと考えてきたが,一挙にぼくは七十年史も企業の社史同様,不都合なことには頬被りをしていることを確認できた。
 「大島豊」は,大本七十年史編纂会(1967: 宣統帝問題 p.108)では,1931年10月6日付け電文の発信者としては見えるが,瑞霊聖師転覆問題に係わっては完全に削除されている。

図1 昭和七年頃の大島豊による日出麿を聖師に替わらせる動きを聖師が認める

———————————————— 引用〜上段の読み下し
 昭和十六年一月二十三日木曜日 出口王仁三郎控訴公判第七回
 問 > 証一〇四二号「聖師登板の日近しいでや」の書面を知るや。井口ほか四名より受けとりしや。その顛末てんまつ(や)如何いかん
 問(裁判長) > 大島豊などが,その書面で,お前の隠退を迫ったので(は)ないか。
 答(王仁三郎) > 昭和六年(1931年),建川(少将)さんや泰さんに満州に行ってくれと頼まれた。紅卍字会との提携が出来たという事でした。
 その時,餞別として,東京の信者が七,八千円(用立てて)くれ,それを大島が預かって大島も行くつもりで,亀岡に来ました。建川(少将)(補記: 関東軍参謀よりも組織上より上位者)も一緒に行こうと言われました。この頃は,満州で大本は紅卍字会と活動していました。宣撫班(補記: せんぶはん,占領地での懐柔工作単位)は大本が始めました。十二月八日に発とうとしたのですが,その時,宣撫班の方から「出てくるべからず,身辺危うし」という電信がきました。それで私は中止して,用立ててくれた金を満州(補記: 在満中の日出麿総統補宛てか)に送って,(紅卍字会との提携の)費用に充てました。
 この変更に対し,大島は怒って,(補記: 私を陥れるべく)婦人関係の中傷をしたのです。大島は,「あんたのやり方はぬるくたい(補記: ぬるまゆてきだ,てぬるい)から,日出麿さんと代われ」と言いつつ,奉書(補記: 高位者がその意思・命令などを特定者に伝える際に使うもの)を私に渡して,(私が居た部屋を他の連中と)出て行きました。大島は,私が行くといいつつ金を出させたのは詐欺のようなものだと怒っていたのです。(以上)
引用〜おわり ————————————————

 この王仁三郎の証言中の「奉書」が,この裁判資料の最初に出ている,証一〇四二号「聖師登板の日近しいでや」である。この文面の意味は,「新たな聖師の登板が近い,さてもう」である。「いでや(感)」は,尚学図書編, 1989.『国語大辞典〔新装版〕』小学館, p. 194, によれば,二義あり,その最初の用例にあたる。〔「いで」を強めていう語〕いやもう,さてもう。軽く否定し,ためらう気持ちが加わる。

 つまり,王仁三郎を隠退せしめ,あらたに日出麿を擁立するという宣言である。昭和6(1931)年9月18日,満鉄柳条溝で鉄道の爆破事件が突発したがこれが満州事変の発端である。大本七十年史編纂会(1967: pp. 96-101) の「満州事変の突発」には次のように,大本の動きが詳しく示されている。

———————————————— 引用〜満州事変の突発
王仁三郎の動きはこれ以降めまぐるしく,「(王仁三郎)聖師は東京方面に巡教中であった出口日出麿総統補に急電を発した。総統補は予定の巡教を中止し,二〇日に天恩郷に帰着,ただちに聖師と打合わせの上,早くも二四日には加藤明子・宇城省向を帯同して満州へ出発した。二六日には安東に到着し,三〇日には奉天(瀋陽)にはいった。そして奉天を拠点として,四平街(四平)・鉄嶺・開原・鄭家屯・公主嶺・長春・吉林・大連など,大本や人類愛善会の支部,道院・世界紅卍字会の設置されているところはあまねくかけめぐり,会員信者に面接して,それらの人々の不安の除去に努めた。
 総統補の渡満は,時が時であっただけに,道院関係の信者会員から大いに歓迎された。総統補が四平街を訪ねたときに、道院ではつぎのような壇訓がだされた(「真如の光」昭和6年11月5日)。

 老祖の訓を奉じて伝ふ。抑も運霊(日出麿)再び中華に渡航せしは其機会絶好にして、万世不朽の大功徳を樹立するは即ち今回の行脚なり。其至清至光の霊性を運用し、各地に照翹せられ、到るところ霊光を感ずる者已に無数の災劫を化去し得べし。又今回将に待発せんとする険悪なる濁気も、法を設け之を化免すれば功徳更に言を待たず。只に中日両国の幸福のみならず実に世界人類の福祉なり。我道慈は世界の平和を促進し人類の幸福を企図するを以て主旨とす。運霊は霊に通ずるの第一の門徒なること已に詳知の事実にして今回の行脚は専ら災劫の化免に渡来し効果の総てに超越するもの、此の運化の賜に付尚一層勉励せられんことを要す。民国二十年十月九日

 総統補の渡満は「まさに待発せんとする険悪なる濁気も、法を設けこれを化免」するため、「専ら災劫の化免に渡来し、効果のすべてに超越するもの」とのべられている。したがって壇訓をあおぐ道院・世界紅卍字会員は、事変の災劫にさいして、天降った天使のごとく日出麿総統補の来訪をうけとったのである。
引用〜おわり ————————————————

 壇訓だんくんは、古代中国の儒教の経典である『論語』の中に登場する概念で,孔子が弟子たちとの対話の中で述べた教訓や言葉のことを指すのだが,ここでは託宣のような意義を持つ。「壇訓をあおぐ道院・世界紅卍字会員は、事変の災劫にさいして、天降った天使のごとく日出麿総統補の来訪をうけとった」,という事実が,大島豊の動きと繋がることになるようだ。

 日出麿(大本)総統補は,王仁三郎出発予定であった12月8日には満州に滞在していた。つまり王仁三郎の送金先は日出麿の筈であるが,人類愛善会満州本部関連では,1931年(昭和6年)11月6日には特派宣伝使として井上留五郎は派遣されていたし,高木鉄男は奉天に駐在していたので,受取人が誰かは手許の資料ではわからない。

1.2.1 大島豊と高見元男の関係

 昭和6 (1931) 年12月8日時点での当該主役の年齢は,王仁三郎60歳,日出麿33歳,三代29歳,そして大島豊は31(または32)歳である。大島豊の著作は,ウェブキャットプラスでは,次のようになっている。サイトの大島の生年は間違っている。本人が書き込んだ可能性が高いにも係わらず,何故なんだろうか。玉置(2023: p. 100)からの引用4によれば,生年は明治32 (1899) 年または明治33 (1900) 年で,没年は昭和53 (1978) 年になっている。
 大島豊が四名を従えて,王仁三郎に向かって,「あんたのやり方はぬるくたいから,日出麿さんと代われ」と言い放つ場が何故,成立するのか,気になった。日出麿と大島豊の間の関係から来ているものではないかと考えて,メーンキャストの年齢を確認したのであるが,二人が同年代というのは驚きであった。

レーニン哲学の批判大島豊 著第一書房1963
アメリカの哲学思想大島豊 著日本放送出版協会1949
物理學の哲學 ; 宇宙の生命 ; 生物學の哲學大瀧武著 ; 大島豊著 ; 山羽儀兵著光の書房1948
宇宙の精神グスタフ・シュトレムベルク 著 ; 大島豊 訳第一書房1943
米國に於ける思想戰大島豊, 山屋三郎東亜研究所1943
東西哲学の比較研究マッソン・ウルセル 著 ; 大島豊 訳第一書房1942
日本的人生観大島豊 編文憲堂1942
論理学ノート大島豊 著小島書店1940
シェライエルマッハア篇大島豐著第一書房1940
東亜共栄圏の諸問題山口高等商業学校東亜経済研究会 編生活社1940
表1 大島豊の編著作品

 大本七十年史編纂会(1964)の第二編第三章には, 大正10 (1921)年 第一次大本事件に係わって,第5節 大正日日たいしょうにちにち新聞,が配されている。その項「抵抗と閉社」には,大島豊と高見元男(日出麿の旧姓名)の名が見える。第一次大本事件が国家権力によってでっち上げられて,宣伝の主要機関の一つ大正日日新聞の経営が厳しくなってゆく。その状況について誌された文章の一部(pp. 509-510)が次の引用である。

———————————————— 引用〜抵抗と閉社
当局は、「大正日日新聞」が大本の抵抗のとりでであるとみて、さらにあらゆる圧迫をくわえていった。それがために経営はいよいよ困難におちいり、七月二一日にはあらたに高木鉄男が社長となった。そして八月三日には、本社を大阪淀川の川畔にある天満筋四丁目に移転するにいたり、西村光月を編集長とし、岡本霊祥・高見元男(補記: 1924年京都帝国大学文学部中退,1928年三代出口直日と結婚)・萩原存愛・吉島束彦・三谷先見・大深浩三らが新社屋にたてこもってなお発行を維持した。一一月二四日には、社長に御田村竜吉がついたが、経済的ゆきづまりはいかんともしがたく、一九二二(大正一一)年七月一五日には、ついに床次元内相の弟である床次正広にゆずって、大本との関係をたつにいたった。
 地方における販売網は、大本記事解禁後ほとんど壊滅したが、信者はあらゆる困難にたえて神業奉仕のまごころをもって新聞の配布に努力をかたむけた。そのなかでも、東京確信会所属の東大生月足昴・大島豊・小山昇や慶大生嵯峨保二らは、通学のかたわら新聞配達して学業と神業奉仕を両立させていた。そのほか販売部面には苦学生がおおかったが、そののちに新聞界に名をなし参議院議員にもなった前田久吉や、作曲家の服部良一らもいた。綾部では藤津進が、最後まで一枚売りを続行して活動した。
引用〜おわり ————————————————

 大島豊と高見元男は,第一次大本事件の社会的指弾下に係わらず,積極的に活動した帝国大学学生であり,議論も通わせたであろう。日出麿が出口家の養子になる前の友人と言える。三代と日出麿が暮らす家,つまり王仁三郎と澄子の家にも自由に出入りができたであろう。そういう大島だから,王仁三郎に対する暴言も可能であったかも知れないのである。愚人は偉人のそばに居てその偉人を殊更さげすむというのは世の習いである。東京帝国大学法学部卒業という鼻っ柱は極めて高いのである。同帝大理学部出身のぼくの指導教授から聞いたことがある。「木庭君,旧制帝大に入学試験があったのは,法学部と医学部だけだ」,だから俺をそんなに高く見なくていい,と言うような主旨のようであった。

1.2.2 転覆工作の失敗

 大本総統の王仁三郎を隠退させて,大本総統補の日出麿が替わる。このような工作を実行することは一体,可能なのだろうか。その根拠については,次の「1.2.c 外務省の工作員」,で述べるが,何らかの政治的および経済的基盤を背景にしたものがあったと想像できる。出口王仁三郎周辺には社会的に力を持ったスタッフが多数居る。王仁三郎はその人達にとってもカリスマである。救世主瑞御霊として大本の奉仕者や信者は王仁三郎を見ている。

 大島豊の算段は余りに甘かった。日出麿と三代を納得させることはできたが,その大島豊一派の謀計は当然ではあるが脆くも崩れて,先に仄聞した逃避行となるのである。三代は何故,王仁三郎体制の転覆に応じたのであろうか。常識を逸脱しているが,後掲の「2 伯耆国大山麓での垂訓」が暗示しているとぼくは思っている。逃避行には大島豊も居たのではないか。

 日出麿と三代の過ちを,王仁三郎はあっさりと許したのではないか。日出麿の役職名に昭和8年(1933年)以降も変化が無いようである。ぼくが思うに,王仁三郎は大島豊の策動も大島が外務省の工作員であることも知りつつ知らん振りをしていたのだが,王仁三郎周辺の人々が察知して,日出麿以下の逃亡になったのだろうと想像する。この件については,王仁三郎に怒りは無かったと考えるのが妥当だろうと思う。だから逃亡した大島豊はそのままにして,日出麿三代の帰りをすんなりと受け容れて居るのであろう。日出麿も三代も受け入れられることは承知の助であった。機関誌さらに大本年表にこの事件が掲載されていないのも王仁三郎の制止故であろう。教団内部の明日が思いやられる事態なのであるから。
 父使用の大本年表で昭和6年12月8日から昭和7年の日出麿と三代の動きとそれに関連する記事を次に列挙する。昭和6年には対応記事がなく,昭和7年だけが該当する。

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・1月13日 日出麿,満州から帰綾。
・2月13日 直日の次女麻子出生。
・4月 1日 日出麿,上京。6日 帰綾。
・4月23日 日出麿,九州巡教(一カ月間)。ひきつづき渡満。8月9日 帰綾。
・5月25日 日出麿,釜山を経て奉天に入る。
・6月10日 聖師,秘書役を廃止。
・6月18日 ラマ教と提携。奉天で大本からは日出麿ほか十六名。ラマ教側は代表四十名が出席して締結。
・8月 9日 日出麿,三回目の渡満巡教から四カ月ぶりに帰国。
・8月16日 日出麿,倉敷へ。19日 帰綾。(補記:倉敷は実家)
・8月17日 倉敷市,同商工会議所主催の満蒙時局展覧会に協賛出品。8月26日まで。
・8月20日 日出麿,但馬竹田町の愛善郷へ。翌21日 帰綾。
・8月23日 日出麿,上京し思想家,文芸家招待会(26日)へ。ついで上京の三代教主と夫妻で北海道巡教へ。10月10日 帰亀。
・9月 5日 三代教主夫妻臨席のもと北海別院の聖師歌碑「神生碑」除幕式。
・10月10日 三代教主夫妻帰亀。
・10月11日 日出麿,東京へ。
・10月17日 綾部神苑の拝観を制限。
・10月28日 日出麿,帰綾。
・11月 7日 日出麿,兵庫県氷上郡の各支部へ巡教,12日 帰綾。
・11月14日 日出麿,関東,東北へ巡教。12月2日 帰綾。
・12月10日 三代教主夫妻岡山へ。12日 帰綾。
・12月13日 日出麿,奄美大島へ巡教。翌年1月19日 帰綾。
・12月19日 日出麿,聖師名代として,喜界島宮原山の「神声歌碑」除幕式に臨席。
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 以上であるが,他の年次に比べるとこれでも比較的少ないように思う。

 逃避行として考えられるのは,「8月23日 日出麿,上京し思想家,文芸家招待会 [26日 (補記: 大島豊による画策か)]へ。ついで上京の三代教主と夫妻で北海道巡教へ。10月10日 帰亀」,であろう。ただ,聖師は,「9月5日 三代教主夫妻臨席のもと北海別院の聖師歌碑「神生碑」除幕式」,をこの逃避行を隠すべく,急遽用意したように思える。
 日出麿と大島豊との間の画策は,「4月23日 日出麿,九州巡教(一カ月間)。ひきつづき渡満。5月25日 日出麿,釜山を経て奉天に入る」〜「8月9日 日出麿,三回目の渡満巡教から四カ月ぶりに帰国」,の時期に該当するのではないか。
 日出麿と三代との打ち合わせは,8月9日〜15日,8月20〜22日が考えられる。「10月10日 三代教主夫妻帰亀」の翌日の10月11〜28日の東京行きは大島豊ほかとの協議の可能性がある。そしてその間の「10月17日 綾部神苑の拝観を制限」は,この大本運動の危機から脱するための聖師と二代による祈願のためかも知れない。
 「6月10日 聖師,秘書役を廃止」は,大島豊の奉書事件との関連で理解できるであろう。

1.2.3 大島豊は外務省の工作員

 この瑞霊聖師転覆未遂事件で,大島は逃亡した。王仁三郎の日出麿と三代へのいわばお構いなしの処置は,大島豊に対しても,救い主の観点からは許されるだろう筈なので,まあ,自ら逃亡したのであろう。とにもかくにも,王仁三郎,二代からすると明日がおもいやられる事件であった。玉置(2023)から,p. 100, 97の一部を抽出した。

———————————————— 引用〜玉置(2023: p. 100,一部修正)
 大島豊(1899,1900?-1978)は、もともと東京帝国大学(法学部)在学中の1920年(補記: 大正9年,第一次大本事件前年)に大本教に入信し、大正中期には大本教の東京布教(補記: 拠点)の嚆矢となった「確信会」(補記: 1919年大正8年10月19日に発足,初代会長浅野正恭)に所属して活動していた。第一次大本事件(1921年)の後、「大正維新」の理論的支柱であった浅野和三郎を批判して、教団内で存在感を高め、昭和初期には王仁三郎の秘書を務めるようになる。当時は主に東京の牛込支部に在籍し、「東瀛佈道団」が訪日し上京した際の接待や、満洲事変に際しての溥儀擁立工作など、連合運動の政治的工作に関わり(大本七十年史編纂会編,1967,p.108)、道院にも入信している。
 その後事件前に、満洲国における政治運動をめぐって王仁三郎と対立して大本教を脱退したが、当時大本教幹部だった出口宇知麿によればその事情は次のようなものであった。大島は「軍部やその他との接触の多い方でしたので、もっと関東軍に密着して、宗教による本当のいみの宣撫工作を、王仁三郎先生にやらせたらいいという考え」を持っており、それを王仁三郎にすすめたが、王仁三郎は「宗教的な面で民族とつながってゆくのでなかったら、うまくゆかない」と自らは満洲国では宣撫活動は行わないことを主張し、大島の提案を蹴った。これにより「大島さんは大本をはなれた」(大本七十年史編纂会事務局編,1962,p.279)。
引用〜おわり ————————————————

 「確信会」初代会長の浅野正恭まさやす(1868年1月22日生,1954年10月20日没)は,明治〜昭和初期の日本海軍軍人で,海軍中将正四位勲二等功五級。退役後,大本に入信している。この浅野正恭の弟である「浅野和三郎わさぶろう説への反駁が功を奏して王仁三郎の秘書にまで成り上がった」としているが,納得できる資料が提示されていない。出口宇知麿うちまる [明治36(1903)年1月15日 – 昭和48(1973)年5月6日,大本教主補佐。出口王仁三郎の第三女八重野の夫] さんは,温厚かつ賢明な方であり,三代教主の痛手になっており古い奉仕者にはよく知られており自らも目撃した瑞霊聖師転覆事件を,雇われ歴史研究者に語る訳はない。

 大島が事件前に大本教を脱退したとあるが,これは昭和7年の逃避行を契機にしたものであろう。大島像を捉えうる部分を,次の「引用〜玉置(2023: p. 100,一部修正)」に示す。

———————————————— 引用〜玉置(2023: p. 97,一部修正)
 この紅卍字会と大本教は、1923年関東大震災の際、南京領事で両団体の信者 林出賢次郎の紹介によって出会い、すべての宗教は元来一つであるという「宗教統一」思想の合致を根拠に提携を決定したとされる。その後は、日中を越境して、宗教・慈善活動はもちろんのこと、黒龍会などのアジア主義者、関東軍、奉天軍閥、モンゴル王族などと関係しながら「満蒙独立国」建国を目指す政治運動など多岐にわたる活動を行った。筆者はこれまで、これら一連の活動を「連合運動」(1923-1935)として位置づけ、その活動実態を一次史料によって詳細に明らかにしてきたがその期間を1935年までとしているのは、言うまでもなく冒頭に示した事件によって連合運動が崩壊し、道院・世界紅卍字会は日本での活動基盤を失ったからである。
 ところが意外にも、日本における紅卍字会の活動は「世界紅卍字会後援会」として、事件後も細々と続けられていた。旧大本教信者で事件前は王仁三郎の秘書として満蒙工作に関わっていた大島豊が中心となって1938年頃に設立された同会は、「日満支親善」「大東亜戦争完遂」など日本の国策支援を目的として、主に中国本土の紅卍字会の慈善事業に対する寄付や、紅卍字会の紹介を行っていた。こういった活動は、対中国「文化工作」を主眼とする外務省文化事業部の助成を受けながら、中国本土の紅卍字会とはほとんど関係なく行われた。
引用〜おわり ————————————————

 「第二次大本事件によって連合運動が崩壊し,道院・世界紅卍字会は日本での活動基盤を失った」と考えていたら,「意外にも、日本における紅卍字会の活動は『世界紅卍字会後援会』として、事件後も細々と続けられていた。旧大本教信者で事件前は王仁三郎の秘書として満蒙工作に関わっていた大島豊が中心となって1938年頃に設立された同会は、(中略),主に中国本土の紅卍字会の慈善事業に対する寄付や、紅卍字会の紹介を行っていた。こういった活動は、対中国『文化工作』を主眼とする外務省文化事業部の助成を受けながら、中国本土の紅卍字会とはほとんど関係なく行われた」,というのである。大島豊が外務省といつ繋がったのかはわからない。

 ただ,瑞霊聖師転覆事件を大胆にも起こした異様な傲慢さは,すでに国家権力を後ろ盾にしていた可能性が高いようにも思う。大島豊本人が王仁三郎の秘書だと言っていても,王仁三郎からすると手許から離すと危険だから,そばに置いていたのかも知れない。

追記 Sep. 6, 2024: 上掲「引用〜玉置(2023: p. 97,一部修正)」の冒頭で,「この紅卍字会と大本教は、1923年関東大震災の際、南京領事で両団体の信者 林出賢次郎の紹介によって出会い、すべての宗教は元来一つであるという「宗教統一」思想の合致を根拠に提携を決定したとされる」とあるが,山口利隆(1957)の回想には,本人の体験を通じての,提携過程が記されている。明らかな表現の誤りは修正している。

———————————————— 引用〜山口利隆(道名 道隆)の回想1
世界紅卍字会の関東震災救済使節来る:
 関東大震災 [補記:大正13 (1923) 年9月1日] の悲報が中国に伝わるや、<総院(北京総院)の神示「卍会はまさに世界の災害を救済するをもって天職と為すべし」を実践する> 世界紅卍字会中華総会(北京)には,日本震災賑済処が設けられ、直ちに全中国の世界紅卍字会の各分会より救済資金が集められ、白米二千石と現金一万元を持って、救済の為に候素爽、馮華和、楊円誠の三氏が神命で派遣され、東京震災復興局に救済品が届けられました。団体の救済では大阪府よりも早かったと言われる程迅速に取り運ばれたのです。
 <この> 三名の救済使節が中国を出発するに際して、① 日本の神戸(神の戸の意)に道院開設の準備をすること,② 道院紅卍字会とその主義目的を同じくする宗教団体を捜し求めて提携して帰るべし,という二つの使命が託されましたが,幾つかの宗教団体を訪ねても一向に要領を得なかったそうです。

候素爽と出口尋仁師との会見:
 その後、(同年)11月3日に候先生は通訳をともなって、綾部の大本を訪問されることになったのです。その訪問の日,私は京都帝国大学の学生クラブで開催された日本式ローマ字の会合に出席しての帰途,はからずも候先生と同じ列車で綾部に帰着したようです。私は事務局にローマ字会の報告を済ませて教主殿裏門より出ますと、目の前に一台の自動車が到着しました。その来訪者は私に一枚の大きな名刺を差し出されました。見ると世界紅卍字会 中華総会 候素爽と印刷されているので、思わず驚嘆の声をあげる程でした。実はその一週間前に『霊界物語』第五十七巻の総説歌を浄書していまして、その中に「世界紅卍字会や普化教も、残らず元津大神の仕組み玉いし御経綸云々」[補記:「エスペラントやバハイ教 紅卍字教や普化教も 残らず元津大神の 仕組み給ひし御経綸」(校訂版: p. 5) 口述筆記は大正十二年旧二月十日 皆生温泉にて,初版発行は大正十四年五月二十四日。発行は入蒙前の財政問題がありかなり遅れており,『霊界物語』関係の日程と山口の証言との間に矛盾はない] とありましたので「ああ、あの世界紅卍字会の方が来られたのだ。尋仁師(補記:提携後に王仁三郎が得た道院名)はさぞ御喜びになられるだろう」と思い、感激に胸の高鳴るのを覚えた次第です。その日、尋仁師は大阪に出張中でしたので、早速二代教主(道名 承仁)にその大きな名詞を持参して候先生の訪問を取次ぎいたしますと、即座に「すぐ御会いする。そして亀嘉(綾部の一等旅館)へ御案内して聖師さんに電報を打てよ」と口早に命ぜられました。そこで早速、教主殿に候先生をご案内し、ここで初対面の挨拶があった後に旅館へ案内して休息を願いました。 (中略)
 4日夕刻、尋仁師(補記:王仁三郎の道院名)は大阪より帰られて教主殿で候先生と面会され、大本の救世の神業につき詳細を話され、基督教信仰者候先生のバイブル聖句についての疑問点をも明快に解答されて、更に『霊界物語』第六巻三大教五大教の提携合体のところを指し示して,「貴方の来られることは既に神界から知らされておった。道院紅卍字会こそ世界の五大宗教を統合する聖なる宗教団体であり、大本と手を携えて世界に平和を来たらすことは神界の御仕組である。」とされました。候先生も尋仁師の即座の数々の対応に対して非常に讃嘆して、大本と道院の全く不思議な神縁をよろこび、急転直下、わずか数時間にして大本と道院との提携協力が決定され、神戸道院創設の計画も直ちに具体的に進捗して、同日午後十一時には,もと大正生命保険会社社長の片岡晴弘氏が六甲山麓の芦屋の別荘を道院開設の為に提供することとなって,その準備に片岡晴弘氏のもとへ出発されました。翌五日には,尋仁師、候氏,それに私も同伴して,神戸道院の予定地の見分に出発し、その夜は青海楼で盛大な歓迎宴が催されました。
引用〜おわり ————————————————

 この記事の前に,次の記事が配されていた。
———————————————— 引用〜山口利隆(道名 道隆)の回想2
真善美愛 至聖太乙老祖:
 大正12 (1923) 年1月、私が綾部の大本教主殿の一室で『霊界物語』の原稿を、日日数人の人達と机を並べて浄写させて頂いていた頃のある日のことでした。出口王仁三郎師(道名 尋仁)がその室へ来られて半紙を下さり「それを見よ」と言った身振りで、無言のまま行ってしまわれましたが、その美濃半紙大の紙に書かれてあったのが「真善美愛 至聖太乙老祖」の書でした。これを一見しましても一向に何のことかその意味がわかりませんでした。それは私は「至聖太乙老祖」の文言を初めて見たからでした。同年の秋になって世界紅卍字会中華総会より候延爽先生(道名 素爽)が来訪された時に,ようやくこの謎が明快に解けたのでした。当時はこの簡単な書が世界紅卍字会と大本との提携合同の予言であり、私の使命がその方面で負わされていたことに,全然思い至らなかったことでした。
引用〜おわり ————————————————

 王仁三郎は関東大震災より半年以上前に,道院提携を早くから予知していたことがわかる。関東大震災救済団が道院から日本に派遣された際には,大本との繋がりは全くなく,その後11月の日本再訪の際に候素爽一行が王仁三郎を訪ねてくるのである。その時には王仁三郎は大阪に居り,待っていた訳ではなかった。山口には,山口(1938)『大和民族運動―皇道宣揚と世界紅卍字會』という著書もある。
 「真善美愛 至聖太乙老祖」の書について考えてみたい。王仁三郎一行は『霊界物語』舎身活躍酉の巻第四十六巻については綾部竜宮館で口述筆記,そして次号の戌の巻第四十七巻〜真善美愛卯の巻第五十二巻までは,静岡県伊豆湯ヶ島温泉湯本館で大正十二年1月8日から2月10日の期間,口述筆記されている。それゆえ,王仁三郎の綾部での1月滞在は1月1〜7日までである。それゆえ,山口利隆が清書していたのは舎身活躍であり,「真善美愛」は次のシリーズ名にあたる。そして,このシリーズが道院提携と関連しているとなるのだろう。「至聖太乙老祖」は,道院日本総院 の説明によれば,「道院の主神であり、神道の『天之御中主神』、道教の「道」であり、(中略)各教で至高として説かれている存在のことです」とある。道院との提携の予言であった。

1.2.4 瑞霊聖師転覆事件と昇教学

追記 Jun. 18, 2024: 十和田(1986: p. 250)から,次の引用6を示す。これは,後掲の引用「十和田(1986: pp. 250-251)」の直前に配されているものである。

———————————————— 引用〜十和田(1986: p. 250)
では聖子の夫斎(補記: 擁立四代出口聖子の夫の教主補三諸斎みもろいつき)はどうか。大本梅松塾の塾長として昇教学をおし進め有為の青年に間違った信仰をふきこんだ張本人のくせに何一つ責任をとらぬ日出麿生神論のかたくなな信奉者であり,抱擁(補記: しうる)力どころか信徒の人望もほとんどない。
引用〜おわり ————————————————

 ここに記されている「昇教学」というのは,十和田(1986: pp. 200-203)の「昇峰の離反」に記されているが,「日出麿,直日,京太郎を神格化するための梅松教会の奇妙な教義理論」である。この流れは「1.2 瑞霊聖師転覆事件」の主役の大島,日出麿,直日の系譜を嗣ぐものと考えて良い。この考えが,教主補三諸斎とその周辺によって永く現教団で喧伝されてきた。昭和52 (1982) 年から計算しても半世紀近くにもなる。

1.2.5 「聖師登板の日近し」裁判と日本独自の「世界紅卍字会後援会」設立

追記 Jun. 18, 2024: 図1の資料を見て,裁判案件として,第二次大本事件を引き起こした権力の意図とは大きく異なる印象を受けた。「1.2.c 大島豊は外務省の工作員」で,玉置(2023)から抽出した引用5の,「意外にも、日本における紅卍字会の活動は『世界紅卍字会後援会』として、事件後も細々と続けられていた。旧大本教信者で事件前は王仁三郎の秘書として満蒙工作に関わっていた大島豊が中心となって1938年頃に設立された同会は、(中略),主に中国本土の紅卍字会の慈善事業に対する寄付や、紅卍字会の紹介を行っていた。こういった活動は、対中国『文化工作』を主眼とする外務省文化事業部の助成を受けながら、中国本土の紅卍字会とはほとんど関係なく行われた」という件が,この裁判案件と繋がるのではないかとぼくは考えた。

 「1.2 瑞霊聖師転覆事件 昭和7年(1932年)」の,図1上段の読み下し,のはじめの部分は,
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昭和十六年一月二十三日木曜日 出口王仁三郎控訴公判第七回
 問 > 証一〇四二号「聖師登板の日近しいでや」の書面を知るや。井口ほか四名より受けとりしや。その顛末てんまつ(や)如何いかん
 問(裁判長) > 大島豊などが,その書面で,お前の隠退を迫ったので(は)ないか。
 答(王仁三郎) > 昭和六年(1931年),建川(少将)さんや泰さんに満州に行ってくれと頼まれた。紅卍字会との提携が出来たという事でした。
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とある。この最初の問は,担当検事から発せられたものであろう。証一〇四二号「聖師登板の日近しいでや」の書面,はどこから提供されたものなのか。奉書であって,写しは無いのではないか。これは王仁三郎に大島から手渡されたものである。この証拠書類は第二次大本事件で押収されて,大島の行動についても,権力が確認する必要があったのではないか。この控訴公判第七回での王仁三郎の証言は,大島の功績を証明することになった。そして,この公判の二年内には,大陸宣撫工作ための軍資金が外務省から拠出されることになったと思われる。
 なお,「問 > 証一〇四二号『聖師登板の日近しいでや』の書面を知るや。井口ほか四名より受けとりしや」,という検事の問いかけは,敢えて「大島豊」を証拠書類に出さない工夫にも見えるのであるが,この検事の問いかけに王仁三郎の反応はにぶく,裁判長が公判の核心である大島豊の名を出したと考えられるのである。

1.3 出口梓擁立事件 昭和22 (1947) 年

 王仁三郎降しだけでなく,道統を転覆する流れはその後も続く。王仁三郎は昭和21年8月,脳出血を患う。その翌昭和22年(1947年)には,三代の長男である出口梓(京太郎,昭和11 (1936) 年8月11日生)を直美に代わって三代の次の教祖にする動きがあった。京太郎は小学5, 6年生だから本人の希望ではない。一体誰が仕組んだのだろうか。徳重(1990, p. 8)には,同年6月8日付の二代苑主の大福帳が掲載されている。

 「この神の世継は女にきめてある。筆先にかたくかたく書き残してあるのに,此の間来たる人の話,梓が世継に仕組が変わりたとわ,そりゃ何を申すか,艮の金神様のお筆先を何と思うておるか,これが天地の規則に定まりておるのじゃ曲津めが,」

 この部分を含む内容は徳重によると,「二代教主が大福帳にご染筆になられた日記を,私が昭和二十九年十月六日瑞祥館で謹写し,大本七十年史の資料として提供したもの」としている。大本七十年史の記述の流れからすると,大本七十年史編纂会(1967)の第七編に掲載されているべきであるが,採用されていない。理事の名として,出口栄二(編纂会会長)を筆頭に,出口うちまる,出口虎雄,大国以都雄,佐藤尊雄,伊藤栄蔵,土井重夫,米川清吉,が並ぶ。三代教主長男に係わる何とも情けない事件であり,社会的に公にするのはあり得ないことではあった。

 なお,道統と世継ぎという用語について確認したい。『国語大辞典 (新装版)』(p.1758)によれば,道統とは儒学の学派のことであり,世継ぎとは関連が無い。同書(p. 2434)によると,世継ぎとは本来,世の統治者としての天皇の位を継ぐこと,であったようだが,大本の場合は,単に,跡目を相続することである。愛善苑事務局 (1990MS: p. 7)の出口和明の発言には,「教主(よつぎ)と道統をペアで使い出したのは,昭和二十七年の三代教主就任の時から」とある。当時,誰かが使い始めた語で,厳瑞二霊の教えを引き継ぐ神定めの教主というようなニュアンスがあるのだろう。なお,この愛善苑事務局 (1990MS)「三代時代をふりかえって: よつぎとは何であったか」は三代の同時代を生きた人々の証言集である。

 二代の怒りがどのように当時の状況に反映したのかはわからない。三代長男の出口梓(京太郎)の教主擁立運動はその後も続いてきた。その運動母体は,京太郎を支える独自の組織「なにわ別院」(通称若松会)である。メンバーの所属は京都大阪の範囲を超えており,新四代聖子擁立に発展していったようである。二代の諭しは繰り返されたかも知れないが余りに早く昇天された。

追記 Jun. 17, 2024記: 十和田(1986: pp. 250-251)によると,三代教主が了解済みの次に引用した企みがあったようである。
———————————————— 引用〜十和田(1986: pp. 250-251)
では,聖子本人はその資格(補記: 教主の資格)があるのか。大本教法には「教主は開祖の血統をうけ,出口の姓を名乗る女性でなければならない」と明記されている。聖子はいったん他家の姓を名乗り,しかも子がなく,信徒の娘を養女にもらっている。教団みずからが大本教法を無視したのだ。実は10年も前から,京太郎派の人たちによって,四代教主は聖子とひそかに語られていた。つまり聖子の次の五代は京太郎の長女に継がれるというのだ。
引用〜おわり ————————————————

 他家に嫁いで娘を持たない聖子,そして未婚の紅が,それぞれ,四代,五代の教主になったことについて,三代教主周辺で密約があったのではないか,とぼくの頭によぎってはいたが,十和田の情報を踏まえると,少なくとも三諸斎と出口京太郎の間で密約があったが,聖子が想定より早く平成13 (2001) 年に昇天したので,十和田(1986)の「予言」(引用7)を外す意味でも,その繋ぎとして,協力者広瀬静水の娘紅を介在させた,または,打出の小槌を独占している現大本教団からすると,愛善荘と愛善苑のサポーターの高齢化と昇天を見込んで,京太郎の娘またはその娘の登板時期を遅らせる判断を取った,とも考えられるのであるが,京太郎の娘の都合があったかも知れない。現在は,道統を受け継ぐことが可能な聖師の定めた直美または後述の『錦之土産』で指定された和明の家筋から,京太郎の家筋に移行させる企みの途上にあると考えられるのである。昭和7 (1932) 年から繰り返されてきた企みは,一世紀近い後2024年の今も継続中なのである。
 なお,広瀬静水については,いわば栄二派から出口京太郎総長派に鞍替えしたことが,十和田(1986: pp. 207-208)「京太郎総長の出現と言論弾圧の強化」に記されているが,霊界物語三神系時代別活動表 でみると,広瀬静水は行成彦なので,異父兄弟の京太郎(桃上彦命)の軍門に降ったということにはなる。

1.4 瑞霊聖師の平和主義と神遣らい

1.4.1 人類愛善会軍備全廃平和運動の終焉と四代教主教主補追放

 大本七十年史編纂会(1967)『大本七十年史』下巻の第八編第三章 平和運動(pp. 1112-1183)には大本平和主義に基づく輝かしい活動が記されている。戦前の実績を知る国内外の期待の高まりのなか,二代教主のつよい決意に基づいて,昭和24 (1949) 年12月8日には人類愛善会の再発会式が行われている。世界連邦都市宣言の日本での第1号綾部市(昭和25 (1950)年10月14日),第2号旧亀岡町(昭和27 (1952) 年11月1日)という展開は人類愛善会の活動を知る好例といえよう。昭和27 (1952)年,ノーモアヒロシマを旗印にまずは広島で第1回世界連邦アジア会議が開催されるが,大本本部からは,会長出口伊佐男,副会長嵯峨保二ほか80名が参加し,地元の人類愛善会広島県連合会では桑原英昭連合会長が,世界連邦協議会普及部長としてこの会議で活躍するなどしている。このアジア会議で採択された「広島宣言」には,原子兵器の製造ならびに使用の禁止,軍備全廃を目標として各国の現有軍備の徹底的縮小などが最優先目標として掲げられた。この運動を引き継ぎ担ったのは次の四代教主補出口栄二でもあった。
 開教七十年記念にあたる大祭などの諸行事が終了した昭和37 (1962) 年10月9日には,第60回審議会で出口栄二総長以下全総務の解任と新役員の任命が決定されている(p. 1316)。これをもって,輝かしい大本平和運動は終焉を告げることになった。
 この後も,それまでの活動が評価されて,出口伊佐男は,世界連邦建設同盟の理事、副会長、また世界連邦世界協会の理事を務めている。昭和40(1965)年6月には,サンフランシスコで開催された世界連邦世界大会に日本代表団長として出席したのであるが,栄二解任後の大本平和運動はかつての勢いを失いしぼんでしまったのである。

 まずは,出口栄二体制の崩壊に係わって,以下,述べて行きたいと思う。

 大本信徒連合会特別委員会(2005: p. 16)の前掲図1下段には,次の引用のように記述されている(一部編集)。

———————————————— 引用〜大本信徒連合会特別委員会(2005: p. 16)の前掲図1下段
 昭和七年(1932年)頃の聖師様排撃の首謀者だった大島豊は,昭和三十七年(1962年)九月六日,出口栄二先生の総長辞任の約一カ月前,東京からわざわざ来亀して,教主様に面会し,「栄二先生の先般のソ連訪中(昭和三十七年七月一日〜八月一日)したことにより,東京公安庁(補記: 法務省公安調査庁のことか)が創価学会を調査し,次に大本を調べるべく動いている。この際,涙をふるって馬謖(ばしょく)を斬るように」と進言。
 昭和四十一年五月十四日,東筑紫学園創立三十周年の際,徳重(当時史実課勤務)に,大島豊は自ら次のように語っている。「これで栄二総長の辞任となったのだ。教主はそうではないと言われているが」,と。
引用〜おわり ————————————————

 なお,2024年現在ネット上に見える東筑紫学園の校章の説明は,「木の花とは梅の花のことです。梅の花はまだ雪の解けない頃、寒空に向かって花をひらきます。その花はそれほど立派ではありませんが、他のどの花にも劣らないかぐわしさを持っています。松は木の公(君)と書いていますが、万木の王です。四季常緑を保ち、色香は変わりません。東筑紫学園の校章は、このような梅と松の心を象徴したものです。」とあって,大本と何らかの繋がりを感じるが,「建学の精神:筑紫の心」の項も含めて,肝心の建学理念が理解しにくい。

 上掲引用「大本信徒連合会特別委員会(2005: p. 16)の前掲図1下段」の内容を理解する上で,次の永岡(2013)は参考になるので,幾つかを次に示す。

———————————————— 引用〜永岡(2013: 『大本七十年史』とその後)
 『七十年史』編纂が続くさ中の一九六二年一〇月、出口栄二は大本の総長ほか、ほとんどの役職を辞任することになった。この年の七月、栄二はモスクワで行われた「全般的軍縮と平和のための世界大会」に、日本の宗教者代表および大本・人類愛善会の代表として参加している。大会の後、中国仏教会の招きに応じて北京に移動し、周恩来首相や中国の宗教者らと会談を行って帰国した。だが、前述したように大本には栄二の積極的な平和運動にたいする反発が存在したうえに、彼の中国行きが葛藤を深刻化させることになる。大本は戦前以来、道院系の修養団体・慈善団体である紅卍字会とのつながりを保っていたが、戦後の同会は台湾(中華民国)を拠点としていたため、栄二が中華人民共和国との強い結びつきを示すことは、大本内部での強い反感を招いたのである。大本における栄二の立場を難しいものにした要因としては、さらに当時の日本の原水爆禁止運動そのものの混乱もあったと思われる。当初未組織の、「保守」「革新」問わぬさまざまな市民の同時多発的な運動として始まった原水禁運動は、一九五八年の第四回原水爆禁止世界大会あたりまでは「超党派」の枠組みを保っていたものの、大会が安保条約改定反対の姿勢をとった一九五九年の第五回大会では、安保闘争における政治性がそのまま大会の内容に反映される結果となっていく。
 さらに一九六一年のソ連による核実験以降、「ソ連の核を防衛するという内向きの態度をとる共産党と、いかなる国の核実験にも反対の姿勢をとる総評・社会党や地婦連・日青協などの立場の間の亀裂が広がり、こうした分裂構図のなかで、多くの団体・人びとが運動から撤退していった。新安保条約批准反対を決議した人類愛善会および大本も、原水禁運動のこうした混乱と無縁でいることはできなかったのであり、平和運動の「政治化」にたいする危惧が高まっていたのである。
引用〜おわり ————————————————

 出口栄二は前述のように,1962(昭和37)年10月には大本総長ほかの役職を三代教主によって「解任」されるのであるが,その直接の契機になったのは,「この年の七月、栄二はモスクワで行われた『全般的軍縮と平和のための世界大会』に、日本の宗教者代表および大本・人類愛善会の代表として参加したことである。大会の後、中国仏教会の招きに応じて北京に移動し、周恩来首相や中国の宗教者らと会談を行っ」たようなことであった,としている。

 永岡は淡々と書き綴っていて,栄二の大本での処遇について,日本の平和運動の混乱と結びつけてはいるが,これでは大本内部ではなくて,外的な政治環境の変化で説明されることになる。このウェブページで明らかにしたいと思うが,三代教主とその周辺の思惑にこそ,栄二が放逐された原因がある。永岡はその論点から意図的にに逃げているのかもしれない。栄二側に聞き取りをしたのだろうか。それなりに宗教団体として「世に認められている」側に偏っていないだろうか。

 上掲の大本信徒連合会特別委員会(2005)に示された三代への大島豊の言動をぼくはそのままでは,受け入れ難かった。なにゆえ,彼は公安当局の情報を得ることができたのか。なにゆえ,彼は三代と会うことができたのか。後者の疑問については,昭和7(1932)年の瑞霊聖師転覆事件の際に一緒に逃避行をした仲間ゆえに,大島豊は三代教主に「何度も会って」きて,そして,この日にも会った,と考えるのが自然であろう。
 前者については,大島豊の情報は嘘では無いように思う。ぼくの学生時代でも官憲はそういう活動をしていた。敗戦によって転がり込んだ世界でも優れた日本国憲法下であっても,官憲は戦前と大して違いの無い価値観と手法で,言い換えると憲法の枠を超えて,国民に対していたと感じている。
 そういう時代に先進的に平和運動を進めてきた出口伊佐男以下の精神性(=瑞霊聖師の平和主義)に対して尊敬の念を禁じ得ないのである。瑞霊聖師の平和主義は「4.5 『錦之土産』」に示されているように,大八洲彦命の精霊宿る出口伊佐男にこそ実現していることを忘れてはならないと思う。三代教主は,それを継承しているが与しやすい出口栄二を槍玉に挙げて,大本平和運動のいわば松のミドリの部分を刈り取ってしまったのである。

 三代教主による四代直美追放に係わる徳重(1990)を見てみよう。p. 10には,瑞生大祭での三代教主の挨拶(『愛善苑』昭和55(1980)年10月号)が次のように紹介されている。

———————————————— 引用〜徳重(1990:p. 10)
大本の道は,道統の継承におきましても,人為のおよぶところではなく,教団の危機は,別のところにあるものと存じます。直美のもつ使命は,何人たりとも,これに替われるものではございません。
引用〜おわり ————————————————

 とはいえ,その一年半後の昭和57(1982)年5月26日には,大阪の都ホテル四階朱雀の間で,三代教主の下,道統変更の手続きが取られたのである。上記資料1の「三諸齋と結婚。昭和55年(1980年)、英国聖公会大主教座教会カンタベリー大聖堂で三代教主名代として能『羽衣』を舞う。 昭和57年(1982年)5月、教嗣」という段になるのである。

 この四代教主入れ替えは,聖師降ろし以来の勢力がついに目的を果たしたというべきなのだろう。この四代教主入れ替えの悪巧みには,日出麿逃避行の北海道東部(釧路だったか)の関係者も参加して亀岡市保津町の宿に再三集まっていたというのである。
追記 Jul. 19, 2024: この会合には大島豊や宇佐美龍堂も居たのではないか。悪巧発覚の恐れはあるだろうが。大阪組,東京組,亀岡組が集まったのではと。

 三代教主が道統転換に追い込まれていった状況は知る由もないが,聖師でさえも,三代日出麿一派の聖師降ろしの画策が露見しても,二代教主の次の三代を変更していない。神定めの観点から,聖師でさえも教主の入れ替えは越権行為なのである。その越権行為が三代教主によって成されたのである。

 創業家が支配する企業ならばこの種のお家騒動は自然現象といっても良いだろうが,おほもとは,ナオと王仁三郎の教えで成立している。その教えを根底から破壊してしまえば,何も残らないのである。この世は人事で決まるのである。

1.4.2 出口伊佐男と栄二などによる王仁三郎平和主義の継承

 ここでは,永岡(2013)からの引用9の内容に係わって論を進める。ソ連そして中国も世界平和を指向しての反核ではなく,米軍に遅れを取っている状況での陽動作戦に過ぎなかった。そういう流れが垣間見える時代であった。ノーベル文学賞(1964年)を辞退した知識人ジャン=ポール サルトルでさえも、ソ連を米国に対抗する「善」とし,中国の核保有を認めていた。日本の知識人たちはそれに反駁できなかったのである(サルトルほか,1967)。

 図2は,1966秋,サルトルとボーヴォワールが慶応大学と人文書院の招きで日本に来訪した際の対話風景である。サルトル著作の翻訳を担った研究者が中心だったかと思う。ぼくは70年安保世代ということになるが,サルトルが日本に来て知識人と対話をした記録『サルトルとの対話』を,再版(1970.2.15発行)ではあったが,花のある実存主義哲学者サルトルとその友人で才女のボーヴォワールに憧れつつ,悩みつつ,読み込んだものである。サルトルの哲学書は判らないながら学部時代だけではあったが集中的に読んでいて,最近,自宅の倉庫から人文書院から発行された『存在と無』など一連の難解な哲学関係の著作を発見した。サルトルでさえも現状を認識できなかったのである。今を生きる,というのはそういうことである。再版されたばかりのこの本を読んで先輩もぼくも不信感を感じたものであった。

図2 『サルトルとの対話』の様子

 卑近なところでは,前述のように,出口伊佐男などの活動があったからこそ,綾部市や旧亀岡町(現亀岡市)が第1, 2号の名乗りを挙げたのである。

図3 毎日新聞,<初のノーベル賞 湯川秀樹2>「大きな眼で世界を見よ」。湯川スミは日本の「世界連邦運動協会」会長を2回歴任している。
2015/11/10 10:28(最終更新 11/11 17:41)

 ぼくは近所の子供たちを連れて亀岡の神苑(天恩郷)内を遊び場にしていた。ぼくの小学校5年生(昭和35 (1960) 年)の頃か,湯川秀樹博士夫妻が天恩郷(亀岡)の万祥殿ばんしょうでんに参拝されているのに出会っている。万祥殿の正面玄関から出てこられたところをお二人のそばに寄ってただただ見物したのを覚えている。小学校では,湯川秀樹のノーベル賞受賞がどれほど敗戦後の日本人を鼓舞したか,と習っていた。その時には,俺も俺も俺もノーベル賞を取るんだと叫んだものである。お二人から挨拶して貰ったかどうか,忘れてしまった。一瞥ぐらいはあった気がするのだが。その夜は父母に,湯川博士夫妻と出会ったことを伝えた。将来は博士になると叫んだかも知れない。両親はぼくの叫びを頼もしく思ったかもしれないのである。

 その後だったか,五月五日子供の日に京都にでも連れて行けと駄々をこねたが,父の仕事場のみずほ会館で,弟と白髪抜きになった。昼食は,父お得意の「いさみ」の寿司を取った。見慣れぬお兄さんが父に資料を渡すために来た。そのあと,父にあのお兄さんは誰かと聞いたら,湯川秀樹の息子と聞いた。湯川夫妻は大本の場を信頼していたのだと思う。そういう社会的繋がりを築いたのは大本の平和運動であった。
 図3は毎日新聞電子版から拝借した。湯川夫妻後背に子息2名が見える。向かって左が長男の春洋(1933年4月8日生),右が次男の高秋(1934年9月29日生)である。この写真は1950年撮影であって,この十年後にお会いしているので,おそらく春洋さん27歳になるのか。写真のようなスッとした感じではなかった,何となく元気がなかったような印象だった。ネット上では近世演劇研究家となっている。このインタビュー記事の抜粋を次に。

———————————————— 引用〜安保関連法「生きていたら大反対しただろう」長男春洋さん
 近世演劇研究家の湯川春洋さんは、湯川秀樹氏が晩年暮らした京都市左京区の自宅で今月初め(補記: 2015年11月)インタビューに応じた。春洋さんは「純粋な平和主義者」と父を評したうえで、望んでいた「核なき世界」が実現しない状況を「どうしてこんな簡単なことができないのだろう」と嘆いていたと振り返った。また、今年成立した安保関連法については「抑止力という言葉を信じていなかった父だから、生きていたら大反対しただろう」と語った。
引用〜おわり ————————————————

追記 Jul. 18. 2024: 後掲の「1.4.c 追記 Jul. 6, 2024: 大本の平和主義」では,村上重良が出口王仁三郎著『道の栞』で王仁三郎の軍備不要論を紹介している。ところが,加藤編・王仁三郎著(1930: p. 97-98)『月鏡』では,次に引用した「軍備撤廃問題」と題した一文がある。

———————————————— 引用〜軍備撤廃問題
 軍備ぐんび縮小しゆくせうはよいが、軍備ぐんび撤廃てつぱいだんじて不可ふかである。ミロクのいへど軍備ぐんびはあるので、これは一日いちにちゆるがせにすべからざるものである。もしこれ撤廃てつぱいすればまたぐにあくはびこになるので、いつのになつても弥陀みだ利剣りけん必要ひつえうである。つるぎ三種さんしゆ神宝しんぽうなか随一ずゐいつである、たまかがみうしろつるぎなくては完全くわんぜんその使命しめい遂行すゐかうすることが出来できない。かがみをしへであつてこれうめはいし、たま政治せいぢであつて、まつりごとと意味いみよりしてこれまつはいす。つるぎ武力ぶりよくであつてこれたけはいす。このみつつのものはどのひとつをいでもならない。まつたけうめ目出度めでたきものの表象へうしやうとするのはこの理由りゆうによるのである。天照大神あまてらすおほかみさま御霊みたまたまかがみ素盞嗚すさのを大神様おほかみさま御霊みたまつるぎであらせらるる。
引用〜おわり ————————————————

 加藤の凡例をみると,「昭和三年十一月より昭和五年九月号にいたる『神の国』に掲載されたものを全部収録したものであります」,とあるので,1928年〜1930年頃の王仁三郎の考え方が示されている。明治末年の『道の栞』と変化している。満州事変前夜に当たっており,時代の変化の中で王仁三郎の考え方が変わった可能性もある。
 木庭(1955b MS)の「霊界物語余白お歌集」のはしがきには,
「この歌集は,出口聖師が霊界物語の余白に書き入れられた歌を全部集めたものであります。聖師在世当時に版を重ねて発行されてをりますが,其内昭和十年までの最新版に聖師が校正されて追加された歌をも合わせて完璧を期したものです。この歌集を第十参歌集「霊界物語余白お歌集」と仮称さして頂きます。この歌集は大本教学院の為に製作したものです。昭和三十年十月十七日 東京にて編者 木庭次守」とある。
 木庭次守が携わった校訂版にはこの多くが掲載されていない。次の引用は,p.124に掲載されている。『霊界物語』山河草木丑の巻第六十二巻(昭和十年五月十五日四版,王仁校正 昭和十年二月二十六日)である。

———————————————— 引用〜軍備制限条約
(昭和九年十一月二十二日 王仁 第十六章二百四十一頁)
忌はしき 軍備制限条約を 破棄せむ時は 今や迫れり
我国は 総ての条約撤廃し 皇道維新を 断行なすべし
一日も 早く皇道経済を 実行なして 国を生かさむ
引用〜おわり ————————————————

 昭和9 (1934) 年11月22日は,満州国を世界が認めず,松岡洋右が国際連盟脱退を表明し国際連盟総会の会場から退席した昭和8 (1933) 年2月24日の後追いになっている。すでに王仁三郎は「皇道経済」を発表し,この歌の場合,日本が孤立した場合の国家経済の形を提案しているものと解釈すべきと思う。

 この同巻のはじめの余白歌は5歌からなる。

————————————————引用〜昭和九年十一月二十六日夕 於新潟小甚旅館
はかなきは 人の命と知りながら 命の神を知らぬおろかさ
すぎし世の あはれをかこつ人心 神しなければ 如何で忘れむ
にぎはしく 家とみ栄えゆく人は 皇大神のみちを歩める
何時の日か ウラルの嵐日本の 空に向かって吹かむとするも
太平洋 浪騒ぎ日本の 秋津島根を 呑まむとぞせり
引用〜おわり ————————————————

 真珠湾攻撃に始まるアメリカとの太平洋戦争,敗戦確定前夜のソ連侵攻,の予言か

 湯川が「核の抑止力」を信じていないのは,平和主義の観点からすると当然である。2024年現在,ロシア軍が隣国ウクライナに侵攻しているが,プーチンは核爆弾をウクライナを支えるNATOへの脅しに使ってきており,プーチンはウクライナ北の隣国ベラルーシに核配備も進めてきている。この情勢をみても核が抑止力の機能を果たすものではないことが明らかになった。湯川が正しいことは観念的ではなく,われわれが目の当たりにしている時空で立証されているのである。ひとたび獲得した圧倒的な武力を捨てることはできない。際限がない。王仁三郎が示した「軍備撤廃問題」の観点はもう時代遅れになってしまった。王仁三郎は,軍備について,明治末年と昭和の初めという四半世紀で転換している。いま生きておれば,別の論を述べる可能性は高いと思われる。核の出現で核軍備の考え方は変わるはずである。
 それで,木庭(2002b)『出口王仁三郎玉言集 新月の光』を調べてみた。原爆については,「大本事件への神占と広島に関する御神諭」(pp. 291-292),「神力と原子爆弾」(p. 294) ,「原爆の発明」(p. 298),の3件があるが,軍備に関するものはない。残念ながら質問がなかったのである。最初の証言(昭和二十年七月十二日)ではナオの原爆投下の予言が語られているが,それには「プイと横を向いて御返事にならず」,同席の広島人(佐藤行保)の救命の仕組みをされたことが語られている。
追記 2024/08/05: 後述の成瀬(1991)の証言では昭和十九年初めに成瀬の父が聖師から予言を聞き,広島の信者に伝えたとあるが,木庭と佐藤が面会したのもこの予言が契機になっていたのかも知れない。

 原爆投下後の王仁三郎の軍備に係わる考え方は残って居ないのであるが,二代教主が再興した人類愛善会による出口伊佐男(うちまる),嵯峨保二,桑原英昭,出口栄二,そして多くの大本人によって継承された開教70年までの活動にこそ,王仁三郎の思うところであったと信じることができる。王仁三郎の教えを誠実に継承した人々が王仁三郎の平和主義を具現したのである。

 『霊界物語』第4巻第28章「武器ぶき制限せいげん〔一七八〕」には,世界の軍縮に関する予言が示される。常世の国の常世城では,第4回目の常世会議が開かれている。この常世会議は,天使稚姫君命(のちのナオ)の娘常世姫とその夫常世彦が「地の高天原」を占領すべく,開いたものである。この会議には世界のほとんどの指導者が集まり,そこに「地の高天原」からも神人が派遣される。永く常世城で内偵していた道彦(のちの王仁三郎)の活躍が功を奏して,この段階に漕ぎ着けることができた。武装制限の中心的部分を次の引用に。

———————————————— 引用〜武器制限
 神代かみよにおける神人かみがみらの武装ぶさう撤回てつくわいは、現代げんだいぼう会議くわいぎのごとき、軍艦ぐんかん潜航艇せんかうてい噸数とんすう制限せいげんするごと不徹底ふてつていなるものではなく、神人かみがみらの肉体にくたいじやう附着ふちやくせる天授てんじゆ武装ぶさう一部分いちぶぶん、または全部ぜんぶ除去ぢよきよすることとなりける。太古たいこりういかめしき太刀肌たちはだそなへ、かつ鋭利えいりなる利刃やいばのごときつのを、幾本いくほんともなくあたまいただき、てきにたいしてその暴威ばうゐふるふとともに、一方いつぱうにはこれを護身ごしん要器えうきとなし、たがひに争闘そうとうつづけゐたりしなり。ゆゑに今回こんくわい常世とこよ会議くわいぎおい八王やつわう大神だいじん提議ていぎしたる、神人かみがみ各自かくじ武器ぶき廃止はいしは、神界しんかいのためにはもつとも尊重そんちようすべき大事業だいじげふなりける。すなはち竜神りうじんはその鋭角えいかく二本にほんさだめられ、のこらずられ、そのいかめしき太刀肌たちはだ容赦ようしやなくられて、柔軟じうなんなる鱗皮りんぴくわせしめられたり。なかにはつのまで全部ぜんぶられて、今日こんにちへびのごとくすこしも防禦力ばうぎよりよくきものになりたるもあり。
引用〜おわり ————————————————

などと続いて行く。この第28章のタイトルが「武装制限」とされているのは,木庭(2010: p. 39)によれば,「この会議における神人各自の武器の廃止は,神界のためもっとも尊重すべき大事業であった」としているが,ぼくは理解できていない。

 なお,昭和37 (1962) 年,昭和57 (1982) 年などの教団内での自爆がもし回避されておれば,この大本平和運動が持続していたら,周辺の政治社会的そして経済的環境の変化のなかで模索しつつ,出口新衛や昭弘などによって培われた「みずほ会運動」などとも合体して,今頃は日本版グリーンピースのような運動になっていたかも知れないと夢想するのである。

以上,2024/07/19, 20, 23。

追記 2024/08/05: 本節1.4の文脈から外れるが,広島原爆投下に関する王仁三郎の予言者の証拠が梅園(1991)に見えるので次に引用したい。本項の木庭(2002b)に記された「広島人の救命の仕組み」は漠然としているが,梅園(1991)ではより具体的に記されている。華北の石家荘当時は石門といわれた所で敗戦になって,1945年12月1日に日本に引き揚げてきた。そして原爆投下前に聖師から氏の父親が受けた予言について語っている。会話体なので,句読点と漢字などを追加している。

———————————————— 引用〜梅園(1991)
 (前略)その父がご面会した昭和二十年一月,聖師さまから「広島は戦争の最後に火の海になる街だから,すぐ疎開せい」と言われたんですね。ところが当時はトラックもないし,疎開先のあてもない。しゃにむに探して疎開したのが同年四月だったそうです。八月六日に原爆でしょう。父だけは仕事の関係で一人広島に残っておりましたけど,おかげで家族みんな無事だったんです。もちろん父もです。
 その後,昭和二十一年,父と天恩郷(補記:亀岡の聖地)に短期奉仕している間に,綾部で御生誕際があったように思いますが,その時に彰徳殿の横で聖師さまがみろく踊の音頭をとられまして,私はその時はじめて聖師さまのお姿を拝見しました。そして直会の時に車座になって,鯛の塩焼きを聖師さまがちょっと箸をつけられて皆に回して下さって,私も頂きました。(後略)
引用〜おわり ————————————————

 同号には,成瀬(1991)の広島原爆のエピソードも掲載されている。梅園の父が聞いた時期より前の聖師予言である。聖師の予言ながら,広島の信者に行き渡らない,または広島の信者が聖師の予言を真正面から受け取れなかったゆえかもしれない。一部,てにをは修正。

———————————————— 引用〜成瀬(1991)
 昭和十七年八月七日,聖師さまが未決から亀岡へお帰りになられて後,父は何回か聖師さまにご面会しました。
 昭和十九年初め聖師さまにご面会した際,聖師さまから「広島は火の洗礼と水の洗礼を受けて大変なことになるから,信者に早く疎開するよう伝えよ」と教えられました。父は大変驚いて「早速帰りまして信者の皆さんに伝えますが,私の娘は日赤の救護看護婦養成所に所属し,広島市内の日赤病院におり疎開できません。どうすれば宜しいでしょうか」とお聞きしますと,聖師さまは短冊に「神一一一一一一」(補記:漢字「神」の旁の「申」の字の縦棒を長く延ばした字)をお書きになって拇印を捺され,「これを娘に持たせるように」とお下げ頂き広島へ帰りました。(中略)
 父は広島に帰って早速,広島市内の信者さんに聖師の言葉を伝えました。私の妹には聖師さまから頂いたお短冊を渡そうとしたのですが,体につけるには長すぎると見た父は短冊の「神一一一一一一」の「申」の縦棒の延長部の下の方を切って,拇印が捺してある上半分だけ持たせました。
 八月六日,聖師さまの予言どおり広島に原爆が落とされ,私の妹は二階建ての軍人病棟の一階にいてピカドンと同時に建物の下敷きになり,天井の梁が腰の上に落ちて身動き出来なくなっているところを,将校が数人で救出した。恥骨骨折と腰椎骨折などで重体でした。その後の医者の診断は,一生立つことも子供を生むこともできない,であった。
引用〜おわり ————————————————

 この引用文に続いて,「短冊を半分に切ったことを聖師さまにお詫び申し上げ」,養生に励み,成瀬の妹は日常生活が可能になり,子供を生むこともできたことが記されている。「広島市は八月六日の被爆のあと,九月に入ってから何十年ぶりという大水害に見舞われたが,聖師さまから火の洗礼,水の洗礼のあることを教えられた信者は皆疎開していて無事だった」とある。

1.4.3 大本の平和主義

追記 Jul. 6, 2024: 『おほもと』誌(Vol. 14, Nos. 8 & 9(合併号), 昭和37 (1962) 年9月1日発行)の扉近くには,「第十三回大本歌祭り献詠歌」が配されている。通常号は,「木の花短歌」として,三代教主選定の和歌が後半に並ぶが,「献詠歌」の場合は扉近くに配される。この「献詠歌」は特選4歌からなり,そのトップの「天」が次の歌であった。

———————————————— 引用〜第十三回大本歌祭り献詠歌の天
声高に 平和を叫び 気負ひ立たば すなはち来る 平和ならなくに 亀岡 伊藤栄蔵
引用〜おわり ————————————————

 そういえば,この歌の考えは,「7.2 木庭次守の三代教主観の変遷」の「引用〜随想塵塚」と類似している。「引用〜随想塵塚」は,三代教主の随筆(月刊誌『おほもと』Vol. 16, No. 9 ( 昭和39 (1964) 年))から採ったものである。そして,この号の扉近くの「第十五回大本歌祭り献詠歌」4歌トップの「天」は,同一人によるもので,次のようである。

———————————————— 引用〜第十五回大本歌祭り献詠歌の天
あげつらい さわぐを止めよ 世界平和 心つつしみ ひた祈るべき 亀岡 伊藤栄蔵
引用〜おわり ————————————————

 伊藤栄蔵は三代教主のお気に入りで三代教主のもとで要職を歴任し,長く大本教学院長でもあった。教学委員会の成立後は大本年表を担当していた。なお,大本教学は昭和35 (1960) 年2月4日に創刊され,教学研鑽所は昭和40 (1965) 年6月3日に設置された。後に三諸斎によって廃刊廃止されるのであるが,平成15 (2003) 年までの年表には教学研鑽所という名称は残っている。ぼくの資料環境で確認されたものである。

 さて,上記『おおもと』誌(昭和37 (1962) 年9月1日発行)のpp. 54-59には,村上重良(1962)の「大本の平和主義について」と題する論文が掲載されている。この発行日(昭和37 (1962) 年9月1日)は,出口栄二が大本総長ほかの役職を解任される同年10月の直前に当たる。この論文は解任直前に大本機関誌から発行されたことになる。

 村上重良(1928年10月10日現東京都生,1991年2月11日没)は,おもに林(2010)の記述からみると,海軍経理学校在学中の敗戦(軍国少年)を経て,学習院高等科文科丙類そして東京大学文学部宗教学宗教史学科を卒業し同大学院に進学している。慶応大学講師。研究の最前線から離れた感のある時期には,1969年の自民党議員立法での靖国神社法案反対の強力な論客であったし,1974年の創価学会と共産党との間で調印された創共協定には宮本顕治を含めた共産党批判を展開している。
 処女作『近代民衆宗教史の研究』(昭和38 (1963)年)は学界で村上の名前を知らしめたとされる。民衆史研究の代表的存在であり,近代史研究会の仲間でもあった色川大吉も高く評価している。この論文の最大の特徴は,宗教学者ながら,黒住教,金光教,天理教,大本教を史料学的に評価した点にあるという。
 教派神道のうち,大本教の特色として,「反戦平和,人類愛,農民の解放,現状の否定と支配階級への批判など民衆の要求を反映する要素を展開していった⋯⋯⋯大本の基底にある民衆宗教的性格は,教義として天皇制崇拝を強調しながらも,天皇制とその神話にたいする,異質の神話に立つ変革の主張として,支配階級の激しい憎悪の対象となった」としている。村上のこの視点は,たとえば『霊界物語』山河草木シリーズの後半のみで成立すると考えられる。村上が『霊界物語』を参照したかはわからない。

 ぼくは村上重良を一度だけ見ている。万祥殿で行われた月次祭で,村上が三代教主とともに,月次祭つきなみさいが終わって畳に座っている奉仕者とその家族の前に現れた。三代教主は嬉しそうに村上を紹介した。おそらく教派神道教主に対するインタビュー後だったかも知れない。三代教主がこの村上の論文掲載を許したのであるから,ぼくが見たのは昭和37 (1962) 年9月よりももちろん前であろう。
 単純計算するとぼくが目撃した村上は,当時三十歳過ぎぐらいであったろう。恐縮して立って挨拶されていたこともあり,ぼくは村上に対して卑屈な印象を持ってしまった。今思えば,こういう雰囲気はぼくの大学時代に御指導頂いた東京帝国大学卒業の先生の雰囲気と似ている。小学校の高学年ながら,歴史家が宗教を理解できるのかと,ちょっとした反発心も生まれた。だいたい,子供は生意気だ。そして今,三十四歳の村上の論文を読んで,大いに尊敬するようになった。まさに,出口王仁三郎と伊佐男(うちまる)ほかの社会活動を踏まえた彼の大本観が現れている。三代教主は,村上の処女作出版前のある種の研究成果(抜刷)を手渡されて好感を持ったのではないか。東京大学出身でちょっと不遇でいかにも真摯な研究態度が見える村上を,若き日の夫日出麿と重ねたのかも知れない。なお,村上は大本七十年史編纂会の上田正昭を筆頭とする四名の編集参与の一人であった。

 以下,記述順序を崩さずに,幾つか断片的に引用したいと思う。この論文の寄稿は当時総長の栄二から依頼されたことは間違い無いだろう。論文内容からすると,栄二降ろし断行の直前でもあり,三代教主が掲載を許可する筈はないのだが,ぎりぎりの社会的良識から,掲載に踏み切ったものと思われる(他の可能性も後述)。そして,その結界は,冒頭に配された伊藤栄蔵の和歌であった。ルーティンで毎月掲載されてきた直日,なお,王仁三郎,日出麿,の文章だけでなく,直日は新たに一文を用意した。十月の栄二降ろしの準備のための「私のねがい」といういわば宣言文である。

 では,まずは村上の論文を引用し,次に直日の宣言を示したいと思う。

———————————————— 引用〜村上重良(1962)「大本の平和主義について」
 太平洋戦争敗戦後の翌年,1946年2月,大本が愛善苑として再出発して以来16年を経たが,この間,大本は一貫して平和のための実践をつみ重ね,こんにちでは,日本における宗教平和運動の中心勢力となるにいたった。平和運動をつうじて,多数の国民が大本を知り,その教義と信仰につよい関心を抱いた。平和運動こそ,現代の大本と,一般国民を結ぶもっとも強固な紐帯ちゅうたいであった。「平和教義に生きる大本」という表現は,現代の大本の主体的意義と社会的役割を,もっとも端的に把握したことばということができる。(p. 54, 中略)

 敗戦による日本軍国主義の崩壊から世界恒久平和の先駆ともいうべき戦争放棄をかかげた日本国憲法の誕生にいたる時期には,日本の宗教界は,かつて(の)戦争協力から一転して,いっせいに「平和」を唱え,国民とともに戦争への奉仕をざんげし,新日本建設における宗教の役割を強調してやまかった。(p. 55, 中略)

 日本は朝鮮戦争を境いに,公然たる再軍備を進め,1951年9月の講和条約締結後は,安保条約とこれにつづく新安保条約による日米軍事同盟体制のもとで,戦前の陸海軍の30倍の戦力をもつ国家に変貌した。(同ページ, 中略)

 宗教界の反動勢力は,宗教平和運動を敵視し,平和活動家に「赤」のレッテルを貼ることによって,教団から,さらには国民から孤立させようと試みつづけた。大本はこういう状況の推移の中にあって,教団をあげての平和実践を,年とともに前進させてきた。大本の平和主義が,迎合的,便宜的なものではなく,その根本理念に根ざすものであることを,大本は16年余の歴史の試練を経て,一歩々々実証してきたということが出来る。
 現代の大本の平和運動は,占領下の1949年12月,大本愛善苑の世界連邦運動への全面的賛同と参加を機に再建された人類愛善会によって,組織的に展開されてきた。1951年4月には,全国にさきがけて,160万にのぼる原水爆禁止署名を獲得したのをはじめ,毎年の原水爆禁止大会と平和行進への支持と参加,世界連邦アジア会議(1954年)宗教世界会議(1955年)の開催,世界連邦都市宣言運動等,その活動は年々拡大し教内に浸透した。1960年,国民的規模で中立平和か,日米軍事同盟による戦争への道かを決する日米新安保条約反対運動が展開されたが,大本・人類愛善会は,戦争への道を断乎として拒否し,新安保条約に反対した。日本の各宗教の過半は,新安保条約に賛成するか,ないしは態度を不明確にしたままで事実上賛成するという動きを示し,各宗教の内部では平和を守る決意を持つ宗教者によって反対運動が進展した。このなかにあって大本は,全国的な大教団としては,新安保条約に反対した事実上唯一の宗教であった。
 新安保条約の成立後,日本の情勢は,いっそうきびしさを加えたが,大本の平和運動は,こののち,急速に,日本の現実との対決を自覚化していった。1961年には「平和憲法の精神を生かし世界軍備の全廃を求める」748万署名を達成し,また世界宗教者平和会議に参加,宗教平和運動の原則と使命を内外に示す同会議の「京都宣言」を支持した。本年には,日本宗教者平和協議会の結成にあたり,その主要な加盟教団となり,憲法記念日を中心に「人類愛善新聞」の憲法擁護特集号30万部を全国的に配付して平和憲法擁護をうったえた。(pp. 55-56,中略)

 大本の平和主義は,大本の宗教としての信条に基礎をおいている。大本は,70年の昔,大本開祖出口ナオの帰神によって開かれた宗教であり,その教義は,民衆の社会的救済,平和主義,民族性と世界性の結合,(という)三点を特徴としているということができよう。(p. 56,中略)

 宗教的平和主義は,宗教が,人間の尊重を説き,平和を口にしながら,戦争に奉仕し,さらには積極的に戦争を美化している現実にたいする良心の抵抗として発達した。宗教的平和主義は,受動的に平和を愛好するのではなく,戦争を悪とし,宗教的信条にあくまで忠実に従い積極的に戦争に反対することによって,人間も尊重に徹しようとする思想である。(p. 57,中略)

 大本は,世の立替え立直しによって,みろくの世が実現することを教えている。その教義は,人民の不幸と苦悩の社会的根源を指摘し,人民の社会的救済をうったえているのである。
 明治末年の出口王仁三郎の著書『道のしおり』には,「軍備なり戦いは,みな地主と資本主しほんぬしのためにこそあるべけれ。貧しきものには,限りなき苦しみの基となるものなり。⋯⋯世の中に戦争くらい悪しきものはなく,軍備くらいつまらぬものはなし」(補記: 道の栞第三巻上四一〜四六の抜粋である。もともと王仁三郎によって明治30年代後半に執筆されている。出口王仁三郎,1985: pp. 172-174.)と述べられている。戦争の本質にたいするこの直截な把握は大本の平和主義の進むべき方向を,あかあかと照らし出している(p. 59,後略)
引用〜おわり ————————————————

 引用字数はかなりに及んだが,当時の社会情勢も明記する必要もあった。大本の教えを平和主義の観点から肯定的に捉え,個々の大本人にも戦後の大本の平和活動について歴史的意義を強く感じさせるものであった。この引用文だけでも,米軍,戦後日本の資本主義勢力,公安当局,平和活動を実施する運動体内部の反動性が示されている。大本内部にも公安の手がジワジワと伸び,反動勢力がギシギシと極東軍事同盟の傘下に呑み込まれて行く様子が感じられるのである。
 次に,同号扉近くに配されている出口直日の「わたしのねがい, p. 20」から抜粋したいと思う。後掲の「引用〜随想塵塚」の内容と類似しているがダブらない部分を次に引用する。

———————————————— 引用〜わたしのねがい
 私たちの,お道には,かつて昭和神聖会というのがありました。これは政治運動ではなく,当時における日本国家を対象とした精神運動でありましたが,私はこの運動に真向うから反対しました。というのは,それが,精神運動であるといっても,政治運動のような形をおびる勢いをもっていたからです。私の危惧したように,社会の目は昭和神聖会を,政治運動のような形でとらえました。そしてそのことが第二次大本事件をひきおこす大きな要因になりました。(中略)
 あの時代,聖師さまが,昭和神聖会をおこされたことは,よって立上がるべき根拠があったので政治運動のような形を帯びて来たことは時代の宿命のようなものかも知れません。私が神聖運動に反対したのも,止むに止まれぬ気持ちからでありました。
 聖師さまにも,私のその気持ちは理解していただきましたが,神聖運動が中止されるまでには至りませんでした。
引用〜おわり ————————————————

 次に,入蒙前に後述の遺書『錦之土産』を託され,王仁三郎からわが息子とされ,聖師昇天までお側に仕えた出口伊佐男(大本名: うちまる,宇知麿)(1971)の「聖雄の面影 —聖師聖誕満百年におもう—」から抜粋(pp. 23-24)しよう。

———————————————— 引用〜聖雄の面影 —聖師聖誕満百年におもう—
▇人類愛善運動
 大正14年6月9日には,みろく殿で人類愛善会発奉告の祭典が直日先生のご先達のもと行われる。この運動の提唱者たる聖師はその後,総裁に就任された。世界宗教連合の働きかけも,この人類愛善運動も,精神的に世界が一つにむすばれなければ,世界の平和は実現し得ないという発想からであった。地上永遠の光明世界をめざすこの運動は,まず西村光月氏の欧州派遣にはじまり,にわかに海外宣伝が活発になると同時に,国内における宣伝使活動も活気をおびてきた。聖師は世界の和平統一にたいし,この運動にもっとも大きな期待をかけられていた。(後略)

▇国家革新の運動
 昭和6年9月,満州事変が突発してから,大本の空気も俄然緊張した。昭和青年会,昭和坤生こんせい会(補記: 昭和7(1932)年11月1日,昭和青年会から分離して結成された婦人部)の活動,人類愛善新聞の百万部拡張,ついに昭和神聖運動にまで発展した。聖師ひとたび起ちあがるや,陣頭に立って全国を大遊説,東奔西走して寧日ねいじつなく,国民も耳目を聳動しょうどうせしめられた。それは天地惟神かむながらの大道による国家の革新を目的とするものであった。このめざましい運動は当局をつよく刺激し,昭和10年12月8日第二次大本事件となって,聖師は重ねて獄中の身となられた。(後略)
引用〜おわり ————————————————

 出口うちまると出口直日の第二次大本事件の受け止め方は全く違う。直日は,お父ちゃんが危ないことをやっていて私は止めたんやけど受け入れられなかった,と言っている。国家権力に大っぴらに叛旗を翻すようなことをやったらいかん。おとなしゅうに。お父ちゃんは娘に心配させたらあかん,って感じだろう。王仁三郎は自らの思想を体現,それに賛同する者は無数で,いわば一世を風靡した。出口うちまるは,聖師を神と仰ぐので,予言者は現実の世界で,日本の行く末を案じて,できる範囲の活動をしていると思っていた。直日には王仁三郎は単なるお父ちゃんだ。神性も何も感じてない。だから,ただ,世間の風評だけを気にしていたのである。

 直日は生きている間,父王仁三郎を理解できなかった。大島豊などに洗脳されて栄二を泳がせたらまた大本事件が起きると恐れた。授かり物の日本国憲法下であり,治安維持法も無い。破壊活動防止法(法律第二百四十号,令和四 (2022) 年法律第六十八号による改正)が,昭和27 (1952) 年に成立するが,鳥居 (1995)法令検索(破壊活動防止法)を参照してもわかるように,戦後の人類愛善運動などに係わる活動はこの悪法の適用範囲外である。直日は公安当局の末席を汚すならず者から無いこと無いことを吹聴されて,第二次大本事件のトラウマから抜け出すことができなかったのではないか。その結果,神定めの四代直美の家系と宇知丸の家系を放逐,大本の核の部分を自ら捨てたのである。

 さらに残念に思うことは,戦後の「大本の平和主義」を高く評価していた村上重良が,かつて面会した三代教主による昭和37 (1962) 年の栄二への仕打ちを目撃してしまったことである。この事件を通じて,教派神道だけでなく宗教法人の限界を知り,宗教団体の研究に関心が薄れてゆき,政教分離の拘りが強化されたのかも知れないのである。前述のような,1969年の靖国神社法案反対,1974年の創価学会と共産党との間で結ばれた創共協定批判などである。

追記 Jul. 15, 2014:
 本号の裏表紙の裏には,オホモト・フォト・ニュースの縦帯びがあって,三枚の写真が掲載されている。上段は,「6月24日,大本花明山植物園長竹内敬氏(73)の「京都府草木誌」出版記念の会が教主のもと斯界の権威者多数を招いて行われた。」というキャプションがあって,三代教主,出口虎雄,他7名が応接セットに坐って,竹内敬が立って挨拶している様子が見える。『京都府草木誌』は,昭和37 (1962) 年出版で,出版元は大本になっている。大本開教七十年記念行事の一貫として発行されたものである。竹内はコノハナザクラの命名者であり,発見者を三代教主とした方である。
 ぼくは近所の子供達を連れてこの花明山植物園でも遊び倒したが,竹内に見つかると何度か罵声で追い出された。こわいおっちゃんやった。小学生の頃,天恩郷で父と歩いている時に竹内と出会い,父は挨拶して,そのすぐ後で,父からコノハナザクラ命名の功労者としてまた学者として尊敬していることをぼくに告げている。
 オホモト・フォト・ニュースの中段と下段の写真はそれぞれ図4, 5に対応する。図5の門川大三郎にはよく天恩郷で会った。元気のいい人であった。ぼくの知る大本人はこういう人だった。原爆を許すまじ の歌は小学校時代,よく歌った。この写真を見てて,この号の出版の際は,栄二が総長であることに気付いた。編集権は総長にもあったのではないか。
 ところが,三枚の写真が掲載されている頁(裏表紙の裏)の隣接頁=見開き右頁の上段には,大本本部として「読者の皆さまへ」,中段には,オギエの「あとがき」があって,それぞれ内部での混乱があったことが記されている。大本本部からの文書は総長出口栄二から,あとがきの方は編集部から,いずれも三代教主の意向を踏まえたものになっているのだろう。三代教主の総長栄二への怒りが伝わってくる。オギエというのは三代教主内事メンバーで,おほもと誌の編集は,恐らく三代教主の下にある山本荻江(オギエ)と出口虎雄によって牛耳られていたようだ。
 大本本部からの「読者の皆さまへ」は,「去る六,七月号の掲載記事において教義の受け取り方やその表現に不充分なものがあり,読者の皆さまにいろいろの疑念を与えましたことは,編集の不行き届(き)と共に指導の行きとどかなったところでありまして深くおわびいたします。」などとある。オギエの「あとがき」の最後の段落を次に。「そういう整理上の不行き届きはありますが,教主さまから,〝私のねがい〟をいただいておりますことは,開教七十年の秋に当たりまして,意義深いこととなりました。意とされますところを,しっかりと大らかに掬まして(補記: 汲まして)いただきたいと思います。」
 とにかく,編集に係わる力関係を測ることは難しいが,本号については,図4, 5と村上重良の論文は掲載されたのである。機関誌も教主の傘下に取り込まれていることは間違いが無い。図5を見ていたらこういう壮行会に参加したこともあったように思う。子供達の平和主義は深く根付いていたように思う。そして,この大本での体験がぼくの人生を,未熟ながら無抵抗主義の平和運動の方面に導いてくれたと思うのである。いま,気付いたことである。なお,門川大三郎の後で歌われているのは「原爆許すまじ」である。

図4 和歌山県の平和行進
図5 京都府の平和行進

1.4.4 四代ではなく瑞霊聖師の放逐

 大本信徒連合会特別委員会(2005)の「第一部 なぜ栄二先生は提訴されたか?」一部(pp. 9-10)を次に引用する。事実関係の追跡に必要な部分にとどめる。

———————————————— 引用 なぜ栄二先生は提訴されたか?
昭和五十六年(1981年)九月十三日の第五十六回大本総代会で祭教院廃止を決議し,九月十九日に新たな教則を施行した。そして翌昭和五十七年二月二日の第五十八回総代会で斎司家廃止,教学委員会廃止を決議し,二月四日に施行しました。(中略)。次の教主決定には祭教院の同意が必要であり,そのまとめ役は祭教院長であり,祭教院長は出口栄二で斎司家から出ていたのである。
引用〜おわり ————————————————

などとある。この文献では教学委員会廃止の意義について触れていないが,これこそ,この四代直美転覆の策謀の目的を知ることができるのである。

 「1.3 出口梓擁立事件 昭和22 (1947) 年」があって,王仁三郎は昭和23 (1948) 年1月19日に昇天する。以下,大本七十年史編纂会(1967: p. 835)に基づく。二代苑主の時代となり,2月4日,二代苑主によって,委員長も副委員長も再任される。教学局長は出口伊佐男,宣教部長は伊藤栄蔵,祭務部長は出口栄二,瑞光(天声社)社長には土井三郎が就任した。ここでの,教学局が三代時代の教学院で,祭務部が祭教院に対応する。出口和明は出口伊佐男の長男である。つまり,出口栄二だけでなく,出口和明も排除したのである。担当部局が潰されたら仕事ももちろんだが,給与が入らなくなる。それゆえに,出口和明は大本から離れて新たに愛善苑を立ち上げた,とも考え得る。出口家スタッフの給与体系の情報を持たないのであるが。
 最近,四代聖子誕生後に入信されて二十年を経た方がタニハに来訪され,「どうして和明さんが大本本部を離れることになったのかわからないので,大本本部の方に聞いたら,さあ,というような回答であった」と。こういう疑問は他の方からも出ていた。二代様が瑞霊聖師から引き継ぎ,より充実させた組織を根底からひっくり返して,根こそぎ出口家の伝統を放り出すような権限が,果たして,三代教主にあるのだろうか。
 この一連の事実は瑞霊聖師の放逐を目途とするものであった。「栄二は社会主義的」と標榜して実行された「改革」は,実は真っ赤な偽りだったのである。

追記 Jun. 18, 2024: 和明の大本当局からの離脱は,引用16の総代会での決議によって和明の担当部局が潰されたことが契機になっているが,十和田(1986)からすると,それに至る多少長い経緯がある。「株式会社『いづとみづの会』の設立」(pp. 209-211)で述べられる1980年3月10日登記完了の『いづとみづの会』も京太郎総長当局によるパージの一つの理由にはなったかも知れないが原因ではない。『いづとみづの会』設立がパージを早めたかどうかは疑問とするところであり,役職どころか,居場所が削られたのだから,出るも出ないも無いと言って良いだろう。これも大本営の長たる三代教主認可の下での事件と言えよう。

 次章に述べるように,出口王仁三郎『霊界物語』第六十巻「瑞祥」は,三代とその周辺による事件を教えてくれた。そして,この事件を通じて,このウェブページのテーマ「三代教主は木の花姫か」を知ることになった。父木庭次守昇天の後のタニハでのお祭りの際に,吉田ただを(令和3 (2021) 年6月昇天)さんと二人だけで並んで坐っている時に,ただをさんから父の言葉を聞いた。木の花咲耶姫=木の花神(紙)裂くや姫。

1.4.5 三代教主不起訴と大島豊

 Jul. 6, 2024追記。タニハにわずかに残した「おほもと誌」を覗いていて,王仁三郎と澄子の子供達,出口直日,梅野,八重野,尚江,住之江(1962)による第二次大本事件を回顧する座談会「座談会 第二次大本事件回顧 『有悲』之碑」資料をみつけた。なにゆえ,三代が不起訴になったのか気になっていたので,いい手がかりになるのではと考えた。事件中の回顧談で,長女直日が1962-1902=満60歳(還暦)を迎えていても,姉妹らしい会話が続く。この座談会の最後の直日の発言の一部(出口直日ほか,1962:pp. 46-47)を,次に。一部,漢字の誤りなどを修正している。

———————————————— 引用〜座談会 第二次大本事件回顧 『有悲』之碑
 不思議だと思っているのは,昭和三年三月三日のみろく大祭に,大本が国家の主権者になる陰謀を企てたというおとし穴(補記: ここでの「おとし穴」というのは,大本を治安維持法の不敬罪に適用するためのありもしない捏造のこと)が事件のポイントにされていたそうですけど,その国体変革の結社をつくったということになっているみろく大祭には,中野先生,浅野遥,梅田のおじさん,私もおったので,それぞれ調べられたのですが,四人だけは起訴されていないのです。(中略)
 だって私が一番大事なのと違いますか。国体変革を企てているというのでしょう。もしそうなら,私はその中心の跡継ぎになる大事な人間とちがいますか。それをのがしているということは余りにもおかしいことです。(後略)
引用〜おわり ————————————————

 三代教主の疑問はぼくの疑問でもある。その回答はこの座談会にはない。ぼくは今,感じるのであるが,大本的に言えば,戦後GHQが昭和天皇を罰せず,象徴天皇制という形を残した歴史的事実,の先駆けモデルと思われなくもないのである。昭和天皇は十五年戦争の最高責任者であり,東条英機が極刑に遭ったのであるから,同天皇には同等以上の刑が処されるべきであった。GHQのこの選択は,日本人の平和的結束の核を残すということであったろう。
 弾圧当局は,大本信者の熱烈な聖師信仰ゆえに,その捌け口として,三代教主に対してもGHQ同様の判断をしたということになるのだろう。王仁三郎,澄子,日出麿,宇知丸を,実働部隊トップの東条英機などに,木の花姫の肉の宮三代教主を傀儡昭和天皇に見立てるのである。
 三代教主を軸とする蜂起のリスクも想定されたであろう。ここで,外務省エージェントの大島豊の役割が想定される。大島豊は,日出麿が出口家の養子になる前からの友人であり,出口家に日常的に出入り出来た。三代の日常の行動や精神嗜好については,特に「1.2 瑞霊聖師転覆事件 昭和7(1932) 年」以来,熟知していた。それゆえ,大島豊は弾圧当局に情報提供して,三代教主を泳がせる選択を促したものであろう。直日を気遣うのではなく,弾圧当局からの視点で,より高い統治効果が期待されるという意味である。
 大島豊と三代教主が,「1.4.a 人類愛善会軍備全廃平和運動の終焉と四代教主教主補追放」の「引用〜大本信徒連合会特別委員会(2005: p. 16)の前掲図1下段」のように,1962-1932=30年以上,通じ合っていたのは驚きであったが,おそらく大島は,第二次大本事件での大島本人の三代教主に対する自らの「命乞い」の役割を,三代に告げていたであろう。朝鮮戦争以来の米軍GHQの日本の取り扱いの変更は,日米安保条約に係わって,日本の左右勢力の対立構図が明確になって,国家権力の大島に対するエージェントとしての期待は膨らんでいた可能性がある。それゆえ大島本人は軍資金だけでなく,権力から情報を受けとることは容易であったろう。大島は,随時公安当局を覗いて情報を取得し,三代教主に随時,伝えていたものと思われる。そういう関係が,三代教主の権力寄りの精神嗜好を,不幸にも育てた側面はあるように思うのである。

1.4.6 三代教主特任宇佐美龍堂は大黒主

追記 Jun. 25, 2024: 昨日,おほもと誌第35巻第1号(通巻401号)に出会った。タニハから持参したおほもと誌の中にあった。大阪都ホテルの「直美はダメやあ」を経た最初の新春を迎える号である。出口直日と出口聖子の年頭所感の次に,編集長インタビュー(宇佐美,1983),三局長座談会(植村ほか,1983),が続く。
 「当時の『いづとみづ』誌の[反響集]から拾ってみよう」,として十和田(1986: p. 249) に紹介されている金沢T.H生からの感想を次に示す。

———————————————— 引用〜金沢T.H生からの感想
 一枚の写真が異様な雰囲気をこんなにも正直に伝えるものかという驚きをもって,このパンフレット(補記: 大阪都ホテルでの新四代誕生に関連して大本教団が信者に配付した「大本の全信徒へ」と題したパンフレットのことのようだ)冒頭の写真を見た。小太りの生臭坊主のような男が老教主にマイクをつきつけ,某国中央情報部員を思わせるような男がうしろにつっ立って上から見おろしている。仕掛人の一人と思われる和服の男が,真正面の列から教主を見すえている。開祖,聖師,二代教主への反逆を決定する歴史的場面だ。
引用〜おわり ————————————————

 これを読んで三代教主が強制されているような印象も一瞬受けたが,この状況を望んだのは三代教主本人である。十和田(1986: pp. 239-243)の「京太郎解任,宇佐美総長の出現」に記されている。ここには,「五六年一二月一二日(昭和56(1981)年12月12日)出口虎雄,山本荻江ら内事グループは直日とかたらい,宇佐美を後継首班に選んだ」,「数日後,宇佐美は内事室グループとともに直日に呼ばれ,後継首班を承諾する」,「二七日(12月27日)宇佐美は勤務先の株式会社互恵会(補記: 綜合病院大阪回生病院経営の法人)に辞表を出している」,「三〇日京太郎は直日に呼ばれ辞任を申し渡される」,「宇佐美は代表役員であるとともに総長兼本部長という絶対的権限を与えられる」,「しかも六人の役員のうち,(中略),宇佐美とともに京太郎の私設秘密グループ『更生会』の有力メンバーである」,という流れに見えるように,三代教主が絶対的権力を持ち,この一連の「改革」断行の体制を作りあげたことがわかる。
 金沢T.H生が得た印象は経緯からすると当を得ていないことにはなる。大本信者は習い性でどうしても教主の味方をしてしまう。ぼくは,上記おほもと誌の「編集長インタビュー」,「三局長座談会」に掲載されている,大本総長宇佐美龍堂と三局長の近影を見て,愕然とした。ぼくが地方の大本信者であれば,騒動の正邪がわかり,神定めの四代直美のもとに走るだろう。この人事を率先して断行したのは三代教主であり,この近影群にその嗜好が現れていると言わざるを得ない。
 十和田(1986: p. 241)には宇佐美龍堂の経歴が示されている。「戦後は公安調査局とつながりをもち左翼右翼の情報収集をはかっていたともいわれる」,「昭和二八(1953)年,京都で月刊誌『現代人』を創刊,発行人になる。その『現代人』の二九年七月号から半年以上にわたって大本弾圧の責任者 元京都府特高課長杭迫軍二(ペンネーム亀谷和一郎)に執筆させ,大本攻撃のキャンペーンをした人物である」とあって,「信徒にとっては無名に近く教団に全く貢献のない宇佐美が直日の命でとつぜん最高権力の座に天下るや,四代直美の追放といづとみづ系奉仕者の首切り内閣を組むとは異様であった。しかも総代会では誰はばむ者なく,満場一致で可決されたのだ」と十和田も驚きをもってこの事実を受け止めようとしている。大本的に表現すれば,三代教主を含めて,「大黒主に魅入られた」という表現がしっくりと来る。

 ぼく自身のおほもと誌正月号の近影ショックは別にして,「編集長インタビュー」,「三局長座談会」を読み込めば,多々赤面せざるを得ないような稚拙な大衆操作臭の強い言動が続くが,本部からの一方的な情報しか得ていない読者であれば,躊躇しつつも受け入れてしまうのではないかとは想像する。上述の十和田(1986)に描かれた宇佐美関連の記述は初見ではスンナリと受け入れることが出来なかったのであるが,このぼく自身の近影ショックで,十和田(1986)の記述をスンナリ受け入れることができ,この事件の本質が見えることになった。

 金沢T.H生が得た印象は,「三代教主を含めて大本本部が大黒主に魅入られた」ことを表しているのではないか。

1.4.7 「瑞祥」は予言

追記 Jun. 27, 2024: 横になってこの自ら作成中のウェブページを読んでいて,はやくこの項を追記したいと思い,深夜に起き出してきた。宇佐美(1983)では,聞き手(編集長: 岡崎弘明)が総長に対してやけに馴れ馴れしい。「落下傘で火事場におりた!」では,宇佐美はこの事件とはもともと無関係ゆえに,昭和57(1982)年5月26日の総代会では「教団のまわりの事情とか,そういうことを考える余裕もないし,ただひとすじに教主さまのお考えを実現することに尽力したわけです」とする。
 上記「昭和56(1981)年12月12日 出口虎雄,山本荻江ら内事グループは直日とかたらい,宇佐美を後継首班に選んだ」,であるが,これに到るまでに何年も前から,宇佐美と三代教主とは,繰り返し意思疎通があって,面談もし,三代教主とその周辺は,宇佐美から作戦も伝授されていた筈である。そういう歴史があってはじめて,宇佐美は京太郎の跡を襲い,三代教主から「代表役員であるとともに総長兼本部長という絶対的権限を与えられ」たのである。それを誤魔化すべく,「落下傘で火事場におりた!」の寸劇が配置されたと考えて良いだろう。

 三代教主やその周辺は,「大本弾圧の責任者 元京都府特高課長杭迫軍二(ペンネーム亀谷和一郎)に執筆させ,大本攻撃のキャンペーンをした人物」を自らの党派の救世主として,担ぎ出したのである。これは,昭和7(1932)年(1.2 瑞霊聖師転覆事件)以来,三代教主が外務省や公安調査庁の手先の大島豊と親交が続いたことと符合している。全くの想像であるが三代教主が大島豊から宇佐美を紹介された可能性もある。次章で述べる「此の世の泥」を引き起こした三代と大二の事件で,聖師は「4.5.2 三代教主補大二は大黒主系統」と断じているが,ぼくは王仁三郎独特の言い回しと捉えていた,つまり軽く解釈していた。

 「此の世の泥」が掲載されている第60巻の口述完了の後に記された序文に続いて,唐突に,三つの神歌が配されている。後述の引用23に示すがフィードバックしてここにも「再掲」したい。三代教主を長年騙しつづけた大黒主に対する宣言(予言)とも捉え得るのではと思う。次章で述べる「此の世の泥」については,ぼくは多少大袈裟という印象を受けてきたが,実は,予言であった。聖師はこの事態が生じることを知っていた。おほもと内の「瑞霊世を去りて聖道漸く滅す」である。この三つの神歌は,大黒主の三代への祟りという観点で,始めて理解できると思う。

———————————————— 引用〜第六十巻序文に続く三神歌
第一歌: 天地のなやみを救う神人を,押し込めて見よ ないふるかみなり
第二歌: 愛善の徳に満ちたる神人を,知らずに攻むる,曲津神ども
第三歌: 一人の大気狂ひと,一人の大怪物の,正体を見る時
引用〜おわり ————————————————

追記 Jul. 16, 2024: この意味は,四代直美,うちまるの長男である和明の家系を放逐した事件を踏まえると,第一,二歌の神人は王仁三郎,第三歌の「大気狂ひ」は出口なお,「大怪物」は王仁三郎,と考えることができるだろう。「瑞祥」だけでは第二歌は三代教主もあてはまるかと考えたが,もうその判断は当たらない。「第三章 瑞祥」を含む第六十巻の序文と目次の間に,引用23は特に説明もなく配置されているので,判断に苦しんだところであった。
 『霊界物語』第4巻第14章大怪物だいくわいぶつ〔一六四〕には,「神諭しんゆしめされたる三千さんぜん世界せかい大化者おほばけものとは如何いかなるかみにましますか、たいてい推知すゐちべきなり。」とあり,ナオの神諭で示された王仁三郎であることがわかる。「気狂ひ」については,出口なおも王仁三郎も周囲からそう呼ばれてもいたが,この第三歌の場合,「一人の大気狂ひと,一人の大怪物」とあるので,「大気狂ひ」はナオに該当するとみて問題はない。「気狂ひ」は,当時,人が理解できない場合よく使われた言葉であって,「大気狂ひ」となると「気狂ひ」を超えるのである。

追記 Jun. 28, 2024: いま,霊感?があった。次章で述べる「瑞祥」こそ,大黒主に魅入られた三代教主による直美と和明の教主家筋放逐の事件の予言であった。聖師はこの大黒主の流れを転換しようとするが,予言は変わらない。聖師としてはとにかく,先が見えない中で,自らの使命を達成しなければならず,第六十巻の途中で口述を中止し,入蒙へと繋がる準備を開始するのである。

1.5 大本の平和運動は破壊活動防止法適用外

 前述のように,三代教主は戦前の外務省エージェント大島豊の術中に嵌まって大本を破壊したのであるが,二代教主と伊佐男(うちまる)による人類愛善会運動の周辺環境について確認したいと思う。人類愛善会運動は日本での「世界連邦運動」に賛同したものであった。そして,この日本の「世界連邦運動」は日本政府外務省,さらにいわば国会公認であった。全く国家権力に対抗するものでは無かった。この認識が三代教主にあったのかどうか。少なくともうちまるや栄二は了解していた。

 そして朝鮮戦争さなかの昭和27 (1952) 年に成立した破壊活動防止法(法律第二百四十号,提出日4月17日,成立施行日7月21日)である。連合国軍GHQ占領が続く中,サンフランシスコ講話条約が同年4月28日に成立したので,晴れて独立後の初めての治安法である。公安調査庁のウェブサイトにはリンクが張られている。この法律はGHQの要請に応える側面があった。戦前の治安維持法復活という危惧のなか,国会での論戦が闘わされ,野党は当時の国民の支持もあって,現在の治安法でなんとか収まった。歴史の苦難を経て自ら民主主義を生み出した欧米から見ると,現在の日本は何とか民主主義国ギリギリで収まっている。
 この法律のターゲットは,いまなお日本共産党に向いている。「野党共闘の分断をもくろむ日本共産党へのいわれなき攻撃 2019年3月23日 日本共産党国会議員団事務局」などは参考になるだろう。NHKのウェブサイトには,2024年の都知事選で立憲民主党が推す蓮舫氏が3位だったことに対し,労働組合「連合」が共産党と組むから負けたという記事が掲載されている。かつての自民党幹事長で現在民主党に所属する小沢一郎も泉代表を激しく批判している。日本のアカ排撃は与党野党ともに今なお続いているのは確かなことである。この流れを利用して大島豊は三代教主を震え上がらせたのであろう。
 では人類愛善会の平和運動が輝いていた時代の活動は,この悪法破防法に抵触するのか。全くしないのである。これもこの節で確認したいと思う。大島の行動は明らかに日本国憲法「結社の自由」を侵害している。結社の長に対して嘘で平和活動を妨害し組織破壊を企てたのであるから。

1.5.1 日本の世界連邦運動

 NPO法人 世界連邦21世紀フォーラムのウェブサイトを参照して,参考になる部分を引用したい。とくに,世界連邦運動とは の,「世界連邦運動の歴史と現在」,「日本における世界連邦運動の歴史と現在」から次に引用する。多少簡潔にしている。

———————————————— 引用〜世界連邦
「世界連邦運動の歴史と現在」一部抜粋:
 世界連邦提唱者アインシュタイン博士は原子力の国際管理を強く主張し、国際連合の機構および機能を改め原子力をコントロールする以外になく、また一切の戦争の主要原因を縮小し排除することを組織的に始めなければならないとした。

「世界連邦運動の日本の歴史と現在」抜粋:
 日本国内では敗戦した1945年,早くも尾崎行雄は「世界連邦建設に関する決議案」を国会に提出するが廃案となった。その後、ジュネーブの国際連盟で日本の常任代表を務めていた稲垣守克は,その3年後,新たに働きかけをし、尾崎行雄が代表、賀川豊彦が副代表という布陣で、世界連邦運動が日本でも発動することになった。
 1955年には日本の世界連邦運動協会理事長であった下中弥三郎 (平凡社社長) のイニシアティブによって「世界平和アピール七人委員会」が発足し、その20年後には湯川秀樹と朝永振一郎による「核抑止を超えて」が宣言される。
 世界の世界連邦運動の第5代会長となった湯川秀樹は、1981年「核兵器を廃絶し、平和な世界を目指す世界連邦構想は、決して夢ではありません。人類が本当に平和を願い、幸せに生きることを望むかぎり、道は必ず開けると思います」という言葉を残してこの世を去るが、その意思は妻スミに受け継がれ、平和の為の市民活動へと発展していきます。
引用〜おわり ————————————————

 なお,前述のように,湯川スミは湯川秀樹の死後,日本の「世界連邦運動協会」会長を2回歴任している。

 ピースビレッジ第64回 賀川豊彦と世界連邦運動 ―平和・協同・未来(講師 杉浦秀典,賀川豊彦記念松沢資料館副館長)を参照して,日本の「世界連邦運動」の成立を見る上で,キーパーソンである賀川豊彦の活動を引用したいと思う。

———————————————— 引用〜賀川豊彦の活動
 賀川豊彦は日本の協同組合運動の父と言われる。同時に平和運動にも尽力した人物である。昭和10(1935)年、賀川はアメリカ政府から、ニューディール政策の一環として、全米各地に協同組合運動展開の依頼を受けた。昭和16(1941)年には、総理大臣近衛文麿の密命を受け日米開戦回避のためにルーズベルト大統領に会うべく渡米するが、日本軍による南部仏印進駐が開始され、この会談は中止される。
 第二次世界大戦後、賀川は原爆投下の悲劇を招いた日米開戦を防げなかったことを悔い、平和運動に邁進する。アインシュタイン博士の提唱から「世界国家」の考えが世界に広がり、日本では「世界連邦運動」として盛り上がりを見せた。上記のように,昭和23 (1948) 年,日本の「世界連邦建設同盟」の副総裁に就任。総裁は憲政の父尾崎行雄だった。同年8月、賀川は英国議会議長から、国会内に世界連邦議員グループを結成の要請を受け、衆議院議長松岡駒吉を説得して、昭和24(1949)年12月に「世界連邦日本国会委員会」が結成される。入会国会議員は104名にのぼり、賀川は顧問に就任した。他の顧問は、吉田茂、幣原喜重郎などそうそうたる顔ぶれだった。
引用〜おわり ————————————————

 この引用??で,「賀川はアメリカ政府から、ニューディール政策の一環として、全米各地に協同組合運動展開の依頼を受けた」,「賀川は英国議会議長から、国会内に世界連邦議員グループを結成の要請を受け」,という文面はそのまま,受け取り難く。周辺情報が脱落しているように感じるのであるが。

日本生活協同組合連合会の「初代会長 賀川豊彦」のページも参照する。

———————————————— 引用〜賀川豊彦の履歴
1888年~1960年、神戸市生まれ 社会運動家。賀川豊彦は16歳でクリスチャンになり、19歳の時、「他人のために役立つこと」を自らの使命とし、21歳で神戸の貧しい人々が住む地域に身を投じ、人々の救済活動に携わった。その後、アメリカのプリンストン大学神学校に留学し、帰国後は労働組合運動に参加。大阪や神戸などで消費組合(のちの生協)づくりを指導した。1923年の関東大震災の際には直ちに神戸から被災地に駆け付け、「被災者の目となり、耳となり、口とならなければならない」と救援活動を行った。
 さらに、農民運動や医療組合運動、共済組合運動、平和運動などでも先駆的役割を果たし、1951年には日本生協連初代会長に就任した。作家としても意欲的に活動し、生涯300冊を超える著作を世に出した。こうした活動が内外から高く評価され、わが国初のノーベル文学賞候補、同平和賞候補になった。さらに,1999年12月、国連が採択した「子どもの権利条約」のもと、ユニセフの「子どもの最善の利益を守るリーダー」として、世界の52人の一人に選ばれたのである。
引用〜おわり ————————————————

 日本の世界連邦運動が国策で進められたことが了解されたと思う。さらに,クリスチャン賀川豊彦の労働さらには消費組合運動など先駆的かつ輝かしい活動には驚くばかりである。そういった流れの中に人類愛善会運動はあったと思われる。松のミドリが切り取られなければ,人類愛善会さらにはみずほ会の運動は,世界連邦運動の奔流から多くを学ぶことができたと思われるのである。

以上,2024/07/22。

1.5.2 サンフランシスコ講話条約と日米(新)安保条約

 「1.4.3 大本の平和主義」の [引用〜村上重良(1962)「大本の平和主義について」] から,日米新安保条約に対する人類愛善会の行動の部分をつぎに再掲しよう。
————————————————
 1960年,国民的規模で中立平和か,日米軍事同盟による戦争への道かを決する日米新安保条約反対運動が展開されたが,大本・人類愛善会は,戦争への道を断乎として拒否し,新安保条約に反対した。日本の各宗教の過半は,新安保条約に賛成するか,ないしは態度を不明確にしたままで事実上賛成するという動きを示し,各宗教の内部では平和を守る決意を持つ宗教者によって反対運動が進展した。このなかにあって大本は,全国的な大教団としては,新安保条約に反対した事実上唯一の宗教であった。
 新安保条約の成立後,日本の情勢は,いっそうきびしさを加えたが,大本の平和運動は,こののち,急速に,日本の現実との対決を自覚化していった。1961年には「平和憲法の精神を生かし世界軍備の全廃を求める」748万署名を達成し,また世界宗教者平和会議に参加,宗教平和運動の原則と使命を内外に示す同会議の「京都宣言」を支持した。本年には,日本宗教者平和協議会の結成にあたり,その主要な加盟教団となり,憲法記念日を中心に「人類愛善新聞」の憲法擁護特集号30万部を全国的に配付して平和憲法擁護をうったえた。
————————————————

 二代教主が再興した人類愛善会による活動は,国策であった世界連邦運動に含まれるものであった。そして,その流れのまま,人類愛善会は,新安保条約反対の場に進んだのである。六〇年新安保条約反対運動は,敗戦後,最も盛り上がった社会運動であった。
 六〇年日米新安保条約は,実は1951年9月8日に作成され1952年4月28日に発効したサンフランシスコ講和条約と並行して作成,発効された日米安全保障条約に由来するものである。関連文書を次にリストする。

サンフランシスコ講話条約 Treaty of Peace with Japan 日本との平和条約
昭和26 (1951) 年9月8日作成,昭和27 (1952) 年4月28日発効

日米安全保障条約(旧) 日本国とアメリカ合衆国との間の安全保障条約
昭和26 (1951) 年9月8日作成,昭和27 (1952) 年4月28日発効

日米行政協定 日本国とアメリカ合衆国との間の安全保障条約第三条に基く行政協定
昭和27 (1952) 年2月28日作成,同年年4月28日発効

日本国とアメリカ合衆国との間の相互協力及び安全保障条約 日米安全保障条約
昭和35 (1960) 年1月19日署名,同年6月19日国会承認,6月23日批准書交換,効力発生

 上記の文書を何度か読み直してみた。ぼくは70年安保反対闘争よりも前の文部省の相次ぐ反動化政策の決定に対峙する運動のなかに居た。全教養部(医学部を除く)自治会で圧倒的な反対決議が成立し,ほぼ全教養部の学生が参加するほどで市中をデモ行進した。反対決議のバックアップのなか,大学内の教養講義棟のなかにバリケードを築いて立て籠もったりしたのである。その後,学生達の熱は急激に冷め,70年安保反対闘争まで引き続けることができなかったのである。
 そのぼくの体験からも,安保改定反対運動といえば60年安保反対闘争である。これに関する事情を簡潔に伝えているウェブページがあるので,高校生用の世界史用語解説,を参照頂きたい。さて,次に述べる内容は,五味文彦・鳥海靖編(2010)『もいちど読む山川日本史』にほぼ従っている。高校生用の教科書は文科省検定済みであるが,これは教科書をベースにしながら,その規制を超えて社会人用に作成されたものである。最終章(第15章)現代世界と日本,に注目したい。

 敗戦で日本は連合軍の占領下におかれ,ソ連の北海道占領の要求はアメリカによって拒否され,実質アメリカの単独占領になった。日本政府は国内統治能力を維持したまま敗戦をむかえたので,アメリカ軍(GHQ)は日本政府を通じて間接統治を行うことができた。
 アメリカの対日占領政策の基本方針は,アメリカの脅威にならないように,その軍事能力を徹底的に破壊すること,及びそのために体制を民主化することであった。敗戦とともに成立した内閣では能力的に全く対応できず,昭和20 (1945) 年10月,(1) 婦人の解放,(2) 労働者の団結権の保障(団結権,団体交渉権,ストライキ権),(3) 教育の自由主義化,(4) 圧政的諸制度の廃止(旧無産政党諸派を統合した日本社会党,戦前は非合法とされていた日本共産党の結成・再建など),(5) 経済の民主化,いわゆる五大改革指令を発したのである。
 昭和21 (1946) 年,天皇の人間宣言,戦争を遂行した軍国主義者及び全体主義者とみなされる各界の旧指導者などの公職追放,昭和22 (1947) 年,平和主義と民主主義を基本理念とする教育基本法,六三三四制などの学校教育法(男女共学,9年の義務教育制),が制定され,実施された。
 経済の民主化でとくに重要なのは農地改革と財閥解体であった。二度の農地改革によって,不在地主の全小作地と在村地主の平均1町歩を超える小作地が,国家に強制買収され,小作人に安く売り渡された。その結果,長いあいだ農村を支配してきた寄生地主制は一掃された。また財閥解体は,三井三菱など財閥の資産凍結にはじまり,昭和22 (1947) 年制定の独占禁止法や過度経済力集中排除法によって巨大企業の分割が行われた。
 明治憲法を少し手直しした日本の内閣による憲法案をGHQは拒否し,国民主権や戦争放棄の原則を盛り込んだ新憲法案を作成して日本側に提示し,日本政府はGHQ案をもとにあらたな草案をつくり,帝国議会の審議を経て昭和21 (1946) 年11月3日,国民主権,平和主義,基本的人権の保障の原理にもとづく日本国憲法が公布され,翌年5月3日から施行されたのである。新しい憲法とともに制定された地方自治法によって都道府県知事や市町村長は住民の直接選挙によって選ばれることになり,民法が改正されて,戸主制度は廃止され,女性にも男性と同じ権利が認められるのである。
 読者はここまで読まれよて,米軍単独の占領ゆえに,日本では朝鮮半島のような分割が生じなかったことを知るであろう。奄美沖縄の返還は遅れ,沖縄では今なお米軍基地の存続故の苦しみは続くのであるが。そして敗戦ゆえに,日本は棚ぼた式に民主主義国家実現の恩恵を受けたのである。あまりに多くのアジアの人々,欧米の兵士,日本人の犠牲があったのであるが,敗戦によって,日本の社会的弱者は多くのものを得たのである。
 『霊界物語』のイヅミの国スマの里についての引用22には,米軍による農地解放が予言されている。ストーリーは三五教の宣伝使の活動の結果であるが,実際は敗戦による米軍の進駐がもたらしたものであった。予言はそれとわかる形では示されていない。口述された大正12 (1923) 年に,四半世紀後に米軍が来て農地解放するなんて,言える訳がない。予言内容はあまりに素朴なのであるが日本の真珠湾攻撃から敗戦を踏まえた予言である。日本国憲法施行日5月3日も王仁三郎信奉者からすると気になる日付ではある。
 なお,ぼくは予言というのは,それとわかる内容があって初めて意味があると考えてきた。どうも王仁三郎の予言はそういうものではない。主に日本に係わる大きな地震や戦争があって初めて,予言ではないか,ということになる。予言内容は,生じる前からそれとわかってはならないのである。では何故,王仁三郎は予言するのか。神の存在,自らの神格を示すために予言をしていると考えれば良いのである。予言できる存在があることを人類に伝えて,自らの教えの価値を証明しているということになる。

 さて。冷戦だな。
 

1.5.3 破壊活動防止法による団体活動の規制

 さて。2024/07/22。

2. 伯耆国大山麓での垂訓

2.1 『霊界物語』第六十巻挿入章「瑞祥」

図4 第六十巻口絵写真 瑞泉苑にて

 ここに取り上げる校定版第60巻(昭和45 (1970) 年2月18日発行)には2枚の口絵写真があり,その一つは,聖師の生家があった穴太久兵衛池畔での出口聖師とご生母よね刀自のスナップ写真(大正14年4月6日撮影,部分切り抜き)である。出口朝野は,開祖なおとの比較に過ぎないが,この聖師の母親により近い感じもする。撮影日からすると聖師(1871年8月27日生)は五十三歳の筈だ。よねは七十歳余。

 聖師着用の服は宣伝使服であろうか,五十三歳よりも若く見えるが。大本七十年史編纂会(1964: p. 799)には,「(大正14年)三月二一日には,すでに宣伝使服ならびに宣伝使帽が制定」とあり,p. 800には「あらたに制定された宣伝使帽と宣伝使服」とキャプションが付された王仁三郎の全身立像が掲載されており,上掲の瑞泉苑の撮影日に問題はないようだ。

 霊界物語 > 第60巻 > 第1篇 天仁和楽 > 第3章 瑞祥,には,この口述の日(大正12 (1923) 年4月5日)か前夜に,皆生温泉浜屋旅館に,二代澄子と三代教主が訪ねてきたことが次の「引用〜木花姫の御再来」のように歌われている。三代教主に対しては,「木花姫の御再来,御霊の守る肉の宮」と呼びかけている。三代教主=出口直日は明治35 (1902) 年3月7日生まれだから,この時は21歳である。聖師と直日の間で何らかのわだかまりがあって,それが解決した喜びが歌われているようだ。

———————————————— 引用〜木花姫の御再来
時しもあれや聖地より,此世の泥を清むてふ,二代澄子と仁斎氏,木花姫の御再来,御霊の守る肉の宮,千代の固めの経綸に,遙々来たる松林,中に立ちたる温泉場,浜屋の二階に対坐して,役員信徒と諸々と,三月三日の瑞御霊,五月五日の厳御霊,三五の月の光をば,いと円満に照らさむと,互ひに誠を語り合ひ,誓ひを立てし,目出度さよ。
引用~おわり ————————————————

 「此世の泥を清」めたのは二代澄子と仁斎氏で,「此世の泥」にまみれたのは木の花姫の肉の宮,ということだろう。「三月三日の瑞御霊,五月五日の厳御霊,三五の月の光をば,いと円満に照らさむ」,というのは厳瑞二霊のおほもとの維持と展開(口述の三五神諭にもある)を意味するのだろう。「互ひに誠を語り合ひ,誓ひを立てし」は尋常では無い。

 この歌に続いて,新たな段落を作って,次の引用文が続く。

———————————————— 引用〜スメールの山の麓
スメールの山の麓に二柱,並びて世をば開く今日かな。(補記: スメール山は,古代インド世界観の中心にそびえる聖なる山であって,この場合は大山にあたり,二柱は,聖師と二代澄子を指している)
世の人を皆生かすてふ温泉場,救ひの船に棹さし進む。(補記: この場合は,聖師と二代澄子を救う船に,二人が乗っていると考えれば良いのか)
天地の真純の彦の物語,此の世を澄子の司来たれる。
マイトレーヤ御代早かれと松村の,真澄の彦の笑み栄えつつ。(松村真澄)
ミロクの世一日も早く北村の,月日の隆き光待ちつつ。(北村隆光)
いとた加かき藤の御山の神霊,明したまひぬ常闇の世を。(加藤明子)
世を救ふ神の出口の瑞月が(出口瑞月),真純の空に輝き渡る。
マハースターマブラーブタ(大勢至)マンヂュシュリ(文珠師利),アバローキテーシュヷラ(観世音)尊き。
スーラヤ(日天子)やチャンドラデーワブトラ(月天子)やサマンタガン(補記: 普光天子),守らせ給へ瑞の御霊を。(補記: 瑞の御霊を守って欲しいと)
ダルタラーストラ・マハーラーヂャ(東方持国天王)ヸルーダカ(南方増長天王),ヸルーバークサ(西方広目天王)ヷイスラワナ(北方多聞天王),守らせ玉へこれの教へを。(補記: 厳瑞二霊の教えを守って欲しいと)
(大正一二・四・五 旧二・二〇 於皆生温泉浜屋 加藤明子録) 
附記 本日は暴風雨烈しく怒濤の声に妨さまたげられ是にて口述中止せり。
引用〜おわり ————————————————

 この「引用〜スメールの山の麓」の部分には,聖師自ら,守らせ給え瑞の御霊を,守らせ給へこれの教を,と神々に祈念している。大本運動がギリギリの危機に瀕していたことが想像されるのである。附記の「怒濤の声」というのは三代に係わる人々の声だろう。
 第五十七巻序文 では幹部連が皆生温泉に集まっている様子が伝えられている。三代に関わる重大な事態に直面していたことがわかり,序や総説ではなく,『霊界物語』口述中の,この第六十巻第三章に,瑞祥(ずゐしやう)〔一五二八〕,と銘打たれて,挿入されていることも,『霊界物語』としては異例中の異例である。

 この集まりには,『霊界物語』筆記者のうちでも,中核をなす松村真澄,北村隆光,加藤明子,の氏名読み込み歌がある意味は大きい。木の花姫の肉の宮とする三代に関わる事件を目の当たりにしている中核の人々に,理解を求める願いが感じられるのである。

 この「引用〜スメールの山の麓」の直前には,次の「引用〜神洲最初の鎮台」があった。

———————————————— 引用〜神洲最初の鎮台
綾の聖地を後にして,神洲最初の鎮台と,言ひ伝へたる大山(だいせん)を,救ひの船に乗りながら,眺めて茲に遠つ世の,生物語(いくものがたり)述べて行く。
引用〜おわり ————————————————

 神洲最初の鎮台というのは,「日本」最初の軍隊を配備した地方行政官庁ということだろう。素戔嗚尊から派遣された宣伝使達の攻勢に月の国から逃げてきたバラモン教トップの大黒主(おほくろぬし,常世国生まれ,バラモン教教主大国別命没後,バラモン教大教主となってインドハルナの都(現ムンバイ,インド半島西縁)に割拠,八岐大蛇,『霊界物語小事典』より)が,斎苑の館から駆け付けた素戔嗚尊に征伐される。
 なお,ここで述べる大黒主が大山の地で素戔嗚尊に征伐されるという記事は『霊界物語』にはない。予言書『古事記』が語るところをぼくがここに繋いだだけである。『霊界物語』山河草木第七十二巻は途中で終了している。『霊界物語』には,ハルナの都に割拠する「地上を攪乱した邪神の巨頭」大黒主が登場しないのである。木庭(2010: p. 363)には,「霊界物語余白歌から(十二)」の七歌が掲載されており,ここには古事記に関連する二歌がある。その一つ,「いそかみ 古事記ふることぶみを 今の世に 生かす真人まさびとの なきは淋しも」がある。これがヒントになった。『霊界物語』では三五教の宣伝使たちは,ハルナの都の大黒主に到達していない。古事記に回答があるとぼくは考えたのである。実は八岐大蛇は未だ退治されていないのではないか。

 霊界物語 > 第60巻 > 第2篇 東山霊地 > 第7章 方便 には,

 玉国別が月の国(インド)のバラモン教を捧持していた人々の信頼を得て,イヅミの国スマの里の大地主は三五教の神殿を造営し,全財産を村人に分け与える段などが誌されている。父によれば,この玉国別は日本を指しており(木庭次守,2002b: p. 192),聖師の思いはここにあることが理解できるのである。関連する文を次の「引用〜スマの里」に。

———————————————— 引用〜スマの里
元来スマの里は何れも山野田畠一切、バーチルの富豪に併呑され、里人は何れも小作人の境遇に甘んじてゐた。併し乍ら日歩み月進み星移るに従ひて、彼方此方に不平不満の声が起こり出し、ソシァリストやコンミュニスト等などが現れて来た。中には極端なるマンモニストもあつて、僅かの財産を地底に埋匿くし、吝嗇の限りを尽くす小作人も現はれてゐた。然るに此の度、アヅモス山の御造営完了と共に、一切の資産を開放して郷民に万遍なく分与する事となり、郷民は何れも歓喜して、リパブリックの建設者として、バーチル夫婦を、口を極めて賞揚する事となつた。俄かにスマの里は憤嫉の声なく、おのおの和煦(わく)の色を顔面に湛へて、オブチーミストの安住所となつた。
引用〜おわり ————————————————
補記: マンモニストは,mammonistのローマ字読みで,現在の日本ではマモニストと表現する場合が多い。守銭奴のことである。

2.2 『霊界物語』第六十巻追加三篇

 この第六十巻には,これまでのストーリーから外れて,校定版全366ページの半分以上に及ぶ三篇が後に追加されている。第三篇 神の栄光,第四編 善言美詞,第五編 金言玉辞,である。第五編には三五神諭その一〜その六があって,上記事件に係わって,不穏な動きを押し返す開祖なおの神諭が鏤められている。
 『霊界物語』は巻号ごとに,ひとまとまりを成すが,この第60巻のみ,第二編で物語のストーリーが中断されているのである。第三篇〜五篇はストーリーとは全く関係の無い内容となっている。再録という形で,王仁三郎の口述は無い。第三篇は加藤明子によって5月15日付,第四篇は祝詞で担当者なし,第五編は北村隆光によって4月25〜27日付。非常事態である。

 本巻はじめの序文に続いて,三つの神歌が配されている。「引用〜第六十巻序文に続く三神歌」を再掲する。
———————————————— 引用〜第六十巻序文に続く三神歌
天地のなやみを救う神人を,押し込めて見よ ないふるかみなり
愛善の徳に満ちたる神人を,知らずに攻むる,曲津神ども
一人の大気狂ひと,一人の大怪物の,正体を見る時
引用〜おわり ————————————————

 この三つの神歌にある聖師の思いは,三代を巻き込んで厳瑞二霊神業を破壊し,大本を占拠しようとしていることへの,怒りである。

 第三篇 神の栄光,第五編 金言玉辞の各編で,この非常事態に直接的に係わると思われる文面を以下,二三ピックアップしたいと思う。第四編 善言美詞,は,祝詞の保存を意図したものであり,この文脈とは直接つながらない。

2.2.1 第三篇 神の栄光

———————————————— 引用〜神の栄光
つねにそむき去りし子を,しのび泣く母のごと,神われらをまちたまふ,つみ悔いてかへれよと。

いづと瑞とふたはしら,つみの身もすくふなり,母のおもひ父のあい,くめどもつきぬめぐみを。

つみに(けが)れしものよ,(かみ)にかへり,千座(ちくら)(お)はせる,(はは)(み)よや,手足(てあし)(つめ)なき,御手(みて)をひろげ,(い)きよ(さか)えよと,まねき(たま)ふ。
引用〜おわり ————————————————

2.2.2 第五編 金言玉辞

 神島開きの後,出口なおのお筆先を王仁三郎が整頓したのが「おほもと神諭」である。ここでは,三五神諭をおほもと神諭と読ませている。瑞御霊王仁三郎が厳御霊出口なおのお筆先を解読整理した結果ということで,三五神諭と表現したのであろう。引用「三十七年旧七月十二日,大正三年旧七月十一日」は,この第五編に収録されている。

———————————————— 引用〜明治三十七年旧七月十二日
明治三十七年旧七月十二日:
変性女子(へんじやうによし)筆先(ふでさき)信用(しんよう)せぬと(まを)して、肝腎(かんじん)役員(やくゐん)反対(はんたい)いたして、(か)いたものを(のこ)らず一所(ひとところ)(よ)せて(はひ)(いた)したり、悪魔(あくま)守護神(しゆごじん)ぢやと(まを)して(きやう)伏見(ふしみ)丹波(たんば)丹後(たんご)などを言触(ことぶれ)(まは)りて(かみ)邪魔(じやま)(いた)したり、悪神(あくがみ)ぢやと(まを)して力一杯反対(ちからいつぱいはんたい)いたして、四方(しはう)から(くる)しめてゐるが、全然自己(さつぱりわれ)(め)(たま)(くら)んでゐるのであるから、自己(われ)(こと)(ひと)(こと)(おも)うて、(はぢ)とも(し)らずに、狂人(きちがひ)真似(まね)をしたり、馬鹿(ばか)真似(まね)(いた)して一廉改信(いつかどかいしん)出来(でき)たと(まを)してゐるが、(き)(どく)であるから、何時(いつ)女子(によし)(き)(つ)けさすと、悪神奴(あくがみめ)大本(おほもと)(なか)(き)(なに)(ぬか)すのぢや、吾々(われわれ)悪魔(あくま)(たひら)げるのが第一(だいいち)(やく)ぢやと(まを)して、女子(によし)獣類扱(けものあつか)ひに(いた)して、(はうき)(たた)いたり、(しほ)振掛(ふりか)けたり、啖唾(たんつば)(は)きかけたり、種々(いろいろ)として無礼(ぶれい)(いた)しておるぞよ。(これ)でも(かみ)は、(なに)(し)らぬ盲聾(めくらつんぼ)人民(じんみん)改信(かいしん)さして、(たす)けたい一杯(いつぱい)であるから、温順(おとな)しく(いた)して(まこと)(と)いて(き)かしてやるのを逆様(さかさま)(き)いて(を)れど、信者(しんじや)(もの)(い)(き)かして邪魔(じやま)(いた)すので、何時(いつ)までも(かみ)思惑成就(おもわくじやうじゆ)いたさんから、(これ)から(みな)役員(やくゐん)(め)(さ)める(やう)に、変性女子(へんじやうによし)御魂(みたま)肉体(にくたい)を、(かみ)から大本(おほもと)(だ)して経綸(しぐみ)(いた)すから、其覚悟(そのかくご)(を)るがよいぞよ。女子(によし)(で)たら(あと)(ひ)(き)えた(ごと)く、一人(ひとり)立寄(たちよ)人民無(じんみんな)くなるぞよ。さうして(み)せんと(こ)(なか)(おも)(やう)(ゆ)かんぞよ。明治四十二年(めいぢしじふにねん)までは(かみ)(そと)(つ)(まゐ)りて、経綸(しぐみ)橋掛(はしかけ)をいたすから、(あと)(はづ)かしくないやうに、今一度気(いまいちどき)(つ)けて(お)くぞよ。この大本(おほもと)(なか)(もの)(のこ)らず改信(かいしん)いたして、女子(によし)身上(みじやう)(わか)りて(き)たら、物事(ものごと)箱差(はこさ)したやうに(すす)むなれど、(いま)のやうな慢心(まんしん)誤解(とりちがひ)ばかりいたしておるもの(ばか)りでは、片輪車(かたわぐるま)であるから、一寸(ちよつと)(うご)きが(と)れん、骨折損(ほねをりぞん)草臥儲(くたびれまう)けに(な)るより仕様(しやう)(な)いから、(みな)役員(やくゐん)往生(わうじやう)いたすまでは(かみ)連出(つれだ)して、(そと)経綸(しぐみ)をいたして(み)せるから、其時(そのとき)には又出(またで)御出(おい)(な)されよ、(て)(ひ)(あ)ふて神界(しんかい)御用(ごよう)をいたさすぞよ。
引用〜おわり ————————————————

———————————————— 引用〜大正三年旧七月十一日
大正三年旧七月十一日:
綾部(あやべ)神宮坪(しんぐうつぼ)(うち)(もと)(みや)出口(でぐち)入口(いりぐち)竜門館(りうもんやかた)高天原(たかあまはら)相定(あひさだ)まりて、(てん)御三体(ごさんたい)大神(おほかみ)天地(てんち)(お)(あが)りを(な)されて、この(よ)御守護遊(ごしゆごあそ)ばすぞよ。この大本(おほもと)(ち)からは変性男子(へんじやうなんし)変性女子(へんじやうによし)との(ふた)つの身魂(みたま)(あら)はして、男子(なんし)には経糸(たていと)女子(によし)には緯糸(よこいと)意匠(しぐみ)をさして、(にしき)(はた)(お)らしてあるから、織上(おりあが)りたら立派(りつぱ)模様(もやう)出来(でき)ておるぞよ。神界(しんかい)意匠(しぐみ)(し)らぬ世界(せかい)人民(じんみん)色々(いろいろ)(まを)して(うたが)へども、今度(こんど)大事業(たいもう)人民(じんみん)(し)りた(こと)では(な)いぞよ。神界(しんかい)(で)てお(いで)ます(かみ)にも御存知(ごぞんぢ)(な)いやうな、(ふか)仕組(しぐみ)であるから往生(わうじやう)いたして神心(かみごころ)になりて(かみ)(まを)すやうに(いた)すが一番悧巧(いちばんりかう)であるぞよ。まだ此先(このさき)でもトコトンのギリギリ迄反対(まではんたい)いたして、変性女子(へんじやうによし)(わる)(まを)して、(かみ)仕組(しぐみ)(つぶ)さうと(か)かる守護神(しゆごじん)が、(きやう)大阪(おほさか)にも(で)(く)るなれど、もう微躯(びく)とも(うご)かぬ仕組(しぐみ)(いた)して(かみ)附添(つきそ)うて御用(ごよう)(さ)すから、別条(べつでう)(な)いぞよ。変性女子(へんじやうによし)霊魂(みたま)(つき)(みづ)との守護(しゆご)であるから、(きたな)いものが(まゐ)りたら(すぐ)(にご)るから、(わけ)(わか)らぬ身魂(みたま)(くも)りた守護神(しゆごじん)(そば)へは(よ)せんやうに、役員(やくゐん)(き)(つ)けて(くだ)されよ。(むかし)から今度(こんど)(あま)岩戸開(いはとびらき)御用致(ごよういた)さす(ため)に、(ひつじさる)(おと)してありた霊魂(みたま)であるぞよ。此者(このもの)出口直(でぐちなほ)との霊魂(みたま)(そろ)ふて御用(ごよう)(いた)さねば、今度(こんど)大望(たいもう)は、何程悧巧(なにほどりかう)人民(じんみん)(かんが)へでも物事出来(ものごとしゆつたい)(いた)さんぞよ。
引用〜おわり ————————————————

 おほもとは厳密には,厳御霊と瑞御霊,二霊のみで成立していることの確認である。現代の価値に沿って宗教活動をすればするほど,この厳瑞二霊から遠のいて,おほもとを捨てることになり,世界を救うことにもならない,ということである。

2.3 『霊界物語』第六十巻総説と此の世の泥

 本巻の総説は,三代が此の世の泥を被った後の過去の物語口述筆記の回顧である。三代およびその周辺の動きはその二年前の大正10年の大本事件を経た結果ともいえよう。それを踏まえて,この総説が誌されたものと考えられる。この総説のはじめを次の「引用〜第六十巻総説」に示す。

———————————————— 引用〜第六十巻総説
 古人(————————————————こじん)(い)ふ、『善願(ぜんぐわん)あれば(てん)(かなら)(これ)(たす)く』と。瑞月(ずゐげつ)神明(しんめい)随々(まにまに)病躯(びやうく)(か)つて(やうや)神示(しんじ)物語(ものがたり)原稿(げんかう)用紙(ようし)七万(しちまん)五千(ごせん)(まい)(やく)八百(はつぴやく)五十(ごじふ)(まん)(げん)頁数(ページすう)二万(にまん)四千(よんせん)(やく)九箇月(きうかげつ)着手(ちやくしゆ)日数(につすう)(えう)して、(ここ)にいよいよ六十(ろくじつ)(くわん)口述(こうじゆつ)編著(へんちよ)しました。(か)かる阿房(あはう)多羅(だら)(なが)物語(ものがたり)(か)いて識者(しきしや)より冗長(じようちやう)粗漫(そまん)文章(ぶんしやう)だと失笑(しつせう)さるる(おそ)(な)きには(あら)ざれども、今日(こんにち)大多数(だいたすう)人々(ひとびと)古人(こじん)(ひ)して頭悩(づなう)活動力(くわつどうりよく)(もつと)(おと)り、容易(ようい)深遠(しんゑん)なる教義(けうぎ)真解(しんかい)すること(あた)はず、(か)何事(なにごと)上走(うはばし)りにて誤解(ごかい)(やす)く、(ため)三五教(あななひけう)真相(しんさう)大精神(だいせいしん)曲解(きよくかい)(つひ)には(いま)はしき大本(おほもと)事件(じけん)喚起(くわんき)するに(いた)つたのは、(かへ)(がへ)すも遺憾(ゐかん)(いた)りであります。
 上根(じやうこん)(ひと)一言聞(ひとことき)いて其真相(そのしんさう)了解(れうかい)し、至仁至愛(しじんしあい)(かみ)大精神(だいせいしん)大経綸(だいけいりん)正覚(しやうかく)すと(いへど)も、中根下根(ちうこんげこん)人々(ひとびと)(たい)しては到底高遠微妙(たうていかうゑんびめう)なる文章(ぶんしやう)言語(げんご)にては(かい)(え)ない而己(のみ)ならず、(かへつ)神意(しんい)誤解(ごかい)し、大道(だいだう)汚濁(をぢよく)する(おそれ)がある。(ゆゑ)瑞月(ずゐげつ)現代多数(げんだいたすう)人々(ひとびと)(ため)多大(ただい)努力(どりよく)日子(につし)(つひや)したのであります。
引用〜おわり ————————————————

追記 Jul. 10, 2024: 第一次大本事件の原因が大本の教えを国家権力が理解できなかったからで,大本の運動を万人に理解してもらう意味でも,『霊界物語』を口述筆記の上,出版してきたとするのであるが,第二次事件が起きてしまった。さらに,『霊界物語』から不敬罪を捏ち上げられることにもなった。そして,肝心要の後継者三代教主が『霊界物語』を父王仁三郎を,理解できなかった。
 此の世の泥をかぶったのは三代で,これに対して王仁三郎は大きな衝撃を受けるのであるが,その実体はわからない。『霊界物語』の順調な口述を中断して入蒙に向かうことになるのは,「三代が此の世の泥をかぶった」事件が契機になっている。

2.4 『霊界物語』第六十巻以降の転換

 『霊界物語』の真善美愛シリーズが第六十巻で終了して,第六十一巻から第七十二巻までは山河草木となる。その山河草木の第一巻(第六十一巻)と第二巻(第六十二巻)は讃美歌集となっていて,第三巻(第六十三巻)から,真善美愛の最終刊第六十巻のストーリーが受け継がれてゆく。第六十巻から第六二巻までの,『霊界物語』のストーリーから外れた原因として,三代に係わる騒動が関係しているように思われるのである。王仁三郎は強い危機感のもと,まずは,第六十巻後半の三篇,第六一,六二巻に讃美歌など,をまとめたのだろうと思う。

3. 『霊界物語』第57〜72巻の口述筆記記録と人物などの日程

3.1 『霊界物語』第57〜72巻の口述筆記記録と人物などの日程

 以下で論じる際に基礎となる『霊界物語』口述日程と事件などを整理して独立の章としてここに示す。第60巻第3章「瑞祥」,を理解する上で必要と思われた『霊界物語』の巻号57〜72については口述筆記日程順に並べている。「瑞祥」にかかわる事項も時系列に沿って挟み混んだ。
 この表2を作成する上で参考にしたのは,『霊界物語』については,木庭次守編(2010),出口王仁三郎著『霊界物語』,下記のオニペディア「出口大二」(引用〜出口大二),飯塚弘明提供の『大本年表』である。先日,タニハで木庭次守専用の大本年表を見つけている。なお,巻号/事実関係の列では,『霊界物語』にあたるセルを黄色に着色している。『霊界物語』口述筆記日程が他事で大きく変動していることが見える。

 オニペディアの「出口大二」の一部を次に引用する。
———————————————— 引用〜出口大二
大正3年(1914年)4月20日に弥仙山で行われた祭典の際に、当時13歳だった直日と12歳だった吉田兌三は、開祖出口直の言うがまま、訳の分からぬままに水杯を交わす。兌三は、4月9日に生後7ヶ月で帰幽した王仁三郎の長男・六合大(くにひろ)の生まれ変わり的存在と見なされて、澄子から直日の婿にと請われる。
大正10年(1921年)10月13日(旧9月13日)、第一次大本事件の責任を取る形で王仁三郎・澄子らは役職を下り、代わりに直日が教主に、大二が教主補に就任する。
大正12年(1923年)6月18日(旧5月5日)、直日と大二は結婚式を挙げる。直日は二十一歳。
しかし半年後の同年12月16日、王仁三郎は二人の結婚生活の破局を発表。
引用〜おわり ————————————————

3. 2 瑞祥新聞

 

4. 三代の許嫁の結婚と破綻を通じて

4.1 神(なお)定めによって三代は大二と結婚

 第60巻第3章「瑞祥」の記述内容や,その後の『霊界物語』のストーリーを切る形で挿入された讃美歌などの構成について,原因を求めたいと思った。幸い,王仁ドットコム主宰の飯塚弘明,みいづ舎山口勝人からの情報をきっかけとして,前章の「『此世の泥』にまみれたのは木の花姫の肉の宮」について,ほぼ三代を取り巻く環境を想定することができたので,ぼくの推理の流れをここに示したい。

 表2によれば,王仁三郎一行は皆生温泉に大正12(1923)年3月20日から4月9日まで滞在している。「瑞祥」の口述筆記日は,大正12(1923)年4月5日である。三代は井上,湯川とともに,3月26〜29日に滞在,二代は湯浅とともに,その後の,4月4〜8日に滞在している。聖師が三代と会って,その後,別に二代と会って,二代の到着の翌日,二代滞在中に「瑞祥」の口述筆記が成された。この口述筆記中には,二代も湯浅も同席していた筈である。そういう内容である。三代に何かが起きた。しかし,何とか,三代は了解したということになる。

 では何を了解したのか。この同月18日には三代と大二との結婚発表,二カ月後には結婚式(6月18日),そして,結婚の半年後(12月16日)には二人の結婚生活の破局の発表があった。この流れを見ると,「『此世の泥』にまみれたのは木の花姫の肉の宮」事件は,三代に絡む大二の仕業に起因するものと考えるのが自然と言えるだろう。結婚前にすでに問題があったが,二代の説得で三代が折れた状況の中,瑞祥が謳われたのである。

 なお,表2の上段,また上掲の引用28に示すように,大正3年,直日と大二は出口なおの言うがまま,自らの意思とは離れたところで,水杯を呑んで婚約している。大正10年の第一次大本事件を契機にして王仁三郎と二代は責任を取って辞職し,直日が教主に大二が教主補に就任する。

 聖師には,なおの定めを無理に実行する気持ちはなかったように感じる。浅野和三郎中心に進められた「大正十年立替立直説」に対したスタンスと同じだ。二代を中心としたであろうが,なおの取り巻きも居て,なおの定めは絶対だった。聖師自らが当事者という思いはこの「瑞祥」では全く伝わってこない。僕の理解している聖師の力からすると,破局は見えていたのかも知れない。しかし,この不条理なうねりに抵抗する姿勢はない。抵抗しても止めることができないことも,承知ではなかったか。

 愛善苑事務局(1990MS)の対談で,窪田は次のように発言している。
「私は,昭和二十一年から愛善苑に奉仕し,その後,昭和二十七年に直日さまが三代教主になられた時,驚いたことの第一は,『私は王仁三郎は嫌いだ』と広言されたことです。」
「わたしの『おほもと』編集の最後の時に,和明さんと三代さんとの対談をとらせてもらったのですが,聖師さまや二代さまの思い出は,ボロクソでしたね。開祖さまだけが慕わしい祖母で,その話を延々としてはったね。あの年になって,まだ両親に反発されていた。」
 この意味では,なおが決めた大二との結婚について,なおの神定めについては幸い,こだわりはほぼ無いもの,と考えて良いのではないか。とはいえ,窪田はかなり優れた方で,その彼が薄給のなか,身を挺して大本神の少しでもお役に立ちたいと,働いてきた。そういう人の前で自分の父母故であってもボロクソに言う。一般企業創業家の社長とは責任の重みが違う筈ではある。

4.2 二代と大二の九州巡教:不動岩から杖立温泉

 表2の最上段の,大正11年10月8日〜11月3日の「二代教主,大二とともに九州巡教」に対応して,加藤明子の随行記「筑紫潟 二代教主・三代教主補 九州巡教随行記」(飯塚弘明Webサイト)がある。王仁三郎の大正12年8月7日〜9月7日の九州巡教よりも9カ月余り早い時期の訪問の記事になる。元々の記事は,『神の国』誌の第六信(大正12年1月10日号, p.9〜),第六信続きと第七信(1月25日号,p. 12〜)とある。
 二代教主,三代との結婚前の三代教主補(大二),に加藤明子も随行した。記事を見ると,谷村真友や熊本遊学中の八重野も一時,合流している。加藤明子は,入信前は山鹿周辺の女学校教師を8年間していたようで,その教え子も多数集まっている。この随行記の文体には,若く知性豊かな女性のエネルギーが漲っていて,ぼくの漠然とした加藤明子に対するマイナスイメージは払拭された。

 この随行記を読むにあたってぼくが注目したのは,二代の人柄と神性,大二の人柄,であった。二代の「大地の母」的な言動,強い霊感,強健な体力を実感することができた。ぼくの名付け親二代教主への憧れを壊すものではなく,安心することができた。大二の人柄については,ネガティブな資料だけを見ていたので,意外であり,納得することもできた。後述するように,王仁三郎によって,大黒主の系統だと否定もされているので,大二のいわば普通の人柄を確認できて良かった。「瑞祥」で述べられている「『此世の泥』にまみれたのは木の花姫肉の宮」,の推定をする上で参考になったのである。

 以下,大二に係わる「第六信」の一部分を拾い出す。

———————————————— 引用〜第六信:米田(よねだ)
鹿本会合所は山鹿湯町(やまがゆまち)を離れて物静かな米田(よねだ)村にあります。
 二代様たいそう御機嫌にて、
「なんだか(うち)に帰ったように気がのんびりした」
とおっしゃってお悦び。
 思えば若松を振り出しに、停車場という停車場で新聞記者や写真班に襲われ、または角袖に歓迎されて、私どもも少々ウンザリしていた。
 ここは田舎のこととて、面倒臭いことはなく、純朴な信者が赤心こめてかゆい所に手の届く御接待ぶり。お気に召すのも道理にこそ。「明日もう一日ここに居たい」と御講話が済んで二代様がおっしゃると、若先生も直ちに御同意になる。私にとってはこんな嬉しいことはない。随行という職務を決して忘れはしないけれど、つい十町ばかりのところには八年間在職した女学校がある。教え子たちが沢山にいる。聞けば一里ばかりの道を数十人の生徒たちが、今日も迎えに出ていてくれたのだとか。どうかして遇いたい。とこんなことばかり思うていた身には、二代教主のこの仰せは、天来の福音以上に有り難かった。
引用〜おわり ————————————————

———————————————— 引用〜第六信:正に不動岩
二代様は御着の翌日こんなことをおっしゃいました。
「私はな、この御神前でお礼をしていると昨夜も今朝もあっちの方向からドエライ神様が来られるがなあ、サアーと来られる」
とおっしゃった。その方向は正に不動岩である。私どもは顔見合わせて、「左様でございますか、分かりました、きっとそうでございましょう」と私はここで不動岩のこと、それにまつわる伝説と因縁および霊界物語との関係のことをお話ししました。すると二代様は、「そんなところならぜひお参りさせていただこう」とおっしゃり、若先生もすぐご賛成になった。十月十八日、即ち霊界物語御口述の第一周年記念日に当たって二代教主は親しく不動岩に登られ、言霊別命の神像に対せられた。
引用〜おわり ————————————————

閑話休題:

 大正10年10月18日が霊界物語口述開始日であることは『霊界物語』第1巻を見れば判るのであるが,何故,口述開始日が大切かは興味深いところである。第13章から口述が始まる。日付が入る最初の章は第12章で<大正10年2月8日 王仁>,とある。第13章は<大正10年10月18日 旧9月18日 外山豊二>で,これ以降は口述筆記形式である。木庭次守(2010: p. 23)の特徴で次の引用31が重要である。

———————————————— 引用〜口述筆記
 出口聖師は秘密とは必ず示すということであるが霊界物語の内容については「開祖にも秘密にしていた」と語られた程である。大神様と開祖の神霊の請求によって,大正十年旧九月八日(新十月八日)神命により神々と人類の世界にたいし,初めて発表された最後の光明艮となる神教である。
引用〜おわり ————————————————

 この「引用〜口述筆記」の内容には違和感があった。口述筆記開始は,大正10年10月18日 旧9月18日 であるから,新暦でいうと神命はこの10日前にあたる。第12章まではこの神命よりかなり前である。とすると,神命の内容は,「口述筆記にせよ」ということになる。その口述筆記が開始できた日,ということで,記念日になったと考えればいいのだろう。
 「開祖の神霊の請求」というのは,この「引用〜口述筆記」の含意からすると後掲の,4.6.1『錦之土産』アナロジーから『霊界物語』の構造でみる,で示した方便の一つという可能性が高いように思う。『霊界物語』が口述筆記になった理由を,王仁三郎は病(いたづ)きの身故としたが,ぼくはいま,予言書としての証人が必要であったとわかった。真面目で優秀な若い人々に口述し筆記されることで,王仁三郎の言動に正しく日付が刻まれるのである。口述の日付,場所,筆記者が口述内容とともに筆記される。真面目で優秀な若い人々は王仁三郎のごまかしを決して許さない。そういう緊迫した世界での口述の記録が『霊界物語』なのである。だから,普遍的価値がある。

———————————————— 引用〜第六信続き:御歌袋
 菊池支部は隈府町(わいふちょう)大字玉祥寺(ぎょくしょうじ)[※]にあります。支部長は田辺政雄氏。熱心な信者たちが方々から集まって来て、熱心にお話を伺いました。
 夜を日についだお話、御揮毫にもいささかの御疲れもなく、お二方ともすこぶる御健勝。谷村氏は祖霊奉祭の件につき至るところの支部、分所において熱心に話をしておられます。若先生は屋中にあっても汽車中にあっても絶えず、筆を取っては天声社に指揮命令を発しておられます。ほかに社長として大々的暗中飛躍を試みておられますが、天機漏らず、結果はやがてお仕事の上に現れて参りましょう。も一つ、御歌袋が非常に膨れているのでございますけれど、中々お示し下さらないのです。これは皆さまの熱心なる懇請の力に待たなければ中々頂くことが出来ません。
 翌十九日二代様は笹原義登(ささはらよしのり)氏の経営される農場に(が)を枉げられました。前日若先生もお越しになりました。たいそううまくいっておると二代様非常に感心遊ばして笹原氏はここに面目を施されました。
引用〜おわり ————————————————

———————————————— 引用〜第七信:国魂神純世姫命
 小国(おぐに)支部は海抜二千尺の阿蘇の外輪山を登りつめて、少し下ったところにありますので、私どもの自動車はこの外輪山を九十九折りに縫って上がって往きます。(中略)

「ああ綺麗だ。何という景色のよいところだろう。直霊(なおひ)さんに見せたいなあ。何ら浮世の塵に汚されない天然自然のこの神鏡、さぞ喜ぶことだろうに、私はまだこんな景色のよいところを見たことがない。ここに来て初めて生き甲斐があるような気がする」と二代様はお喜び。
「写真機を持ってくるのだった。残念なことをした。こんなよい景色またと見られるものでない」
と若先生も嘆息しておられます。(中略)

 五人乗りの自動車の左端が若先生、中央が二代様、右端が私、その前に谷村氏と上野氏とが並んで腰をかけた。私はフックリした腰掛けで結構でしたけれど、谷村氏と上野氏は皮の堅い小さな腰かけが時々激しい上下運動をやるので、ずいぶんお尻が痛そうでお気の毒でたまりません。しかしあまり景色がよいので、皆が何もかも忘れて讃歎の声を絶ちません。
「先生がこんな所を御覧になったら、さぞお喜びになるであろうに。(うち)にじっとしてお出でなさってお気の毒だ。私は徳な生まれようじゃな。三代さんはもう旅行はいやじゃと言うていたが、こんなよい所なら喜ぶだろう。よい歌がたくさん出来るのに」とこんな事をおっしゃって、二代様限りなき御悦び。若先生は小声で謡曲をおやりになっている。谷村氏は意気な声音で得意の鴨緑江やら、宣伝歌やらを小声で唸り出す。私も何か謡いたくなってきた。山上の風は寒いけれど日は温かです。全く浮世と離れて辺りには人一人いない。時々放し飼いにしてある馬や牛が群れをなして道端にやって来ては不思議そうに眺めているが、ブウブウと唸りに驚いて慌てて逃げて行く。総てが自然のままのこの神境。人も我もみな自然の子に帰って、胸中何らの妄念も不安もない。二代様はよいお声でお謡いになり出した。
「韓信が股を潜るも時世と時節。踏まれしタンボに花が咲く。七転八起の浮き世じゃネー心配すな、牡丹も(こも)着て冬籠もり」
 私も真似をして謡う。
「そうじゃない。七転八起のネーとそこへネーをつけるのじゃない。七転八起の浮世じゃネー心配すなと言うんやがな」
と果ては私の膝の上で調子を取って教えて下さる。(中略)

 宮原(みやはら)のもとのみたまが世に出でて
  神の御光(おひか)り出すぞ嬉しき
 宮原にかくし置いたるもとの種
  時節参りて今ぞ世に出る
 (あめ)(つち)の合せ鏡と云ふ事は
  ここの小国を云ふぞ教へ子
 教へ子のあつき心にのせられて
  来れば嬉しき神の宮原
 あめつちの(あま)家戸(いへご)をおしひらき
  末世かはらぬみろくみ(をしへ)

 まだそのほかに

 説くに説かれず云ふに云はれぬ深い仕組(しぐみ)ぢや推量推量

というお歌も出ました。

 小国支部は、熊本県阿蘇郡小国村字宮原にあります。信者の数はまだ少ないけれどみな堅い信仰をもっておられます。この地はお歌に出ました通り特別のお仕組の地らしうございます。
「ここだ、ここだなあ九州に来てここに来ねば無意味だ」
と仰せになり、翌朝産土神社に参拝せられました時は、神懸り状態になられんとしましたが、写真を取るのでおせき立てしたものですから、名残り惜しげに拝殿から降りて来られ、
「よほど高い神様だ、非常に霊が感じる、今座っているとだんだん目が釣り上がってきて神懸りになろうとした」
とおっしゃいました。この産土神社の御神紋は抱き茗荷に三つ巴をいっしょにしたもので即ち出口家と上田家との紋の結合であるのもまた不思議な現象でした。
 ここは九州のおよそ中央に位する地点、土地は俗塵を離れて高く二千尺の高原にあり、清きを好ませたまう神様の御鎮座には最も適当な場所である。ここがもしや筑紫の国魂神純世姫命(すみよひめのみこと)の鎮まりたまう所ではあるまいか、二代様も若先生も非常に喜び勇みたまう御有様、他では見られぬ現象でありました。
引用〜おわり ————————————————

 以上の引用を通じて,王仁三郎聖師,二代,いずれも健在ななか,大二が三代教主補としての責任をおそらくは屈託無く,こなしていることが感じ取れるのである。

4.3 いつの日か いかなる人の解くやらん この天地の大いなる謎

 この節では,出口禮子(2008b)を主に参考にしている。『霊界物語』第65巻についても触れたいと思う。出口禮子は出口和明の配偶者である。愛善苑事務所で確認させて頂いたところ,和明昇天のあと,一昨年かに昇天されたようだ。飯塚弘明のサイトによれば,平成14(2002)年 6月19日(旧5月9日)帰幽(71歳)。禮子はその20年後ということになる。記憶が曖昧だが,享年92歳とお聞きしたか。禮子は三平を伴って父(平成5(1993)年8月17日)の弔い(50日祭だったか?)のためにタニハに来て頂いたがスッとして霊感の鋭い印象であった。禮子は和明とともに『大地の母』の取材活動をされていたようである。この出口禮子(2008a,b)もその関連で得られた資料などを元にしている。『大地の母』は毎日新聞社から昭和44(1969)年に全12巻が出版されているので,いまだ大本分裂の兆しがみえない時代であり,お二人の住居は王仁三郎が保釈後身を寄せた熊野館くまのやかたでもあり王仁三郎の多数の作品が残されており,取材活動もかなり有利に働いたものであろう。
 飯塚弘明オニペディアの熊野館によれば,「昭和18(1943)年6月,直日一家が但馬の竹田町に移転した後,王仁三郎夫妻が移り住み,八重野(三女)宇知麿夫妻一家も同居する。王仁三郎はこの地を熊野館と命名する。昭和21(1946)年2月7日,大本は『愛善苑』として新発足し,この熊野館がその本部となる。同年8月26日,王仁三郎は脳出血により半身不随となる。9月8日、天恩郷の瑞祥館が完成。12月5日,幌付きの寝台で仰臥したまま,8名の奉仕者によって台を支えられて,熊野館から瑞祥館に移動した」,という。

 出口和明が残した資料群から出口禮子は,「かけひ宣伝使メモ/中倉先生浄書ノートより」という古い手書きのコピーを見つけた。これは第二次大本事件と絡んで作成されているようだ。三代直日と婿養子大二の結婚式(大正12年6月18日 旧5月5日)では,祝辞を述べるべく直日に接した際に,東尾は直日から自作の和歌を誌した色紙を受けとっている。それがこの節のタイトル「いつのひか いかなるひとの とくやらん このあめつちの おほいなるなぞ」である。この歌は,三代直日の歌として,大正12 (1923) 年7月10日発行『神の国』(御婚儀儀記念画報, p. 15)に写真版で掲載されているようである。
 『霊界物語』第60巻口述の最中,三代が3月26〜29日の日程で皆生温泉を訪れた際に,王仁から得た仕組しぐみ(ぼくが「伯耆国大山での垂訓」とした由縁である)に係わって生まれた三代の思いであったと思われるのである。
 次の「引用〜筧宣伝使メモ」では,一部,現代仮名遣いに変更している。

———————————————— 引用〜筧宣伝使メモ
 そこでこの歌のできたいわれを一言せねばならぬ。
 三代直日はその霊魂は木花姫命で、大本においてまじりけのない水晶の霊魂として、その血の純潔を守るべく種痘をも絶対に拒んだことは被告すみの上申書にあるとおりである。この三代が婿となる者の霊魂は日出別命(補記: もとは王仁三郎とすみの長男で生後7カ月で帰幽した六合大(くにひろ)であったが『霊界物語』第65巻に示された神名「日出別命」を反映しているようだ)であって、此夫婦が揃ふて日の出の神のご活動が出来るのである。日の出の神の出現に依りて今度の天岩戸が開かれるものといわれていた程重要な役割をもったものである。(中略) 
 かような次第で大正十二年六月十八日の結婚式は、日の出神の出現といふ意味に於て、大本にとっては重大な出来事であると云ふので、今迄にない盛大な御祝の行事の連続で大本内部は上を下への大賑ひ大騒ぎであった。(中略) 
 然るに三代直日は大二(ひろつぐ,六合大を継ぐという意味で大本式の命名)が真実の夫ではなく、他にあることを知っていた。また父王仁三郎に於ても之を知って居たに拘らず,こうした体主霊従的結婚式を挙げさせたのであった。(補記: 三代のこの知識は「瑞祥」に見える王仁三郎から得たもの)
 是に於て,贋の日の出別の霊魂の大二との結婚を何故教祖(補記: 開祖のこと)が取り決め、父も母も押進むるのであるか。これで二度目の岩戸開きは、どう成るのであろうか。三代直日には解き得ない大きな謎であったのである。
 これが「いつの日か云々」の歌が出来た由縁である。
 直日は式を受け入れはしたが、無論同棲を拒み、大二はその夜より外泊するし、此の縁談は終に破綻を来たしたのである。
 しかるに,父王仁三郎は彼は盤古(補記: 「大黒主」の誤り)の系統やと云ひ、この結婚の支持者であった母出口すみは,『真如の光』大正十二年十二月五日号にある通り、その後すみに神懸りがあり筆先により、(補記: すみの)兄出口清吉が日の出神の生魂であり、高見元男(日出麿)がその再生であることの因縁が判り、元男も霊夢で之を知っていたので〈むかしより かくしおかれし 神のなぞ とけてうれしき けさのはつゆき〉の歌となったのである。(後略)
引用〜おわり ————————————————

 この「筧宣伝使メモ」には,三代を木の花姫に違わぬ霊感ある教主として「美化」する意図が感じられる。表2に見える『霊界物語』山河草木第65巻の口述筆記期間は7月15〜18日で,ここに聖地エルサレムのいわば事務代表者として日の出別命が現れる。エルサレムの地では,玉照彦と玉照姫の結婚式が催されるのである。『霊界物語ガイドブック』(木庭次守,2010)の『霊界物語小事典』(p. 89)では,玉照彦は,「瑞の御霊である聖師の精霊の三十五万年前のお名前」,玉照姫は,「主神にます木の花姫の分霊で,厳霊である大本開祖の精霊の三十五万年前のお名前」とされている。

 もちろん,『霊界物語』山河草木第65巻は三代と大二との結婚式とは直接関係が無いが,二人を祝福すべく,大本の核となる玉照彦と玉照姫の結婚式が,三代と大二の結婚式の日程に合わせて配置されたことは間違い無い。『霊界物語』は必ずといって良いほど重層的な意味を持つ。

 出口禮子(2008b)には,『御婚儀記念画報』での結婚披露宴の聖師の挨拶に係わって,次の「引用〜御少惹」が示されている。

———————————————— 引用〜御少惹
◇高木(鉄男御婚儀)委員長が「瑞月先生から何かご挨拶がある可きはずでありますが、御少惹(補記: 文脈から多少体調がよくないとは想定できるがこの表現そのものは理解できない)のために私から代わって申し上げるようにとのことでありました」というや、瑞月先生はスックと立ちて無言のまま一同に挨拶をせられた。いかにも感謝の念にたえぬというようすが見る者をして真に恐縮せしめ感涙をむせばしめた。
◇..…・座に直られた先生は西洋手拭で顔の汗を拭かれたが、同時に両の眼の上をも幾度ともなく拭かれた。汗を拭くために目をふかれたのか、感激の涙を拭くために手拭を目にあてられたのか,これは読者のご判断に任すことにしよう……。
引用〜おわり ————————————————

4.4 「瑞祥」に示された泥とは何か

 さて,「瑞祥」で述べられている「『此世の泥』にまみれたのは木の花姫の肉の宮」を理解する上で,最も参考になるのは,出口禮子(2008a)である。詳細は省略する。流れを理解しうる範囲で引用したい。

 三代が愛したのは,なおの決定した大二(ひろつぐ,吉田兌三,吉田家の三男)ではなく,その兄の吉田一(よしだはじめ,吉田家の次男)であった。出口禮子は昭和49 (1974) 年,72 (73) 歳になった三代から直接聞いている。しかし,三代は開祖なおと両親の思いを受けて,大二と結婚した。次は,出口禮子(2008a, p. 50)からの引用である。

———————————————— 引用〜朝帰り
昭和四十五年十二月、塩見雅正氏が『大地の母』で大二氏に取材したメモがある。「婚前・式後よう遊んだ。昼は寝て、夕方から夜にかけて出歩き、朝帰り。友達はようけおったからみなついてきた。直日は一言も愚痴や不足や小言をいわなかった」。
引用〜おわり ————————————————

 出口禮子は和明の母八重野に聞いている。

———————————————— 引用〜禮子pp. 50-51
八重野:「お姉さんはかわいそうやった。結婚式の時は式場の入り口に月見町の芸者が四、五人並んで腕組みしてお姉さんをにらみつけとった」 
禮子:「えっ、ひどい。月見町のその女の名は…」 
八重野:「久子……お久や」,私は息をのんだ。金毛九尾の悪狐がここにもしぐんでいるのか。
八重野:「お姉さんはかわいそうやった」と,母は二度情感を込めてつぶやいた。
引用〜おわり ————————————————

 なお,名「久子」は出口なおの三女の福島ひさ(久子)の名と偶然か一致していることに禮子は驚いている。福島久子は王仁三郎の活動を極力邪魔している。『霊界物語』に繰り返し登場する高姫に対応すると言われている。『霊界物語』では,高姫は開祖の前身(瑞霊)の娘ながら,金毛九尾の悪狐に支配されていた。

 出口禮子(2008a)によると,大二が三代と日出麿が暮らす梅松館を訪れており,その時の三代と大二の会話が誌されている。

———————————————— 引用〜禮子p. 51
直日さまとその妹八重野、尚江、住之江さまが玄関までお見送りをする廊下で,ふいに住之江さまが言い放った。「それで大二さん、お姉さんと関係あったの?」一瞬、みんなの足が止まり、空気がこおりついた。さすがの大二氏。この剛直球は受け損ねたのか、くるりと向きを変え、直日さまを振り返る。何か小さく叫んだ直日さま。「そうや、あのとき追ってきたやろ。あのとき……」。しどろもどろの大二氏・あとの言葉は続かなかった。聞きたくない,と私は心で叫んだ。それきりみんなはだまったまま大二氏を見送った。
引用〜おわり ————————————————

 大本という世界に身を置いている三代故の「悲劇」ではある。三代の「そうや、あのとき追ってきたやろ。あのとき……」をクライマックスとするこのエピソードこそ,「瑞祥」の泥に当たるのであろう。小説家出口和明とともに取材活動をしてきた禮子のこの記録の公開は,大本史を理解する上で,貴重な情報と言える。この出口禮子(2008a)の冒頭は,「お筆先はいう。『大本にありたことは箸のこけたことまでつけとめて下されよ』」で始まっている。
 翻って考えると,少女少年時代に許嫁となって,公認の三代教主,三代教主補,となっているのに,全くの性交渉が無いのも,今の時代からすると奇妙なことで,それは当時からしても,かなり異常な状況では無かったのだろうか。当時の風習として,何らかの社会的合図を前提に夜這いは行われていたであろうし,特に大二にとっては苦手な和歌などを自在に操る才女に対しての劣等感もあったかも知れない。要するに,社会的にはまったく問題無いが,当時の三代そして王仁三郎からすると驚嘆に値するものと考えて良いのだろう。

4.5 『錦之土産』

 出口王仁三郎(1924MS)の『錦之土産』は, 王仁三郎が入蒙する前に念のための遺書として書き残したものである。日本を出たのは大正13(1924)年2月13日,下関に戻って来たのは7月25日であった。「瑞祥」が口述されたのは大正12(1923)年4月5日(旧2月20日),三代と大二の結婚破局は同年12月16日であって,その翌年早々(1924年2月9日 大正13年旧正月5日),『錦之土産』は準備され,入蒙となる。これまで述べてきたように,『霊界物語』第六十巻以降,『霊界物語』の内容が死を覚悟しての記述内容のように思え,この入蒙行動もその関連で捉えることができるのではと考えるのである。過半は,難題であった三代教主補大二と三代の問題であり,大本教団の仕組み上,単にこの二人の関係に留まらないところに意味がある。

4.5.1 宇知丸に託す

 『錦之土産』は,極秘裏に日本を脱出した大正13(1923)年2月13日の未明,嵯峨伊佐男(大本名: 出口宇知丸)に託される。伊佐男は後に王仁三郎三女の八重野と結婚する。塩津(2008)から引用してゆく。

———————————————— 引用『錦之土産』p. 19
この「錦の土産」は、聖師さまが大正十三年二月十三日(旧一月九日)未明に綾部を出発し入蒙をされる際、「大本」教団の後事を託すべく遺書として出口うちまる先生(伊佐男さん当時満二十一歳)にお渡しになったもので、先生は長く熊野館の「開かずの金庫」に保管されていました。そしてうちまる先生が昭和四十八年五月六日に昇天され、「金庫」が開けられた時に、二代さま(出口澄)の手記「大福帳」などと共に「錦の土産」が信徒の前に姿をみせたのです。やがて原本は「宗教法人大本」へ引き渡されました。
 今回、愛善苑が全文公開した「錦の土産」は、その原本の写しを底本として、できる限り原本に忠実に再現したものです
引用〜おわり ————————————————

とある。この「引用『錦之土産』p. 19」では,『錦之土産』が出口伊佐男の昇天後に明るみとなったとあったが,事実とは異なる。すでに大本七十年史編纂会(1964, 1967)の『大本七十年史』上下巻にも紹介されており,下巻の「あとがき」(pp. 1320-1323,本文のp.1319に続く)から見ると,遅くとも昭和35(1960)年には,出口伊佐男から史料として提出されたようである。『大本七十年史』では,これから述べる『錦之土産』の内容については一切触れられていない。
 さらに,『大本七十年史』では,二代の大福帳についても,一切触れられていない。このウェブページの「1.3 出口梓擁立事件」で示したように,「二代教主が大福帳にご染筆になられた日記を,私が昭和二十九年十月六日瑞祥館で謹写し,大本七十年史の資料として提供したもの」(徳重, 1990: p. 8)とある。つまり,昭和35年よりも6年前に広く知られていたものと考えられる。それが『大本七十年史』上下巻では,一切触れられていないのは,自らの意思かどうかは別にして,出口伊佐男が自宅の金庫に隠し『大本七十年史』史料としての使用を避けたものか,三代教主などとの話合いの結果と思われるのである。そして徳重の提出原稿は抹殺されたのである。伊佐男の長男和明は『大本七十年史』の蚊帳の外にあり,「和明の開かずの金庫での2史料発見体験」が愛善苑信徒にそのまま受け継がれたものであろう。
 『大本七十年史』執筆のスタンスは,大本営の意向に従い,出口家のゴタゴタには一切頬被りをしたと考えて良いだろう。

 『錦之土産』の内容のうち,嵯峨伊佐男についての評価が示されている部分を幾つか,次に抜き書きする。

———————————————— 引用〜『錦之土産』p. 27 神示 大正癸亥旧十月十三日1923年11月21日 の冒頭
 伊都能賣の御魂と現はれて,大本の今後の方針その外の執る可き行動を明示しておくぞよ。此神示は他見を或時期までは許されぬぞよ。宇知丸乃(補記:乃はママ)瑞の分霊大八洲彦の身魂に堅く預けおく。
引用〜おわり ————————————————

———————————————— 引用〜『錦之土産』p.31 神示 大正癸亥旧十月十四日 1923年11月22日
 宇知丸は瑞の御魂の分霊にして大八洲彦命の精霊の再生なり。月の手によりて成れる神示のプログラムに由りて選まれたる役員信者を総指揮すべき因縁にして霊魂上より言へば瑞月の実子なり。神界の経綸に付き一切を神示しあり。故に宇知丸の言は瑞月の言の傳達なり。その思慮また瑞月の思慮なり。故に大本人は皆その指揮に従ふべし。又宇知丸は瑞月の名代なればエスペラント学校、ローマ字普及會、大本史実編纂會其他を総管すべし。瑞月は伊都能賣魂大神の勅に依り後日のため茲に明示しおくものなり。誠 誠 誠

引用〜おわり ————————————————

———————————————— 引用〜『錦之土産』p.36 大正甲子旧正月五日 1924年2月9日
 出口宇知丸は二代三代の神業を補佐し王仁が神務の後継者たるべし。春秋の大祭及び節分祭は吾用ひたる教服を着用して大斎主を奉仕すべし。
 エス語研究 ローマ字研究 大本史実編纂 五大教その他大本に関する事業は総て監督すべし特に天声社は社長と萬事協議の上進行を計るべし。
引用〜おわり ————————————————

———————————————— 引用〜『錦之土産』pp.36-37 大正甲子旧正月五日 1924年2月9日
三代にして適当な配偶者なき時は宇知丸八重野夫婦の間に出生したる長女を似て三代の後継者(即ち四代)となす可き事。
引用〜おわり ————————————————

 以上のように,宇知丸は,「瑞の御魂の分霊にして大八洲彦命の精霊の再生」,「二代三代の神業を補佐し王仁が神務の後継者」であって,「春秋の大祭及び節分祭は吾用ひたる教服を着用して大斎主」となり,「エス語研究 ローマ字研究 大本史実編纂 五大教その他大本に関する事業は総て監督すべし」,とある。宇知丸を,「瑞の御魂の分霊にして大八洲彦命の精霊の再生」とすることで,これまでの組織枠の上位に,いわば聖師と教主補の両方を担うことが期待されているのである。

 第1章のテーマに関連して見ると,聖師昇天後の二代による改革では,教学局長は出口伊佐男,祭務部長は出口栄二となって,宇知丸に期待された任務は二つに分割されるのであるが,三代教主派の瑞御霊神業破壊工作の観点で見ると,和明を放逐したのは,「瑞の御魂の分霊にして大八洲彦命の精霊の再生」である宇知丸の系統を破壊したとも見做しうると思う。四代さらには後の代を立てうる系統を破壊したとも言えるのである。

4.5.2 三代教主補大二は大黒主系統

 『錦之土産』では大二に関する問題に対して最も字数が費やされている。その言わば核になる部分を引用44に示す。 

———————————————— 引用〜『錦之土産』p.30 神示 大正癸亥旧十月十四日 1923年11月22日
 出口兌三(たいぞう)(編集部註: 大二(ひろつぐ)のこと)は 瑞月が教面心を尽くしての注告をも用ゐず月見町に出入りして餞妓(せんぎ)に心を奪われ 前後にて一千円余の浪費を為し数百件の負債まであり。且つ梅毒性の女に関係せり。三代は寸毫の汚濁も許さず然るに兌三は三千年の神界の経綸を破壊せり。
引用〜おわり ————————————————

———————————————— 引用〜『錦之土産』pp.31-32 神示 大正癸亥旧十月十四日 1923年11月22日
 大二は彦火々出見日出別(ひこほほでみひのでわけ)の名代として奉仕せしめられる神界の御経綸にして、決して真の彦火々出見日出別の精霊にあらず。大黒主神(おおくろぬしのかみ)の系統の(たね)より降生したる精霊なり。(さ)れど五六七(みろく)の神の大慈大悲心により悪神の系統を改心せしむるため円満具足なる平和と愛の女神木花咲耶姫命(このはなさくやひめのみこと)の精霊の宿れる二度目の観世音最最勝妙如来(かんぜおんさいしょうみょうにょらい)の肉の宮と顕現し玉へる直系の御霊直日と結婚を命じ,悪神の系統を心底より帰順せしめんが為なり。(中略)
 瑞の御魂五六七の神柱を牢獄に投げ込み,神界の大経綸を根底より破壊し,自身悪神の天下に再び建て直さんと(し)たる精霊の両親及び親族は宿なれば,変生女子の神業を妨ぐるは寧ろ当然なるべし。
引用〜おわり ————————————————

 「瑞の御魂五六七の神柱を牢獄に投げ込み,神界の大経綸を根底より破壊し,自身悪神の天下に再び建て直さん」とした,というのは第一次大本事件の際,大二の両親が福島久子に加担したことを言う。 
 開祖なおが三代直日に選んだ許嫁は,大黒主系統であったが,それは悪神を改心させるためであったという。三代が大二との結婚式の日に東尾に色紙で,「いつの日か いかなる人の 解くやらん この天地の 大いなる謎」(第4章第3節)と,問いかけた答えがここにある。換言すると,伯耆国大山での三代への聖師の垂訓に対する回答である。結局,表2のように,入蒙の前の大正12年12月16日に結婚の破局が発表される。

4.5.3 『錦之土産』での三代の取り扱い

 二代と三代,特に三代への宣言こそ,重要である。

———————————————— 引用〜『錦之土産』pp. 26-27 神示 大正癸亥旧十月十二日 1923年11月20日
(補記:二代と三代への書きおき) 弥勒出生して五十二歳。茲に改めて苦集滅道を説き道法礼節を開示すと佛祖の豫言せし所は即ち,伊都能賣の御魂の口を通ふして現はれたる霊界物語である。
 然るに肝腎の御用を致す後の身魂が未顕真実時代(補記: 大正5 (1916) 年の神島開き前)の男子(なんし)の筆先のみを重んじ,伊都能賣の御魂の眞の傳達教示を輕視して居る様な状態では,三千年の神界の神業は成就いたさぬから,神界にては止むを得ず仕組を替へねばならぬから,今の内に親々身内の改心が出来ず,又本人の改心が出来ぬ様なことでは行り直しを致すより仕方が無いぞよ。
(補記: 特に二代への書きおき) 善の御魂の性来と極悪の御魂の性来とを搗合はして,汚れに充ちし世を澄まし,昔の儘の黄金時代に立直す経綸であるから其心得で居りて呉れぬと,三千年の神界の経綸も教祖二十七年の御苦労も薩張水の泡となるから,月の御魂に幾度も気を附けさしたなれど聞き入れ無く,神の申す言に反対いたして三代を汚して了ふて居るぞよ。
(補記: 特に三代への書きおき) 三代の御用が辛くて勤まらぬならば遠慮は要らぬ好きな様に致すが宜いぞよ。五六七の世の宝を暗い穴へ陥れようといたすやうな悪の身魂はモウ此上は神界の帳を切りて,万古末代の悪の鏡といたすぞよ。
 何を云うても水晶を泥水との組合せであるから六ケ敷なれど、是が双方と水晶にならねば到底駄目であるぞよ。國常立尊が月の手をか籍りて,後日の為に書きしるさしておくぞよ。斯んな事を三代の父の手を以て書かすと云ふ様な事は神も忍びがたいなれど,三千世界と一人とには代えられぬから,月の御魂がいやがるのを無理に神が申付けて書かしておくぞよ。
(予言) 甲子の歳から先を見て居るが宜いぞよ。吃驚いたすことが出来て来るぞよ。大正癸亥十一月十日から甲子の年 甲子の月 甲子の日甲子の刻に差入るから気を注けるが可いぞよ。天上 天上 地上 地上 の世に向ふぞよ。       
月の手をかりて
伊都能賣魂
引用〜おわり ————————————————

 二代三代が,変性男子なおの筆先を重んじ変性女子伊都能賣の御魂の『霊界物語』を軽視していることを嘆いてる。
 「三代の御用が辛くて勤まらぬならば遠慮は要らぬ好きな様に致すが宜いぞよ。五六七の世の宝を暗い穴へ陥れようといたすやうな悪の身魂はモウ此上は神界の帳を切りて,万古末代の悪の鏡といたすぞよ」とは,前段を引きずって読むと,大二との係わりを感じることもできるが,ここでも聖師の文章の二重性があって,三代に告げている。「五六七の世の宝を暗い穴へ陥れようといたすやうな悪の身魂」とは三代その人とも取り得る。「五六七の世の宝」とは変性女子であり,『霊界物語』である。非常に厳しい宣言である。

 『錦之土産』を読むことが可能な権利者として記述されているのは,二代,三代,宇知丸,梅野,八重野,そして十六名の幹部連が続く。いわば身内の二代と三代に対しては指導,そして,幹部連には二代と三代に対するサポートの願いだろう。

 『錦之土産』の始めには,「大本に対して,絶対的権威者は二代出口澄子,三代出口直日,そして右輔佐として出口宇知丸,大正十三年正月五日(1924年2月9日)」,と明記されている。

———————————————— 引用〜『錦之土産』pp. 29 神示 大正癸亥旧十月十四日 1923年11月22日
 三代直日は天教山木花姫の精霊下り給ふ肉宮なり。教祖の教統を継承して神界に奉仕すべき聖職也。是を補佐するものは櫻井同吉 仝妻愛子にして 是また神定の職命なり。此両氏の外 何人も容啄すべからず。
引用〜おわり ————————————————

 だめ押しで,三代直日が木の花姫の精霊の肉宮であることが確認されている。

 本節で特に了解されるのであるが,『錦之土産』は,この入蒙前に口述されてきた『霊界物語』の構造を理解する鍵にもなっていると思うのである。

4.6 木の花姫のキャスティング

4.6.1 『錦之土産』アナロジーから『霊界物語』の構造をみる

 4.5『錦之土産』でその内容を紹介したように,これは,王仁三郎入蒙前の死を覚悟しての文書である。「瑞祥」で始まる神定めの三代大二体制の破綻に係わる部分がかなりの部分を占め,大本最高教典『霊界物語』に対する二代三代を中心とする軽視の風潮の中,王仁三郎は,いわば地上天国建設の遅れの危惧を吐露している。それ故にこそ,王仁三郎の命題「三代直日は木の花姫の精霊の肉宮」,が繰り返されるのである。

 大本七十年史編纂会(1964)によれば,開祖昇天(大正7 (1918) 年)の翌年から教勢は急激に拡大し,教内の抗争(pp. 476-483)も激しくなってゆく。皇道大本に集まった人材は,出身社会での地位も高く,次の教主に求められる人格は,幹部役員と同じ社会的土俵では,到底太刀打ちできない。次の教主が他を圧するには「神格」しか無いとするのは自然なことである。第一次大本事件の突発は大正10年(1921年)2月12日早朝であり,権力の要請に応じる形で聖師と二代教主は隠退し,同年10月14日には直日が三代教主に大二が教主補に就任する。それぞれ,天教山木花姫,彦火々出見命とされる。朝野(直日の戸籍上の名)については,開祖なおのお筆先は「此の三代の直霊が世の元の水晶の(たね)であるぞよ」と朝野出生の2年余り前に出ている。

 『霊界物語』霊主体従第1巻は大正10年1月中には王仁三郎自身が第11章まで執筆し,検挙二日前の2月8日には第12章を追加執筆するのである。第13章以降は事件下の10月18日から26日にかけて外山豊二以下,加藤明子,櫻井重雄,谷口正治が王仁三郎の口述を筆記する形となる。第12章は突発前夜に王仁三郎自ら執筆したものであって,この前後の章のストーリーとは外れている。これは,潜入スパイや官憲の暗躍を把握してのものであろう。

 木庭次守(2010)『霊界物語ガイドブック』霊主体従第1巻の「特徴」欄には,「特に序文から第24章までには全巻の大精神が述べられている」とされる。この範囲には木の花姫や木の花咲耶姫は出てこず,「第32章 三個の宝珠」で唐突に木花姫命が登場し,主役を演じている。

 救世主出現の準備過程がこの序文〜第24章には記されているが,この主役の簡潔な説明を第24章から幾つか拾い出してみよう(引用〜第1巻第24章の一部抜粋)。

———————————————— 引用〜第1巻第24章の一部抜粋
 神界しんかいにおいては国常立くにとこたちのみこといづ御魂みたま顕現けんげんされ、神政発揚直ヨハ子御魂みたま変性へんじやう男子なんし機関きくわんとし、豊雲野とよくもぬのみこと神息統合キリスト御魂みたま機関きくわんとし、高天原たかあまはらより三千さんぜん世界せかい修理しうり固成こせいせむために竜宮館りゆうぐうやかたあらはれたまうた。

 (みづ)御魂(みたま)は、国常立尊(くにとこたちのみこと)御神業(ごしんげふ)輔佐役(ほさやく)となり、天地(てんち)神命(しんめい)により金勝要神(きんかつかねのかみ)相並(あひなら)ばして、活動遊(くわつどうあそ)ばさるるといふことに(さだ)められた。これは、いまだ数千年(すうせんねん)太古(たいこ)神界(しんかい)における有様(ありさま)であつて、世界(せかい)国家(こくか)創立(さうりつ)せざる、世界一体(せかいいつたい)時代(じだい)のことであつた。

 ヨハネの御魂(みたま)仁愛神政(みろくしんせい)根本神(こんぽんしん)であり、また地上創設(ちじやうさうせつ)太元神(たいげんしん)であるから、キリストの御魂(みたま)(まさ)ること天地(てんち)間隔(かんかく)がある。ヨハネがヨルダン(がは)上流(じやうりう)()(さけ)びし神声(しんせい)は、ヨハネの現人(あらはれ)としての謙遜辞(けんそんじ)であつて、(けつ)して(しん)聖意(せいい)ではない。国常立尊(くにとこたちのみこと)自己(じこ)(ひく)うし、()(たふと)ぶの謙譲的聖旨(けんじやうてきせいし)()でられたまでである。

 そしてヨハネの(いづ)御魂(みたま)は、三界(さんがい)修理固成(しうりこせい)された(あかつき)において五六七大神(みろくのおほかみ)顕現(けんげん)され、キリストは、五六七神政(みろくしんせい)神業(しんげふ)奉仕(ほうし)さるるものである。(ゆゑ)にキリストは世界(せかい)精神上(せいしんじやう)表面(へうめん)にたちて活動(くわつどう)し、裏面(りめん)においてヨハネはキリストの聖体(せいたい)保護(ほご)しつつ神世(しんせい)招来(せうらい)したまふのである。
引用〜おわり ————————————————

 厳御霊(開祖)=ヨハネ,瑞御霊(聖師)=キリスト,そして金勝要神(二代)は瑞御霊に並んで活動する。「ヨハネの御魂(みたま)仁愛神政(みろくしんせい)根本神(こんぽんしん)であり、また地上創設(ちじやうさうせつ)太元神(たいげんしん)であるから、キリストの御魂(みたま)(まさ)ること天地(てんち)間隔(かんかく)がある」と但し書きがある。ところが,『錦之土産』の大正12年11月20日の神示で開祖は「未顕真実時代の男子」と表現され,大正12年11月21日の神示で二代の身魂は「金勝要の神の御用にして変生男子の御世継ぎ,大方の役目は変生女子補佐である。又三代を監督し保護すべく現はれた」,としている。伊都能売御霊王仁三郎は死を覚悟しており飾る余裕は無い。前掲のごとく,「三代直日は天教山木花姫の精霊下り給ふ肉宮なり。教祖の教統を継承して神界に奉仕すべき聖職也」,と駄目押ししている。今後の大本の統率に必要な命題を繰り返す。

 第1巻第32章「三個の宝珠」は文末の和歌を除くと校定版では2ページと短く,上記主要キャストの上位に立つ木花姫命が登場する。 その一部を次に引用する。

———————————————— 引用〜第1巻第32章の一部抜粋
 ここに木花姫このはなひめのみこと大八洲彦おほやしまひこのみことにむかひ、『いまてんよりなんぢ真澄ますみたまさづたまひたり。いままた海中かいちゆうよりたてまつれる潮満しほみつ潮干しほひるたまあらためてなんぢさづけむ。このたまをもつて天地てんち修理しうり固成こせい神業しんげふ奉仕ほうしせよ』と厳命げんめいされ、空前くうぜん絶後ぜつご神業しんげふ言依ことよせたまうた。大八洲彦おほやしまひこのみことは、はじめて三個さんこたま神力しんりき旺盛わうせいとなり、徳望とくばうたかくつひにツの御魂みたまの大神おほかみ御名みながついたのである。
引用〜おわり ———————————————

 以上見てきたように,木花姫命は救世主出現とは,実質的係わりはなく,単に「第32章 三個の宝珠」のように付け足されているだけのものなのである。

 入蒙後に口述された第67巻第5章「(なみ)(つづみ)」には,第32章では厳瑞二霊の上位に立つ「木の花姫」の活動について,皮肉とも取れる予言を示している。ここに登場する梅公は,『霊界物語小事典』では,「言霊別の化身で照国別の弟子となって神業をたすけたとある」。「シーゴーは(うれ)(なみだ)腮辺(しへん)(た)らしながら黙々(もくもく)としてヨリコ(ひめ)(むか)合掌(がつしやう)して(ゐ)る。(うみ)静寂(せいじやく)(やぶ)つて梅公(うめこう)(くち)より音吐朗々(おんとらうらう)独唱(どくしやう)する神仏無量寿経(しんぶつむりやうじゆきやう)甲板上(かんばんじやう)響渡(ひびきわた)」る。その終わりには,次の「引用〜第67巻第5章の一部抜粋」が続く。

———————————————— 引用〜第67巻第5章の一部抜粋
 われなんぢ諸天しよてんおよ地上ちじやう蒼生さうせい哀愍あいみんすること父母ふぼごとく、愛念あいねん旺盛わうせいにして無限むげんなり。いまわれ世間せけんおいて、伊都能売いづのめかみとなり、仏陀ぶつだげん基督キリストり、メシヤとりて、五悪ごあく降下かうかし、五痛ごつう消除せうぢよし、五焼ごせう絶滅ぜつめつし、善徳ぜんとくもつて、悪逆あくぎやくあらためしめ、生死しやうじ苦患くげん抜除ばつぢよし、五徳ごとくせしめ、無為むゐ安息あんそくのぼらしめむとす。瑞霊ずゐれいりてのち聖道しやうだうやうやめつせば、蒼生さうせい諂偽てんぎにして、またしうあくし、五痛ごつう五焼ごせうかへりてまへはふごとひさしきをて、のちうた劇烈げきれつなるし。ことごとからず。われただ衆生しゆじやう一切いつさいためりやくしてこれふのみ。
引用〜おわり ————————————————

 「引用〜第67巻第5章の一部抜粋」の後半には,「瑞霊世(ずゐれいよ)(さ)りて(のち)聖道漸(しやうだうやうや)(めつ)せば、蒼生諂偽(さうせいてんぎ)にして、復衆悪(またしうあく)(な)し、五痛五焼還(ごつうごせうかへ)りて(まへ)(はふ)(ごと)(ひさ)しきを(へ)て、後転(のちうた)劇烈(げきれつ)なる(べ)し」。瑞霊世を去って,報身弥勒の出現どころか,諂偽(てんぎ,へつらいといつわり)が蔓延し,大混乱に陥るのである。卑近なところでは,三代大本を示しているとも言える。

 この「「瑞霊世(ずゐれいよ)(さ)りて(のち)聖道漸(しやうだうやうや)(めつ)せば」については,第67巻発表当時,問題になったという。大国ほか(1955)の関連部分を次の「引用〜大国ほか(1955)」に示す。

———————————————— 引用〜大国ほか(1955)
桜井重雄(司会): それから霊界物語にも「瑞霊が世を去ってからだんだんまた世の中が非常に悪くなって来る」って云うことがありますね。
木庭: 一たんは悪くなるって書いてありますね。六十七巻の神仏無量寿経でしたね。
桜井: あれは発表の当時大分問題になったんだ。しかしあれはね,神さまがダメを押しとられるんだと聞いているね。
大國伊都雄: そう,瑞霊の教がね⋯⋯
木庭: 聖道ようやく滅せば,というです。
桜井: 滅せばそうなると云う,いわゆる条件づきだね,これは。
大國: 瑞霊の教がある限り,また教を実践してゆく限り,救いは間違いないんだよ。
引用〜おわり ———————————————— 

 この対談参加者では,桜井による当時の受け止めの紹介「しかしあれはね,神さまがダメを押しとられるんだと聞いているね」に,賛同している。予言と受けとられなかった。発表当時も聖師昇天7年後の大本教団の環境では,予言と捉えることはできなかったのである。

 木庭次守(1971)には,大本教旨,大本三大学則,大本四大綱領,大本四大主義,がまとめられているが,すべて聖師が打ち立てたものである。三代教主によって新たに追加されたものはない。追加してはならない権威がある。三代教主が,「真神の神格,神徳の完成した五六七大神の一部の顕現,また全部の顕現として,弥勒の神業を完成する活動をされる」という記述は,聖師の文献から抽出することはできるが,大本史とは大きなずれがある。「木の花姫=報身弥勒」宣言は,「開祖と聖師が次世代に大本運動が恙なく受け継がれるべく,三代教主の時代を保証する思いの反映」なのである。

 1971年の頃か,父木庭次守と歩いていて,「不思議だなあ」,と言う。何かと質問したら,「三代さんが責任ある立場になったらしっかりしてきた」というような意味の回答があった。そういうもんだろうなあ,とぼくは想像した。それぐらい,聖師と二代昇天後の大本は,聖師の周辺の役員や信者から,危ぶまれていたと言えるのではないか。木花姫命の命題は必須なのである。
 先日,ある方と話していて,出口京太郎が父に今後の大本での本人の役割について質問した際,父は「亀岡は和明さん,綾部は栄二さん,京太郎さんは竹田」で活動すればいいと回答したらしい。その直後に年収が60万円になったという。この年収60万円(月5万円)は,「ぼくが1969年に奨学金の申請をするのに源泉徴収票を取り寄せて年収60万円とあって驚いた」記憶と符合する。1968年よりも前にすでにその額であったということだ。ぼくへの仕送り額だけでも年間20万円余りだったので,父は家族はどうしてるのだろうか,と頭を抱えた記憶がある。京太郎総長が成立するのは昭和51(1976)年だから,それよりも前で森清秀さんが本部長の時代か。父と森清秀さんとの信頼関係はあったと思う。三代教主による仕打ちになるのだろう。1968年の源泉徴収票だから父は51歳なのでそれよりも前にすでに生じていることである。
 十和田(1986: p. 210)には,株式会社「いづとみづの会」(1980年3月登記)の社長として坂田三郎氏を選ぶ話がある。坂田のその時の年齢は75歳で,身分は嘱託,(月)6万3500円の低給だから,大本本部をクビになったとしても,彼一人ぐらいの生活なら同志達で支えられよう,と言っている。この情報からすると,木庭次守は五十一歳以前にすでに嘱託になっていたのではないか。本部外の某有力者が,第二次大本事件裁判の功労者ですぐれた王仁三郎研究者の冷遇は許せない活用せよと,三代教主にねじ込んだ結果,宣教部長などの時期もあった木庭次守を五十一歳より前に嘱託にしていたのである。大本教学誌を見ると突出して業績が多く,校訂版『霊界物語』を中心的にまとめた人材である。また宣伝使としての宣教活動も目を見張るものがある。教主一人で教団の人材を経済的に干すのは宗教者としても組織の長としても,あるまじきことである。

4.6.2 『霊界物語』山河草木第64巻下の「木花姫命」

 『霊界物語』捨身活躍が口述筆記日と初版の間にズレがある理由は不勉強でわからない。例えば,入蒙の直後大正13年8月18日に出た捨身活躍第44巻は口述日は大正11年12月7〜9日である。木庭次守(2010)の入蒙記特別篇の梗概の最後に,「聖師はここで九十八日間の未決生活を送り,大正十三年十一月一日午前十一時十一分に出所,綾の聖地に帰還された。これで劇的な蒙古入りの壮挙も一応幕が下りたようなものである。聖師の帰綾によって,聖地に山積された問題は雲散霧消した。」とあるが,この「山積された問題は雲散霧消」は何を指すのか。入蒙に際しては,王仁三郎に多額の寄付があったようである。河村さんによれば,能登の浜中志岐(NHK放送文化, 昭和22年5月号, 第2巻第4号に,ローカル放送と地方文化の問題(大沢衛・浜中志岐・山本三郎)という論文が見える)の父から5万円,初代の東京商業会議所会頭渋沢栄一の盟友でその後任として第二代東京商業会議所会頭に就任した中野武営たけなかから12万円の寄付があり,王仁三郎はそのうち8万円を持って入蒙したようである。『霊界物語』特別篇をみると,莫大な資金が使われたことが見える。さらに,帰国後もそういった寄付が続いた可能性はある。捨身活躍の口述筆記日と初版の間にズレは教団経営の資金不足が関係しているのではないか。父の大本年表を見ていたら,大正13 (1924) 年4月5日の記事に,「分所,支部代表者会議で,大正日日新聞社負整理の医院を決める」,とある。
 山河草木では口述日と初版の間に大きなズレは無いが,山河草木第64巻下については,表2に示したように,口述日が山河草木第64巻上では大正12年7月10〜13日に対して,下では大正14年8月19〜21日と,2年余りの空白期間がある。この間には,山河草木第65〜70巻,特別編(入蒙記),が介在している。口述日は,入蒙記については8月15〜17日,第64巻下については8月19〜21日で,いずれも丹後由良の秋田別荘であった。入蒙記は他巻に比べて,字数も漢字密度も極めて高くルビも多いのであるが,一日空けて,続けて下巻が口述されている。

 なお,第64巻上下の出版の経緯は木庭次守(2010: p. 322)に記されているが,ぼくは理解できない。下巻の口述日は大二の大正14年12月7日の縁組み解消との関係が認められ得るのである。

 下巻では,上巻で活躍したルートバハーのブラバーサが滞在するエルサレムに,ウラナイ教のお虎,守宮別,アヤメのお花,が乗り込み,ドタバタ劇が展開される。この内容の理解は難しいが,三代と大二に繋がるストーリーが展開されている。

———————————————— 引用〜第64巻下の第11章の一部抜粋
 『いやですよ、お(はな)なぞと、(わたし)難浪津(なにはづ)(さ)くや此花冬籠(このはなふゆごも)り、(いま)(はる)べと(さ)くや木花(このはな)と、帰化人(きくわじん)王仁博士(わにはかせ)(うた)つておいた、難浪津(なにはづ)(うま)れたチャキチャキのお(はな)ですもの、どうか木花姫命(このはなひめのみこと)(い)つて(くだ)さいな、あの雲表(うんぺう)(そび)えてゐるシオン(ざん)御覧(ごらん)なさい、あの(やま)だつて日出島(ひのでじま)富士山(ふじさん)に、よく(に)てるでせう。世界(せかい)国人(くにびと)は、あの(やま)尊称(そんしよう)してシオンの(むすめ)(い)つてるぢやありませぬか』
 『ナル(ほど)、どうしてもお(まへ)(わし)よりは役者(やくしや)一枚上(いちまいうへ)だ。そんなら今日(けふ)から(あらた)めてお(まへ)をシオンの(むすめ)木花姫命(このはなひめのみこと)(しん)ウラナイ(けう)大教主(だいけうしゆ)尊称(そんしよう)(たてまつ)らうかな』 
 お(はな)(うれ)しさうにニコニコし(なが)らチツト(ばか)りスネ気分(きぶん)になり、(たい)をプイとゆすつて(くち)(て)をあて、『ホヽヽヽ、(ど)うなと御勝手(ごかつて)になさいませ』
引用〜おわり ————————————————

———————————————— 引用〜 第64巻下の第13章の一部抜粋
 『此奴(こいつ)面白(おもしろ)い、一寸話(ちよつとはな)せるワイ。お(まへ)今綾子(いまあやこ)といつたが、本名(ほんみやう)(なん)といふのだ』
 『ハイ、(あたい)本名(ほんみやう)綾子(あやこ)源氏名(げんじな)有明家(ありあけや)綾子(あやこ)さまですよ』
 『ナニ?綾子(あやこ)菖蒲(あやめ)怪体(けつたい)(こと)もあるものだな。(をんな)(まよ)ふとあやめ(わ)かぬ(しん)(やみ)になるといふ(こと)だが、(おれ)(こころ)もチツと(ばか)あやしうなつて(き)たぞ』
 『お(きやく)さま、何程(なにほど)あやめ(わか)らなくなつても、綾子(あやこ)しい(こと)さへ(な)けりや、晴天白日(せいてんはくじつ)ですワ』
 『イヤ、(じつ)観世音菩薩綾子(くわんぜおんぼさつあやこ)(きみ)艶麗(えんれい)御容姿(ごようし)拝観(はいくわん)して、(こころ)土台(どだい)あやしくグラ(つ)(だ)したのだよ。オイ、綾子(あやこ)素面(すめん)では(はなし)出来(でき)ない。酒肴(さけさかな)(かね)(かま)はないから、充分拵(じゆうぶんこしら)へて(も)つて(き)てくれ。そして此処(ここ)芸者(げいしや)何人居(なんにんを)るか(し)らぬが、仮令百人居(たとへひやくにんを)つても結構(けつこう)だ』

 『オイ、綾子(あやこ)、お(まへ)一体(いつたい)どこから()たのだい』
 『ハイ(あたい)はエルサレム(うま)れですよ。お(とう)さまが極道(ごくだう)だものですから、たうとう(あたい)をコンナ(ところ)()つて(しま)つたのです。(あたい)(うま)れた(とき)相当(さうたう)財産家(ざいさんか)だつたさうですが()もなくお(かあ)さまが()くなられたので、お(とう)さまが後妻(ごさい)引入(ひきい)れ、(あさ)から(ばん)まで酒池肉林(しゆちにくりん)大騒(おほさわ)ぎ、何程金(なにほどかね)()つても(はたら)かずに()つて(ばか)()れば、(やま)さへ()くなる道理(だうり)、たうとう貧乏(びんばふ)のドン(ぞこ)()ちて、(くび)がまはらぬので、(あたい)十一(じふいち)(とし)から、此有明楼(このありあけろう)十年千円(じふねんせんゑん)約束(やくそく)()つて(しま)つたのです。本当(ほんたう)(こま)つた(おや)ですワ』
引用〜おわり ———————————————

 大二の通ったのは月見町で,千円余りの浪費をしている。綾子(綾部の子)の有明家の女郎で,十年千円で売られている。教主補大二と教主補守宮別が繋がる。大二の月見町の相手は久子だが,有明家は有明の月を想起できて,月見町に類する名称である。新ウラナイ教のお花が自ら木花姫と名のるのであるが,命題に係わっていることは間違いが無いように思われる。
 「引用〜第64巻下の第11章の一部抜粋」はじめの「いやですよ、お(はな)なぞと、(わたし)難浪津(なにはづ)(さ)くや此花冬籠(このはなふゆごも)り、(いま)(はる)べと(さ)くや木花(このはな)と、帰化人(きくわじん)王仁博士(わにはかせ)(うた)つておいた、難浪津(なにはづ)(うま)れたチャキチャキのお(はな)ですもの、どうか木花姫命(このはなひめのみこと)(い)つて(くだ)さいな」というのは,王仁博士の「難波津に 咲くやこの花 冬ごもり 今は春べと 咲くやこの花」『古今和歌集仮名序』の歌を掛けたもので,難浪津は実は登場人物の場所とは無関係のようだ。木の花姫または木の花咲耶姫を無造作に出したという雰囲気作りである。「引用〜 第64巻下の第13章の一部抜粋」の「ナニ?綾子(あやこ)菖蒲(あやめ)怪体(けつたい)(こと)もあるものだな。(をんな)(まよ)ふとあやめ(わ)かぬ(しん)(やみ)になるといふ(こと)だが、(おれ)(こころ)もチツと(ばか)あやしうなつて(き)たぞ」とあるのは,「アヤメのお花」が「アヤベの木の花姫」を掛けているように読める。
 敢えて言えば,三代が,なおの縦の教えを尊び,聖師の横の教を嫌うウラナイ教になったと取れないこともない。

4.6.3 併せて日の出神

4.6.3.1 出口和明の取材と木庭次守の新月のかけ

 上掲の出口禮子(2008b)の後半部には,王仁三郎の入蒙の理由の一つとして,「開祖の次男清吉の探索」(和明の調査結果)を挙げている。なおは,近衛兵にとられた次男清吉の生還を生涯待ち焦がれていた。明治28(1895)年,台湾での戦死の公報が入り,戸籍も抹消されて,なおは扶助料も得ていたのであるが,なおに懸かる艮の金神は「清吉は死んでおらぬぞよ」とくり返す。

 出口禮子(2008b)での出口和明『入蒙秘話』に基づく清吉の消息は次のようになる。王仁三郎は入蒙して,中国赤峰で義兄清吉(王清泰)と出会って抱き合った,という。「昭和46年,和明は大阪の貴金属商の息子長谷川久雄に出会って,彼が若い頃には,大陸で寺田憲兵中尉の探偵になっていて,王仁三郎を尾行した。その際の体験談を聞い」て,この出会いを知った,とある。この清吉こそ,日の出の神であり,大陸ではその活動をしていたことになる。

 木庭(2002b: p. 208)では「引用〜木庭 (2002b: p. 208)」のように誌されている。なお,木庭(1955: p. 109)の内容と違いはない。
———————————————— 引用〜木庭 (2002b: p. 208)
〇出口清吉さん(昭和十九年七月二十九日聞き取り): 清吉さん(大本開祖の二男)はお筆先に「死んでおらぬ」と出た時は死んでいなかったので、後に支那に渡って結婚し、ひかりかづらの身(補記:「日陰蔓ひかげかづら」のことで,ここでは社会的に表に立てない身分を意味しているようである)であったので、蘿清吉(ラシンキツ)と称えて、蘿龍(ラリウ)という子供が出来ていたが張作霖に殺されたのである。支那に行って王仁は調べてきた。秘密だったので蒙古入記に出さず、後に発表したのである。
引用〜おわり ————————————————

 「蘿龍という子供が出来ていたが張作霖に殺された」の表現では明解な意義がわからない。文章の流れからすると,王仁三郎が清吉とその子に会ったのか会ってないのかわからない。張作霖に少なくとも清吉が殺されたのは間違いがないだろう。張作霖にいつ殺されたかは不明だ。

 和明の聞き取りでは,王仁三郎の入蒙時の大正13 (1924) 年には清吉は生きていたことになり,次守の聖師からの聞き取りだと,入蒙時には亡くなっていた可能性が高い。なおが受けた「台湾での戦死の公報」は誤りという点では共通している。張作霖に殺されたとすると大正2(1913)年の中華民国成立後のことではないかと想像される。

 二人目の三代教主補である出口日出麿の旧姓名は高見元男である。大本七十年史編纂会(1967: p. 968, 976)によれば,明治30年(1897年)12月28日生まれであり,昭和3年(1928年)2月1日には、三代と結婚する。その日に,王仁三郎から日出麿と命名される。昭和3年(民国17年, 1928年)6月4日には張作霖は日本軍によって爆殺されている。
 和明の聞き取りでも,次守の聞き取りでも,高見元男は清吉の生まれ変わりではない。二代すみが信じた高見元男も日の出の神では無かったことになる。出口和明を中心としてきた愛善苑では,日出麿はニセ日の出神と断定している。

4.6.3.2 蒙古建国

 「引用〜木庭 (2002b: p. 208)」の「蘿清吉(ラシンキツ)と称えて、蘿龍(ラリウ)という子供が出来ていたが張作霖に殺されたのである。支那に行って王仁は調べてきた。秘密だったので蒙古入記に出さず、後に発表したのである。」の文が気になって,それが『蒙古建国』を知り,飯塚弘明のウェブサイトで検索するとテキスト化されていないとあったので直接本人にお尋ねし,氏のサイトのリンク先を教えて頂いた。氏から「もともと出口王仁三郎全集に収録されていたもので、巻末には本来「神示の世界経綸」という文章があったのですが、おそらく政治的な問題から霊界物語の入蒙記からは削除されています」とあった。

 校定版を見ると,『霊界物語』第72巻山河草木入蒙記特別篇末尾に「附録 入蒙余録」の一つとして,「蒙古建国」(昭和7年10月15日『昭和』誌十月号)が掲載されていた。木庭(1955)では邦文タイプ印刷版なので資料提示を避けたのだろうが,と今,木庭(1988:p. 409)を見ると,(参照)「昭和」昭和七年十月号 蒙古建国。霊界物語』特別篇入蒙記三七〇頁蒙古建国」とあった。次の引用55は校定版では「蒙古建国」は,pp. 370-379に当たるが,清吉に係わる部分を飯塚弘明のウェブサイトのコンテンツを利用させて頂いて,次の「引用〜蒙古建国」に示す。

———————————————— 引用〜蒙古建国
このひと日出ひいづるくに聖者せいじやよと蒙古語もうこごもちて白凌閣パイリンクのれり
日本につぽんより聖者せいじやきたるこのとしをまちしと馬賊ばぞく合掌がつしやう
三千さんぜん馬賊ばぞくひきゆる頭目とうもくはわがまへにたちピストルをくる
はう日本人につぽんじんあらずやと容易ようい日本語にほんご使つか頭目とうもく
われこそは日本にほん出口でぐちこたふればおもくもらせてうつむく頭目とうもく
ともかくもわが居間ゐまきたれと頭目とうもくはわれをみちび一間ひとまれり
うらわかきをんな馬賊ばぞく頭目とうもくみちびかれつつおく
白凌閣パイリンク温長興ワンチヤンシンたせおきて頭目とうもくとわれかたらひにけり
もと声名せいめいたかきみにして蒙古もうこますは何故なにゆゑ
もとくにつかさにいれられず蒙古もうこくにてむとたれり
なつかしも日本人につぽんじんうへはわが素性すじやうをばあかさむといふ
わがちちわう文泰ぶんたい名乗なのりつつ北清ほくしん事変じへんはたらきしひと
われもまたわう文泰ぶんたい仮名かめいすと名刺めいししてかれしめせり
不思議ふしぎなることよとをんな頭目とうもくはつくづく名刺めいしそそ
わがちち日本にほんうま事情じじやうありてかげのよとうちして
わがちち日清につしん戦争せんそうのありしとき台湾島たいわんたうよりのがひと
わがちちひかりかづらにしあれば清吉シンキツとぞ名乗なのりゐたりき
わがむねにあたるは日清につしん戦争せんそう清吉せいきちといふにぞありける
しやしわれのたづぬるひとにもやとおもへばむねはかきみだれつつ
わがちちあさゆふなをもとそらむかひて合掌がつしやうしたりき
われもまた日本にほんそらのなつかしく朝陽あさひむかあはすなり
わがはは蒙古もうこうま水玉スイギヨク七年しちねん以前いぜんにこのれり
巴布札布パプチヤツプ独立軍どくりつぐん三千さんぜんちちひきひて加勢かせいなしたり
わがちちちやう作霖さくりん奸計かんけいにあざむかれつつころされにけり
わがちちころされしとき苗草なへぐさ十六じふろくはるなりにけり
三千さんぜん部下ぶかひきゐてわがちちのあとおそひつつ頭目とうもくとなりぬ
何処どことなくはじめてたる心地ここちせずかたらふうちにしたしくなりぬ
われこそは二十一にじふいち女盛をんなざかちちかたきたむとてなく
ほろ蒙古もうこおこくにつる雄々ををしききみしたがはむとねが
蒙古もうこにはうまれたれどもちちながるる大和やまと撫子なでしこといふ
いろいろと心尽こころづくしの馳走ちそうにわれほだされて一夜いちやとまれり
白凌閣パイリンク温長興ワンチヤンシン諸共もろともにわが隣室りんしつまもりつつねむる
軍犬ぐんけんこゑ裏山うらやまにこだましていとさわがしき夜半よは
何事なにごととわれたづぬれば微笑ほほゑみつ蘿龍ラリウ部下ぶかかへりしとこた
つききよにはにたち蘿龍ラリウとわれ日出国ナランオロスはなしにふける
引用〜おわり ————————————————

 さきに示したいと思うが,出口和明はインフォーマントに騙されたと判じるのが妥当だろう。和明が描いたスパイであった人品からして信用できない。スパイか王仁三郎のいずれを信じるかと問われれば,王仁三郎の「蒙古建国」を信じるのは当然であろう。
 蘿に対して,ルビ「ひかりかづら」が振られているが,これは通常「かげ」と読み,尚学図書(1989: p. 2020)国語大辞典では,日陰蔓「ひかげかずら」,日陰草「ひかげぐさ」にあたり,「人目をしのんで生きる人」の意に当たっている。「引用〜蒙古建国」によれば,清吉は内外モンゴルの独立運動に従事していたのであり,王仁三郎の入蒙の大目的でもあった。清吉は清吉シンキツと名乗っていて,その娘が蘿龍ラリウであった。この娘の証言では,張作霖によって父を殺された時が16歳。王仁三郎とまみえているその時が21歳だから,清吉の昇天は,大正13(1924)年マイナス5年,大正8(1919)年になる。

 以上の証言から,日出麿が日の出の神ではないことになる。木庭(1988: p. 334)には,昭和18年に土井靖都が拝聴した王仁三郎の証言がある。
———————————————— 引用〜土井靖都
〇日の出神 馬鹿な事いふな。日の出神は王仁やがな。馬鹿になったのは王仁やがな。
引用〜おわり ————————————————

4.6.3.3 日の出神とは

 王仁三郎の方便も大いに影響して大混乱に陥っている典型的な報告が,大石(1963)に見られる。この報告が掲載されたのは,おほもと誌1963年12月号で,「出口日出麿先生特集号」と銘打たれている。「(日出麿)先生の旧いお歌に,中の尾にひそみて久し久方のあめむら雲の剣世に出ん,と詠まれていますが,つむがりの太刀(大救世主)は,すでに照明館(補記:朝暘館完成前の仮住居)より朝暘館(補記:当時の住居)にひそかに出現されているのであります」(p. 30)とあって,論文テーマの「日の出神のご因縁」を超えて,大石が強調したいことがこの一点にあるようである。

 大國ほか(1955: p. 49)には,第二次大本事件の際に逃亡せず,投獄されるなか自らの信仰に真正面から向き合った人々によって,「日の出の神の意義」というテーマでの対談が掲載されている。

———————————————— 引用〜日の出の神の意義
桜井重雄(司会): とにかく,救世主というものについては,今まであまり肉体にとらわれていたので,正しい救世主観を確立しなきゃならん。で,まあ道ということ,そうするとこれはまた「霊界物語は瑞月の血であり肉である」という,この道を示された,これは非常に大事なものだということになりますね。
木庭: 結局こう思うんです。教というものは宇宙の神の意思,経綸の表現なんでしょう。今までの道徳程度のものなら救世主の説く教えにはならんですからね。で,神の意思,経綸を文字にあらわしたもの,それを信じ,行うことが神をあらわすと,そう云うように見ていかなくちゃならんと思うんです。
桜井: それから日の出神ね,これがよく問題になるんです。これは昔からですけど⋯⋯。
大國伊都雄: 日の出神というのはね,その時の位置にあるんだよ。
木庭: 役職ですね,日の出となった,立役者の位置にある人ですね。
西村為三郎: 状態の表現ですか。
木庭: そうですね。目出度いということですわ。夜が明けるという意味なんですね。それをわれわれが特定の人間と思うもんだから間違うんです。どうしてもそうなり勝ちなんですなあ。 
引用〜おわり ————————————————

 永く,日の出神について見てきたのであるが,結局のところ,「引用〜日の出の神の意義」が順当な大本人の認識と言える。

5. 入蒙前のミロク下生

5.1 杖立温泉 附木庭次守の奉仕

 第一次大本事件突発した大正10(1921)年,三代は教主に大二は教主補になったが,表2の上段にあるように,大正11年秋には,「4.2 二代と大二の九州巡教:不動岩から杖立温泉」にあるように,二代は九州巡教に大二を連れ出している。三代と大二の結婚後の大正12 (1923) 年夏には,王仁三郎は,宇知丸うちまる,加藤明子はるこ,河津いさむとともに,九州の阿蘇杖立温泉,三玉村の観音堂と不動岩に大二を伴っている。
 河津雄は『霊界物語』筆録者の一人だ。飯塚弘明がまとめた 霊界物語の筆録者には,筆録章数14,担当巻号3,8~10,の情報が見える。この方のご自宅には,ぼくが小学生の頃か,亀岡市古世町に在って,父と二人で,ご自宅を訪ねたことがある。表札を見た記憶がある。意味はわからなかったが,筆録者だったんだなあ。不思議にこういう場合にぼくは同行しているようだ。
 1カ月の巡教中,王仁三郎一行は二十日余り杖立温泉に滞在している。筆録者を伴いながらではあったが,『霊界物語』は口述筆記されていない。杖立温泉での長期滞在はおそらく大二の教育に一定の日数が宛てられたのではないかと推測したのであるが,木庭次守(2002a)には,次の記事(引用〜木庭次守(2002a)pp. 136-137)があった。なお,ネット上にはこの記事が引用元が明記されず,コピペされて公開されている。このサイトの方には,引用元を明らかにして頂きたいものと思う。なお, 次の「引用〜木庭次守(2002a)pp. 136-137」では一部,読みやすくしている。

———————————————— 引用〜木庭次守(2002a)pp. 136-137
○大本の神器「御手代(みてしろ)」と聖師日和
 大正十二年八月、聖師は熊本県阿蘇郡小国町の杖立温泉で湯治された。この時、誕生日の旧七月十二日(新の八月二十三日)夜の月を仰いで、杖立名産の竹の杓子の裏に,

 この杓子我生れたる十二夜の月の姿にさも似たるかな   王仁
 (此杓子吾生れたる十二夜の月のかたちによくも似しかな 王仁)
表に,
 天地の身魂を救ふ この杓子 心のままに世人救はむ  王仁
(万有の身魂をすくう此釈氏 心のまゝに世人す九へよ 王仁)
 (註=括弧内は、杖立の白糸の滝下に建立された御手代歌碑の歌詞)

と揮亳され、⦿の拇印を押されて来訪する大本信者に授けられた(歌詞には多少の相違があった)。
 これが大本の神器「御手代」の発祥である。小国の信徒は聖師のお土産に竹の杓子三百本を贈った。聖師はこの竹の杓子に揮亳され、⦿の拇印を押して、大本の熱心な信徒や宣伝使に授与された。

 大正甲子十三年六月二十一日、蒙古のパインタラの遭難の時に、この御手代が日本人に拾われて、鄭家屯の日本領事館に届け出たために救出されることになった。聖師が地上の神人を救うために授けられた神器御手代は、まずは,聖師自らを救ったのである。

 杖立温泉滞在中に、聖師がエスペラント辞典を書きあげられたことも忘れることはできない。

 三代教主の許可された御手代(奥村芳夫氏が頂いたもの)は歌碑として、歌詞を引きのばして、杖立温泉の聖師が「神と人の えにしを結ぶ 白糸の 滝の流れは 世を洗ふなり 王仁」と詠まれた白糸の滝の下に、昭和三十八年五月三十一日に出口直日建之として、同日に直日教主臨席のもとに除幕された。
 九州全土の麦を腐らせた長雨もたちまち晴れあがった。台風銀座といわれた九州もこれより、台風は縦走しなくなった。実に神徳は無限である。聖地においては、聖師が家外に出られると必ず快晴となるので、「聖師日和」と唱えることとなっている。「みてしろ歌碑」建碑除幕式には、さしものなが雨も晴れあがった。
引用〜おわり ————————————————

 温泉宿の比較的そばには,聖師の御手代歌碑が建っていて,ぼくも何回か同道したことがある。この歌碑は,木庭次守が最初に大本信者の浄財を募って建てたものであった。杖立温泉での二十日間のかなりの部分は,世界共通語として聖師が期待していた『エスペラント辞典』作成に費やされたようだ。

 「引用〜木庭次守(2002a)pp. 136-137」中の,「三代教主の許可された御手代(奥村芳夫氏が頂いたもの)は歌碑として、歌詞を引きのばして、杖立温泉の聖師が『神と人の えにしを結ぶ 白糸の 滝の流れは 世を洗ふなり 王仁』と詠まれた白糸の滝の下に、昭和三十八年五月三十一日に出口直日建之として、同日に直日教主臨席のもとに除幕された」,について,ここで確認したい。

 「5.2 不動岩と瑞霊苑のみろく神像 附木庭次守の奉仕」の文中に示しているが,三代教主による大本年表の改竄を発見し,この「引用〜木庭次守(2002a)pp. 136-137」に記された歌碑についてもフィードバックした結果をここに示す。大本年表の昭和38(1963)年の部分を見ると,「4.14 三代教主著『聴雪記』刊行」,「7.14 大本エスペラント運動40周年に記念碑建立」(例えば4.14というのは4月14日)などがあるが,父が係わった杖立温泉白糸の滝そばの王仁三郎揮毫の石碑の建立については,全く触れられていない。「三代教主の許可された御手代(奥村芳夫氏が頂いたもの)」の意味は,奥村芳夫が王仁三郎から頂いた御手代について,奥村芳夫と木庭次守などが三代教主に面会し,三代教主からも王仁三郎御自らの許可と併せて許可を得たということだろう。それだけ,気遣ってのお願いではあったが,三代教主は,自らの本の出版とエスペラントの記念碑建立は掲載させても,王仁三郎の御手代歌碑建立イベントについては大本年表掲載リストから削除させたのである。

追記 Jul. 6, 2024: 父のタニハに残した大本年表の木庭次守用として束ねた中に,印刷物「三代教主御就任後の大本年表 ——昭和二十七年〜昭和四十五年——」がある。例えば,昭和38 (1963)年を見ると,現在手に入る飯塚弘明から得たPDFの大本年表と比べると,リスト項目は激減し,しかも情報が重なっていない。父の大本年表には,「5月31日 みてしろ歌碑除幕」とある。ここに父は万年筆で,「教主御先達神言奏上」と追記している。

 三代教主は,大本年表の実質的な改竄,をしてきた。木庭次守が係わったことで反発したとも考え得るが,全くの心得違いである。教団代表者としては何とも情けない。
 大本年表は大本教学研鑽所の管轄であり,代表の「発行者」が三代教主に持参して確認されるものではあるが,大本年表については三代教主の嗜好からも独立すべきものであると思う。大本年表の改竄は三代教主の意思によるもので,それに協力したのは「発行者」である。それゆえ,改竄された時期の「発行者」も当然,大本神に対しての責任がある。
 この「発行者」は父に云わせると偽善者にあたる。ぼくも一度,偽善者だ,と学生時代だったかに云われたことがある。ぼくの場合,三代教主に改竄を懇願(命令)された場合,難なく受け入れてしまうとは思う。多少は三代教主の思いも理解できないことはないし,首にもなるし。ただ,大本神からは離反することになる。と,考えていて,三代教主が父を嫌うのは,こういった三代教主の願い(命令)が父にもかつてあって,父は三代教主を諭したからではないか,と。ずっと周囲に崇められてきて,ナオおばあちゃんからも,両親からも,甘やかされてきた三代教主にとっては,一度の「叛旗」だけで,簡単に執念,怨念になる。三代教主の両親に対する反抗にも通じるものかも知れない。三代教主からすると,栄二もそして我が娘直美も,叛旗を翻した,と感じたのであろう。
 三代教主の深い理不尽な怒りには,父も,栄二も,直美も,気付けなかったのではないか。

追記 Aug. 12, 2024: ふと気付いたことであるが,「引用〜木庭次守(2002a)pp. 136-137」のはじめの杖立温泉での御手代出現の日は聖師の誕生日であったが,この日,ぼくの母畑谷環が生まれている。父の肌身離さず持っていたお守りはその御手代であり,この御手代歌碑を地元の信者さんと建立している。父がお見合いで結婚しようと思ったのは母誕生の年月日ゆえかも知れない。このことは父母からは全く聞かなかった。加賀山代温泉にあった母の実家「畑谷旅館」には聖師が宿泊している。母のタニハでのお葬式の際に,親族代表三ツ野眞三郎の挨拶の中にあった。その時は気にも留めなかったのであるが。その一つは昭和7年11月15日で,母9歳であった。真三郎の妻三ツ野澄子は6歳ぐらいか。大本七十年史 > 下巻 > 第五編 > 第四章 教団の発展と充実 > 1 巡教 > 聖師の巡教と歌碑,一九三二(昭和七)年,にある。いずれにしろ,父母の子供であるぼくは王仁三郎との繋がりを,いま感じるのである。

追記 Aug. 13, 2024: 旧亀岡町横町一番地は,ぼくが生まれた(昭和24年4月3日生)家の住所である。姉(昭和20年10月1日生)も弟(昭和27年4月24日生)もこの家で生まれている。同級生大石清一の祖母が産婆さんだった。妹は昭和33年12月24日生なので時代が変わり,安町あたりに在った友永産科医院で生まれている。母が入院前にクリスマスプレゼントとして前もって自宅に用意してくれていた『アンデルセン物語』(奈街三郎編,東光出版社,564p.)を今出して確かめた。ぼくが小学校3年生の時である。この家は,聖師保釈後の第二次大本事件の「上告審裁判事務所」となっていた(木庭,1970: p. 76に写真)。父はこの家に寝泊まりしていて,聖師が中矢田のご自宅から時々お一人で陣中見舞いにも見えたようである。畑谷環と結婚してもそのまま住み続けたのである。この家はぼくの同級生の中田(女性)の祖母のもので借家だった。この家の階下の部屋は居間兼食堂兼応接間兼父寝室になっていた。ここで昼閒,ぼくの中学生の時だったと思われるが母と二人で居て,ぼくが母の誕生日を聞いた時に何かを言おうとしてそれは呑み込んで,生まれてすぐに関東大震災があって,石川県山代温泉でも揺れたらしいと聞いたのである。この呑み込んだ情報が聖師が杖立温泉で迎えられた誕生日(弥勒下生)に生まれたことであった可能性もあると,昨晩思いついた。
 さて聖師のその時の年齢はと計算したら五十二歳だった。そして,「5.3 入蒙後の断言」での,「五十二歳で東瀛とうえい,つまり日本で弥勒最勝妙如来とな」ったの意味が理解できたのである。「5.4 弥勒下生」を追加する。

5.2 不動岩と瑞霊苑のみろく神像 附木庭次守の奉仕

 木庭次守は,御手代歌碑建立の後,不動岩の岩峰が並ぶ温州ミカン山の麓に位置する三玉村にターゲットを定めている。観音堂に隣接する土地が売りに出されるのを山鹿市の松丸さん(父とお会いしたことがある)だろうか,地元の信者さんに日頃注意して頂いていて,ついにその隣地が売りに出されて,そこに瑞霊苑碑を建立することになった。瑞霊苑の土地はもちろん,大本に寄付されている。ただ,現在でも瑞霊苑隣接の土地はぼくの弟に引き継がれている。大本本部は,既存出版物の木庭次守編著の名を削り,殊更,排除してきたので,父昇天の後に隣接地についても松丸さんから寄付の依頼があったが,断った。この木庭次守排除状況の進行を父の回りの方から,父昇天の後のお祭りの際に聞いてきたことではあったが,そういったことに関心を持てなかった。
 瑞霊苑には学生時代から何度か,父と出かけた。父の瑞霊苑でのぼくへの語りかけであったが,瑞霊苑隣地に八角堂を作って住むと言う。八角堂の中央に坐って窓が八カ所あれば便利だと言う。変なことを言うなあ,とその時は思って,茶化したりもした。昇天の後のことを言っていたのだと,今は思う。あるとき,一緒に歩いていて,クルッと後ろの僕をみて,天国は空にあるのじゃない,ここに,地上にあると言った。この意味では,八角堂を作った方がいいかも知れないが,まあ,大本本部から嫌がらせを受けるだろうなあ。父の昇天の後,瑞霊苑に参拝したが,地元の信者さんが当方の承諾無く,小屋を勝手に立てていて,その中に誘われて妻とお茶を頂いたりした。
 父は瑞霊苑敷地を大本に寄付して,その隣地を自分のために買い求めたのに,それも寄付せよという。とにかく,地続きだったのが失敗だったんだなあ。別の近所に買えば良かったんだなあ。隣地に住みたいと思うのは当然ではあるが。
 父が例によって,不動岩を藍染めにした日本手ぬぐいを地元の三玉村各戸に配ったようであるが,ある家で木庭と名のると,どこの木庭さんかと聞かれた。その家の表札を見ると,木庭,とある。三玉村のかなりの家が木庭姓だったようである。この話を父が嬉しそうに語った時の笑顔は今も思い出す。

 九州の苗字(姓)の分布の知識が無い方が多いので蛇足と思いつつ,ここに述べてみたいと思う。高校の社会科地理では,焼き畑地を「こば」地などと称すると習った。その関係か,木場(こば)などという苗字も多い。その流れで木庭の苗字も考え得るのであるが,木庭姓を名乗る人々が集住する場所は日本で二三ヶ所あるようだが,この三玉村周辺が最大である。父が武田編(平成元年 1989)を買い求めたものがタニハにあったので紐解いてみる。なお,この種の出版物が人の名誉心を利用して収入を得るものであることは承知している。和紙の大和綴じで製本され,価格は表記されていないが不当に高額なもの(1万6千円ほどだったか)だろう。引用59に拾い出す。

———————————————— 引用〜木庭姓
〇九州の肥後國菊池郡に木庭邑あり。名族菊池氏の分かれが此の地名を号し,藤原姓の木庭氏が発祥せり。
〇菊池流木庭氏の系: 此の木庭氏は,肥後國菊池郡の木庭邑に由来する氏族にて,この國の名門菊池氏の支流に属せり。其の発祥は鎌倉時代のことと見ゆ。此の木庭氏の裔孫は,近世には久留米の有馬藩士となりて,永く系を傳えたり。
 同じ菊池氏の分れにて,築後國山鹿郡の城邑に住せし城(じょう)氏あり。この城氏の子孫も菊池氏に属せしが,戦国時代の後記には没落するに到れり。城氏一族の後孫も,戦国時代末期より木庭氏を名乗り,山鹿郡に住して系を傳う。
〇名門菊池氏の傳系: 此の菊池氏は,源平時代より記録に見え,南北朝時代には歴代が吉野朝の忠臣として勇名を傳えたり。(中略)藤原政則を氏祖とする木庭氏の分出に及ぶ世系は大略左の如く見ゆ。
引用〜おわり ————————————————

 このあと,系図が続くが,経隆など,経を頭に置く名前,隆盛,隆継なども見え,次守(つぎもり)もこれに類するものかも知れない。姉,兄,弟がいるが,父だけ古色蒼然の名ではある。

 なお,この近辺には菊池十八外城の一つ,木庭城址が残っており,中世の山城ではないかと思って調べてみた。熊本県教育委員会(1978: p. 168)には,山鹿市大字城字城にある城村(じょうむら)城(俗称木庭城)の地図と歴史が記されている。

 とにもかくにも,木庭次守が王仁三郎が指定した四大聖地の瑞霊苑の石碑を建立して式典の前に,同村の三玉村住民に挨拶回りをしたら木庭姓が集まっていたということであり,瑞霊聖師と自らの使命の深い繋がりを感じたということであり,信徒としての感激はいかほどであったかと思われるのである。
 なお,ぼくはいま机上にある『霊界物語』第72巻入蒙記に父からのハガキを挟み混んでいて,ここには次の文が記されている。言霊学から木庭姓のもとは虎歯という神示があったとある。奇しくも上記系図の本を求めた年の年末のハガキである。この四年後に昇天している。霊界物語大事典編纂の道半ばであった。この時が父72歳でぼくは今75歳。やばいなあ,残り時間がすけない。

図6 次守から元晴への平成元(1989)年通信葉書の裏書き
図7 同 表書き

———————————————— 引用〜父からのハガキ
表書き: 平成元年12月21日 霊界物語大事典第1巻の最后の校正です。言霊学はさすがに骨が折れます。本当の日本語にするのですから。コバも最初は虎歯,次に木庭となります。神教の言ば(言葉)です。
裏書き: いつも配慮感謝。平成元年も多忙な年でした。聖師は大正をたてなおしと読まれ,昭和の和は豊葦原の瑞穂の国で,昭は日を召す。即ち,全地球上に日(に),即ち神を迎える年と申された。明治は日と月と双び治まる年でした。タニハの空に是即陽(月)の神が出現された年でありました。今年度の用件を殆ど完わりまとめて,来年に備える年となりました。霊界物語大事典の発行も近日に迫りました。今日は京都へ出ました。歌舞伎座が改築に這入りますので。
引用〜おわり ————————————————

 このハガキの裏には,図のように,杖立温泉みてしろ歌碑とメモされた白糸の滝のスタンプが押されている。父の傍にはいつも聖師の御手代歌碑があった。

 瑞霊苑のみろく神像は父に直接語りかけた。その不思議を次に紹介したい。霊界物語三神系時代別活動表 の一部を次に引用する。木庭次守(2002a: pp. 360-362)『新月のかけ』上巻,からの引用になる。

————————————————引用〜瑞霊苑のみろく神像
 私は早速引きうけて、『霊界物語』の拝読にかかりました。私は大本第二次事件で検挙拘留されるまでに、二回しか読了していませんので、三回目の拝読によってしましたが、神系表はなかなかまとまらなかった。ある日赤塚弁護士に招かれて行きますと「明日出来ないと証拠提出の日がなくなる」とのことであった。
 その夜、下宿(京都市左京区松ケ崎正田町二十一番地の児島広光氏宅)で、著者の出口王仁三郎聖師に対すべく,瑞霊苑のみろく神像の写真を御神体として,真剣に祈っていますと、頭の上から、不思議な尊い力が、グングンと這入ってまいりました。これこそ聖師の聖霊の帰神だと感じまして、たちまちすぐに墨をすりって、筆をとって,一晩で「霊界物語三神系時代別活動表」を書きあげました。て、翌日,赤塚弁護士へ手渡し致しますと、した。その後,すぐに赤塚弁護士は裁判所に提出した。て帰り、その際に,庄司直治裁判長は「よほどふるい信者が書いたのでしょうと言っていましたよ」という感想を洩らししたと,赤塚弁護士からお聞きしたのことであった。さらに説明書も書いてほしいと依頼されのことで、同説明書を書きました。
 神がかり状態で、一晩で書きあげられたのは、全く出口王仁三郎聖師の聖霊の感応と思っていましたが、聖師様に差しあげたところ、一目見て「あゝ王仁が書いたのか」と申されたので、益々確信を得ました。
 私にとって「霊界物語三神系時代別活動表」は、聖師の聖霊にみたされて書かされた上に聖師自ら校閲して頂いた尊い文献である。
引用〜おわり ————————————————

 この「引用〜瑞霊苑のみろく神像」を読んでいて,この神勅が降りた下宿(京都市左京区松ケ崎正田町二十一番地の児島広光氏宅)に連れて行かれたことを思い出した。学生時代だったか,住宅としては中産階級に属する庶民のもので道路沿いに生垣があり,奥行き数メートルの前庭の奥に家屋があって入り口は左手にあった。同じような宅地が並んでいたので昭和初期郊外の新興住宅地だろう。父の訪問は30余年ぶりぐらいに当たるが,当時の夫婦は亡くなっていたようだった。父だけそのお子さんだろうか玄関口から入って話し込んでいた。父お得意の鶴屋吉信のお土産持参である。父が出てきたので,その家について尋ねたら事件時の下宿場所という回答が返ってきたが,もちろんその意義については理解できず,会話の発展はなかった。さて,今思い出した。『霊界物語三神系時代別活動表』の不思議を聞いたような。半世紀余り前の記憶である。Googleで見ると,このそばには,京都工芸繊維大学の前身,京都高等蚕糸学校が立地していたことになっている。この学生の通学のための何らかの交通手段はあったに違い無い。

 「瑞霊の眷属」 のハンドルネームでアメブロを運営されているコンテンツで,父のおほもと誌の引用(「おほもと」昭和45年12月号 木庭次守『「瑞霊苑」建碑』)に出会えたので,コピペして利用しようとしたのだが,このコンテンツには入力ミスなどがあって,そのままでは使えないので,編集したものを引用62に掲載する。みろく神像の写真はタニハの入り口に飾っているので,後に掲載したいと思う。
 おほもと誌は,タニハには揃っていたが,どこでも手に入るものと考えて,ほとんど廃棄してしまったので,原本に当たることができない。近隣の大学図書館から図書資料のコピー依頼をするのが早いかもしれない。瑞霊苑の開所の際に配付用のパンフを沢山刷ったようでぼくも学生時代に受けとっており今探したのであるがどうにもみつからない。

———————————————— 引用〜瑞霊苑建碑
 出口聖師は,入蒙の際の円滑な移動のために大正六 (1917) 年から乗馬の練習を始め、大正十二 (1923) 年八月には,筑紫島の国魂純世姫の霊場である熊本県阿蘇郡小国の里に赴き、神功皇后ゆかり深き杖立の霊泉で禊ぎをなし、自らの誕生日である旧七月十二日(新八月二十三日)には,当地名産の竹の杓子の表に『万有の身魂をすくうこの釈子心のままに世人す九へよ』,裏に『この杓子わが生まれたる十二夜の月のかたちによくも似しかな』と染筆して鎮魂され、この杓子を大本の神器御手代みてしろと神定められた。
 九月一日、山鹿町の松風館に到着された際には,東京大震災を聖師だけは認知され,一人部屋に籠もって被災の少なからんことを祈られた。聖師は,この東京大震災を霊界物語第七巻第四二章「分水嶺」に示された(大正十一年二月二日口述)エトナ山の大爆発とされ,世界改善の狼火は天地の神霊によりてあげられたり,と語られた。
 物語第二巻第三章「美山彦命の出現」(pp. 22-25)には、言霊別命が自らの姿と諸々の従臣の形を岩にて作りロッキー山の城塞に立ておいて,神軍不在のなか石像より火を発して魔軍を追い払ったという歴史が示されている。熊本県鹿本郡三玉村蒲生(現山鹿市蒲生字福原)には巨人のような岩石のそそり立つ不動山(不動岩)(第二巻口絵写真)があり,これが言霊別命の旧蹟であるとされた。
 九月二日,不動岩麓の聖観音が安置されている通称凡導寺で休息された。不思議なことに聖師と尊像は寸分も違わず酷似していた。その写真は霊界物語第三十三巻口絵写真に掲載されている。聖師は礼拝のあと尊像の肩に手をふれられると前後に激しく動き出し、しばらく静まらなかったという。聖師は石像を糠袋で清めさせられたが、胸には月の姿がハッキリと現われていた。『これは観音さまではなく最勝妙如来で弥勒さまである』と教えられ、『このミロクさまを外の清浄なところに、しかも不動岩に向かいあわせて祭ってくれないと活動することができない』と語られた。その後,聖師は尾形太郎作氏の案内で山にのぼられ不動岩に参拝して聖地に帰られた。
 尾形氏と山鹿町長衛藤寛治氏らの努力がみのり大正十三年三月三日、蒲生の地元の協力により、堂の裏側の壁を破りミロクの尊像をいためないために筵で包み、縄で巻いて運び出し、敷地内の清所に移し、三月五日地元と大本側との共催でめでたく遷座祭を執行した。
 尊像の遷座の契約の報に接した聖師は、言霊別命の神霊に守られて、二月十三日突如綾部を出発して入蒙の途につかれた。満蒙の各地で神徳を輝かし、言霊の威力によって風雨雷霆を叱咤された。六月二十一日張作霖の兵に逮捕された時も、聖師は思わず「大成功だ」と叫ばれたという。翌朝鴻賓旅館に泊まっていた日本人が「みてしろ」を発見し、直ちに領事館にとどけたために、聖師一行は無事に救出され、日本へ送還されることとなった。三千世界の神人禽獣虫魚を救済するための大本の神器「みてしろ」は出口聖師自らをも救ったのである。
 入蒙ゆえに帰国後,第一次大本事件の保釈は取消され,大阪若松拘置所に九十八日間収監されたのである。その収監中の聖師のもとへ,三玉村のミロクさまの神霊が煙草「朝日」をもって慰問されたという。この感謝から,聖師は「三玉村のミロクの大神の祭典には必ず『朝日』を供えてほしい』とされた。爾来,三玉村のミロク大神の祭典には必ず「朝日」をお供えすることとなったのである。
 瑞霊(ミロクの)大神の神霊の鎮座される不動山一帯は、ミロクの大神の尊像を中心として救世神の霊場であるが、大正十四年六月三十日に神命によって、高熊山、沓島冠島、高砂沖の神島とならぶ神域と神定められ「瑞霊苑」と名づけられた。不思議なことには瑞霊苑の北方には「朝日照り夕日輝く云々」という高熊山とほとんど同文の伝説が伝わっている。
引用〜おわり ————————————————

 昭和44 (1969) 年または45年の秋頃か,最初に同行した際にも,煙草「朝日」をお供えしたように思う。
 大本年表の大正14(1925)年の記事を確かめると,6.30 聖師を「瑞霊真如聖師」と称す,とだけあり,「大正十四年六月三十日に神命によって、高熊山、沓島冠島、高砂沖の神島とならぶ神域と神定められ『瑞霊苑』と名づけられた」という内容が欠落している。聖師王仁三郎によって,高熊山、沓島冠島、高砂沖の神島とならぶ四番目の聖地が決定されたのに,記載されていない。奇妙なことである。

 木庭(1988: pp. 78-79)または木庭(2002a: pp. 129-130)の「みろく最勝妙如来」の部分を次に示す。

———————————————— 引用〜みろく最勝妙如来
○みろく最勝妙如来

 大正十二年八月、杖立温泉湯治をおえて、九月二日関東大震災の翌朝、聖師様は熊本県鹿本郡三玉村蒲生(現在は山鹿市)の不動岩へ登山されることとなりました。まず、その下の小さな家に小憩されました。

 「聖師様、小さい家で申し訳ございません」と信者が申し上げますと、「王仁はこんな家が大好きじゃ」と言われ、その家の中に祭ってありました観音様を見て「王仁がいつも観音様を書く時に見えていた観音様はこれだ」と喜んでふれられますと、前後に一尺も石像が動き出しまして、しばらくたってようやく止りますと坐って「王仁が触ったら喜んで動かれるので、倒れてはいかぬとつかむとますます動かれるので持っていた」と申されました。

 その瞬間に石像の胸に月の如き白き形が出来ました。「これは観音様じゃない。弥勒最勝妙如来」と示されました。ならんで写真を撮影されますと、聖師様と全くの等身大でした。(聖師様は大正十四年六月三十日に弥勒神像のあたり一帯を瑞霊苑と命名されました。聖師様がこの地に参拝されますと、きまってどこかで天災地変があります。関東大震災号外はここで受け取られました。昭和九年九月二十一日参拝されましたときは室戸台風(死者・行方不明三千三十六人)による大阪の風水害のおりで、九州別院から代理を派遣された時でありました)
(尾形太郎作氏、松浦教友氏拝聴) (参照)『霊界物語』第三十三巻 校定版 口絵写真
引用〜おわり ————————————————

 大正12年の随行者の随行記と結構大きな違いがあるのは興味深いと思う。

追記 Jul. 05, 2024: 前述のように,父に連れられて小学校の頃か,河津の自宅の玄関前まで一緒に行って少し待ったことがあった。河津(1923)の記述とこの『新月の光』の間には違いがあるが,恐らく地元の信者である奥村や尾形などの聞き取りとの違いを確認することもあって父は河津を時折訪ねていたのではないかと思う。聞き取り結果をそのまま受け入れるのではなく,何れが信頼性に足るかも確認していたと思われる。桜井重雄(大本名: 八州雄)宅はわが家から近く,ぼくの小学校時代,食後毎晩でかけたこともあった。

 木庭(1988: pp. 95-96)または木庭(2002a: pp. 149-150)の「瑞霊苑と弥勒神像」の部分を次に示す。

———————————————— 引用〜瑞霊苑と弥勒神像
○瑞霊苑と弥勒神像

 大正十四年六月三十日に、聖師は熊本県鹿本郡三玉村蒲生にある聖師と等身大の弥勒神像の奉斎された聖域を瑞霊苑と命名された。沓島、冠島、神島と同様に祠官を置き、尾形太郎作氏を祠官に任命された。

 「神像は『霊界物語』第二巻に示された美山彦命の造りし神岩(土地で不動岩という)に向かいあうように鎮祭せよ」と、聖師の示されたままに、大正十三年三月三日に鎮祭された。

(参照)瑞霊苑碑建立

 出口直日大本三代教主の揮毫の「瑞霊苑」の文字を、熊本県菊鹿町より出た十個の岩石の中の巨石に刻み、弥勒神像の北側に、みろく岩(不動岩)に向けて、青年時代の夢のままに建立させて頂く。

 昭和四十五年十月二十五日、弥勒神像の四十七周年の大祭に引きつづき、瑞霊苑碑の除幕式が直日教主によって行われた。山鹿市長古閑一夫氏を始め、九州地方の大本信者が参集して盛大に執行された。直日教主によって木花桜が植樹された。碑のまわりには、天恩郷の植物園から七草が移し植えられた。
(ちなみに、昭和二十九年四月一日に土地の名称は、合併によって山鹿市大字蒲生に改称された)
引用〜おわり ————————————————

 父と同行した際にはまだ碑の回りには溝が掘られ土木作業中であったが,コノハナザクラをここに植えて,碑のまわりには七草を繁茂させたいなどと,嬉しそうに語ったことを覚えている。

追記 Jun. 14, 2024: ぼくとしては驚くべきことを今,発見した。昭和45(1970)年10月25日,木庭次守がこの瑞霊苑に協力者とともに建立させて頂き三代教主もともに祭った瑞霊苑に係わる大本史が大本年表に記されていない。瑞霊苑銘を,聖師の揮毫を使わず新たに三代教主に揮毫して頂いて,碑の後ろには三代教主銘もある。それだけ礼を尽くしても,我が意に叶うもののみ掲載するということだ。
 昨日,タニハで木庭次守が作成した『皆神山参拝のしおり』(木庭, 1971a)と出会った。これは本来,王仁三郎の御歌「天霊てんれいの 聖地せいちたる松代まつしろの 皆神山みなかみやま言霊ことたまをのる」を碑にすべきと思われるが,父は三代教主に新たに,お歌を依頼したようである。三代教主の歌碑「みすずかる 信濃の国の神山に ともらつどひて 世をいのるなり」である。教えは一切無視された歌とはいえ,「王仁三郎聖師生誕百年たる瑞祥の昭和四十六(1971)年四月十八日(補記: 聖師生誕百周年は新では九月一日であるが,四月十八日はその記念日よりも前で生誕後百年目に当たるということである)に皆神山の山頂に建立除幕された」のである。木庭(1971b: p. 76)には,「教主さまは歌碑をながめられつつ,『字がよろしく納まっていますね。石の配置もこれでよろしい』とお喜びになり,また『ここの皆神山はすごく空気がきれいなので寒くても風邪をひかない』と五時間にわたり,コートもお召しにならなかった。」と記されている。
 大本年表を見るとどこにも記録されていない。昭和46(1971)年では,8.6 四大主義碑建立、聖師懐古歌碑再建(亀岡),8.7 聖師聖誕100 年記念瑞生大祭,などがある。大本年表なるものが完全に三代教主に支配されていることが,この2件からだけでわかるのである。父は残念なことであったろう。大本年表だけでなく,すべてにおいて三代教主は,おほもとを自らの嗜好だけで決めている。

追記 Jul. 6, 2024: 「みてしろ歌碑」の所で述べた父の座右の「三代教主御就任後の大本年表 ——昭和二十七年〜昭和四十五年——」は,残念ながら昭和45 (1970)年6月2日の記事までで終わっている。

追記 Sep. 7, 2024: ここで述べてきた流れでは,聖師による関東大震災の予言について,ぼくも受け入れ難かったが,道院日本総院 山口利隆(道名 道隆, 1957)(道院日本総院会報誌『東瀛道慈月刊』昭和32年3月号)の証言に出会って納得できた。この記事は,関東大震災を契機に道院と大本が提携した関連で記されている。

———————————————— 引用〜関東大震災の予言
 大正12 (1923) 年9月1日には関東地方一帯に凄惨な大地震が起こったのですが、ちょうどその一週間程前だったでしょうか、いつも通り教主殿の一室で『霊界物語』の浄写をしておりました時、突然尋仁師(補記:王仁三郎の道院名)が来られて、机の後ろへ呼ばれて行きますと、手のひらに「タコマ」と書かれて「わかるか」と言われたので、「わかりません」と答えますと、「高天原と云うことで富士山のことだ。言霊別命がタコマ山の祭典の中に、エトナ山が爆発して、その惨状が手に取るように見えると『霊界物語』第三巻に示されてある。エトナは江戸のことだ。富士山から東京を見るから、目の下に見えるわけだ」と意味を手のひらに指で書き、言葉少なく関東に起こる災害について教えられて愕然としました。当時の大本では物質万能黄金万能の誤てる体主霊従的思想を立て替えて、大愛の主神の心に立ち返り、大神の赤子の誠心に立ち直さなければ、恐るべき大峠の災害を未然に防ぐことは出来ぬと、全国的に声を枯らして宣べ伝え、真の愛善精神を基礎とする新しき日本を建設し、世界の平和を打ち立てることを絶叫したものですが、世人は神がかりの言葉として一笑に付していささかも顧みませんでした。しかし、神の言葉は毛すじの横幅も狂いは無いものでした。
引用〜おわり ————————————————

5.3 入蒙後の断言

 入蒙の成功によって,『霊界物語』の口述スタイルは変化したように思う。その最たるものが昭和8 (1933) 年10月4日から口述開始された『天祥地瑞』であるが,入蒙記には,大本そして聖師の出現の意義があからさまに発表されている。

 『霊界物語』山河草木特別篇入蒙記の第8章には,「日出雄ひでを大本おほもと喇嘛教らまけう経文きやうもんを、公館内こうくわんないおい神示しんじしたためた。」として,三行からなる次の漢文が示されている。第1, 2行はそれぞれ三十三文字からなり,第3行は五文字からなるが,句の区切りが見えるように空白を追加した。

———————————————— 引用〜盧公館での揮毫
第1行: 弥勒如来精霊下生 印度霊鷲山成長顕現 東瀛天教山将以五拾弐歳 対衆生説明
第2行: 苦集滅道開示道法礼節 再臨而顕現 仏縁深蒙古為 達頼喇嘛済度 普一切衆生年
第3行: 将五拾四歳。
引用〜おわり ————————————————

 この文の後には,『霊界物語』に係わる多義的解釈が施されているが,内外蒙古に伝わる救世主の条件はこの七十一文字に記されていると考えて良いのだろう。五十二歳で東瀛とうえい(補記: 尚学書店(1989: p. 1744)によれば,東の方の海,転じて日本),つまり日本で弥勒最勝妙如来となり,五十四歳で達頼喇嘛として蒙古に現れて一切の衆生をして淨土に安住せしむ,という文面が鍵となるようである。

 蒙古の救世の言い伝えとは別に,次に救世主の宣言が見られる。

———————————————— 引用〜救世主の宣言
 かむ素盞嗚すさのをのみこと聖霊せいれい万有ばんいう愛護あいご大八洲彦おほやしまひこのみこと顕現けんげんし、さら化生けしやうして釈迦しやか如来によらいり、印度インド降臨かうりんし、ふたた昇天しようてんしてその聖霊せいれい蒙古もうこ興安嶺こうあんれいくだり、瑞霊ずゐれい化生けしやう肉体にくたい宿やどり、地教山ちけうざんおい仏果ぶつくわ修了しうれうし、蜻洲せいしう出生しゆつしやう肉体にくたいりて、高熊山たかくまやまあらはれ、衆生しゆじやうすくふ。とき年歯ねんしまさ二十にじふいうはつさいなり。二十九にじふきうさいあきぐわつ八日やうかさら聖地せいち桶伏山をけふせやまひつじさるの金神こんじん豊国主とよくにぬしのみことあらはれ、天教山てんけうざんしうして観世音くわんぜおん菩薩ぼさつ木花姫このはなひめのみことげんじ、五拾ごじふさいもつ伊都能売いづのめの御魂みたま弥勒みろく最勝妙さいしようめう如来によらい)となり、あまね衆生しゆじやう済度さいどさら蒙古もうこくだり、活仏くわつぶつとして、万有ばんいう愛護あいご誓願せいぐわん成就じやうじゆし、五六七みろく神世かみよ建設けんせつす。
引用〜おわり ————————————————

 この「引用〜救世主の宣言」文中には,「木花姫命」が見えるが,これは王仁三郎の弥勒下生前の状態として位置づけられている。三代教主とは関係がない。

 なお,入蒙に必須の熊本県の不動岩とみろく神像に係わる神業との関連が次の「引用〜第19章」に示されている。

———————————————— 引用〜第19章
 総司令そうしれい公爺府コンエフいてからは日々ひび夕方ゆふがたになると口令こうれい発布はつぷされた。これは敵味方てきみかた暗夜あんやさとるべき合言葉あひことばであつて、軍探ぐんたん警戒けいかいためである。
 ぐわつ二十日はつか神勅しんちよくにより、日出雄ひでを真澄別ますみわけ左記さきごと蒙古人もうこじんあたへられた。

出口でぐち王仁三郎おにさぶらうみなもと日出雄ひでを 弥勒みろく下生げしやう達頼ターライ喇嘛ラマ 素尊汗スーツンハン言霊別ことたまわけのみこと) 『蒙古もうこ姓名せいめい那爾薩林ナルザリン喀斉拉額都カチラオト

松村まつむら仙造せんざうみなもと真澄ますみ 班善ハンゼン喇嘛ラマ 真澄別ますみわけ治国別命はるくにわけのみこと)『蒙古もうこ姓名せいめい伊忽薩林イボサリン伯勒額羅斯ポロオロス
引用〜おわり ————————————————

 王仁三郎は言霊別と記されている。

5.4 ミロク下生

追記 2024/08/13。「5.3 入蒙後の断言」で,「五十二歳で東瀛とうえい,つまり日本で弥勒最勝妙如来となり」,とあるが,これが何を意味するのか,判った。「5.1 杖立温泉 附木庭次守の奉仕」の「引用〜木庭次守(2002a)pp. 136-137」の一部を再掲する。

———————————————— 引用〜木庭次守(2002a)pp. 136-137 の一部
○大本の神器「御手代(みてしろ)」と聖師日和
 大正十二年八月、聖師は熊本県阿蘇郡小国町の杖立温泉で湯治された。この時、誕生日の旧七月十二日(新の八月二十三日)夜の月を仰いで、杖立名産の竹の杓子の
裏に,此杓子吾生れたる十二夜の月のかたちによくも似しかな 王仁
表に,万有の身魂をすくう此釈氏 心のまゝに世人す九へよ 王仁
(杖立の白糸の滝下に建立された御手代歌碑の歌詞)
と揮亳され、⦿の拇印を押されて来訪する大本信者に授けられた。これが大本の神器「御手代」の発祥である。
引用〜おわり ————————————————

 杖立温泉で聖師は旧暦の五十二回目の誕生日を迎えられた。この神業をもって弥勒下生となるのである。

 「5.2 不動岩と瑞霊苑のみろく神像 附木庭次守の奉仕」の「引用〜瑞霊苑建碑」の一部を再掲する。

———————————————— 引用〜瑞霊苑建碑の一部
 (大正十二年)九月二日,不動岩麓の聖観音が安置されている通称凡導寺で休息された。不思議なことに聖師と尊像は寸分も違わず酷似していた。その写真は霊界物語第三十三巻口絵写真に掲載されている。聖師は礼拝のあと尊像の肩に手をふれられると前後に激しく動き出し、しばらく静まらなかったという。聖師は石像を糠袋で清めさせられたが、胸には月の姿がハッキリと現われていた。『これは観音さまではなく最勝妙如来で弥勒さまである』と教えられ、『このミロクさまを外の清浄なところに、しかも不動岩に向かいあわせて祭ってくれないと活動することができない』と語られた。その後,聖師は尾形太郎作氏の案内で山にのぼられ不動岩に参拝して聖地に帰られた。
引用〜おわり ————————————————

 つまり,この最勝妙如来が聖師が弥勒下生された証拠になるのである。さて,木庭次守の座右の大本年表 (三) (大正十年六月〜大正十三年十月)を見ると,弥勒下生に関する記事はなく,新暦大正12年8月7日「聖師,熊本県小国の杖立温泉へ」と,9月7日「聖師,熊本からご帰綾」,さらに9月9日と9月23日の間に,「聖師,杖立温泉のお土産として竹の杓子(御手代の初め)に歌を自書され拇印を捺して下さる」という一文が挿入されているだけである。

 木庭次守は,聖師の大正12年夏の九州巡教中の弥勒下生を認識しているからこそ,杖立の御手代歌碑,瑞霊苑の石碑を建てることになったのである。

 木庭(2010: p. 372)には,山河草木入蒙記特別篇の終わりに掲載されている「霊界物語余白歌から(十三)」には,<五十六億七千万の年を経て弥勒胎蔵経を説くなり>が含まれている。これは,木庭(1955b MS: p. 148)の天祥地瑞丑之巻〔74〕(昭和九年一月五日発行)第二六章四九九頁に掲載されている三歌の一つを構成している。

 なお,「五十四歳で達頼喇嘛として蒙古に現れて一切の衆生をして淨土に安住せしむ」の課題が放置されているように見える。大正十三 (1924) 年二月十三日(旧暦一月九日)に日本脱出,七月二十五日門司着。旧暦七月十二日の聖師誕生祭は,聖師不在の日本では八月十二日に実施されており,入蒙に関わる日程中は五十二歳であった。それゆえ,「五十四歳で達頼喇嘛として蒙古に現れて一切の衆生をして淨土に安住せしむ」が実現していないのである。これをどう考えたらいいのか,わからない。

 聖師の満五十四歳は新暦では大正十四 (1925) 年八月三十日である。次のように,木庭次守座右の大本年表でこの前後を見ると,六月三十日「聖師を瑞霊真如聖師と称える」がある。
 この六月三十日は旧暦では五月十日にあたる。この日が何を意味するのか。『霊界物語』口述筆記の還暦を祝った文がある。本来第六十巻の序文または総説にあるべき文章ではある。木庭(2010: pp. 298-299)にはこの点には敢えて触れていないように感じる。第六十巻での「瑞祥」事件ゆえに伯耆皆生温泉「浜屋旅館」での,『霊界物語』還暦祝いは実施されなかったし,言及もできなかったのであろう。
———————————————— 引用〜『霊界物語』第六十一巻山河草木子の巻「序文」全文
霊界物語六十一の還暦祝ひ、口述者も筆記者も皆松雲閣に集まりて、霊主体従第一巻編輯の時の苦心を追懐しながら、小雲川の水音、松風の響きに心胆を洗ひ清め、瑞月、隆光たかてる明子はるこはじ鶴殿つるどの親子ちかこ柳原やなぎはら燁子あきこ小倉をぐら貞子さだこ三女人さんによにん相並あひならびて,今日の生日を祝ひつつ初夏の新緑に酔ふ。
大正十二年五月十日   於松雲閣
引用〜おわり ————————————————

 この五月十日は祝う日として適当なのだろうとは思う。「瑞霊真如聖師」の「真如」は「大乗仏教では,法性・実相などとほぼ同義に用いる」ので,「瑞霊真如聖師」は,瑞霊=聖師,を意味することになる。つまり,後述の 9.3.2 王仁三郎のミロク三会の教え の,「瑞霊真如聖師」= てんのミロク + ひとのミロク,を意味する。これを王仁三郎は,ミロク下生,と言っているのである。ミロク下生の意義が「瑞霊真如聖師」に示されている。ちなみに,ミロク三会の暁は「てんのミロク、のミロク、ひとのミロクとそろふたとき」である。5.2 不動岩と瑞霊苑のみろく神像 附木庭次守の奉仕 の「引用〜みろく最勝妙如来」には,「その瞬間に石像の胸に月の如き白き形が出来ました。『これは観音様じゃない。弥勒最勝妙如来』と示されました。ならんで写真を撮影されますと、聖師様と全くの等身大でした」,とある。

追記 Aug. 25, 2024: 「五十四歳で達頼喇嘛として蒙古に現れて一切の衆生をして淨土に安住せしむ」の課題が実現されていることがわかった。飯塚弘明の「底本:出口王仁三郎『惟神の道』天声社、1935(昭和10)年12月5日」を参照した。発行日は第二次大本事件突発直前である。事件後,発禁処分となっている。本書「序」の終わりには,「本書はかつて人類愛善新聞紙上に発表された私の論説を収録したものであるが、現下の非常時に際し本書があらゆる方面に読まれむことを希望するものである。昭和十年十一月 出口王仁三郎」とある。この「壬申所感」には,次のような記事がある。

———————————————— 引用〜壬申所感
(前略) 今年はいよいよ吾々の頭上に火の粉が落ちかかって来た。この火の粉はどうあっても打ち払はねばならぬ。この事あるは、ずっと前に神様から聞いてゐた。大正元年から蒙古を日本に引きつけおく必要を神から聞かされて、自分は入蒙の準備として乗馬の稽古をしたりして、いよいよ蒙古入りの決行を考へてゐた時、大本のいはゆる十年事件が起こり、延期して大正十三年に入蒙が実現出来たのであった。当時私の入蒙は、パインタラで張作霖のために、邪魔がはいって失敗したやうに世間では見てゐたらしいが、私自身は決して失敗ではなく、大いに成功であったと信じてゐた。
 蒙古のアルホラ大庫倫タークーロン成吉思汗ジンギスカンの挙兵以後六百六十六年にして、ナランオロスからイホエミトポロハナ(大活神)が出て来るといふ予言があったが、ナランオロスとは、日出づる国といふ意味であり、またその活神いきがみは五十四歳の人だと予言されてゐて、ちょうど私が五十四歳であったので、いよいよ日出づる国から五十四歳のイホエミトポロハナ(大活神)が来たといふ訳で、蒙古から大歓迎を受けたのであった。
引用〜おわり ————————————————

 この引用文中には,「ちょうど私が五十四歳であった」とある。王仁三郎は前述のように,杖立温泉で弥勒下生している。その日は聖師の満52歳の誕生日,大正12年旧7月12日であった。数えでは53歳である。父愛用の大本年表では,大正13 (1924) 年2月13日(旧1月9日)「聖師,松村真澄を随え,午前3時24分発の汽車で入蒙の途に就かる」,とある。旧暦で(新暦でも)正月を越えたので,王仁三郎は数えで54歳になったのである。同年4月16日(旧3月13日)「聖師,盧の全將兵に『神軍証』としてつけるよう大本宇宙紋章をさずける」などとある。新暦旧暦を駆使し,蒙古の予言に対応して,先ずは弥勒下生をし,現地に赴いているのである。

 王仁三郎を信頼して挙兵した蒙古英雄馬賊大頭目だいとうもくたる占魁せんくわいは張作霖に殺されてしまい,王仁三郎一隊も銃殺寸前に御手代を通じて助かるのであるが,救世主の出現はモンゴル民族とどう繋がるのであろうか。隣接する巨大国での1911年辛亥革命,1917年ロシア革命,そして大日本帝国の思惑など混迷の時代に王仁三郎は入蒙したのであるが。王仁三郎入蒙の意義は,救世の観点からすると,現状では理解できないのである。

追記 Sep. 1, 2024: ミロク下生は前述のように,杖立温泉で「聖師の満52歳の誕生日,大正12年旧7月12日」に実現したが,数えの五十二歳についても,王仁三郎がこだわっている文に出会った。次の『霊界物語』第三巻序文冒頭にある。
———————————————— 引用〜『霊界物語』第三巻序文冒頭
 うしとら金神こんじん出現しゆつげん以後いご三十さんじふねん立替たてかへは、いよいよ明治めいぢ五十五ごじふごねん、すなはち大正たいしやう十一じふいちねん三千さんぜん世界せかい一度いちどひらうめはな機運きうん到達たうたつしたのである。つぎにひつじさる金神こんじん出現しゆつげん以後いご二十五にじふごねん桃李たうりものはずして桃李たうりものとなりしかみ教示けうじも、いよいよひらももはる五十二ごじふにさいあかつきに、つきひかりらされて、霊界れいかい探険たんけん物語ものがたり、ももの千草ちぐさも、百鳥ももどりも、もも言問ことと言止ことやめて、三月みつき三日みつか五月いつつき五日いつかかみ経綸けいりん詳細しやうさいに、さと神代かみよさきがけとなつたのも、まつたくときちからといふべきである。(中略)
大正十一年一月三日
引用〜おわり ————————————————

 大正十一 (1922) 年新一月三日 マイナス 明治四 (1871) 年新八月二十七日(誕生日),ゆえ,聖師は満五十歳,数えでは生まれた日が一歳で,正月がすぎているので,五十二歳になる。上記五十四歳と類似の計算のかたちである。聖師が数え五十二歳になったのは,大正十一年一月一日,そして瑞霊に関わる三を選んで一月三日が選択されたのであろう。
 「桃李たうりものはずして桃李たうりものとなりしかみ教示けうじ」の意は,〔史記李将軍伝賛〕から,「桃李もの言わざれどもしたおのずかみちを成す」(桃やすももは何も言わないが,美しい花にひかれて人が集まり,その下には自然に道ができる。徳のある者は弁舌を用いなくても,人はその徳を慕って集まり帰服する)ところの『霊界物語』となる。大正十一 (1922) 年新一月三日は,「五十二ごじふにさいあかつき」にあたっているのである。

追記 Sep. 7, 2024: 二度にわたる大本事件の始まりを王仁三郎は密かに予言しているのであるが,山口利隆(道名 道隆, 1957)に道院の予言が記されているので,次に。

———————————————— 引用〜北京総院の乩示(フーチー)で大本検挙の予言
 昭和10 (1935) 年9月、私は華北へ特派され、10月北京の総院へ参拝した際、ある日密訓があり、数名に書壇で書を賜りました。私には 老祖より「身守力行」の大幅が賜書されましたが、その時「これは神秘で今は洩らし得ないが、重大なる神意も存するところである。十二月に至れば自ら之を知るべし。」と乩示けいしされたのですが、当時私は余りこれを重大視していませんでした。この賜書も大して意にもとめず荷物に入れていたのですが、帰国後一週間余りで12月8日の大本検挙があり、華北から帰ったばかりの私は綾部で拘束されて投獄されたのです。入獄後12月26日から死を覚悟して断食を開始し、不正な検挙と断乎戦う意を決したのでした。1月4日獄中で静坐しておりますと、北京総院で老祖より賜った「身守力行」の文字がありありと眼前に現れて見えて参りました。ここで静かに老祖の示された乩示の御神意を真剣に考えさせられて、初めて神様が自分を御守護下されて特にこの四字を賜ったことを悟って、爾来断食を止めて自重し、当局の過酷な処置にも隠忍し、ひたすら阿呆になり、身体を大切にして神の御用の時を待つことにいたしました。思えばこの大試練を前もって知らされていたわけで、 老祖の訓示の偉大にして誤たぬ権威を痛感するものです。
 (聖師から大正12年 (1923)1月に頂いた道院大本提携の予言書)「真善美愛 至聖太乙老祖」の軸も華北からの荷物の中にあったために没収焼去を免れたのも奇しき神縁でした。
引用〜おわり ————————————————

6. ウラナイ教

 現役三代を嗣ぐのは,神(王仁三郎)定めの四代教主直美であった。その四代教主補出口栄二降ろしが明らさまになったのは,開教70年に係わる「改革」(大本七十年史編纂会, 1967)からであっただろう。この「第六章 開教70年の大本」(p. 1284-)の「平和運動と『人類愛善新聞』」(pp. 1293-1301)には栄二の世界平和運動での目覚ましい活躍が示されている。栄二の役職の更新に係わる部分を次の引用68に示す。

————————————————(引用68 はじめ)
 一九六二(昭和三七)年三月一九日、亀岡天恩郷の春陽閣で、第七回人類愛善会評議員会がひらかれ、運動方針としては、かがやかしい実績をになっている世界連邦運動・原水爆禁止運動、ならびに世界宗教者平和会議のめざす諸運動を力づよく推進するとともに、新年度の運動の特長として、「人類愛善新聞」を通じて、世界に平和の声と行動をたかめてゆくことに重点がおかれ、教団と人類愛善会が一体となって「人類愛善新聞」の拡張にのりだすことになった。
 さらにこの会議においてあらたな総本部の役員が決定され、この機会に従来の理事制のなかに、常任理事がおかれることになり、名誉会長出口伊佐男、会長出口栄二、常任理事大国以都雄・米川清吉・三村光郎・安本肇・広瀬静水、理事出口虎雄・伊藤栄蔵・土居重夫・桜井重雄・葦原万象、宣伝部長安本肇、管理部長土居重夫、文書室長広瀬静水がそれぞれ就任した。
(引用68 おわり)————————————————

 栄二が社会的活動を実行する上で盤石になった環境下,1962年「新体制」(pp. 1316-1317)には,栄二の大本内部に係わる総長などの重職からの離脱が列記されている。『錦之土産』で王仁三郎が示した出口宇知丸(とその長男の和明)に期待された権力の多くは栄二一人に移っていたことが見えるが,「新体制」は一旦,三代腹心の桜井重雄,伊藤栄蔵,森清秀などに異動される。これは三代教主が栄二から権力を取り戻した形と考えて良いだろう。こういった準備期間を経て,1982年の四代更迭にまで進んでゆく。およそ短くても20年の仕組みであった。以下,2点に注目したい。 

6.1 四代直美更迭劇

 「1.4 瑞霊聖師転覆から神定め四代直美放逐まで」では,徳重(1990)の大阪都ホテル四階朱雀の間での会議を紹介した。十和田(1986)の「出口直美の教主継承取消し」(pp. 243-252)には,系統だって解説されているが,実際にこの総代会会議などに出席した方の感じ方の一例をここに紹介したいと思う。八千草は当ホテルの玄関で,議長の嵯峨逸平とバッタリと会って議題を尋ねられたという。電報があって金沢から駆け付けたが議題は知らされていない。大阪市大付属病院に入院している筈の三代が朱雀の間に見えたので驚いたようだ。宇佐美総長を始めとする役員達が議事を進行し三代の録音された声「直美はダメや」が会場に流れた。これで四代直美の更迭が決まったという。
 「1.4.a 四代ではなく瑞霊聖師の放逐」でも述べたように,京太郎総長のもとで,四代直美と出口和明の家筋の兵糧攻めに加担した総代会ではあったが,この四代直美の更迭にも全会一致で可決したのは聖師への大きな裏切りであった。総代会メンバーは単に傍観者としてしか自らを認めていないし,それほど当局は,厳選した「信者の代表」からなる総代会を企みの補助ツールとして扱ってきたのである。総代会には権力に加担する構造があった。
 一方,表3で「第3回みろく顕現祭,大本歌祭」とされているイベントに参加していた木村は,同行した大本職員澤田実が聖ヨハネ大聖堂責任者(JP Morton)に「聖子が次の四代と決まった」と伝えたのをそばで聞いて,驚いたという。さらに,その後の観光バスで,同行していた聖子から「帰ったら虐められるう」という吐露も聞いている。そして木村は帰国するのであるが,後に八千草から大阪都ホテル四階朱雀の間での会議を聞き知ったのである。
 大本年表を中心にまとめたのが表3である。「昭和57 (1982) 年5月26日 教主継承者変更し、出口聖子を教嗣に決定」,「5月29日 第3回みろく顕現祭(聖ヨハネ大聖堂、米国ニューヨーク)」が示されている。

 かつて栄二が代表を務めた日本宗教者平和協議会を含む世界平和評議会の原水禁平和行進の後,参加団体の代表は,当時の国連事務次長明石康と面会している。三代の入院のさなか,実施された「5月26日 教主継承者変更し、出口聖子を教嗣に決定」の日程は,この時系列から理解できるのである。聖子の教嗣の最初の大仕事に位置づけるべく,急遽思いついたものだったと考えて良いのだろう。

表3 教嗣直美更迭と聖ヨハネ大聖堂に係わる日程

6.2 聖ヨハネ大聖堂(ニューヨーク)

 大本年表で「ヨハネ」で検索した結果などを表3に反映させている。次節「6.3 聖ヨハネ大聖堂での『みろく顕現祭』」に関連して疑問に思ったのは,聖ヨハネ大聖堂での合同礼拝の実現過程である。木庭・鈴木(1975)のpp. 14-15には,大本海外作品展の欧米6カ国13会場の都市位置とその巡回順序が示されている。これによると,パリ市立アジア芸術チェルヌスキ美術館を皮切りにヨーロッパ8都市,そして合衆国に飛んでニューヨークからサンフランシスコまでの5都市である。

 田辺謙二(大本120年記念事業事務局主幹), 2023: 大本と芸術. 京都新聞(平成23年11月から17回連載)の抜粋が,https://oomoto.or.jp/wp/oomotoart/, に掲載されている。ここには,王仁三郎の耀盌と併せて二代,三代の作品群が,海外作品展として,パリ,ロンドンなどのヨーロッパの8都市,さらに合衆国5都市に亘って,3年3カ月を要して巡り,大いに好評を博したことが示されている。我が聖師,教主が世界に賞賛をもって受け入れられたことに,大本信者は,大いに鼻を高くしたに違いない。長谷川・長谷川(1975)は,この感動を広く伝えるべく,フランク博士を軸に脚本を作成し映画化している。

 この作品展に同行した大本信者の一人によれば,ヨーロッパでの巡回中,次の開催地と目するニューヨークでの展覧会場を探したがニューヨークの会場が確保できなかった。希望する著名美術館は数年先まで展示計画が詰まっていたのである。ところがロンドン展で,耀盌に感激したフランク博士が聖ヨハネ大聖堂への橋渡しの労をとってくれることになる。その後の展開を田辺(2023)から適宜抜粋などして引用69に示す。表現などを一部変更している。

————————————————(引用69 はじめ)
 合衆国では,昭和50(1975)年3月からニューヨークを皮切りに巡回した。医師からアーティストに転向して彫刻や絵画で多くの作品を世に出したフランク博士が自ら作品展を企画した。ロンドンのビクトリア&アルバート美術館で耀盌に遭遇し感銘した同氏は開催に向けて動き始める。「この作品展は普通一般の美術館でなく自らが係わる聖ヨハネ大聖堂で開催したいと考え交渉」した,と彼は書いている。氏の感動と開催意図を聞いたモートンJP.MORTON聖堂長は快く了解。米国では「教会」での開催が決まり,聖ヨハネ大聖堂では開会式が追加されることになった。それは神道形式による「作品展開催奉告祭」(補記: 長谷川・長谷川 [1975]によれば,『出口王仁三郎とその一門の芸術展奉告祭』)である。
 中央最奥祭壇のキリスト像の前に八足(3段の神饌台)を設置。その前で神道の祭服をまとい祭典を執行。キリスト教会で世界最初に行われた神道祭典である。「芸術は宗教の母」「万教同根」の教えが具現した瞬間でもあった。
(引用69 おわり)————————————————

 フランク博士(FRANCK, Fredrick 1909-2006 当時65歳)が何故聖ヨハネ大聖堂長の了解を取り得たのかは,次の情報から明らかになった。長谷川・長谷川(1975: p. 11)にある。一部表現を替えている。

————————————————(引用70 はじめ)
 フランク博士は,ヨハネス二十三世の要請で,一九六二年から四年かけて,バチカン公会議(補記: 全世界の教会から司教が集まり,教義や典礼,教会法などについて審議決定するカトリック教会の最高会議)を始めて記録している(補記: これが平和運動に繋がって行く)。さらに法王最後の肖像画を柩の上に描く栄誉を得ている。法王没後,〝地上に平和を〟と叫びつづけた法王の意思を継承すべく,平和の哲学を求めて世界を遍歴した。
 彼が求めていたものは東洋に多くあり,特にインド哲学=禅(補記:鈴木大拙など)が彼をひきつけた。それを実践すべく,自ら座禅し禅の道場をつくっている。
(引用70 おわり)————————————————

 http://www.frederickfranck.org/ にはフランク博士顕彰のための多少古い専用サイトがある。httpなのでGoogleで検索すると警告が出るが,Firefoxなどの検索ツールでは問題がない。このトップページに彼の言葉がある。

It is in order to really see, to see ever deeper, ever more intensely, hence to be fully aware and alive, that I draw what the Chinese call ‘The Ten Thousand Things’ around me. Drawing is the discipline by which I constantly rediscover the world. I have learned that what I have not drawn, I have never really seen, and that when I start drawing an ordinary thing, I realize how extraordinary it is, sheer miracle.” — Frederick Franck

 耀盌の魅力が関係者に広がった結果,美術展会場費はほぼ発生しなかったようであるが,移動費や宿泊費などでも一会場あたり二千万円を要したと,参加信者の一人が本部職員から聞いていた。その会計とは別に手弁当で運営要員として参加した信者も相当数居たようであるが,大本年表では,大本海外作品展については昭和47(1972)年の最初のパリの情報しかない。表3のように余りにも素っ気なくて,かつ,不正確な情報しか掲載されていない。そして,聖ヨハネ大聖堂での「出口王仁三郎とその一門の芸術展」も記載されていないが,「昭和50(1975)年10月23日 出口聖子教主名代スピーチ」は掲載されている。大本年表は本来,教学院の担当の筈だが,三代教主の内事組が削除命令に従いつつ,教団で最も重大な筈の大本年表に意を用いなかった結果であろう。

 ちょっと話の筋から外れるが,長谷川兄弟に対して楽しい思い出がある。大本天恩郷神苑内には平屋建ての西光館(昭和21(1946)年12月8日(道場と事務所)完成)があった。そこの八畳二間ほどの場で映画会があった。そこに笑顔で登場したのが長谷川兄弟で,知り合いから映写機を借りて,フィルムを用意して,無料の映画会が催された。子供が喜ぶ漫画映画もあったが,必ず平和を願う映画もセットになっていた。ぼくが近所の子供たちを従えて神苑内で遊んでいると,長谷川兄弟にはよく会った。いつも仲良くてスケッチブックを片手に神苑内をスケッチしていたのである。さらに話がずれるが,この映画会をしていた部屋の隣は,玄関に面していて受付になっていた。その受付の部屋には佐藤というおばあちゃんが住んでおられた。父はこの建物を通ると必ず,そのおばあちゃんに声を掛けていた。おばあちゃんの相談(息子さんからの手紙に関してだったか)に乗っていた時の父の顔も思い出す。ある時期,佐藤さんがみえないようなので,父に尋ねたら,息子さんの所に引き取られたというような回答だったか。ぼくが小学校の中学年の頃(昭和33 (1958) 年頃)のことである。すでに大本本部でも老人が住みづらくなってきていたのかも知れない。

6.3 聖ヨハネ大聖堂での「みろく顕現祭」

 表3に見えるように,3回の「みろく顕現祭」が開催されたことになっている。このうち,第3回にあたる行事には自費で奉仕した木村は,この名称を全く知らなかった。万教同根の立場からの大本式合同礼拝に奉仕していると考えていた。国連の世界平和行進に係わる合同礼拝であった。どうも,「みろく顕現祭」という行事名は後付けされたらしいのである。いずれも三代教主名代が参加し,第1回は広瀬麻子(三代次女,聞き取り),第2回と第3回は出口聖子となっている。四代直美は,聞き取りでは,昭和47 (1972) の大本海外展の嚆矢となったパリ市立アジア芸術チェルヌスキ美術館に教主名代として出席している。
 聖子は,三諸聖子の筈である。出口家から出たものは教主にはなれない。三諸斎とは離婚していないのに出口を名のっている。離婚していないのに,聖子一人だけ三代の養子になることはできない筈である。大本年表はもちろん,三代教主は了解の筈である。何らかの戸籍の入れ替えがあって,それを三代とその周辺が了解していないと,この大本年表は成立しない。

 大本年表を見ると,直美更迭と第3回みろく顕現祭,のあとは一度も実施されていない。単に直美更迭のための実績造りに信者の多額の浄罪が浪費されただけと言われても,これでは反論できないだろう。宇佐美(1983 編集長インタビュー: p. 28)には,「聖ヨハネ大聖堂との合同礼拝も日取りまできまっています」とあるが,大本年表にはない。二年毎のようなので,1984年実施の筈だが掲載されていない。ただ,「同年3月6日 第2回シナイ山合同礼拝式典に参加(エジプト)」とあって,「「聖ヨハネ大聖堂との合同礼拝」は消失したのかもしれない。

 合衆国に所在する聖ヨハネ大聖堂は,ST. JOHN’S EPISCOPAL CATHEDRAL 聖ヨハネ米国聖公会大聖堂 という。Saint John the Divine 洗礼者ヨハネの教会である。大本の教えではヨハネは,出口なお,に対応する。大本では,みろくは,出口王仁三郎なのに,出口なお,にすり替えられている。つまり,三代は,ウラナイ教の木花姫と言わざるを得ないのである。

 王仁三郎の『霊界物語』は,第一次大本事件前夜から始められ,事件の真っ最中に口述が進められてゆく。当時の皇道大本では,昇天した開祖なおを立てて,王仁三郎を排撃または嫌う勢力が非常に大きかった。この「お花」を中核とする「ウラナイ教」に対して,安心感を与える必要があって,第1巻第24章の「ヨハネの(いづ)御魂(みたま)は、三界(さんがい)修理固成(しうりこせい)された(あかつき)において五六七大神(みろくのおほかみ)顕現(けんげん)され、キリストは、五六七神政(みろくしんせい)神業(しんげふ)奉仕(ほうし)さるるもの」などという一文が生まれたのである。四代更迭を企んだ一派はこれを捉えて,聖ヨハネ大聖堂での「みろく顕現祭」を思いついたとも考えられる。『霊界物語』を読み込めば,この一文が聖師の思いと無関係であることは,了解される筈であるが,邪念があると,ここに書いてある,と感じるのかも知れないとは思う。『新約聖書』には王仁三郎的な方便が無いことも了解できていた筈ではある。

 「聖ヨハネ大聖堂での『みろく顕現祭』を思いついた」という認識について,読者は子供じみていると感ぜられるであろう。大本年表に歴然と証拠があるのだから仕方がない。いまでなくても,どうせ見破られるのに稚拙とも感ぜられるであろう。オレオレ詐欺で高齢者が引っかかって,なけなしの現金が詐取される報道を最初聞いた時には,信じられなかった。理解できなかった。しかし,それに類する被害は後を絶たない。これを仕掛けている集団は成功体験に基づいて継続しているのである。人の心理が脆いことを大黒主は成功体験から知っている。一般に馬鹿げている,稚拙すぎると考えても,嘘を繰り返すことで,それが定着してゆくということを知っている。歴史の大半はこうして作られてきたとも言えるのではないだろうか。

 「4.6.2 『霊界物語』山河草木第64巻下の『木花姫』」に見られる三代への評価,は,その当時の行動に対しての王仁三郎の評価,とぼくは考えていたが,そうではなくて,予言でもあるのだ。ずっと,ウラナイ教であった。『霊界物語』が予言書という証拠が一つ増えることになった。三代は,少なくとも昭和7年に日出麿とともに王仁三郎を陥れるべく画策に参加したが,実は昇天まで続いていたのである。多くの聖師王仁三郎信奉者が昇天したり本部から離脱するなか,聖師信奉者の有力な生き残りである直美栄二や和明を追い出して,ついに,三代に叢がる一派は,王仁三郎が築き挙げた教団の打ち出の小槌を丸まる,手中にしたのである。ウラナイ教信者による転覆をさけるべく,王仁三郎は昭和4年(1929年)7月30日誕生の直美を出口なおの再来としたのであるが,防ぐことができなかった。王仁三郎の予言は当たってしまったのである。

以上,2024/06/04。

7. 振り返ってみると

 三代教主は木の花姫か,というテーマで,書き進めてきた。ぼくの少年時代の三代教主との出会いの印象を抱えつつ,『霊界物語』を読み進めて行ったが,絶大な神力と愛を表す木の花姫が三代教主とつながらない。『大本七十年史』上下を覗いたり,タニハに残っていた機関誌を垣間見たりしたがとらえどころが無かった。三代教主とその取り巻きが,昭和57年(1982年),現愛善荘または大本信徒連合会(出口直美と栄二)と現愛善苑またはいづとみづ(出口和明)を大本から根こそぎ追放したために,追放された当事者からいわば大本暗黒史が公にされ,ぼくがその一部の資料の提供を受けて,さらに論を進められない時に度々,父が最適の資料群を目の前に示してくれて,このウェブページを書き上げることができたのである。

7.1 大本教団維持のための神名付与

 木の花姫と木の花咲耶姫は違うという観点があるが,王仁三郎は,『霊界物語』第60巻挿入章「瑞祥」と『錦之土産』でも三代教主に対して,木の花姫と呼んでいる。なおは木の花咲耶姫としたが,王仁三郎は三代教主を守るために,三代は『霊界物語』で登場する木の花姫なんだ,木の花姫の分霊ではない,と宣言しているのである。
 『愛善世界』1990年11月号の口絵写真には,「昭和21年4月,王仁三郎聖師が出口直美に,神定大本四代の証として手渡された短冊と色紙綴の三册」や「二代教主ご真筆『大福帳』」が掲載されている。この大福帳の写真には,出口梓(京太郎)擁立事件に係わって,「しぐみが かわったとわ どのかみのさしづであるか もうしてぜよ ばかがみめが なんとゆうことをもうすか あくまべが まんごまつだい おんなにきまりておるど ここにわ なおみともうす しっかりとした ごようつぎがあるど,」などと記されている。歌集『日月日記』(七の巻)(月の家〘王仁三郎のペンネームの一つ〙著,昭和4年〘 1929年〙7月30日〜9月5日)には,「久方の天津国より降りたる嬰子は教祖の更生なりけり」などと歌われている。
 王仁三郎の渡台中,二代教主に日の出の神の因縁についての霊感があり,三代直日と高見元男との縁談が定まった。王仁三郎帰綾翌日,昭和3年(1928年)2月1日,には結婚式が挙げられた。この日に早速,聖師は元男に日出麿という名を提供しているのである(大本七十年史編纂会,1964, p. 822)。木庭次守(1964, p. 53)には,昭和17年(1942年)8月17日に王仁三郎から日出麿に送られた信書がある。

 このように,何らかの霊感によって因縁の御霊が用意され,木の花姫,開祖の再生,日の出の神,などとなる。この形は,大本の特色の一つのようである。信者もそして神の名を貰った本人もそれなりに納得したりする。実際には,そういう神の実体がなくてもいい。『霊界物語』には,木の花姫と木の花咲耶姫や,稚桜姫と初稚姫や,日出神と日出別神などが登場しているので,その活動をモデルにして自ら律して行くことも考えることは可能かも知れない。とはいえ,神名を貰った本人たちは小さな自分を振り返って,ちがうちがう,と叫ぶかも知れない。

 ぼくのこのページのテーマ「三代教主は木の花姫か」は,大本関係者以外からすると,一体何をほざいているの?,となるだろう。しかし,ぼくは真面目にこのテーマと向き合ってきたのである。王仁三郎はなおと出会い,独立した宗教団体にするべく,神官の専門学校に通って資格をとり,既存宗派に入って,宗教団体の経営などを学び,ついには大本を立ち上げる。王仁三郎の自伝を見ると,書いても書いても,なおの回りの役員に燃やされるという時期が長く,なおも王仁三郎が長く理解できなかった。王仁三郎はしかも自らの子供やその子供にも裏切られてきた。その中で自らの教えの世界を残すべく,種々の工夫を施してきたのだろうと思っている。三代が『霊界物語』の木の花姫とは無関係なことが判ったので,ぼくは王仁三郎を捨てなくても良いことになった。

7.2 木庭次守の三代教主観の変遷

 木庭次守(1964)(『おほもと』誌所載)には,「木花姫命のご神格」と「日の出の神のご活動」が記されている。「木花姫命のご神格」については王仁三郎文献に基づいて詳細な記述があり,その最後の段落(p. 54)は次の引用71が配されている。

————————————————(引用71 はじめ)
 三代教主さまの,木花姫命または木花咲耶姫命のご精霊に,宇宙の主神五六七の大神さまのご神格をみたされて,五六七大神さまの全部,または一部のご活動をされますこと,前述したところでありますが,三代教主さまは,血脈のご因縁によりまして,開祖さまに帰神された国常立大神さまと聖師さまに帰神された五六七大神さまのご神格にみたされて水晶世界の樹立のために,全人類の指導者として,精神界の表面にたってご活躍されるのであります。
(引用71 おわり)————————————————

 これが書かれた時は,木庭次守は宣教部長であった可能性があり,いわば公式見解として書かれたものではないかと想像している。本論文と同年発行の『大本教学』誌には,山藤暁(1964)『第二次大本事件の回顧』が掲載されている。山藤は,後述するように木庭次守が三代から得た大本名である。

 この山藤 (1964)の報告は,自らの体験に基づく木庭次守の大本教学を踏まえた「第二次大本事件総括」であった。『大本七十年史』下巻の発行年は1967年でこの巻に第二次大本事件が含まれることを意識しての論文と思われる。「検束者三千余人」の最初と最後の部分と,父が喉の傷を指して第二次大本事件の取調中に聖師に不利な証言となる可能性があるので自殺未遂した時のもの,とぼくが聞いたことに繋がる部分を,引用62に示す。理解を容易にすべく一部,句読点などを修正している。

————————————————(引用72 はじめ)
<最初の部分>
 木庭次守の体験を通じて,事件の片鱗を示したいと思う。
 第二次大本事件の検挙数は三千余名であった。それは木庭次守の検挙番号が三千余りであったから断言しておきたい。事件突発の昭和十年十二月八日には佐賀市蓮池の小野家に宿泊しており,中野氏と木庭は,佐賀県下の小学校十二ヶ所での皇道宣揚の講演会を了えたところであった。そこに中野隆次氏が朝来訪し,大本事件の突発を告げた。熊本への帰路,大牟田市の今山氏方に立ちよった。今山氏の弟は(大本)本部の奉仕をしていたのだが,当局によって強制的に帰されたとのことであった。その弟さんから,高橋伝内氏の(裁判費用捻出のための)献金活動の依頼を知り,その活動を開始することになった。(中略)

<自殺未遂>
 翌日,福岡特高の徳永警部補がニヤニヤ笑って取り調べを始めた。私は気分が悪いと取り調べを断り,下に降りる時に飛び降りて倒れ,大騒ぎとなった。警察医が呼ばれて,その医師の自宅に連れ帰って寝ませて下さった。その原田医師宅は大本福岡分所にあたっていたのである。
 その翌日,特高課長と徳永警部補が原田医院に来た。私は,「社会的地位を一切放棄して,家庭を犠牲にして,出口聖師の救世の神業に奉仕しよう」と活動してきた。いま,強制されて「私は出口王仁三郎が国体を変革して」と書き始めた。ふと,悦子と書いた切り出しナイフが見えた。咄嗟に自らの左頸部に切りつけた。血が迸った。
 取り調べは中止され,往診中の原田医師は呼び返され,治療を受けた。原田医師のお婆さんは涙を流して諫められた。原田医院で数十日間過ごした。ここでは日蝕に出会い拝んだ。最初は毎晩二人の巡査が付き添った。入浴も二人の監視下だった。概してゆっくりと養生できたのである。ある日,福岡県高等警察部の宿直室に移動して数日を過ごした。そして,徳永警部補の取り調べが始まった。見ると数百枚の聴取書が出来上がっていた。「私は何も言わないのに」というと,「しかしそうだろうが」とニヤリと笑った。(中略)

<最後の部分>
 私は拘留中に祈った。「今回は外に出して頂きたい。霊界物語を十回拝読させて頂いて,神様の御用に使って頂きたい」と祈願した。私は投獄から百七日目に里帰りすることができた。その間に「大本事件は法治国の日本だから,裁判で勝利して,大本の正義を証明しなければならない」と決意し,裁判に全力を傾けることになった。出所後,霊界物語を十回拝読するために努力した。
 熊本県在住の私は昭和八年七月から,九州各地で愛善新聞の頒布先の拡大活動を行い,昭和神聖界の賛同書集めと国防と皇道講演会をも行った。福岡県大牟田市には神聖界の支部を設置し,佐賀県の十二の小学校で皇道講演会を実施してきたので,熊本県と福岡県と佐賀県から指名手配されて逮捕されたことが後に判った。
 昭和十二年には二十歳となり,徴兵検査を受けたが,兵役丁種となった。ブラックリスト要視察人であることは申すまでもなかった。昭和十三年三月三日から赤塚源二郎法律事務所で事務職員をして大本事件の裁判事務に奉仕することとなった。警察および検事局で取り調べを受けた経験は,この事務仕事を進める上では大変参考になったのである。本名では当局の目に付くので,三代教主に名をお願いしたら,「山藤曉」,「瀬川曉」,「瀬川武」の姓名を頂いた。
(引用72 おわり)————————————————

この名については,引用73のエピソードがある(木庭次守,2002a: p. 247)。

————————————————(引用73 はじめ)
○大阪若松刑務所での初面会
(元気溌溂とおっしゃった。ありのまま光輝く聖師様の面見る度に魂よみがえる。看手部長の好意でゆっくり面会)
木庭はんか。この事件の仕事を田上さんとしているのか、城崎の玄武洞の写真くれたな。山藤とはあなたか。布団の薄いのを入れてくれ。面会に来てくれ、用があるから。あなたの兄か弟か(弟輝男)面会に来てくれたよ。              (昭和十五年七月十三日旧六月九日土曜日)
(引用73 おわり)————————————————

 次に,月刊『おほもと』 Vol. 16, No. 9(通巻181号)昭和39年(1964年)9月号から,三代教主出口直日 随想塵塚 p. 23, 25を次に示す。前述の新体制が成立し,出口栄二が大本内部の役職を剥奪されて後の時期である。

———————————————— 引用〜随想塵塚
 平和運動に先鞭をつけさしてもらったことは,意義のあることでした。しかし今は,世間では騒いでも,大本の信仰をさしていただいている者は,平和を叫ぶのではなく,心の中に養うことで,”平和の霊府”とならしていただくことです。
 教をしっかり受けとって,心の立替え立直しをすることで,神さまのなさる立替え立直しのご用に奉仕さしていただけるのです。外に向かって立替えを叫ぶことは,その方の人に任しておけばよいので,それがやりたいのであれば,その方にまわってもらうことが結構です。(以上,p. 23)
 (中略)
 私の祈りの一番の眼目は,世界中の人々が仕合せになってもろうことです。そのためには,世界を大きく二つに分けている共産主義と資本主義の両陣営が,お互いに相手の行方を理解し合う,両方がそういう心になって歩みよってもろうことが一番大切だと思います。それで私は,何よりもそのことを,日夜,祈らずにはおられないのです。
 大本という所は,どちらの陣営にも偏ることは許されないところです。そのことは,開祖さまのお筆先を丹念に,一つ一つ,しっかりと頂いてもらえば,大本がどういうところか,何をするところかということが分かってくるとともに,はっきりします。 (以上,p. 25)
引用〜おわり ————————————————

 この引用で示された「平和運動に先鞭をつけ」ることができたのは,栄二が対外的な役職を持続できていたからであろうが,三代教主のわだかまりには際限がない。この三代教主の身勝手な論理はどこから来るのか。少なくとも厳瑞二霊ではない。この引用26?は栄二に非常に攻撃的である。平和の霊府と言いながら,全く逆の内容である。栄二が三代教主の傘下にあるにしても,優れた社会活動家を指弾するのは奇妙なことである。社会変革のために大本教団が貢献するという観点が欠落し,三代自らの保身が前面に出ているのである。
 これで思い出すのは,父がタニハ文化研究所の開所を経て,協力者とともに面会した際の三代教主の言動である。いきなり,「木庭さん,信者をよくも騙したなあ。大きな家を建てて」。強力な支持者の一人松田良兼は「私は信者じゃありません」と言ったということがあった。面会前後のいずれかはわからないが地元の人によれば,三代と三女聖子が一緒にタニハの南方の山麓に座って眺めていたという。聖子は先に帰ったという証言もある。自分の父の教えの研究施設が出来たのだから喜んでタニハを訪ねるというのが教主に求められる態度ではないだろうか。教主来訪の際の部屋も父は用意していたという。父がタニハに寝泊まりするようになるのはかなり後で,亀岡市北古世の自宅宿舎から結構遠い道矩を自転車で通っていたのである。家族の自宅として使われたことはない。
 昭和48(1973)年の頃か。木庭次守の大本での研究環境がどんどん削がれて行き,三代教主とその周辺や京太郎などによって,地方への講演も閉ざされている環境で,自らと賛同者の研究の場を求めたものがタニハ文化研究所であった。父の王仁三郎研究の進展を支持する人々の協力すら,三代は自らが取り込む財,横取りされた財と決め込んでいるのである。脱税だと迫る間者も派遣された。在野研究者父の支援者には,日本博物館協会第3代会長の徳川宗敬や上野恩賜動物園の初代園長古賀忠道も居た。京都府生涯教育施設にも指定されていた。タニハ地域の在野研究者への協力も惜しまなかった。
 父が「三代さまには一度も神勅が下っていない」という感想を漏らしたのも,余りにも三代が王仁三郎の教えを理解できず,理不尽な行動が目に付いていたからであろう。王仁三郎と澄子を神と慕う父はその娘にも期待するのは当然である。父の否定的な口癖は「偽善者め」と「偽物だ」の二つだが,いずれも三代を評価する言葉としては使えない。「開祖さまに帰神された国常立大神さまと聖師さまに帰神された五六七大神さまのご神格にみたされて水晶世界の樹立のために,全人類の指導者として,精神界の表面にたってご活躍」と書いた父が,「三代さまには一度も神勅が下っていない」,「木の花神(紙)裂くや姫」と言わしめたのは三代の責任と言わざるを得ないのである。昭和17年8月7日,聖師,二代,伊佐男三名は大阪拘置所から直日の自宅に辿り着いた。父は直日の玄関前に,聖師と二代の布団が外に投げ出されているのを見ている。父がボソッとぼくに語ったことであった。この布団のことを万田さんに最近告げた際,信者さんから新しい布団が届いて廃棄されたものかも知れないとのことであった。

 追記: 万田さんは父より後の世代で,現場の状況を知る由もないが,そういう誤魔化しの情報が後に流布された可能性があるだろう。父は現場に居て確かめも出来たのである。

 追記: ここに,三諸編(1978)の指導者養成スクールである梅松塾1978年「教修資料」(教習資料だと思うが)がある。タニハで数年前かに見つけたものが昨日眼に入ったのでここに追記することにした。父の多数の修正メモがある。この冊子表紙の裏には,父の評価があって,「霊界物語は教理でないという点,世に出ている神を聖師様というのは最も曲解である」とある。無免許教師の質が問われている。

 『霊界物語』を一つの問題意識をもって読み込むと必ず智恵の光が下る。父は『霊界物語』を読んで智恵を貰いなさいとよく言っていた。この場合の智恵は学術研究上のものを指したのであるが。ぼくは『霊界物語』については,父の期待には応えてこなかったが,このウェブページのテーマについては,智恵は貰えたと感じている。王仁三郎は間違い無く予言者である。父の言によれば,預言ではなくて予言である。その一点で王仁三郎は神であると思う。予言をぼくらは自ら読み解くことができる。心震える体験である。このウェブページはその一例を示したと思う。休日ではあったが山口勝人さんのご厚意で,愛善苑のご神殿に最近はじめてお参りする機会を得た。お宮は一つでそこには素戔嗚尊だけが祀られている。大本皇大御神ではない。ちょっと驚いたが,主神王仁三郎だけにフォーカスするという姿勢はほんもの嗜好の大本信者の究極の形と言えるだろう。ただ聖師こそ神だと叫んでも一種寂寥感が襲う。慰安を求める大本信者にとっては,厳然と教主の坐す愛善荘も必要だと思う。人生航海の港になりうる。理想的な宗教は,打ち出の小槌ではなく,個々の信者が神に近づける場を提供することだと思う。

以上,0:05,2024/06/06。

 このように考えてくると,愛善苑は三大教で,愛善荘は五大教に模することが可能なのではと思われる。ぼくが霊界物語三神系時代別活動表で述べた60年後の三五教の実現が想定されるのである。『霊界物語』の三五教の成立は繰り返されるのではないかと感じている。

以上,2:58,2024/06/06。

7.3 教主は教団で最大のキャッシュ受取人

 上節の終わりで,あらたな三五教の誕生を期待するということで,終わろうとしていたのであるが,昨晩,あらたに三代教主の大本年表の改竄の証拠に出会って,大本の会計について証拠資料をここでは提示しないが,仄聞したことからぼくの頭に描いている三代教主の頭の中を覗いてみたいと思う。

 お寺の住職などを想定したと見られる 国税庁『令和四年版 宗教法人の税務』の,源泉所得税「個人の家計と宗教法人の会計とは明確に区分する必要があります。」の一文を次の引用75に示す。

————————————————(引用75 はじめ)
 宗教法人の会計処理を正しく行うため、次の事項に注意して、常日頃から宗教法人の収支と住職等個人の収支を明確に区分しておくことが必要です。また、住職等の給与については、あらかじめ適正な金額を定め毎月一定の日に支給することが望ましいと思われます。
 ①宗教活動に伴う収入や宗教法人の資産から生ずる収入は、全て宗教法人の収入となります。(源泉所得税)(源泉所得 税)宗教法人も源泉徴収義務者となります。(中略)個人の家計と宗教法人の会計とは明確に区分する必要があります。(中略)したがって、布施、奉納金、会費、献金、賽銭、寄附金、雑収入等は全て宗教法人の収入として宗教法人の会計 帳簿に正しく記載する必要があります。
 ② 宗教活動に伴う支出や宗教法人の資産の維持、管理に要する支出は、全て宗教法人の支出となります。そのうち、住職や宮司、職員等に対する給与については、その支払の際に所得税及び復興特別所得税の源泉徴収を行うこととなります。この給与には、金銭で支払われる給料や賞与のほか、後で説明するいわゆる現物給与も含まれます。なお、宗教法人の収入として計上すべきものを住職等個人が費消した場合には、宗教法人から住職等に対して給与の支払があったものとされます。
 ③ 財産についても、宗教法人のものと住職等個人のものとを明確に区分しておくことが必要です。
(引用75 おわり)————————————————

 このように一応,決められてはいても,もちろん,これはザル法の一つであろう。

 父のタニハ文化研究所の立ち上げには多くの方の浄罪が集まったようである。徳川宗敬揮毫のタニハ碑の裏書きには昭和51(1976)年1月19日とある。その立ち上げの有力な協力者の一人が開業医だった工藤恭久である。奥様の静子も協力的であった。木庭次守(1971b)の「後記」には,皆神山歌碑建立に最も協力した信者として,工藤友太郎家が挙げられている。これは前述のように昭和46(1971)年4月18日に建立されている。いま,病床にある工藤恭久は愛善苑の有力な協力者である。
 父の周辺の方から聞いたことがある。工藤夫妻が札束を持って三代様に複数回に亘って面会したと。おそらく皆神山の石碑建立に関してではないか。木庭次守を大切にしてほしいとも告げたようである。この種のキャッシュフローが三代教主に収斂していたと考えるのは極めて常識的判断であろう。仄聞するところ,京太郎の子息が某私立医大入学する際には数千万円の費用が発生したようで,三代教主が支援したとのことである。手持ちの耀盌などを売って用立てたと周辺に漏らしたそうであるが,ポケットマネーから出たものであろう。

 何故,ここで,このような観点で記しているのかというと,三五教の新たな出現とは言っても,三代を反面教師とする教主が確保されるのか,と考え込んでしまったためである。前述のように,出口王仁三郎は多額の献金を自ら得ていたのは間違い無い。しかし,それは本人の能力と行動の賜物である。そしてその献金は社会的に活用されている。少なくとも私的流用ではない。国家権力に税金を支払わないから悪いというのではない。私欲で,教団=教主,と勘違いして,ポケットマネーにしてしまうのとは違う。
 三代教主の美術鑑賞力の欠如とお金への執着ついて,愛善苑事務局(1990: p. 8)の会話を次の引用76に。

————————————————(引用76 はじめ)
出口和明: (『霊界物語』で高姫が)「玉取りをやる」というのも,その通りでしたね。教えはアッチにおいて,土地としての聖地とか,権力や物質に恵まれる地位とか,価格価値のついた芸術品とかね。
 三代教主にしても,耀盌についても,あれほど否定され,王仁三郎が変なものを作って,という感じだったのが,陶芸家や評論家が評価しはじめ,高く売れるとなると,耀盌についての考えかたもガラリと変わっていった。
出口昭弘(『楽らく多収稲作革命』の著者): 物を見る目はなかったね。古い奉仕者はよく知っているが,耀盌についてもボロクソ言われていたね。
窪田: 恥ずかしいとまでいわれていたね。
(引用76 おわり)————————————————

 三代教主は,上記のように,ウラナイ教的言動を周囲に漏らしていたのにも係わらず,なおの言葉を借りれば,神を鰹節にしていた。次の引用77は,大本教学研鑽所編(1977, p. 521)明治三十四年𦾔七月十五日の神諭である。

————————————————(引用77 大正10年4月(8ページ) はじめ) 
 艮の金神が,明治三十四年の,文月の十五日に書き置くぞよ。此の綾部の大本は,他の教會とは違ふから,餘程魂を研いて掛らんと,神の氣障が出來て來て,往きも戻りもならんことになるぞよ。此の大本は,金銀では出來ん世話であるから,能く心得て呉れよ。人を騙して金を取り,神や教祖を松魚節に致して,信者を苦しめることは,此神の第一の気障りであるぞよ。今迄は故意とに眼を塞いで居たなれど,是からは,何も彼も激しくなりて,ビクリとも出來んやうに致すぞよ。途中で横奪するような根性のものは,此神是から許さんぞよ。誰によらず,早く改心致されよ。此の曇りた世の中を,水晶の御魂に立替へねばならぬから,餘程骨が折れるぞよ。
(引用77 おわり)————————————————

 この引用77の「神や教祖(開祖)を松魚節に致」しているのは三代教主で,「水晶の御魂に立替へねばならぬ」の対象も三代教主である。この三代教主を反面教師にできる教主の出現は期待できるのか,新たな教団の仕組みができるのか,わからない。同じ長が続けば,どんな組織であっても必ず腐敗する。

以上,2024/06/14。

8. 耀盌と聖地

 耀盌に関連する父の論文の幾つかを,フランク博士と聖ヨハネ大聖堂との関連で見ることになった。どうも聖地は聖師の魅力を発信するには必要らしいと感じられた。信者も後継の教主も,『霊界物語』の真義を理解できないから,神の世界を知らせるべく,大量の楽焼きを作って,周辺の人々に与える必要性があったということらしい。耀盌は,日本の著名な芸術家にも外国の知識人にも感動をもたらすことができる。それは聖師昇天の後,明らかになってきたことである。
 耀盌に感動しても『霊界物語』を読もうとはならないことも,自明に近いことである。『霊界物語』のバリアは余りにも高いのである。道を求める人々は多い。鈴木大拙なら誰でも簡単に理解できる。知性や高潔な思想も感じることができる。『霊界物語』はそういう人々であっても受け入れ難い。
 これまで述べてきた三代教主一派の瑞霊世界の破壊工作も,『霊界物語』のうちのいわば知識人には受け入れ難い卑近な部分を拡大継承してきたふしがある。父の「不思議だなあ」ではあるが,残念ながら,この流れに父は討ち死にしたともぼくは考えている。教団から物理的に抜け出しても,精神世界がどっぷりと教団,つまりは,聖師と二代の最愛の三代教主にどうしても引っ張られる。

8.1 山河草木酉の巻瞥見

 『霊界物語』第70巻山河草木酉の巻の第五章花鳥山くわてうざん〔一七七二〕には,大本本部の現状のなか,瑞霊信仰を遂げた人々への救いが見える。ぼくはそう解釈した。教主の桎梏しっこくから離脱しうる救いである。木庭(2010: p. 253)には,本巻の意義を引用78のように示している。

————————————————(引用78 はじめ)
 物語によれば,大本出現と日本肇国の経綸は丹後由良の秋山館において,厳瑞二柱の大神が三十五万年前の辛酉の年に着手されたと口述されている。山河草木酉の巻のトル○○マン国は日本にゆかり深い物語で,心ひそめて拝読すべきである。
 日本の国は鳥が啼く東の国であり,天照大神の使者は長鳴鳥であることを思うときに,うかうかとしては拝読できない。聖師は仏典の鶏頭城は日本国の予言であるとも示され,日本は系統を大切にする国だからと庭に鶏頭を植えて育てられ,チャボは純日本のものといわれて大そう大切にされた。(引用78 おわり)————————————————

 この引用78から緊張感が伝わってくる。天皇の家系にも救世主の出現とも絡むらしい。木庭次守は決して核の部分を語らない。「第五章花鳥山くわてうざん〔一七七二〕」には,右守スマンヂーとガーデン王の王妃千草姫がトルマン国の安寧を他の誰よりも願いつつ,殺されて,天国で再会する様子が示される。この第五章について,「スマンジーと千草姫が,第二霊国の花鳥山に天人として復活するところは,国民の指導者の昇りゆく霊界を示されている」のであるが,本節冒頭でも示したように,瑞霊信仰を遂げた人々への救いが示されているとも,捉えうるのではないかと考えるのである。

————————————————(引用79 校定版 pp. 64-65 はじめ)
 かくたがひうたつてゐるところへ、天空てんくうかがやかし、ゴウゴウとおとて、両人りやうにんまへ火弾くわだんとなつて落下らくかした。その光明くわうみやうはダイヤモンドのごとく、白金光プラチナごとくであつた。両人りやうにんはハツとおどろき、両手りやうておさその蹲踞しやがんでゐる。火光くわくわうたちまうるはしき神人しんじんくわし、こゑしづかに、
 エンゼル『スマンヂーさま千草姫ちぐさひめさまわたし第一だいいち霊国れいごくより貴方あなたをおむかへにたエンゼルで御座ございます。どうかおをあけてください』 両人りやうにんは『ハイ』と言葉ことばかへながら、しづかに両眼りやうがんひらけば、白妙しろたへころもまとひたる、威厳ゐげんそなはる神人しんじん七八しちはちしやくまへにニコニコしながつてゐる。
 エンゼル『わたし言霊別ことたまわけのみことであります。スマンヂーさま、千草姫ちぐさひめさま、貴方あなたがた現界げんかいおいて、トルマンごくため多数たすう民衆みんしうため現界げんかいける最善さいぜんつくしておいでになりました。そして貴方あなたがた両人りやうにんは、意思いし想念さうねん合致がつちした真正しんせい夫婦ふうふでありながら、所在あらゆる苦痛くつうしのび、こひてふうちつて、よくも一生いつしやうあひだしのばれました。神界しんかいおいては、とく貴女あなた善行ぜんかうしるされて御座ございますよ。サア、これから第二だいに霊国れいごく案内あんないまをしませう』
(引用79 おわり)————————————————

 生きる標として,次の引用80も示したい。

————————————————(引用80 校定版 pp. 67-68 はじめ)
『おたづねのとほり、霊国れいごくすべ宣伝使せんでんしや、国民こくみん指導者しだうしや善良ぜんりやうなるれいきたるべき永久えいきう住所すみか御座ございます。今日こんにち現実界げんじつかいおいて、宣伝使せんでんし僧侶そうりよ神官しんくわん牧師ぼくしなどは一人ひとりとして霊国れいごくのぼ資格しかくつてをりませぬ。また天国てんごくへはなほさらのぼものなく、いづれも地獄ぢごくせきをおき、地獄界ぢごくかいおい昏迷こんめい矛盾むじゆんと、射利しやり脱線だつせん暗黒あんこくとのむすんで、たがひにくけづひ、すすひ、妄動まうどうつづけてりまする。貴方あなた生前せいぜんおい宣伝使せんでんしではなかつたが、現実界げんじつかい人間にんげんとしての最善さいぜんつくされました。これえうするに表面へうめんてきかみ信仰しんかうせなくても、貴方あなたせい守護神しゆごじんはすでに天界てんかい霊国れいごく相応さうおうし、神籍しんせきをおいてゐられたのです。すべ宇宙うちう相応さうおうつてなりつてゐるものです。この第二だいに霊国れいごく花鳥山くわてうざん貴方あなたものです。貴方あなた精霊せいれい現界げんかいおいて、すでこのうるはしき霊山れいざんつくつておかれたのです。たれ遠慮ゑんりよりませぬ。永久えいきうとみさかえて夫婦ふうふなかよく神界しんかい御用ごようをおつとめなさい。左様さやうならば』
(引用80 おわり)————————————————

8.2 耀盌と聖地の関係性

 木庭・鈴木(1975: p. 20)には,耀盌と聖地の関係性について,次の引用81のような考えがある。

————————————————(引用81 木庭の発言 はじめ)
 聖師様がみずから教えられても誰もわからない。歌を作っても絵を描いてもわからない。聖地霊場をつくってみても,誰にもわからない。それどころか,事件でこわされてしまう始末です。その結果,今までなさったあらゆるものを結集し純化し美化して,結晶化されたものが耀盌ですね。教義の体得はなかなか容易に出来ません。絵を見ても審美眼がなければわかりません。ところが耀盌は手に持つことが出来ます。お茶を一服いただいて,火のご恩,水のご恩,土のご恩をしみじみと感得することが出来るのです。そういう意味で,耀盌なら万人がわかります。まったく天国の顕現かと思いますね。
(引用81 おわり)————————————————

 この引用71を『霊界物語』との関連で明瞭に示した部分を木庭(1972: p. 17)から引用82に示す。王仁三郎は高熊山の修行で救世の大使命を体得されたが発表の機会を待たなければならなかった。大正十年事件によって五年の判決を受けた直後の大正10 (1921) 年10月8日(旧9月8日)に神勅が降り,『霊界物語』の口述開始を発表される。次の引用82に続ける。多少簡潔にしている。

————————————————(引用82 はじめ)
 しかし,『霊界物語』は人々にはなかなか理解できない。それで,歌をよまれ,絵を描かれて,教を伝えようとされた。
 楽茶盌のご制作も教の表現努力の一つであった。大正十四年,京都市高台寺町に住む楽焼の名人といわれた佐々木楽吉氏が聖師さまに面会を求められた。「神経痛で手がうずいて痛くてたえられない。あらゆる医薬の手をつくしたがなおらない」と救いを求めた。聖師さまは,「あんたのところに亀の形をした石がある。その亀石の手がこわれている。亀石の霊があんたに知らせている。早くなおしてやりなさい」と教えられた。聖師さまが優れた霊能力者であると聞いて救いを求めたのであるが,自分の家にある亀石まで透見されて驚き入る佐々木氏であった。
 氏は永きにわたる手の疼痛が快癒してうれしくてたまらない。感謝の礼として楽焼造りの秘伝が佐々木氏から聖師さまに伝えられた。このことが縁となって,大正十五年ころより聖師さまの楽焼のご制作が始められることになるのである。
(引用82 おわり)————————————————

 長谷川・長谷川(1975)には,次の引用83 のナレーションとト書きがある。一部省略する。

————————————————(引用83  はじめ)
ナレーション: 一九七五年,春,彼はロンドンのビクトリア&アルバート美術館でみた耀盌の美しさを忘れることができず,耀盌をつくり出した亀岡の大本を訪ねた。
ト書き: 大本の神苑 ーー 堀,万祥殿,神殿,万祥殿前の教主,能泰安居,月宮宝座等大本神苑の静かなたたずまい。能楽の音,つくばいの音。
ナレーション: 大本との出会いは衝撃であった。ここには求めていたすべてがあった。彼は言う。
〝出口王仁三郎師を頂点とする大本の人たちは,来るべき時代の芸術創造のため,神から用意された人々であると思う。亀岡と綾部は,まさに人類に対しての精神的芸術の中府である。日本の伝統を継承するだけでなく,人類が霊体ともに向上する手本となる精神文化の中心と思う。〟
(引用83 おわり)————————————————

 昭和50 (1975) 年春は,前述の聖ヨハネ大聖堂での「出口王仁三郎とその一門の芸術展とその奉告祭」の直前である。フランク博士は大本の招きもあって,三代教主に会ってその打ち合わせをすべく,また見知らぬ大本を知るために,大本を訪れる。その際の神苑散策後の述懐をもとに,この脚本は作成されたものであろう。大本年表にはない。この年の,2月21日付で,「泰安居総完成(茶室、亀岡)」という記事がある。フランク博士の尽力はそのまま,大本年表の表現は実態とは異なるが,10月20日付「国連創立30 周年記念第5回世界精神頂上会議(TOU) 奉告祭を大本祭式により米国ニューヨークの聖ヨハネ大聖堂で執行」に繋がるのである。

 前述のように,長谷川兄弟が愛する神苑の佇まいを表現しているが,フランク博士は聖師の耀盌に惹かれて赴いた大本神苑に対しても,いわば耀盌と同様の印象を受け,それが三代教主を始め,大本人の魅力を知ることにも繋がったのだと思う。この脚本を通して,耀盌と聖地はお互いに強め合う関係性があるようである。

 表3に見えるように,このフランク博士の聖地来訪は記録されていない。出口聖子が能「羽衣」を舞ったとされる聖ヨハネ大聖堂とカンタベリー大聖堂の責任者来訪は記されているのである。この2名一行とフランク博士の招待の形の違いに三代教主の拘りが反映されているのであろう。

 このフランク博士の聖地訪問は昭和50 (1975) 年春であった。ぼくが帰郷すると必ず天恩郷を父と巡拝した。神人一致の石碑の前で父と碑文を読み上げることになるのであるが,その広場に入る通路には真新しい四大主義の石碑などがあった。品が無いと父に告げたが,父はその前で二拍手して読み上げた。これまでなら,その後,大銀杏のある御山に上がることになるが,結界さらに立札がある。父は上がらず,そこを去った。この風景も何とも味気なかった。大本年表では,四大主義の石碑は,昭和46(1971)年8月6日に設置されたことになっているので,この僕の体験は1971年のことなのであろう。そう考えてきて,フランク博士が見たのはすでに劣化した聖地であった。もうその頃,大本の聖地は形式主義で汚されてきていた。

 木庭(1971a)の「大本教義」が今,手許にある。末尾(p. 44)には,筧邦麿(青年部長)の「本書刊行のいきさつ」があって,「聖師ご生誕百年祈念特別冊子『立替え立直し』などを手にして,さらに深く大本教理について研鑽したいと希う青少年諸君のために」などとある。この頁には四大主義碑(大本三代教主筆46.8.6建立)の写真が掲載されている。
 この筧邦麿とは父の病いの際にお世話になって2日間ほど一緒に行動したことがある。その頃ぼくは博士課程の学生であって,筧に呼ばれて急遽帰郷した。分かれるころに,大本を離れたいと考えていて,行く先が決まったと教えて頂いた。昭和52(1977)年の頃であった。ぼくが知っているだけでも,父の回りの優れた人材が数人,大本を離れていった。このウェブページを書いて行く過程でわかったことであるが,その頃すでに,四大主義とは似ても似つかない教団の実態があったのである。木庭(1971a)には大本信者としての心得も記されているが,この教主で信者の心得も無いのではと思う。いま,十和田(1986)で「昭和52(1977)年の頃」を検索すると,「京太郎総長の出現と言論弾圧の強化」(pp. 203-208)にあたっている。おそらく,この京太郎総長の出現と,父の聖地巡拝が阻止された時期が符合するのではないか。配下によって暴力的に阻止された悔しさが父が最期まで持っていたバッグにあった手帳に記されている。
 聖地の教主一派による独占である。四大主義の石碑が立つ前は,亀岡市民の誰でも入山することができた。隣接するぼくの母校の亀岡高校の生徒もここでデートしたりしていた。亀岡市民の城址への出入りが自由な時代があった。大銀杏の広場からは,牛松山そして保津川が十万年以上に亘って造り上げた河岸段丘と氾濫原が広がる亀岡盆地を一望できた。そういう自由な雰囲気だからこそ,大本信者はこの聖地で,神性を感じることもできたのである。木庭・筧(1974)には聖師による聖地の設計とその魅力が語られているが,時の教主がその魅力を台無しにするのは,何とも残念なことである。

8.3 神島開きと耀盌

 神島開きと耀盌には深い関係があった。木庭(1972: pp. 20-21)に記されている。聖師だけでなく,二代,三代との関係にも注目したいと思う。

————————————————(引用84  はじめ)
 聖師さまが,ご生涯の最後に,霊的にも体的にも円熟されて楽焼を完成されたのは,みろくの世の完成ということを意味しているわけである。大正五年五月二十五日,高砂沖の神島を開かれて,坤(ひつじさる)の大神のご神霊を綾の聖地に奉迎されてから,ちょうど三十三年目に金重陶陽氏のところへ加藤義一郎氏が見え(補記: 昭和24 (1949) 年2月),この茶碗は「明日の茶碗」である,「耀盌」であると発表されたのである。二代さまは非常におよろこびになり,神島に参拝されて,
神島が ひらけて三十三年目 らくやきちゃわん 世にいでたまう
とお歌をよまれ,神島参拝ののち,金重陶陽氏宅へ巡教された。これが,耀盌における経綸の開始と考えられる。
(引用84 おわり)————————————————

 昭和24 (1949) 年 マイナス 大正5 (1916) 年 = 33年である。瑞御霊に適う年数であった。三回の神島訪問が実行され,三回目には開祖も聖師一行と同行した。その際,聖師が天の大神,みろく神であることを目撃する。その夜,開祖の筆先が発表されるのである。木庭次守用の大本年表の大正5 (1916) 年10月5日(旧9月9日)には,「神島,坤の金神鎮座祭,尉と姥の神事。『未申の金神どの,素戔嗚尊と小松林の霊が五六七神の御霊⋯⋯⋯』との筆先が出る」とある。
 引用84に続いて,引用85が続く。一部表現を修正している。

————————————————(引用85  はじめ)
 聖師さまは昭和十七年八月未決出所後に,「子供たちに今まで何もやっていないから」と(中略)茶盌も窯出しのたびにさずけられた。三代さまには最もお気に入りのものを,日向良弘氏に托して,竹田の三代さまへと届けられたのである。
 三代さまは,竹田をたずねた金重氏に『あなたの好きなものをあげましょう』とご自身所蔵の聖師手造り茶盌の全部を見せられると,金重氏は,「天国廿八(聖師命名,補記: てんごくはたや)」に惹かれて,「これをいただきます」と申し上げますと,三代さまは「私のいちばん好きな茶盌です」と話されながら,金重氏に渡された。
 最も聖師お気に入りの茶盌,三代教主のもっとも愛された茶盌を,いさぎよく金重氏にさずけられた。「天国廿八」が加藤氏の目にとまったことは,実に奇しき糸につながれているということができる。これが,耀盌顕現の大きな糸口となったわけである。
(引用85 おわり)————————————————

 大本信者であった金重陶陽がわざわざ竹田に訪ねたのであるから,氏自身が自作のなかでも気に入っている備前焼の作品を持参したことであろう。三代は陶陽持参の備前焼を気に入ったからこそ,『あなたの好きなものをあげましょう』と言ったのである。そして,陶陽も遠慮なく,自分が最も気に入った聖師作の茶盌を受けとったのである。なお,併せて,御遊ぎょゆうも受けとっているので,持参した備前焼きは計2個であろう(補記: 後に三代教主も黒楽茶盌「遊」を作成している)。

 前述の引用76には,
出口昭弘(『楽らく多収稲作革命』の著者): 物を見る目はなかったね。古い奉仕者はよく知っているが,耀琓についてもボロクソ言われていたね。
窪田: 恥ずかしいとまでいわれていたね。
とあって,名工陶陽に所望されて初めて,聖師の茶盌の魅力に気付いたと考えても問題はないだろう。気付いていないからこそ,『あなたの好きなものをあげましょう』と言えたのだろう。それが「天国廿八」が陶陽の手に渡り,たまたま陶陽宅に訪問した加藤の目に留まることになる。三代は,聖師の仕組み,神業を輔佐,つまり,大本教主の使命を果たしたのである。残念ながら木庭次守用の年表はこの時代をカバーしていないが,陶陽が三代を訪ねたのは,次の記録から,昭和24 (1949) 年2月よりも前となる。

 ちなみに,三代が竹田に移ったのは昭和18 (1943) 年6月17日。陶陽が,国から備前焼無形文化財記録保持者(いわゆる人間国宝)になるのは,昭和27 (1952) 年である。

 加藤義一郎に係わる日程を次に示す。(飯塚の耀盌サイトから。一部修正)

昭和24 (1949) 年2月 加藤義一郎(工芸美術の評論家、日本美術工芸社主幹)は,金重陶陽を訪ねて,陶陽不在で弟の七郎と語る。聖師の楽焼茶碗「天国廿八はたや」,「御遊ぎょゆう」に出会う。

昭和24 (1949) 年3月, 8月 加藤は『日本美術工芸』3月号で「耀盌顕現」という記事を書き,「耀盌」と命名。8月号(通巻130号, pp. 23-28)では「耀盌〝天国廿八─出口王仁師手造茶盌〟」と題する論評を発表。
国会図書館デジタルコレクション

昭和24 (1949) 年8月〜10月 耀盌特別鑑賞展(8月 大阪阪急百貨店,9月 京都市立美術館別館,10月 東京博物館応挙館(大本年表)

 なお,二代教主とパリ展延いては大本海外作品展,聖ヨハネ大聖堂での合同礼拝の展開の糸口に係わる部分を次の引用86に。

————————————————(引用86  はじめ)
 二代さまは,天恩郷を昭和25年頃に訪れたフランスの美術館長に,聖師の耀盌を贈られている。その耀盌がタネとなって大きな神業がおこされたと拝察することができ,出口京太郎斎司その他の人達の努力によって,このたびのパリ展覧会(補記:昭和47 (1972) 年)となったのである。
(引用86 おわり)————————————————

 パリ市立アジア芸術チェルヌスキ美術館での展覧会は,すでに二代教主,三代教主によって準備されていたというのである。

8.4 新ウラナイ教による姑息極まる聖地破壊

 Aug. 6〜8, 2024追記: 久しぶりのタニハ屋内の掃除中に10册ほどの『愛善世界』が段ボール箱の上に無造作に置かれているのを見つけて,3册持ち帰った。平成4 (1992) 年3月号の末尾には,愛善世界編集部(1992)「大本神の斎場ゆにわを破壊する暴挙」とする現場調査記事があった。これまで,三代教主による「第三次大本事件」という表現に違和感があったが,この記事はそう断じざるを得ないとも考える契機になった。

 かつて第一次,第二次大本事件で官憲によって実行された聖地破壊に類する蛮行が,三代教主が立ち上げた新ウラナイ教によって実行されたのである。開祖,聖師,二代によって積み上げられた聖地のうち,財宝を除く,聖地の象徴的部分が破壊された。開祖,聖師,二代によって積み上げられた聖地や建物などの財宝についてはそのまま取得し,象徴的部分だけ破壊したのである。聖師,二代を嫌うのであれば,新ウラナイ教は聖地を明け渡して出て行けばいいのであるが,財宝は取得して,象徴的部分だけを破壊する。新ウラナイ教の本質と限界が見える。

 この蛮行そのものの継続期間は長くはないとは考える。この種の象徴的部分の破壊は短期で終了したことだろう。やっていて,罰当たりにも,馬鹿らしくもなったのではないか。偽四代出口聖子が去ったのは2001年4月29日であるから,偽五代の時代には及んでいないだろうと思うが,現新ウラナイ教がしでかしたこと,この蛮行はもう取り返しがつかないことだけは,偽五代は教主を受け継いだ自らの責任でもあると自覚すべきである。

 さて,破壊現場はかなり象徴的に思える。以下,この愛善世界編集部(1992)の一部を抜粋したい。便宜的観点から,主旨は変えることなく,表現を替えているのでご理解頂きたい。なお,報告には事件の日付が記されているが年次がない。この雑誌発行年月日は1992年3月1日なので年次の無い月日は平成4 (1992) 年に属するものと考えた。この本文には「本年開教百年」とある。大本七十年史編纂会(1964: p. 83)によれば,「明治25 (1892) 年旧正月元旦の霊夢にひきつづいてはじまった出口なおの帰神をもってその開教とし」ている。大本では旧暦優先で計算するので,旧暦明治25 (1892) 年正月元旦から開教百周年記念日は,旧暦平成4年正月元旦であり,これは新暦では平成4 (1992) 年2月4日にあたる。なお,「本年開教百年」という表現は敢えて百周年を避ける工夫なのだろうか。百周年が意味するのは百周年記念日のことで,新暦で1992年2月4日の一日だけを指す。「本年開教百年」は旧暦1991年正月2日〜1992年正月1日,これを新暦でみると,1991年2月15日〜1992年2月4日つまり,100年目ということなのか。どうも百周年記念日を含む新暦年次のように思えるが。もしそうなら,そういう用法は本来この世にたぶんない。

 この1992年の報告が出されている時点で,新ウラナイ教によって,複数の聖地で,多数の(一千本に達する)樹木が伐採されているという。その数例を次に紹介したい。

 本宮山は綾部市域にある大本の聖地「梅松苑ばいしょうえん」を構成する丘陵である。その頂上付近に大本の至聖所の一つ月山不二つきやまのふじが鎮座している。木庭(2010b: , p. 356 富士山を造る「月山不二」)によれば,昭和21 (1946) 年6月4日(旧5月5日)に聖師と二代教主によって「主神」の神霊遷座際が挙行されている。

————————————————(引用??  はじめ)
 現在の本宮山ほんぐうやまにあって,開祖さまが愛でられ,聖師さまが慈しまれてきた樹木たちは,無惨に切り捨てられ累々たる屍を曝しており,参拝者の心をざわつかせている。
 聖師さまが事件後はじめて本宮山に登られた昭和20 (1945) 年秋,弾圧の嵐を乗り越えて大木と育った松に出会って,嬉しそうに抱きかかえながら,「大きうなった,大きうなった。」と喜ばれた。そして,本宮山そばの山水荘に戻って二代さまに,「なあ,お澄,破壊された本宮山をみて腹は立ったが,木が大きうなっとったでよ。気を大きく持たんとあかんな。気を大きく持たんと」と,大本再建の思いを語られた。
 本宮山への一般参拝が禁制となった(平成4 (1992) 年)2月3日の節分大祭以後,破壊の手は大本信仰の至聖所,月山不二のご神木にまで及んだ。月山不二の頂上に生える神籬松ひもろぎのまつ(みろく松)は,二月十四日に掘り起こされ,周囲の生垣の外の参道沿いの空き地に移植されていたのである。
 この「みろく松」に係わる二代さまのお話し(「神業を阻む人間心」『愛善苑』誌 昭和26年12月号)を次に。
——(第二次大本事件の未決収監中の)ある晩の夢に,大きな松の木が根元からられて,その切り口から松の葉がシュッシュッシュッとえらい勢いで出て来て,みるみるうちに立派な松の枝になった夢をみました。それで私は「松の大本は倒れても又芽が出る,事件は必ず解決する」と信じていました。
 その頃,綾部でも同じような出来事があったのです。みろく殿の東側に植えてあった「みろく松」が事件で根元から伐られた切り口から芽を吹き出した。松の切り口から芽が出るということは不思議なことで,女学校(補記: 京都府立綾部高等女学校)の植物の先生もこれを見て,「大本がこれから栄える前兆だ」と言われ,町でも評判になり大勢見に来たりしたので,警察がこれはどうもならんというて今度は根元から掘り起こした。このみろく松をむかし献木された宇治の石田さんが,綾部に行かれて,掘り起こされた松のそばに生えていた実生みしょうの松を持ち帰って,自分の家で引き続き大切に育てていた。
 その後,聖師さまが農園に帰られると,石田さんは聖師さまの依頼に応じてそれを農園の庭に移し替えました。この因縁のみろく松を綾部の一番良い所へ植えるべく汽車で運ぶ途中,立木と山家の間で汽車が故障して停まってしまった。綾部では待っても待っても松がこない。三時間余り遅れて夜遅く着きましたが,私から見ると悪霊がみろくの松の世の来るのを嫌って邪魔したのです。(さて,)それを富士の御山に植えますとあのように立派な松になりました。(補記:月山不二のみろく松) 昔未決で見たのはあの松やなあ,といつも懐かしく思っています。
(引用?? おわり)————————————————

 ぼくは,二代の語ったみろく松のエピソードを全く知らなかった。みろく松はアカマツだが,他の針葉樹と違って,マツの主根は障害物が無ければ,鉛直方向に真っ直ぐに伸びて行く。地中の隙間に沿っても重力を知りつつ下方に進む。それゆえに,仙台東北方の内湾,日本三景の一つ「松島」のように,松島湾内に点綴てんてつする小岩島上に育つことができる。樹木ではアカマツだけが,降雨で湿った岩内の少量の水を吸って生き続けることができるのである。他の樹木の侵入を許さない過酷な生息環境故に,アカマツの単一樹木相が継続できるのである。
 タニハ館のもともとの敷地は猫の額のような数段の棚田で農業にも宅地などにも有効な利用が難しい場であった。そこに山の採石場から出た岩片だけで埋め立てたために土壌は存在せず,まずはススキ野になって,その後,アカマツ林となった。いわゆる一次遷移である。父は地表の植生を放置するのを最善としていたが,タニハの主が居なくなると,急激にアカマツ林は枯れ始めた。ぼくのかつての学生であり高槻森林組合そして林野庁の職員となった野田にお願いして,高さ20mほどの数十本のを皆伐してもらうことになった。その後もかつてのアカマツ林とは離れた所で,実生のアカマツが生えてきたが何れも伐ってしまうと全くヒコバエは発生せず,根茎すべてが枯死そして土に還る。アカマツの伐採跡地には実生みしょうのアカマツも何故か生えない。切り株からヒコバエが生えることもない。ずっと観察してきたことである。
 上掲の二代の語ったみろく殿東側に植えられていた「みろく松」が伐られた切り株からヒコバエが出た現象は全くの奇跡と考えて良い。根こそぎ破壊された「みろく松」のそばから石田が「実生の松」を採取した様子が語られているが,タニハのぼくの経験からすると「みろく松」由来の「実生の松」というのは考えにくい。この「実生の松」がもし,「みろく松」由来だとすると,それも奇跡に近いのではないかと想像している。
 愛善世界編集部(1992)の当該引用部の蛮行の記載部分をそのまま引用すると,次のようになっている。「その頂上のみろく松が二月十四日に掘り起こされ,月山不二の生け垣の外に,しかも参道沿いの平地に下ろされるという,信仰的にみて大事件が起こってしまったのです」(付録p. 5)。上掲の引用の文脈からすると,根こそぎ除去され,参道そばに捨てられたとぼくは解釈してしまった。ところが付録p. 9には,「月山不二の頂上から参道わきの平地に下ろされたひもろぎ松」という現場写真が掲載されており,この写真から,月山不二周辺のアカマツ林にさりげなく移植されていることが理解できたのである。その理解を反映させるべく上掲の引用文を変更したのである。
 ここで見られる移植は,作業者の善意というより,新ウラナイ教の隠蔽工作と言えるが,「みろくの松」が残ったことは不幸中の幸いであった。ただ,成長したアカマツの移植はなかなか難しい。2024年夏現在,すでに枯死しているかもしれない。みろく松が生き残っておれば,愛善世界編集部(1992)執筆者による記録写真は,六十年後の新大本再建の重要な史料となるだろう。この「みろくの松」は,昭和10 (1935) 年には実生みしょうの松であったが,昭和21 (1946) 年には,月山不二に移植されて,平成4 (1992) 年にさらに移植されたことになる。実生から57年後である。さらに新大本誕生時は,57 + 60 = 117年後となる。年輪は120年ぐらいになっているだろう。

 上掲引用文の「本宮山への一般参拝が禁制となった(平成4 (1992) 年)2月3日の節分大祭」という件であるが,これは,上述のぼくが父と共に昭和46 (1971) 年に体験した天恩郷の天守閣跡域への「一般? 参拝禁制」を彷彿とさせた。三代教主(没年月日: 平成2 (1990) 年9月23日)存命中からの同じ流れである。
 ぼくはこの記事に接するまでは,「聖域の一般参拝禁制」は,三代教主の「宗教の存在意義を否定する偏執性」ゆえ,と考えていた。それもあるだろうが,新ウラナイ教からするとより直接的な目的があった。追放した開祖の再来四代教主と大八洲彦命後継和明の家筋とその所属信者の参拝排除,さらには,瑞霊聖師の教えの放逐であった。後者については,これまで述べてきたところであり,その流れの中にこの象徴的聖域破壊がある。

 さて,この愛善世界編集部(1992)の斎場破壊の記事をさらに引用したい。天恩郷での蛮行の一つである。

————————————————(引用??  はじめ)
 一方,霊国の型の天恩郷のご神木の大銀杏も,そうとうに枝を切り落とされ,その切り口が痛々しい跡を留めています。さかのぼる昭和四 (1929) 年十一月,当時の神苑では次々と普請ふしんが続き,春陽亭の建設の際,業者がこの大銀杏の枝を伐ろうとしたことがありました。そのとき,大銀杏の精霊である糸織姫が東京出張中の聖師さまに助けを求めたので,聖師さまは東京から「(大銀杏の) 枝を切るな」と電報されたことがありました。その数年前には,ある役者さんが悪戯で大銀杏の幹に釘を打ったり不浄行為をして禍がその身に及んだことが,『神の国』誌に掲載されています。
 神苑の樹木には,沢山の神々が宿っておられます。また,一木一草に至るまで深い意味が込められているのです。
 ところが,聖子さんは『おほもと』誌(平成四年一月号)で,「専門の方は,神苑の樹木の数は,現在の三十パーセントくらいが適正だという見方をされますね。私は将来にわたってより良い神苑となるように,常識的な範囲での整理をさせていただいているつもりです」と,あまた批判の声も聞こえるのか,弁明している。これ以上まだ伐り続けるつもりなのでしょうか。神苑は,庭園や公演と根本的に異なることを知るべきでしょう。
(引用?? おわり)————————————————

 なお,春陽亭については,大本七十年史編纂会 (1967: p. 76) に,「一九三〇(昭和五)年四月一日には城址(補記:城址はなく天守閣跡)の大銀杏のもとに,春陽亭・秋月亭ができあがり,眺望がとくにすぐれていたので,主として賓客用にあてられた」とある。

 大銀杏の「剪定」には驚かざるを得ない。樹木ドクターや庭師の考えには問題があるとぼくは思っている。人間が触ることで自然界の規律が破壊される。太く長い横枝が木の負担になるからと切ってしまったり,支え棒を置いたりする。これは樹木ドクターや庭師の生きてきた時間よりも10倍以上生きてきた樹木が培ってきた歴史を破壊するものである。大樹や古木については,一〇〇年生きるのがやっとの人間は触ってはならないものである。
 稚拙な聖子の言動は,幾つか嘲笑の対象として十和田(1986)にも紹介されているが,驚くべきものである。しかし,これは大黒主の手口のように思われる。神苑の意図的破壊を稚拙な管理体制に帰する企みである。大銀杏の剪定は決して庭師の観点ではなく,大黒主の破壊工作である。もう大銀杏には糸織姫は懸かっておられないのでは?

 天恩郷を父と歩いていて,このお堀は聖師が此処掘れと言われて出て来たものだとか,石垣を修復する上で必要となった巨石の位置を,聖師が指定されて,掘ったら出て来たとかという話を聞いている。ぼくが高校時代までは,亀岡高校との間の通りの天恩郷側には,茶畝やアオギリ並木が続いていた。いまどうなっているかはわからない。天恩郷内の生垣はアラカシまたはアカマツであった。
 タニハの北側と東側と西側の生垣は,アラカシになっている。何故アラカシなのかと疑問が長くあった。NHKで茶道裏千家の紹介があり家元15代汎叟宗室の千玄室(千政興)さんの自宅(京都府京都市上京区)の「今日庵」が写って驚いた。高低二段のアラカシ垣で高さや密度を切りそろえるような剪定は施されていない。放置に近いタニハの生垣に似ていた。おそらくこのアラカシの生垣は結界の役目を果たしているのではないか。最近,NHKBSテレビで桂離宮の庭の管理法が紹介されているのを見たが,生垣などアラカシが主であった。
 ぼくはかつて茨木市史の自然編を担当した。地形学が専門なので地形分類図作成が最も得意なのであるが,自然に関する種々の主題図を作成した。そのなかに植生図(木庭元晴,2012a)もある。花粉分析結果をまとめると(木庭元晴,2012b),関東地方以西の低地部分はいわゆる照葉樹林帯で本来,現在の気候では落葉樹林は形成されない。しかし里山ではクヌギやクリなどの落葉樹林が広く分布してきたのである。これは氷河時代からの植生を人々が維持してきた結果である。完全放置すれば,谷筋のカエデやケヤキ,山陵部のアカマツ林を除いて,カシ類などの照葉樹林になってしまう。いま,日本の伝統的農業は衰退し里山も崩壊の危機に瀕している。山林が放置されると落葉樹は枯れ果て,照葉樹林と竹林に変容してゆく。現在それがかなり進んだ状態である。そして,アラカシがもの凄い勢いで道路などに面して卓越している。アラカシは太陽光が大好きで山林の縁辺で栄えているのである。
 後氷期になって,そういうアラカシの森林縁辺での勢いから,魔除け的なパワーを新石器人は感じ取ったのだろうと思うのである。それが,聖師が大本神苑の生垣としてアラカシを選んだ理由と考えるようになった。神苑内にはアカマツの生垣も多かった。現状は知らないが。父がアカマツの生垣について植える前に主根を切ると,このように高さが制限されて生垣に適するとぼくに伝えたのである。種々の生物学的研究を参照すると,アカマツの主根は伐っても生命力を失わないようだ。タニハの経験からすると側方に伸びる側根を傷付けると枯死してしまう。ただ,アカマツの生垣もアラカシ同様,成長点(松の場合はミドリと呼ぶ)を除去し続けなければならない。
 ふと思いついたことであるが,現在の神苑内の樹木管理はどうなっているのだろうか。以前は神苑内の樹木は元気が良かったように思う。伝統は受け継がれているのだろうか。「大枝まで切り落とされた大銀杏のご神木(天恩郷)」と題する写真(付録p. 10)が掲載されているが,かなり痛ましいことになっている。父と歩いた時の大銀杏の太い枝が幹を中心に地上近く横に伸びて腰を屈めて通った記憶がある。実の稔る時期には父は嬉しそうに何粒か拾って封筒に入れていた。

 ぼくも,もちろん読者も食傷気味ではあろうが,他の聖地についての記事もこの文脈では無視できない。「伐採の嵐は全国各地に」と「ご神意のもとに」の章も最後に取り上げておきたい。

————————————————(引用??  はじめ)
 神苑破壊の魔の手は,瑞泉苑,沓島冠島遙拝所の国見山,奄美群島喜界島の宮原山,と全国に及んでいる。
沓島冠島くつじまかむりじまは艮の金神国常立尊の御神霊の御隠退場所です。昭和二十一 (1946) 年四月三日には,聖師さまと二代さまお揃いで舞鶴の大丹生おおにゅう屋に到着され,遙拝祭典が執行されました。その祭典の場所を国見山と命名されています。そこから数えて三十年を記念して,出口栄二先生筆の遙拝所碑がその国見山に建立されました。しかしその十年後の昭和六十一 (1986) 年六月頃,何者かの手により無惨にも粉々に破壊されました。
 喜界島の宮原山は,坤の金神豊雲野尊の御隠退地です。宮原山の中央に天然の大きな神籬松ひもろぎのまつがあり,聖師さまのこの松を讃えた,宮原の山にそびゆる金字の松は姫金神の瑞のおん傘,というお歌がある。
 しかし,その松は昭和三十 (1955) 年四月には枯れてしまいました。たまたまその月の二十八日に渡島,参拝された出口栄二先生が枯れた金字の松のあとを継ぐように,実生の小松を植樹されました。その松はすくすくと大きく育っていましたが,最近になって大本本部による伐採の指令が現地に届き,無惨にもことごとく伐り倒されました。(中略)

 以上,梅松苑,天王平,天恩郷,瑞泉苑,国見山,宮原山など,数多くの樹木が薙ぎ倒され,あとにはツバキやススキなど,大本の教えとは縁遠い草木が植えられるありさまである。これは『霊界物語』第五十一巻第一七章「たぬき相撲ずまう」〔一三三二〕に類似し,現教団の今日の状況を示しているものかも知れない。(後略)
(引用?? おわり)————————————————

 ちなみに,宮原山の歌碑の歌は,「世をおもふ心のふねに棹さして宮原山にはるばるわが来つ」である。ここで取り上げられた聖地蹂躙の場所のうち,梅松苑,天王平,天恩郷,瑞泉苑,宮原山は,聖師および二代の縁の場である。沓島冠島は開祖縁の場であるが,遙拝所の国見山は聖師と二代に係わるものである。出口栄二に係わるものは宮原山と国見山になっている。つまり全て瑞霊聖師との繋がりに係わる蛮行であった。みろく神が聖師であることが明らかになった神島でも大本所有の敷地があるのであれば蛮行があった可能性があると危惧するところではある。
 少し気になったことがある。聖師は男性は聖師以外は揮毫してはいけないという教示があったように思う。日出麿はその注意を無視した。栄二も無視している。四代教主直美が揮毫すべきであったと思う。
 別途,豊雲野尊の隠退先であった宮原山と対をなす艮の金神の隠退先である北海道の芦別山あしわけやまに係わる歌碑(現北海本苑に設置)については破壊工作は無いのではないかと思っている。聖師によって,昭和3 (1928) 年,北海別院(芦別山麓の山部村 (現 富良野市山部))が設置され,昭和7 (1932) 年には,別院内に,神生歌碑(5月23日)が建立され,9月5日には三代教主夫妻臨席で除幕式が挙行されている。「芦別の山はかなしも勇ましも神代ながらの装ひにして」,この歌は聖師に艮の金神が懸かって生まれたものとされ,神生歌碑という。木庭(2010: pp. 179-180)の「芦別山から四王の峯に」には,「聖師は昭和三年八月二十六 日旧七月十二日の誕生日を北海道で迎えられ,芦別山あしわけやまに引退したまいし国常立尊の神霊を四王山に奉迎された。(この四王山は,)四尾山よつおやま世継王山よつおうざんとも称する。」とある。
 ちなみに,宮原山の歌碑は日出麿臨席で除幕式が挙行されてはいるが,栄二植樹ゆえに破壊されたのであろう。上掲の引用文中に「大本本部による伐採の指令が現地に届き,無惨にもことごとく伐り倒されました」,とあるが,喜界島の信者によるものでは無いであろう。その行為で喜界島の聖地を自ら破壊することになり同島の信者が黙ってはいない筈だ。「指令が現地に届」いたのは奄美大島ではないかと思われる。ただ,(奄美)大島と喜界島は地元では古くから夫婦島と考えられていて,奄美大島の信者にもこの破壊行為の影響は及ぶと考えた方がいい。

 「1.2.2 転覆工作の失敗」で述べたように,三代教主夫妻の逃亡先が北海別院である。聖師はこの事件を隠すべく,「昭和7 (1932)年9月5日 三代教主夫妻臨席のもと北海別院の聖師歌碑「神生碑」除幕式」を急遽用意している。そしてこれに併せて,「同年12月19日 日出麿,聖師名代として,喜界島宮原山の『神声歌碑』除幕式に臨席」,となるのである。三代教主夫妻の逃亡事件がなかったら,「北海道芦別山の『神生歌碑』」と「喜界島宮原山の『神声歌碑」は無かったのかも知れない。なお,木庭(2010b: p. 370)の,〇天恩郷(昭和二十一年七月初め)には,(天恩郷再建のために)王仁は死んでも天恩郷に行く,とある。

 愛善世界編集部(1992)では,大本の現状を,『霊界物語』真善美愛第五十一巻(寅の巻)第一七章「たぬき相撲ずまう」〔一三三二〕と係わって読み解いているが,ぼくは違うように感じる。木庭(2010: p. 148)の梗概では,「この巻は,世界の暗黒史をそのままに描写されている感がある。悪魔にみ入られた指導者たちの実に悪らつな手段が風刺されている」,とある。この物語のストーリーとしては,小北山の聖場の教主松姫は素戔嗚尊=月の大神に守られて高姫と妖玄坊の企みから脱しているのである。この『霊界物語』には多義性があり,次のようにも捉えることができる。

 いまだこの寅の巻の神意をぼくは理解していない。木庭(2010: p. 251)には,この巻の特徴の一つとして,「三五教の霊場小北山を奪わんとする高姫と妖玄坊をスマートの出現と松姫の信仰に月の大神の神威の発現して追い祓われる。」を挙げている。卑近なところでは,どうも霊場小北山は,四代教主出口直美の愛善荘を指しているようである。教主松姫が誰になるかはわからないが早ければ出口春日ではないかとぼくは見ている。この寅の巻の記述は今後の予言である。魔の手が執拗に聖師信仰の砦にも及ぶのである。高姫はその時の新ウラナイ教の教主に対応し,ハルナの都の八岐大蛇の片腕である妖玄坊共は継続的に高姫をけしかける。愛善荘の教主の聖師信仰が問われるところである。出口栄二または後の教主補は『霊界物語』では端役のようである。

9. ミロク三会

追記 Aug. 21〜26, 2024: 塩津(2008b: p. 52)には,「昭和三年の『みろく下生宣言』」という記述がある。これはかなりの数の信者に共有されているものかも知れない。父愛用の大本年表をみた。「昭和三戊辰 (1928) 年3月3日(旧2月12日)みろく大祭。聖師,満五十六歳七カ月。教主をのぞく,聖師をはじめ全役職員無役となる」,とあるが,みろく下生とは書かれていない。弥勒下生は聖師五十二歳の旧暦誕生日,大正12年旧7月12日(新8月23日)である。公館内こうくわんないおい神示しんじしたためられた通りである。塩津の誤解を契機に,大本のミロク三会について,確認することにした。

9.1 木庭次守のミロク三会の解釈

 木庭(1969)「弥勒神について」の端書はしがきにあたる部分とその表の一部を次に引用する。読者の理解に供すべく,説明やルビを追加し,和歌の場合は句間の空白などを挿入している。

———————————————— 引用〜「弥勒神について」の端書はしが
 大本開祖の筆先には,仏者ぶっしゃの弥勒の世は「みろのおほかみのよ」とされ,「みろ九のおほかみのよになる」と繰り返し書かれています。従って,霊界物語だけでなく,大本神諭にあっても,弥勒の神世の内容の説明につきているともいえます。
 ミロクの神世の本尊にましますミロクの大神の意義を説明する(=広く世に知らしめる)ことは,大本(教団)の中心的な使命であります。
 私は大本の神書を基本として,大本の全文献の上から,この神の神名,神格,神業を明らかにするために,文献から抽出して表をこしらえて見ましたが,この表の上からだけでもミロクの神の活動の広大無辺であることを拝察することができます。
 後日に全文献を順序よく整理してミロクの神の神徳と経綸を大本文献の上から明らかにさせて頂きたいと存じます。
引用〜おわり ————————————————

 この端書きのあとに,表が記されている。この表の「四,ミロクの時期 (2) 霊界物語」のすべてを次に。

———————————————— 引用〜四,ミロクの時期 (2) 霊界物語
三千年みちとせに 一度実ひとたびみのる もも西王母せいおうぼ
大化物おおばけものが 五十六才 七ヵ月 の暁
○五六七の歳月
 五十六億 七千万の 年を経て 弥勒胎蔵 経 (梵 sūtra) を説くなり
 昭和三年辰年は此世始まってから,五十六億七千万年に相当する年
  万代よろずよの 常夜とこよの闇も あけはなれ 弥勒三会みろくさんゑの 暁清し(昭和三年三月三日)
○聖師が五十六才七ヵ月で神業の準備をなし六十六歳七ヵ月で経綸完成。
○七十二 齢重よわひかさねて現世うつしよの 救ひの主と 仰がれゆかむ
○これやこの 世界にほまれ 寅の年 吾八十年の 初秋の空に
 丈夫ますらをの 八十やその年ふる 中秋ちゅうしゅうに 世界樹せかいじゅの花の 盛りをや見む
○三十年の神業
 法身みろく 明治二十五 年から三十年 〔大正十一年〕
 応身みろく 明治三十一年から三十年〔昭和三年〕
○奉仕者の身魂の研不研で伸縮遅速
 のびちぢみ 心の舟の ままぞかし 神の経綸しぐみは 人にありせば
○報身みろく
 昭和二十七年から
引用〜おわり ————————————————

 この引用文は大本の教えの根幹をなす部分である。この「引用〜四,ミロクの時期 (2) 霊界物語」には,木庭次守そして父が信頼していた先達の間で「聖師の思いと捉えられていた世界」が反映されているとぼくは考えている。

 三身さんしん説にかかわって,木庭(1969)から引用した次の項目を次に再掲する。

○三十年の神業
 法身ほっしんみろく 明治二十五年から三十年 〔大正十一年〕
 応身おうじんみろく 明治三十一年から三十年〔昭和三年〕
○奉仕者の身魂の研不研で伸縮遅速
 のびちぢみ 心の舟の ままぞかし 神の経綸しぐみは 人にありせば
報身ほうしんみろく
 昭和二十七年から

 法身みろくの期間は,明治二十五 (1892) 年から三十年 〔大正十一 (1922) 年〕になっている。明治二十五年は開祖による開教年である。開祖は大正七 (1918) 年十一月六日(旧十月三日)に昇天している。父座右の大本年表を見ると,大正十一 (1922) 年一月二十八日(旧正月元旦)には,「六合拝りくごうはい,開祖帰神後満三十年,教祖殿にて神言奏上」とあり,更に,同年十一月二十一日(旧十月三日)「開祖五年祭」とある。以上が「法身みろく」の満三十年の区切りを示すものである。開祖五年祭とあるので,旧暦で計算すると,1922年旧10月3日 – 1918年旧10月3日 = 4であり,昇天の日を1年祭として,数えで計算されているようである。「開祖帰神後満三十年」ともあり,満と数えが併用されている。
 なお,六合拝については,うしとら金神こんじん大国常立之尊おほくにとこたちのみこと筆先ふでさきるぞよ,として,瑞の御霊によって発表された神諭に,[「神諭日付: 大正八年一月一日 きう大正たいせう七年十一月二十九日」 きう正月せうがつ元日ぐわんじつ六合拝りくごうはいいたすのであるぞよ。六合拝りくごうはいもうすのはてんとの祖神をやがみはじめ、東西南北とうざいなんぼく神々かみがみ礼拝れいはいし、上御一人いきがみさま御礼おれい申上もうしあげる神事かみごとであるぞよ ],とある。

 ここで注意したいのは大本では開教(記念)日を毎年節分にしている点である。父座右の大本年表では,明治二十五 (1892) 年新二月三日(旧一月五日)「開祖,帰神状態となる」,とあるが,この日を開教日としているのである。ここでいう節分は,二十四節気の立春の前日を言う。ところが王仁三郎は旧の正月元旦を重視しているのである。前掲の [大正十一 (1922) 年一月二十八日(旧正月元旦)には,「六合拝りくごうはい,開祖帰神後満三十年,教祖殿にて神言奏上」] から見ると,聖師にとっては,明治二十五年新一月三十日(旧正月元旦)「なお,霊夢をみる(以後,なおを開祖と表記)」を重視しているのである。節分は暦での日が一定していないし中国渡来の雑気である。
 今気づいたのであるが,大本の年間最大の祭りは節分大祭であるが,これは変性男子系統の祭りに属し,夏の瑞生大祭は変性女子系統の祭りに属しているんだなあ。前者は開祖の神懸かり祭=開教祭,後者は聖師の生誕祭である。

 応身みろくの期間は,明治三十一 (1898) 年から三十年〔昭和三 (1928) 年〕となっている。明治三十一年三月一日(旧二月九日)から,「喜三郎,高熊山一週間の修行」をもって,応身みろくの期間の開始としているのである。三十年後の昭和三 (1928) 年三月三日(旧二月十二日)には,「みろく大祭。聖師,満五十六歳七カ月」とある。上田喜三郎の誕生日は,明治四 (1871) 年八月二十七日 (旧七月十二日)である。旧暦で計算すると,まさしく,満五十六歳七カ月になる。
 応身みろくの期間は,旧暦では1928年旧2月12日 ー 1898年旧2月9日 = 30年と3日である。旧暦で聖師生誕後56年7ヵ月はキッカリであるが,高熊山修行開始日からすると3日のズレがある。仏教の春秋の彼岸七日間のまんなかの日は「彼岸の中日」として一週間を代表する日であり,それを援用すると旧二月十二日は一週間の高熊山修行全体を代表する日とすることもできる。高熊山の一週間の修行を中日で代表すると,応身みろくの期間はキッカリ三十年となるのである。

「引用〜四,ミロクの時期 (2) 霊界物語」の次の項目を再掲する。
○聖師が五十六才七ヵ月で神業の準備をなし六十六歳七ヵ月で経綸完成。

 この引用文は,聖師が応身みろくの期間,神業の準備をなし,その後10年間で経綸が完成されると宣言している。経綸完成の活動が昭和三年から昭和十三年の十年間なのである。これは,みろく神の神業として最も中心的な期間であり,法身ー応身ー報身の連鎖から排除できるものではない。当然,昭和三年から「報身みろく」の活動になる。そして満三十年だから,昭和33 (1958) 年まで継続する筈であった。聖師の高熊山修行から30年が昭和3(1928) 年,さらに30年だと昭和33 (1958) 年,これは聖師87歳に当たる。聖師は76歳で昇天されている。

 「引用〜四,ミロクの時期 (2) 霊界物語」の次の項目を再掲する。
○これやこの 世界にほまれ 寅の年 吾八十年の 初秋の空に
 丈夫ますらをの 八十やその年ふる 中秋ちゅうしゅうに 世界樹せかいじゅの花の 盛りをや見む

 この御歌からすると八十歳までは昇天される筈ではなかったようである。自らの昇天の予言は当たらなかった。聖師であっても自らの実質的寿命を知ることはできなかった。ぼくが大学生時代父に,聖師は何故早く昇天されてしまったのか,を尋ねたことがあった。苦労されたからなあ,という返事であった。

 これに関連して,大國ほか(1955)「救世主問題を語る」の大國の発言は興味深い。
———————————————— 引用〜大國の発言p. 51
 聖師様が亡くなられるという問題はね,大正十四年でしたか,聖師様と一緒にいた時にね,「ワシが死んだらな,そのときはこう云うような葬式をしてくれェ」と,それから又ね,「おすみも頼むぞ」とこう言われたんだ。その時,私は身体が弱いからとてもそんなにまで生きられんと思うから,「そら私に頼まれてもあきまへんで」と,僕は云うたよ。あの時,僕は非常に心理的動揺を起こしたんだ。亡くなられた後にーーーあゝ,あんなことがあったなあーーーと思い出したんですよ。もうチャンとその頃すでに言うとられた。しかし,救世主が亡くなっちゃって,どないなるんじゃろと思ったね。
引用〜おわり ————————————————

 二代の早逝を知っておられた。

 王仁三郎の昇天は,昭和23 (1948) 年1月19日(旧暦1947年12月09日)である。高熊山修行の修行開始からすると,旧暦1947.12.09 – 1898.2.9 = 49年10カ月,になる。60年に10年ほど足りない。言い換えると昇天まで,報身みろくとして20年間活動されたことになる。

 聖師の教えの最高教典である『霊界物語』の中でも,別枠で貴い『天祥地瑞』の口述筆記は昭和8年10月8日(初版発行11月22日)にはじまり,昭和9年8月15日(初版発行12月30日)に修了している。「『天祥地瑞』全九巻は大宇宙の大根源の世界である天界の宇宙創造の物語である。」(山藤,1978)。この時期こそ,報身みろくの活動から排除することは許されない。そして,第二次大本事件受難,その後の保釈から昇天までの耀盌などの製作も排除することになってしまうのである。第二次大本事件の受難は報身みろくの最も核になる部分である。救世主が踏まなければならないものであり,救世主の証しにもなるものであった。三代の入る余地は無い。

追記 Aug. 30, 2024:
 昭和三年の三十年後の昭和三十三 (1958) 年旧暦二月十二日(新暦三月三十一日)にも,「みろく大祭」(於綾部みろく殿)が挙行されている。父座右の大本年表には何故か記されていない。昭和三十三 (1958) 年でも,昭和三年同様,旧暦二月十二日が選ばれている。王仁三郎からすると後述するように,伊都能売の御霊による「報身ミロク」の最終年に有終の美を飾ったことになる。宇知丸は聖師の思いをやり遂げたと言えるのではないか。

9.2 王仁三郎のミロク(六六六)神

 上述のように,二代苑主昇天後から何故,報身みろく時代になるのか,全く理解できないのである。木庭次守は繰り返し,三代教主時代を報身みろく時代としてきた。これは,「7.1 大本教団維持のための神名付与」と同様の,三代教主に対する王仁三郎によるキャスティングであろうが,木庭次守や先達はそうは理解せず,聖師出口王仁三郎のマジックに嵌まっていたようである。父の口癖,不思議だなあ,が聞こえてくる。

 一般に,仏教の教えに基づく 「弥勒三会」の一般的な意義は何か。尚学図書編(1989: p. 2291)『国語大辞典(新装版)』によれば,次のようになる。

————————————————(引用?? はじめ)
弥勒三会みろくさんゑ: 弥勒が釈迦入滅後,五十六億七千万年後にこの世界に現れて,華林園かりんえん(補記: HunLin Yuan)の竜華樹りゅうげじゅの下で説法するという法会(補記:仏語。経典を講説・読誦すること。また,その集まり)。三回にわたり行われるという。
(引用?? おわり)————————————————

 尚学図書編(1989: p. 1090)には,「三身」の説明がある。

————————————————(引用?? はじめ)
三身さんじん・三仏身: 仏語。仏身の三種。法身ほっしん 梵 dharma-kāya・報身ほうしん 梵 saṃbhoga-kāya・応身おうじん 梵 nirmāṇa-kāya,自性身・受用身・変化身,法身・応身・化身。
(引用?? おわり)————————————————

 尚学図書編(1989: p. 2291)には,「弥勒の世」の説明がある。

————————————————(引用?? はじめ)
弥勒の世: 弥勒が兜率天とそつてんからこの世界に下り,衆生を救う世。
(引用?? おわり)————————————————

 なお,たとえば,新纂浄土宗大辞典の三身の解釈にも見られるように多様であって,到底,上記「9.1」[ 木庭(1969)「弥勒神について」] のように整理できるものではない。大本では開祖,聖師・二代,三代,を三身に当てはめたり,活動時期を当てはめたり,しているが,用法そのものが仏教の教えからかけ離れている。それを前提にして,王仁三郎の考えを求めたいと思う。なお,読者の理解に供するため,三身に対応するサンスクリット語表記を上記尚学図書編(1989: p. 1090)の引用文に追加している。kāyaは身体で,dharmaは法=真理。saṃbhogaは快楽を共有する行為やその結果としての喜び。nirmāṇaは物理的な建設や製作または精神的霊的な現象の創出。サンスクリット語でみると,根本は法身であることがわかる。

 さて弥勒三会は,弥勒が釈迦入滅後,五十六億七千万年後にこの世界に現れて,三回説法するという意味であって,主役が三人居る訳ではない。弥勒Maitreyaは一仏である。大本では,弥勒が現界に生身で現れたのが出口王仁三郎である。法身みろく,応身みろく,報身みろく,として三区分するのであれば,すべて弥勒一仏の活動である。そしてその活動主体は,生身の王仁三郎である。そう考えると,王仁三郎の三区分の時期とその意味を理解可能である。前項の展開に基づいて次のようにまとめた。

 法身みろく 明治二十五 (1892) 年から三十年 〔大正十一年〕: 開祖出口ナオを王仁三郎の先駆けとする。ナオは,新約聖書のバプテスマ(水の洗礼)のヨハネに対応させることができる。厳御霊と称する。ナオは30年の残りの5年(数え)を神霊として活動し,『霊界物語』の発表などを王仁三郎に要請している。「9.4.1 二代の認識」に示すように,大正五 (1916) 年十月五日(旧九月九日)高砂沖の第三回神島詣でで,明治二十五年からナオに懸かってきた国常立尊が,王仁三郎がミロク様であることを伝え,ナオの王仁三郎観は激変する。霊界物語第七巻総説には,「教祖けうそは、明治めいぢ二十五にじふごねんより大正たいしやうねんまで前後ぜんご二十五にじふご年間ねんかん未見みけん真実しんじつ境遇きやうぐうにありて神務しんむ奉仕ほうしし、神政しんせい成就じやうじゆ基本きほんてき神業しんげふ先駆せんくつとめられた」,とある。
 応身みろく 明治三十一年から三十年〔昭和三年〕: 王仁三郎は明治三十一年の高熊山修行をもって,いわばナザレのキリストの資格を具備したのである。この応身みろくは,王仁三郎の弥勒の世実現のための準備期間とされている。大本の最高教典『霊界物語』を発表し,大正十二年旧七月十二には弥勒下生する。翌年には入蒙して王仁三郎の目的を実現している。
 報身みろく 昭和三 (1928) 年から昭和三十三 (1958)年:「昭和三年三月三日のみろく大祭後の大本には,第一次大本事件の暗い陰は一掃された。活気にみちみちた宣教活動が全国的に展開され,聖師をはじめとする教団首脳部の巡教は,全国の信者の信仰意欲を盛り上げた。(中略)昭和六 (1931) 年ころまでの大本には,まことに順調で明朗なふんい気がただよっていた」(大本七十年史編纂会,1967: p. 88)。
 王仁三郎は昭和二十三 (1948) 年に昇天するがその後も活動したと考えるのである。前述のようにこの三十年間のうちの二十年間の存命中に,『天祥地瑞』完結,第二次大本事件の受難そして無罪を勝ち取っている。耀盌造形なども実現している。もちろん,人類愛善運動(平和活動),大陸侵略過程での皇道運動の意義は大きい。
 敗戦後の復興運動の展開速度も著しいものであった。開教60年に当たる昭和27 (1952) 年からは,『霊界物語』などの神書復刊が開始され,地方での本格的な講座が頻繁に実施されるようになる。愛善みずほ会による食料増産技術指導だけでなく,農村復興運動の日本全国規模の展開もあった。昭和29 (1954) 年3月1日ビキニ水爆実験に象徴される日本を巻き込む冷戦の緊張のなかで,みろくの世建設運動は展開していった。父愛用の大本年表を見ると,報身みろくの最終年,昭和33 (1958) 年には,2月2日「聖師十年祭」,3月28日「聖師,高熊山入山六十年記念祭」,8月7日「万祥殿竣成祭」(亀岡),なお,綾部のみろく殿はすでに昭和28 (1953) 年4月16日(旧3月3日)に完成している。10月7日「三代教主,五十六歳七ヵ月記念祝賀会」(三代教主の誕生日:明治35 (1902) 年3月7日),などが見える。年表にはないが,この年は開祖四十年祭にもあたっている。
 大本七十年史編纂会(1967: p. 1034)には,「総長の交替 昭和33年」と銘打った写真が掲載されている。写真の説明には,「教団再建の重責をはたし教主より感謝状をうける前総長出口伊佐男」とある。このページから次ページにかけて,「みろく大祭は,聖師が五十六歳七ヶ月にたっし,はじめてみろく大祭をおこなった昭和三年三月三日(旧暦二月十二日)を記念して,この年の旧暦二月十二日にあたる三月三十一日,綾部みろく殿で盛大に執行された。そしてこの日,神業の転換をつげる総長の更迭が発表され,進展する神業に即応する教団体制の刷新がおこなわれたのである」,とある。
 『錦之土産』に記されているように,出口伊佐男は王仁三郎の全権を任しうる人材であり,戦後復興を担った出口伊佐男が総長を隠退するこの昭和33年こそ,王仁三郎の報身みろくの終焉にふさわしいと感じるのである。昭和33 (1958) 年をもって,大本のミロク三会は修了したのである。おそらく出口栄二総長が生まれたのであろう。

 以上の観点からみると,
○奉仕者の身魂の研不研で伸縮遅速 のびちぢみ 心の舟の ままぞかし 神の経綸しぐみは 人にありせば
という伸縮遅速は無かったと考えて良いだろう。この警告は奉仕者への大本運動への積極的関与を期待したものと考えて良いだろう。この節のタイトルの六六六は,大正六年新六月六日(瑞の御霊)神諭から使用している(木庭,2002a: p. 100 ○六六六)。

追記 Aug. 26, 2024: 総長出口伊佐男(宇知丸)退任は,本人の辞職願に伴ってのものであろう。宇知丸は,都度就任離任があるが,王仁三郎から「二代と三代の教主補の資格」を与えられてきた。総長の後任として当然,四代教嗣補栄二を推したのは当然である。三代はこれを否むことはできなかったであろう。『錦之土産』の効果で,二十歳そこそこで,教団運営のトップに躍り出た宇知丸からすると,要職を続ける執着心は無かった筈である。王仁三郎は,地方から出て来て間もない青年 嵯峨伊佐男に,組織トップの適正を見抜いたとも言える。敗戦後,日本の旧支配者は飛ぶ羽を米軍にもぎ取られ,臣民は十五年戦争に疲弊した中で,宇知丸の人柄も功を奏して,大本人は「おれがわたしが働かないと大本は再生できない」というような気概を胸に,空きっ腹を抱えつつ,奔走できたのであろう。当時の大本人は,聖師と二代の教えを継承することに大きな誇りも感じていた筈である。
 そして,昭和33 (1958) 年の宇知丸総長退任をもって,「瑞霊世を去りて聖道漸く滅す」,になる。報身みろく時代は終焉し,三代教主の我がまたぞろ露れ出でる。王仁三郎と澄子に対して深く親愛の情を持つ奉仕者に対しての三代の嫌悪感も膨らんでゆく。まさにこの状況を予知していた王仁三郎は,奉仕者に対して三代時代=報身みろく時代,というまぼろしを用意していたとも考えられるのである。

9.3 王仁三郎著述文献と『大本七十年史』

9.3.1 『大本七十年史』下巻に見られる多様な見解

 このテーマに入る前に,『大本七十年史』の三代教主出口直日の「大本七十年史によせる」と,大本七十年史編纂会会長の出口栄二の「刊行のことば」を紹介したい。

———————————————— 引用〜三代教主「大本七十年史によせる」
(前略)この大本は,人間の高い悟りとか,すぐれた知性によって,人為的に作り出されたものでなく,因縁の人であったという開祖さまの気品をとおして,神さまのお気持ちが圧し出されて来たことに始まるだけに,開祖さまは,神さまのお気持ちのままを,とおそうとされました。しかし,そのお気持ちは,世の中に,なんとさわりもなく受け容れられるものではありません。そこで,世の中のことに精通されていた聖師さまには,非常なご苦心,ご苦労を重ねられたことを,この書は,明るみに出しています。(中略)
 ともすれば,不純に飾られやすい歴史の編纂を,大本の傷ついた事実は事実として,弱い面は弱い面として書かれつつ,大本七十年の本筋が,真実な態度で,懸命に書かれているのは,なによりもよろこばしいことです。(後略)
昭和三十九年二月
引用〜おわり ————————————————

———————————————— 引用〜出口栄二の「刊行のことば」
(前略)「宇宙の本源は活動力にして即ち神なり。万物は活動力の発現にして神の断片なり」という出口聖師の断案は,神がたんに物理的な力ではなく,われわれ自身の生命の根源であり,人間は,万有ことごとくがそうであるように,そのところにおいていかされるという,生命の元始にいたらねばならぬことを教示するものである。
 しかるに,宗教にたいする社会一般の認識のなかには,まま宗教の真の姿を誤解して,宗教こそ観念論の最たるものだ,という見方をするものがある。宗教の側にもそれに符合するかのような動きを示してきたものもあった。しかし真の宗教は,歴史的現実との自覚的対決のうちに生命の根源にいたる道をたえず追求しつづけるものなのである。宗教が歴史的現実と遊離してゆくときには,宗教の実践的課題は,希薄とならざるをえない。(後略)
一九六四年二月四日
引用〜おわり ————————————————

 三代教主の文は,『大本七十年史』編纂参与であった大学教員やその補助をした院生などには受けが良かったのではないかと思われる。この文は大本外の人々の評価と一致するからである。このウェブページを作成する過程で数々の王仁三郎の予言の確かさを「発見」する前であれば,三代の文を是としたであろう。三代は世間的観点で大本観を醸成してきたのである。それゆえにこそ,大島豊一派の口車に乗り続けたことになった。「1.4.1 人類愛善会軍備全廃平和運動の終焉と四代教主教主補追放」で示したような国家権力寄りの行動に走ることになる。出口栄二は前述のように,その「平和運動ゆえ」に,昭和37 (1962)年10月9日には大本総長ほかの役職を三代教主によって解任されたが,辛くも大本七十年史編纂会理事筆頭の地位だけは残されていた。「一九六四年二月四日」は『大本七十年史』上巻発行日にあたる。

 栄二の文には,「宗教の社会的役割についての三代の無理解」と「三代が栄二から大本内の権力を剥奪したこと」に対しての反論が記されている。この「引用〜出口栄二の『刊行のことば』」を三代教主は理解できない。そういう人が大本教団を率いている。大本教団を築き上げた自分の父母を否定して,その権力だけは受け容れて。茶道などの家元とは違う筈だ。

 「大本の傷ついた事実は事実として,弱い面は弱い面として書かれつつ」,というのは真っ赤な嘘である。三代教主は,数々の「王仁三郎降ろし」に係わった事実については隠蔽し,自らの意に沿うものだけを取り入れて「会社史」を作り上げたのである。大本営内の宇知丸と栄二の責任も問われるべきとは思う。この辺が多くの日本の組織人のなさけない限界を露呈している。2024年の現状は自ら招いた結果とも考えるのである。はずかしながら,ぼくの組織内での小さなアンガージュマン engagement 故に言えることである。

 さて,本題に入る。『大本七十年史』下巻(大本七十年史編纂会, 1967)には,ミロク三会の解釈の多様性が見える。この多様性から,このいわば「会社史」の執筆環境を見ることができる。大本七十年史編纂会は,理事(大本役員)9名,編集参与(大学関係教員)9名,編集委員7名,事務局員24名からなる。ぼくの市史などに関与した経験を踏まえて内容を見ると,内部編集委員の長きにわたる研鑽結果は反映されていない。大本営の意向のみで作り上げられた感がある。そして大本営にとってどうでも良いことは未熟な内容がそのまま掲載されている。執筆者の教義の研鑽ができていない。組織人としても日常の学びをしていないことが露わになっている。「あとがき」(p. 1323相当)には「上田正昭氏には全文についてのリライトをおねがいした」とあるが,到底信じがたい。なお,理解に供するため年次の表記法を変更している。なお,『大本七十年史』には個々の記述者名(文責)がない。四例を挙げる。執筆者を「執筆者∈理事」などとしているがぼくの推定である。

 大本七十年史編纂会(1967)にみえるミロク三会の使用例を幾つか取り上げてみる。

○ <教主還暦生誕祭>(p. 1305,執筆者∈理事 ): 「この年 [補記: 昭和37 (1962) 年] は,報身みろくとして三代教主の還暦の年にもあたっていたので」,とある。

 木庭(1969)では,昭和27 (1952) 年から三代教主は「報身みろく」期に入っているので,齟齬がない。

○ <信徒の新生>(p. 1025,執筆者∈理事): 「昭和三十三 (1958) 年は,開祖四十年祭,聖師十年祭にあたる年であるが,その年はまた大本にとって,つぎのように意義ふかい年でもあった。聖師がかつて,五十六歳七ヵ月をむかえた昭和三 (1928) 年三月三日にみろく大祭を執行し,「応身みろくの活動」に入ったその日より数えて満三十年を経た年まわりにあたっていた。しかも三代教主によっていそしまれる報身みろく神業,その三代教主の五十六歳七ヵ月にあたる年でもあった。大本神諭には「三十年で身霊の立替立直しをいたすぞよ」とあり,聖師の言葉にも『三十年を一区切りとして世の中は変わってゆく』と述べられていることから,大本信徒にとっては,大本も『みろく三会』の基盤がかたまり,三代教主時代の神業がいよいよ本格的になると期待されていた」,とある。

 この乱文をすっと理解することはできない。ゴチ表示した「三代教主によっていそしまれる報身みろく神業,その三代教主の五十六歳七ヵ月にあたる年」は,昭和33 (1958) 年であることに違いない。とすると,「聖師がかつて(中略)「応身みろくの活動」に入ったその日より数えて満三十年を経た年まわり」も,昭和33 (1958) 年であることに違いないだろう。この文の著者は,昭和三 (1928) 年を「応身みろくの活動」に入った年,と考えているようである。聖師の「応身みろくの活動」期間を,昭和三 (1928) 年〜昭和33 (1958) 年,と考えているのである。木庭(1969)では,[応身みろく 明治三十一年から三十年 (昭和三年)〕としており,齟齬が生じている。この文の著者は,高熊山修行から昭和三年までの期間をどう解釈するのだろう。
 この著者の観点は明らかに過っている。

○ <信徒10万>(pp. 1028-1029,執筆者∈理事): 「教学上の問題については前述の『昭和三十三年を迎えるについての施策方針』のなかに,『みろく三身』とあったことについて,その意義があきらかにされている。その要点は,法身・応身・報身という言葉は他の宗教においてももちいられているが,大本でいう法身みろく,応身みろく,報身みろくの意義は大本独特のものであって,法身みろくは善一すじまこと一すじのかがみ,応身みろくは時・所・位に応ずるまこと一つの救いのはたらき,報身みろくはあなないのまことをつくし,みろくの世を実現するはたらきの意であり,この三身みろくは別々のものではなく,本来三身一体のものであって,その主たるあり方やはたらきによって,となえ方を異にするのみであると説明されたところにある。(後略)」

 「法身みろく=かがみ,応身みろく=救いのはたらき,報身みろく=みろくの世を実現するはたらき」,とする。「本来三身一体のものであって,その主たるあり方やはたらきによって,となえ方を異にするのみ」というのも理解しにくい。前者であるが,これは,大本人の解釈からすると,三みろくはそれぞれ,開祖,聖師,三代,を現しているのは当然であり,そうであれば,後者は意味を成さないのである。この著者は世間(仏教の教え)に引きずられて,大本のみろく三身の考えをないがしろにしている。

○ <みろく大祭>(p. 8,執筆者∈編集参与): 「大本でいう『みろく三会』とは、天のミロク(瑞霊)と地のミロク(厳霊)、さらに人のミロク(伊都能売の霊)と、天地人がそろうたときをいい、また法身・応身・報身のミロクがいちどにあらわれるということを意味していた。大本ではミロクのありかたや、はたらきを法身・応身・報身のミロクの三身とよび、主として法身ミロクは開祖、応身ミロクは聖師、報身ミロクは三代直日のそれぞれのご用であると理解されていた。なお現・幽・神の三界を根本的に救済する暁を『みろく三会の暁』ともいうと『水鏡』にのべられていた。『下生して現界的活動をする』ということは、地にくだって時所位に応現し、救済のため社会的・現実的活動をする意味をもふくんでいる。」

 この解説はおそらく理事から提示された『水鏡』の「みろく三会」と「王ミロク様」から得たものである。解釈も理事の解説に従って記述されているようだ。読み込みが足りないし,踏み込んでもいない。まあ編集参与の役割を果たしたに過ぎないのであろう。
 しかし,理事の方も,人のミロク(伊都能売の霊),を見て,これが三代教主ではなく,聖師であることは明らかな筈なのに,何なんだろうと思う。この文献こそ,みろく三会について最も信頼できるものとして,ぼくが参照してきたものでもあった。次項に述べる。

9.3.2 王仁三郎のミロク三会の教え

 次の二文には,みろく三会の意義が明瞭に示されている。この二文は,『水鏡』(加藤編・王仁三郎著,1928: pp. 161-164)に続けて掲載されているが,いずれも『神の国』誌昭和3 (1928) 年6月号(飯塚弘明「王仁DBβ版」による)に掲載されたものであった。父から得た原書でも確認している。

———————————————— 引用〜王ミロク様
 てんのミロクは瑞霊ずゐれいであり、のミロクは厳霊げんれいでありひとのミロクは伊都能売いづのめれいであり、この三体さんたいのミロクをしようしてわうミロクといふのである。さうしてすべかみ人体じんたい天地てんち経綸けいりん司宰者しさいしやとしてあらはしたものであるから、天地てんち御内流ごないりうけて御用ごよう奉仕ほうしする現実げんじつ霊体れいたいわうミロクのはたらきをするのである。おほ●●ミロク◦◦◦だいくのでなく、わうをあつる [補記:「宛つ」の用法ミスで,「あつる」に代わって「宛てる」が妥当] のである。言霊学上げんれいがくじやうからへばオホミロクのオはかみまたれいまたこころおよおさむるの意義いぎであり、ホはたかあらはるる意味いみであり、ミは遍満へんまん具足ぐそくして欠陥けつかんなき意味いみであり、みづうごきであり、ロは修理固成しうりこせい意味いみであり、クは組織そしき経綸けいりん意味いみである。天地人てんちじん三才さんさい貫通くわんつうしたるがわうとなるのである。
引用〜おわり ————————————————

———————————————— 引用〜ミロク三会
 てんのミロク、のミロク、ひとのミロクとそろふたときがミロク三会さんゑである。てんからは大元霊だいげんれいたる主神すしんくだり、からは国祖こくそ国常立尊くにとこたちのみことのミロクとしてあらはれ、人間にんげんたか系統けいとうをもつて地上ちじやう肉体にくたいあらはし、至粋しすゐ至純しじゆん霊魂れいこん宿やどし、てんのミロクとのミロクの内流ないりうをうけて暗黒あんこく世界せかい光明くわうみやうとなり、げんいうしん三界さんかい根本的こんぽんてき救済きうさいするあかつきすなは御代みよ岩戸開いはとびらきの聖代せいだいをさしてミロク三会さんゑあかつきふのである。えうするに瑞霊ずゐれい活動くわつどう暗示あんじしたものほかならぬのである。天地人てんちじんまた法身ほっしん報身ほうしん応身おうじんのミロク一度いちどあらはれると意味いみである。法身ほっしんてんはいし、報身はうしんはいし、応身おうじんひとはいするのである。むかしから法身はふしん阿弥陀あみだ報身ほうしん釈迦しやか、キリスト其他そのた聖者せいじやあらはれたけれどもいま自由じいう豁達かつたつ進退しんたい無碍むげ応身おうしん聖者せいじやあらはれなかつた。ゆゑすべての教理けうり欠陥けつかんがあり、実行じつかうともななかつたのである。ミロク三会さんゑ言心行げんしんかう一致いつちかみあらはるる聖代せいだいふのである。人間にんげんにとればてんちちであり、ははであり、ひとである。(後略)
引用〜おわり ————————————————

 この二つの引用で,「人のミロク」が何を指すのかが問題となる。「引用〜ミロク三会」の赤文字「人間は〜救済する」では,開祖から「水晶の御霊」を持つとされた直日を指し示すと,奉仕者や信者が考えるのは当然ではある。「引用〜王ミロク様」では,「人のミロクは伊都能売の霊」とある。これから見ると,「伊都能売の霊」は「ミロク三会」の赤文字「人間は〜救済する」の特徴を当然具備しているのである。
 木庭次守によって,文献渉猟された結果である『霊界物語小事典』(p. 13)「伊都能売神の身魂」(木庭,2010)を見ると,「月の霊魂ともいい厳瑞の身魂を相調和した完全無欠の霊魂」なのである。入蒙前の遺書『錦之土産』には王仁三郎は繰り返し,文責を伊都能賣(売)の御霊と署名している。
 「引用〜ミロク三会」の青文字「要するに瑞霊の活動を暗示したもの」に外ならない,ということになる。結局,「ミロク三会」と三代は無関係ということになるのである。

 なお,前項までに述べてきた,法身みろくー応身みろくー報身みろく,の認識と,「引用〜ミロク三会」の解説の間に齟齬がある。「引用〜ミロク三会」の紫文字で示した部分に注目してほしい。法身ミロク = 天のミロク,報身ミロク = 地のミロク,応身ミロク = 人のミロク,となっているのである。法報応の順序は大乗仏教で一般に使用されるものと一致しており,応身聖者こそ,人類が希求するものとしているのである。もうミロク三会は,三代が含まれるかどうかというような卑近なテーマから離れて,遠く天空に駆け上がっているのである。

 聖師にとってのミロク三身の中心概念は,天のミロク,地のミロク,人のミロクである。仏教のミロク三身にあてはめる場合,従来考えられた形ではない。「引用〜王ミロク様」の紫文字「てんのミロクは瑞霊ずゐれいであり、のミロクは厳霊げんれいであり」,も参考にすると,次の表のように,天地人は,瑞御霊,厳御霊,そして伊都能売の霊に対応する。そして,それぞれ仏教の法身,報身,応身に対応する。大本史からみると,開祖の神懸かり,聖師の高熊山修行,と続くから,報身ミロク,法身ミロクとつづくことになる。

 この表をみると,「9.1」や「9.2」で述べてきた,法身みろくー応身みろくー報身みろく,とかなり様子が違う。納得できない,となる。『霊界物語』などの内容とは異なっている。当時の奉仕者はこの『水鏡』をどう考えていたのだろうか。とにかく,これが王仁三郎の飾らない神示である。三身ミロクが三十年単位で時間的に並ぶともここでは特に言っていないがそれは繰り返しを避けたためだろう。この表には,「9.2」で木庭次守の時期区分のぼくの修正版を4行目に記している。
 この表の最下行には,「大正十二 (1923) 年旧七月十二日ミロク下生,昭和三 (1928) 年新三月三日:ミロク三会の暁」と記している。開祖神懸かりの後,上田喜三郎が綾部裏町の開祖を初めて訪ねたのは,明治31 (1898)年10月8日である。その時は留まることなく宣教の旅に出ている。そして,翌年7月3日に喜三郎は再度,参綾する。木庭次守座右の大本年表には,「再度の参綾」に大本入という修正メモがある。これは未だ「引用〜ミロク三会」の「ミロク三会さんゑあかつき」に当たらない。
 上田喜三郎は,厳御霊と瑞御霊の内流を受けて,伊都能売の霊となるのである。王仁三郎は後述の文献で,開祖の獅子吼のように,明治二十五年,遅くても明治三十年には「弥勒の世」になったのに,回りの人々は気付かないと苛立ちを露わにしている。まあ,待望の「弥勒の世」が,これではあまりにみすぼらしいので,周囲の奉仕者も信者も気付かない。厳瑞二霊,つまり,天地のミロクが揃い,その内流を受け継ぐ伊都能売の霊=上田喜三郎が出現したのであるから,後追いの認識ではあるが「ミロク三会の暁」が到来したことになるとも言える。その後の大本の発展そして『霊界物語』の完成,がそれを証明しているとなる。
 「9.4.1 二代の認識」で述べるように,大正五 (1916) 年の第三回神島詣でで,開祖は明治25年にはじまる神懸かりの神(国常立尊)から,聖師がミロクさまであることを知る。前述のように,上田喜三郎が大本入りしたその時に,厳瑞二霊,天地のミロクが実は揃い,伊都能売の霊が生まれたでは,奉仕者も信者も納得しない。それで昭和三年三月三日のみろく大祭が用意される。「9.1」の「引用〜四,ミロクの時期 (2) 霊界物語」には,

○五六七の歳月
 五十六億 七千万の 年を経て 弥勒胎蔵 経 (梵 sūtra) を説くなり
 昭和三年辰年は此世始まってから,五十六億七千万年に相当する年
  万代よろずよの 常夜とこよの闇も あけはなれ 弥勒三会みろくさんゑの 暁清し(昭和三年三月三日)
○聖師が五十六才七ヵ月で神業の準備をなし六十六歳七ヵ月で経綸完成。

とあるが,この神歌で王仁三郎は,釈迦入滅後の五十六億七千万年に相当する年,「昭和三年三月三日,弥勒三会みろくさんゑの暁を迎えて清々しい」と宣言しているのである。ミロクの活動の準備が完了したということである。ミロク下生ではない。

表 天地人ミロク関係図

9.3.3 ミロク三会に係わる王仁三郎文献

 回りが上記の「みろく三会」に気付かない状況ゆえに,何らかの歴史的装置が必要になる。その装置の奉仕者や信者への王仁三郎による提示が,奉仕者や信者の間で,誤解を生み出すことになるのである。併せて,王仁三郎は,王仁三郎と二代の昇天後の三代の権威付与のために何らかの粉飾を施す必要があったと思われる。

 ぼくが父から直接受けとった唯一の出口王仁三郎全集(第二巻 宗教・教育編)(出口王仁三郎,1934)の宗教編第六編「宗教雑感」には,「第一七章 弥勒神」 [『昭和』誌 昭和七 (1932) 年第八号] と「第一八章 弥勒の世」 [『神霊界』誌大正九 (1920) 年九月二一日号] という論文がある。霊界物語第一巻霊主体従子の巻「発端」と第三巻寅の巻「序文」も重要文献である。子の巻「発端」は,大正十 (1921) 年1月王仁三郎筆で初版発行は同年12月30日,寅の巻「序文」は,大正十一 (1922) 年1月3日(旧12月6日)に王仁三郎筆で初版発行は同年3月3日となっている。
 時系列で並べると,①「第一八章 弥勒の世」[大正九 (1920) 年],②『霊界物語』第1巻「発端」 [大正十 (1921) 年],③『霊界物語』第3巻「序文」 [大正十一 (1922) 年],前述の④「ミロク三会」「王ミロク様」[昭和三 (1928) 年],⑤「第一七章 弥勒神」[昭和七 (1932) 年]となる。なお,引用の際には飯塚弘明の王仁DBβ版を利用させて頂くが原典と対照している。当該テーマと直接つながらない部分は省略しそれを明記している。

 ④はすでに「9.3.2 王仁三郎のミロク三会の教え」で示したのであるが,ここにすべてが集約されている。⑤は三代教主教主補の逃避行に関連して発表されたものである。この和歌群を見ると三代が報身ミロクには当たらないことがわかる。木庭(1969)の「報身みろく:昭和二十七年から」という説は王仁三郎の著作には存在しない。

① 全集第二巻第一八章 「弥勒の世」 [大正九 (1920) 年]

———————————————— 引用〜はじめ
 御筆先おふでさきにミロクの世が出て来ると云ふ事が載つて居ります。これは仏法の法滅尽経ほふめつじんきやうにも出て居ります。また阿弥陀浄土のをしへが滅ぶる時に、弥勒菩薩があらはれて来ると云ふ事が出て居ります。基督教でも天国が来ると云ふ事が聖書に出て居つて、神道で云ヘば、松の世、即ち神の世が出て来る。斯様かやうみな知らされてあります。ところが御筆先を始終読んで居る様な人が、弥勒の世は何時いつ出て来るかと云ふ事を、尋ねて来ることがあります。しかも十年あるひは二十年も御筆先を戴いて居る人が、かくの如き事を尋ねて来る。う云ふ事は、とうの昔に分らなければならぬ筈であるのにそんな事を尋ねて来ると云ふ事は、実に呆れて、私はいたくちふさがらぬのであります。それで私は御筆先の上から、弥勒の世が何時いつから始まつて居るかと云ふ事を、一言いちごん御話おはなししたいと思ひます。

 弥勒みろくと云ふうちには、法身ほつしん応身おうしん報身はうしんと三つに分れて現れて居るのである。所謂いはゆる明治二十五年の正月元旦に国常立くにとこたちのみこと愈々いよいよミロクの世が来ると云ふ事を御知らせになつたこれは明治三十年からと云ふ事で明治三十年に神界の世の立替をする、さうしてミロクの世、神代かみよが地上に来ると云ふ事が書いてあるのであります。さう致すと、開祖は明治二十五年に現れ玉うたのであります。神様の御道おみちうち御這入おはいりになつて、愈々いよいよ法身ほつしん弥勒みろく御働おはたらきを遊ばしたのが明治三十年からの事で、法身ほつしん弥勒は至善、至美、ぜん一筋ひとすぢかたをなされる所の神様であります。所謂いはゆる弥勒の出現と云ふ事は、霊体れいたいもつて現れられたのを、時節到来して、ここある形体けいたいを持つてに現はれたのでありますから、明治三十年からは弥勒の世になつて居るのでありますそれからまた三十年で世の立替をすると云ふ事は、明治二十五年に御筆先が出ましてから、三十年後と云ふ事になる。此の御筆先はどちらにもとれる。丁度ちやうど皇典古事記を解釈致しますと、其の時代々々に応じて、くわつ生命せいめいを具備せる予言が書いてあつて、大正の世には、大正の世のやうになつてきて居り、明治初年には、初年の如くに活きた教訓であり、又徳川時代には、徳川時代の活きたる解釈が出来るやうになつて居ります。是が古事記の名文たる所以ゆゑんであります。御筆先もさうであつて、その人の身魂みたま相応にとれる、又時代々々によつて活きた解釈が出来る、実に伸縮自在なをしへである。此の法身ほつしんはふと云ふ字は、水扁みづへんに去ると云ふ字である。それで此の法身ほつしん弥勒の御代身ごだいしんたる開祖様が、本当の法身ほつしんになられたのであります。(中略)

 次に応身おうしんと云ふ事でありますが、是は身に応ずると云ふ事である。たとへば盗人ぬすびとむかつて、頭から不可いかぬと叱つても却々なかなか直らぬ。自分も共に盗人ぬすびとむれ這入はいつて、一遍ぐらゐは自分も盗人ぬすびとをやつて見る。さうして此のおこなひはいかぬと言つて、本当に改心をさせる。(中略)つまり盗人ぬすびとむれに自分もまじつて、さうして改心をさせると云ふことが、観音のはたらきであります。それでありますから、法身ほつしんの弥勒、即ち善人から之を見ますと、応身おうしんの弥勒は非常な悪にも見える事がある。正邪善悪を超越して、社会の毀誉きよ褒貶ほうへんなど眼中がんちゆうに置かないで、天下国家の為に一身を捧げる、是が応身おうしん弥勒である。つまり人が悪く言はうが、笑はうが、そんな事には頓着しない。ただ天下国家のため、あくまでも自分のちからのあらむ限り霊力れいりよくの続かむ限り、天下万民の為に一身を犠牲にする所のはたらきであります。斯う云ふ人のおこなひを見ると気の小さい人は非常に恐れるのである。今日新聞や雑誌で非常に皇道大本の事をやかましく言うて来出きだした。所が是は一つもまとの中に這入はいつて居らない。影も形もない事ばかりを書きつらねて居る。(中略)

 ミロクの世と謂ヘば、天下泰平、至善至美なる世、安心な世、鼓腹こふく撃壌げきじやうの世の中のやうに思つて居る人が多いが、併し是が報身ほうしんのミロクの世の中とならなければさうはならぬのである。夫迄それまではミロク様は応身おうしんとなつて現はれ、総ての世の悪魔と戦はなければならぬ。ミロクには大自在天と云ふ敵がある、ミロクに百の力があれば、大自在天には九十九の力がある。若しミロクの百の力が一つ欠けたならば、大自在天は勝つのであつて、是ではどうしてもミロクの世になることは出来ぬのである。大自在天には財力がある。さうして今日は筆の力、口の力で攻めて来る。あるひは法律権力で攻めて来る。あるひは軍隊の力を以て攻めて来ると云ふやうに、どんな権力でも持つて居る。(中略)さう云ふ事も知らずに、何時いつミロクの世が来るか、何時いつ立替があるかと云ふこと、そればかりを待つて居る人があります。神様の方では、明治三十年に立替たてかへをすると云ふ事がきまつて居る。若し三十年に立替が出て来たならば、一人も助かる者はない。(中略)人民ははやう立替が来たらよいと待ちつつあるが、若し今日突然立替が来て、所謂いはゆる大三災だいさんさいが来るとしたならば、大本に於ても、十人と助かる者はないものの様に思ひます。みな考へが違つて居る、本当の神心かみごころになつて居らぬ。神様の御心みこころかなふ心、即ち誠の心──善人になつて居らぬ。(中略)

 日本の今日の国情を考へて見ると、愚図々々して居る時ではない。考へて見れば見るほど、夜も昼も眠れぬくらゐに不安な状態になつて居ります。(中略)若し独逸ドイツのやうにけたならば再びつ事は出来ぬ。独逸以上の惨害を蒙るのである。故にいくさも考へ物である。是はうしても、人事を尽す上に於て戦争を免れ、或は軽くすると云ふやうに、大難を小難に、まつり代へて貰ふと云ふ事を考へなければならぬ。さうして手を尽していけない時には、所謂いはゆる言向ことむけはすと云ふ天照大御神の御神勅ごしんちよくつて、言霊ことたまの妙用を発揮するよりほかはありませぬ。(中略)又はちが人を刺すに、一遍刺したならば其はちいのちが無くなる。それと同じ事で言霊といふものは、其の運用が軽々しく出来るものでない。魂を磨きに磨いて、愈々いよいよと云ふ時に使ふ。国家の危急存亡の場合、又に腹は代ヘられぬといふ時に使ふのであります。(中略)

 次に報身はうしんの弥勒の世になれば、皆が喜ぶ世になる。之を天国とも極楽の世とも云へるのでありませう。実に鼓腹こふく撃壌げきじやうの世の中になつて来るのでありませうけれどもまでになるには一つの大峠おほたうげがあります。この大峠を越さねばならない。御筆先に『大難だいなん小難せうなんにまつり代へてやる』といふ事が出て居りますが、この大難と云ふのは三つのだいなるわざはひで、風水火ふうすゐくわと云ふこと、又小難といふのは饑病戦きびやうせんといふことである。不作が続いて饑饉になる。あるひ虎列剌これらとか、ペストとか、チブスとか、流行性感冒かんばうだとか、斯ういふ事が起つて来る、之が小難であります。(中略)若しこの風水火ふうすゐくわが起つたならば『ノア』の洪水以上のものになる。『ノア』の時はただ洪水だけであつたが、此の風水火が働いたならばかぜめ、水攻め、火攻めと云ふ事になつて、到底人力では奈何いかんともすることが出来ない。(中略)それも知らずに、やれ大正十年頃だとか、十一年頃が本当だとか嘘だとか言つて、騒ぎ廻つて居る。若し大正十一年に大立替が来なかつたならば、吾々が先鋒となつて大本を叩き潰して了ふ、と言つて居る人たちがあるとか言ふ事で、実に面白い事であります。是は全く悪魔に魅せられて居るので、神様の事が分るどころか、利己主義われよしの骨頂であります。(中略)さうして今度の二度目の天之岩戸を開いて、立派なミロクの世として、神人しんじん共に楽しむと云ふ事が御筆先にあります。どうしても改心が出来なければ、折角御引受おひきうけになつて誠に申訳まをしわけがないけれども、むを得ずのことがある、さうなつても決して神や出口を恨めて下さるなとまで仰せられて居るのであります。此の全世界を自由にすると云ふ偉大なる神様が、むを得ずと云ふ事を仰せられると云ふ事は、余程現代の人間には愛想を尽かされてのことであります。今日の社会は人心の腐敗きよくに達し、畜生同然になつて居ります。(中略)

 弥勒の世に住む人は、総て報身はうしんはたらきをしなければならぬ。報身のはたらきとなつて、国家天下の為に尽す、さうせぬことには、報身の世は現れて来ない。報身の世になると、すベての人は聖人君子ばかりになる。此世を指して神世かみよひ、弥勒の世と謂ひ、あるひは天国浄土と謂ふのであります。
(大正九、九、二一号 神霊界誌)
引用〜おわり ————————————————

 この記事は第一次世界大戦直後に出たものである。そして,翌年早々,第一次大本事件となる。法身弥勒=開祖,応身弥勒=聖師,が明記されている。三十年説も記されている。それじゃあ,報身弥勒はとなって,大本信者には三代が宛がわれることになるのであろう。しかし,この文には報身弥勒を誰が担うのかは全く記されていない。

②『霊界物語』第一巻「発端」[大正十 (1921) 年]

 この「発端」には,大本教理が厳瑞二霊だけからなっていることがよくわかる。無駄がない。現文脈で基本的なものを次にピックアップする。
1 「変性男子へんじゃうは神政出現の予言,警告を発し,(中略),水をもって身魂の洗礼を施し,救世主キリストの再生,再臨を待ってをられた。ヨハネの初めて救世主キリストに対面するまでには,ほとんど七年の間,野に叫びつつあったのである。」 
解説: 明治二十五 (1892) 年旧暦正月元旦「なお,霊夢を見る」(以後,開祖) 明治三十二 (1899) 年旧五月二十六日「上田喜三郎(聖師),大本入り」。その間,ほとんど七年間。
2 変性へんじやう男子なんし肉宮にくみや神政開祖ヨハネ神業しんげふり、爾来じらい二十にじふ有七いうしち年間ねんかん神筆しんぴつふるひ、もつて霊体れいたい両界りやうかい大改造だいかいざう促進そくしんし、いま霊界れいかいりても、その神業しんげふ継続けいぞく奉仕ほうしされつつあるのである。
3 神諭しんゆいはく、『三十さんじふねん身魂みたま立替たてかへ立直たてなほしをいたすぞよ』と。変性へんじやう男子なんし三十さんじふねん神業しんげふ成就じやうじゆは、大正たいしやう十一じふいちねんしやうぐわつ元旦ぐわんたんである。
解説: 開祖は明治二十五 (1892) 年から大正十一 (1922) 年までの三十年間の神業。
4 変性へんじやう女子によし三十さんじふねん神業しんげふ成就じやうじゆは、大正たいしやう十七じふしちねんぐわつ九日ここのかである。
解説: 大正十七年は西暦1928年で,高熊山修行開始は明治三十一 (1898) 年旧二月九日だから,三十年間。
5  天地てんち剖判ぼうはんはじめより、五十六ごじふろくおく七千しちせんまんねん星霜せいさうて、いよいよ弥勒みろく出現しゆつげんあかつきとなり、弥勒みろくかみ下生げしやうして三界さんかい大革正だいかくせい成就じやうじゆし、まつ顕現けんげんするため、ここに神柱かむばしらをたて、しふめつだうき、(中略)天意てんいのままの善政ぜんせい天地てんち拡充くわくじゆうしたまふ時期じきちかづいてきたのである。
解説: 「厳瑞二霊で松の世を顕現するため,ここに神柱をたて」るとあるが,開祖はヨハネ,聖師はキリストに対応し,メシアはキリストと主張しているのは間違いない。

③『霊界物語』第三巻「序文」[大正十一 (1922) 年]

 この序文は,前述のように,大正十一 (1922) 年1月3日(旧12月6日)に王仁三郎によって記述されている。父座右の大本年表を見ると,明治25 (1892) 年1月30日(旧正月元旦)「なお,霊夢をみる(以後,なおを開祖と表記)」とある。王仁三郎は新旧暦を使っており,この場合,開祖による開教の旧暦日(正月元旦)を新暦日の正月元旦に近い1月3日にほぼ一致すると考えたのであろう。満三十年の日であって,大本信者は①の文献も含めて,注目しており,何らかの声明が必要な暦日であった。旧暦正月元旦まで待てない緊急性も要していたことであろう。

———————————————— 引用〜はじめ
 また、明治めいぢ五十五ごじふごねん三月みつき三日みつか五月いつつき五日いつかといふかみ抽象ちうしやうてき教示けうじにたいして、五十五ごじふごねん大正たいしやう十一じふいちねん相当さうたうするから、今年ことし女子によし御魂みたまにたいして肉体にくたいてき結構けつこうがあるとか、大本おほもとかみ経綸しぐみについて花々はなばなしきことが出現しゆつげんするかのやうに期待きたいしてをる審神者さにはがあるやうにきく。されど、かみ御心みこころ人間にんげんこころとは、天地てんち霄壌せうじやう相違さうゐがあるから、人間にんげん智慧ちゑかんがへでは、たうてい、その真相しんさうわかるものでない。五十五ごじふごねんといふことは、明治めいぢ二十五にじふごねんから三十さんじふ年間ねんかん神界しんかい経綸けいりん表面へうめん具体ぐたいてきにあらはれるとしのいひである。
 三月みつき三日みつかとはツの御魂みたまなるつき大神おほかみ示顕じけんが、天地人てんちじん三体さんたいかがやきわたるといふことである。は「カ」とむ、「カ」はかがやくといふことである。いままで三十さんじふ年間ねんかん男子なんし筆先ふでさき真意しんい充分じゆうぶん了解れうかいされ、また従道じゆうだう二十五にじふごねん相当さうたうする女子によし御魂みたまひかりが、そろそろあらはれることを暗示あんじされた神諭しんゆである。二十五にじふご年間ねんかん周囲しうゐ障壁物しやうへきぶつにさまたげられた女子によし御魂みたま神界しんかい経綸けいりん解釈かいしやくも、やや真面目まじめになつてみみをかたむくるひと出現しゆつげんするのを、「女子によしにとりて結構けつこうである」としめされたものである。あたかも暗黒あんこく天地てんちに、日月じつげつ東天とうてんでて万界ばんかいらすがごとき瑞祥ずゐしやうを、五月いつつき五日いつかといふのである。いつ言霊学ことたまがくじやうイツ」であつて、五月いつつき五日いつか出月いつつき出日いつか意味いみである。二十五にじふごねん天津風あまつかぜ、いまきそめて経緯たてよこの、かみ教示けうじあきらけく、おさまる御代みよ五十五ごじふごねん出神しゆつしん出念しゆつねん)、いよいよ神徳しんとく出現しゆつげんして、神慮しんりよ深遠しんゑんなるを宇宙うちうに 現出げんしゅつすべき時運じうんにむかふことを慶賀けいがされたる神示しんじであります。
引用〜おわり ————————————————

 この引用部によって,浅野和三郎などによる「大正維新」および「大正十年立替え説」が潰えたあとの収拾の意図が見える。明治五十五年は大正十一年で,開祖の三十年,聖師のほぼ二十五年で,計五十五年にもなる。これで,いよいよ神徳しんとく出現しゆつげんして、神慮しんりよ深遠しんゑんなるを宇宙うちうに 現出げんしゅつすべき時運じうんにむかふことを慶賀けいがされたる神示しんじ,としている。厳瑞二霊での完結を表現しているとも言える。

④「ミロク三会」「王ミロク様」[昭和三 (1928) 年]

 「③『霊界物語』第3巻序文」発表の六年後である。「9.3.2 王仁三郎のミロク三会の教え」ですでに紹介している。この昭和三 (1928) 年は,聖師による応身ミロクの最終年に該当している。この③の二文は『神の国』誌昭和3 (1928) 年6月号に掲載されたもので,これは三月三日(聖師満六十五歳七ヵ月の日)に挙行されたみろく大祭の後にあたっている。「法身弥勒=開祖,応身弥勒=聖師,⋯⋯⋯⋯⋯のミロク時代区分」観の大きな転換であったが,その反響がわかる文献にはぼくは出会っていない。この年には聖師の神業を破壊する勢力は鳴りを潜めており,第一次大本事件も解決し,聖師の大本活動のなかでは最も充実している一時期ではないかと思われる。そのこともあって,それまでの [みろく三会の「粉飾」] も不必要になったのではないかと思われるのである。

⑤「第一七章 弥勒神」[昭和七 (1932) 年]

 さて,これが発表された昭和七年は,「1.2 瑞霊聖師転覆事件 昭和7 (1932) 年」にあたり,父の座右の大本年表では,同年8月9日に「日出麿,三回目の渡満巡教から四ヵ月ぶりに帰国」し三代と東京,北海道に逃亡する事態となっている。その8月に発行された記事である。

———————————————— 引用〜第一七章 弥勒神」[昭和七 (1932) 年]
a. 地の上に 七十五柱の小弥勒しょうみろく 現はれ玉ふ 時は今なり
a. 小弥勒 次ぎ次ぎ 名乗り上げにつつ 綾の高天に 集り来らむ
a. ありとある 国のことごと 小弥勒 現はれ地上を 新たに守らむ
日の本は 誠の生神 ゐます国 天地の神の 本津祖国
天地あめつちの 神の祖国おやぐに 日の本の 若人わかうどたちの 立つべき時なり
大弥勒おほみろく 世に現はるる 其日までに 身魂きたえよ 昭和の青年
大弥勒 現はるる時は 近めども 若き日本の 準備未だし
b. 弥勒神 諸相しょそうを顕し 神となり 仏と化なりて 世を開きたまふ
青山は 枯山なして 蒼生たみぐさの 悩まむ時ときぞ 現はる弥勒よ
b. 月神の 精霊地上に 降りつつ 弥勒の神業みわざ 成し遂げ玉はむ
自湧じゆう的 智慧と慈愛に充たせたる 弥勒の出現 待つぞ久しき
b. 一切万事 知らぬ事なき 人こそは 弥勒の神の 化身なりけり
山河草木 言問こととひさやぐ 今の世よは 岩戸と隠れの 姿なるかな
政治経済 界の行き詰づまり ゆきつまりつつ 弥勒出で坐さむ
末法の 世となりし今日は 弥勒神の あれます時ぞ 心なゆるしそ
曲津神 伊猛いたけり狂ふ 今の世は 弥勒の神の 出現さまたぐ
三千年の 神の経綸ぞ 曲神の 如何にあせるも 何の詮なし
b. 土中より 世に生まれ出でて もろもろの なやみ悟りし 弥勒の生神
弥勒てふ 名は仁愛の 意義ぞかし 人類愛善 根本の神
c. 愛善の 誠に燃ゆる 吾にして 曲の妨げ 時じく受けつつ
青年の 勇み立ちつつ 国のため 働らく時は 既に到れり
石の上 ふるき道徳 宗教を 捨てて新たに 生まるる世界よ
世を憂ひ 人を助くる神人は 何れも弥勒の 片鱗なりけり
b. 新らしき 若き日本に 生れませる 若き弥勒の 雄猛をたけび知らずや
種々くさぐさの 大三災も 小三災も 弥勒出現の 先駆なるべし
愛と善 只一筋の 誠もて 永久に治むる 弥勒の御代なり
弥勒神 世に立ち玉ふ あかつきは 地上の経綸しぐみ ゆたかに巡らむ
経済界 豊かならずば 地の上の 人の生活 救ふ術なし
今迄の 地の国々の 経綸けいりん法 根本改ため 玉ふ弥勒よ
上下しやうか一致 億兆心を一にする 政治を弥勒の 神代とぞ云ふ
皇祖皇宗の 御遺訓全く 実現の 時こそ弥勒の 神代なるべし
惟神 誠の道に 地の上の 人のまつろふ 弥勒の神代なり
罪なきに 罪に問はれて 苦しみし 誠の身魂は 弥勒なりけり
地の上の 罪の限りを あがなひて 世人をぐむ 弥勒の神人
c. 大本の 昭和青年 心せよ 灯台直下 暗黒のたとえを
青年よ せくなあせるな周章あわてるな 若き日本の 柱は立てり
小乗の のりにかぶれし 小人が 大神人を怪しみ見るな
d. 小根は 如何に諭すも 教ふるも 悪田の如く 実らぬものなり
中根は 教へを聴きて たちまちに 愛と善とに 帰順するなり
上根は 教へずとても 天地の神の心を 悟り得るなり
c. 大乗に 住する弥勒の 神人を き盲目どもが ののしり 騒ぐも
弥陀みだの世は 終末となりて 弥勒神 世人を救はす 世は近づけり
d. 赤門を 出でたるばかりの 科学タンクの 如何で知り得む 神の摂理を
d. 野心あれば 小さき事にも さはぐなり 清き身魂は 落ち着き払ふ
d. 何事も 弥勒の神の 御心の ままなる世界と 成れるを知らずや
c. 弥勒神の 許しなくして 何事も 成立せざる 世とはなりたり
d. 大弥勒 世に現はれて 道を説けど 世の鼻高の 耳はしひたり
大弥勒 鶴亀山に 現はれて 千代万代の 経綸けいりんを為す
久方の 天より降りし 大弥勒は 東方あづまの光よ 闇世を伊照てらす
(昭和七、八号 昭和誌)

引用〜おわり ————————————————

 この和歌の中にはミロクの概念規定の情報はないが,大島豊と日出麿と三代の逃亡に対応して記されたものと考えて良いだろう。
和歌 a:
七十五柱の小弥勒しょうみろくというのは,七十五声の言霊を意味する。孫悟空の分身の術を想起した。王仁三郎が当時問題のあった場に自らの分身を派遣するイメージだ。緊急事態である。
和歌 b:
弥勒(瑞霊聖師)は出現しているというメッセージ。
和歌 c, d:
日出麿,三代の逃亡に関連してと思われる。特にd.は大島豊一味に対してであろう。

 とにかく,非常事態であった。

以上,Aug. 31, 2024。

追記 Sep. 1, 2024: なお,大國ほか(1955: p. 44)「救世主問題を語る」には,次の会話がある。
———————————————— 引用〜大國と桜井と木庭の会話
大國: こう云うお歌がある。(人類愛善新聞七月上旬号=特集号=を出して見せる)
桜井: <地の上に 七十五柱の小弥勒しょうみろく 現はれ玉ふ 時は今なり>か。<ありとある 国のことごと 小弥勒 現はれ地上を 新たに守らむ>。
木庭: 仏教のミロクと云うことは,ことたまで七十五 そういう意味だと思うんです。[補記:15×5=75。レファランス協同データベースによれば,「七十五」には「おわり」とか「果て」という意味がある。昔から日本では15日を一節気とよんで、気候の一くぎりにしていた。5は「いっぱい」とか「全体」をあらわすもので、節気が5回あると気候もすっかり変わってしまい、一つのことがらがおわってしまうことから、75日はものごとのおわり、果て、限界という意味になった。]
 で,太古の神の因縁では,天の大神が素盞嗚大神になって降っておられますね。天の大神が素盞嗚尊として降ったと云う表現です。それから,「御霊の言わけ」には再びあらわれたとなっています。あの場合(補記:王仁三郎の上掲二つの和歌)は,素戔嗚尊が再びこの世に救い主としておあらわれになったと云うわけです。
桜井: いわゆる霊的に云った場合,七十五柱とか云うその聖者ばかりでなく,どこでどう云う人を使われるか分からない場合があるんじゃないかね。
木庭: 結局,救世主の権限というのは三千世界の神様と人類の魂を自由に使うと云うのが権限なんですから。
引用〜おわり ————————————————

 大國が取り出した「最新の人類愛善新聞」は,昭和誌昭和七年八月号の記事の再掲か,それとも,和歌数点が抽出されたものか,わからない。対談は流れてゆくので,記事全文が載っていても,他の和歌についても関心が及ぶのは稀だと考えられる。もともと「昭和七年の三代教主夫婦の逃避行」は,大國だけでなく桜井も承知であって,この対談が昭和三十 (1955) 年のことで,もちろん,ことあげされることはあり得なかったと思われる。桜井が読み上げた二つの和歌の間には,「小弥勒 次ぎ次ぎ 名乗り上げにつつ 綾の高天に 集り来らむ」,が配置されているので,桜井が「どこでどう云う人を使われるか分からない場合があるんじゃないかね」,と発言したのである。木庭次守は昭和十年事件で逮捕され保釈のち参亀したのであるが,「昭和七年の三代教主夫婦の逃避行」は承知していたのかもしれない。それゆえに,教えの一般論にシフトしたとも考えられる。

9.4 ミロク様

ミロク三会に関わる三代教主の位置付け

木庭は王仁三郎が三代直日をもっとも愛した点を踏まえて,大本運動の開祖,聖師,二代の三代による継承が保証される環境づくりをしたと考えて良いだろう。

9.4.1 二代の認識

 神島開き。二代教主の証言。ミロクとは? 出口すみ子(1951)主として。

9.4.2 救世主問題を語る

 救世主王仁三郎を戦後の夢溢れつ時代に大本の知識人はどう捉えていたのか。

9.5 変性男子系統と変性女子系統の分裂

 さて,「9.1 木庭次守のミロク三会の解釈」以来,「○報身みろく 昭和二十七年から」を未解決のまま,ここまで,引きずってきた。これは父座右の大本年表の,昭和二十七 (1952) 年三月三十一日「二代苑主昇天,即日三代教主就任」,とつながるのであるが,なにゆえ,報身みろくが昭和二十七年から始まるのか。これが問題であった。この時代区分については,「9.3.2 王仁三郎のミロク三会の教え」でぼくが描いた「天地人ミロク関係図」の時代区分に影響されて,理解できなかった。しかし,『霊界物語』霊主体従第一巻「発端」の第二段落始めに配されている「竜宮館には変性男子の神系と,変性女子の神系との二大系統が,歴然として区別されてゐる。」という一文を思い出して,開祖 ー 二代 ー 三代,と続く変性男子の系統で考えた。なお,変性女子は聖師一人であるがその聖師昇天の後の代行者として出口うちまるが在る。その後の後継者は今後も用意されないと王仁三郎は宣言している。
 聖師が重視する開祖の霊夢開始日は明治二十五年旧正月一日(新一月三十日)であった。そして,○法身みろく 明治二十五 年から三十年 〔大正十一年(1922) 旧正月一日〕,となるが,次の新たな三十年も続きその終わりは,1922 + 30 = 1952年:昭和二十七年,となる。この期間は二代教主(苑主)の時代にあたる。そして,三代教主の時代は昭和二十七 (1952) 年から始まるのである。王仁三郎の観点では,二代教主も三代教主も,三身みろくを構成しないのであるが,木庭次守は二代教主時代を三十年とみて,次の三十年を三代の時代と考え,昭和二十七 (1952) 年から三代教主が「報身みろく時代」を担うと考えたのである。開祖=法身みろく,二代=応身みろく補助,三代=報身みろく,とでも考えたか。
 さて,昭和二十七 (1952) 年から始まる三代教主時代は三十年の筈である。父座右の大本年表には昭和四十五年六月二日までで終わっている。しかたなく,改竄版 [大本教学研鑽所(1995)『大本略年表』] の昭和五十七 (1982) 年を見ると5件が掲載されている。なお,この年表では,聖師が重視された旧暦表示は排除され,記事内容も事務的で教えは排除されている。

———————————————— 引用〜昭和五十七 (1982) 年全
二・三 開教九十年
四・九 出口和明ら三人は教団を京都地方裁判所へ提訴
五・三 三代教主傘寿慶祝梅松祭
五・二六 教主継承者変更し,出口聖子を教嗣に決定
五・二九 第三回みろく顕現祭(聖ヨハネ大聖堂)
引用〜おわり ————————————————

 五件のうち,「五・二六 教主継承者変更し,出口聖子を教嗣に決定」がぼくの求める記事であった。これをもって,この四代直美の排除が公的に決定されたのである。これは,聖師への重大な背神行為であった。これをもって,三代教主はその資格を失ったのである。神(聖師)定めの四代教主直美を大本から放逐したことは,三代教主の権限をはるかに超えていて,開祖,二代からも完全に見放されたのである。

 変性男子の神系に関わって,その後はどうなるのか。出口直美の動向を大本信徒連合会(=愛善荘)の年表を探したが公開されていないようだ。1982 + 30 = 2012,の意味はわからない。三代教主の帰幽年月日を調べてみた。ウィキペディアの大本関係の項目は現行大本教団によって支配されているが「出口直日」の昇天日は正確の筈である。平成2 (1990) 年9月23日であった。出口直美の昇天日は大本信徒連合会のウェブサイトによれば,令和2 (2020) 年11月14日 (91歳,昭和4 (1929) 年7月30日生) であった。直美昇天年 2020 ー 直日昇天年 1990 = 30年,である。王仁三郎の三十年説に符合している。
 直美は現行大本教団から1982年に放逐されたが,直美が三代教主昇天後に四代教主に就任することは聖師からの断言であり,四代教主直美時代が始まったのである。実は,そういう観点では聖師の約束は果たされているのであり,四代教主時代は1990〜2020年となるのである。なお,愛善荘で正式に火継ぎの神事が実施されていたことは,かつて大本信徒連合会ウェブページで閲覧した記憶がある。「大本人」は四代教主直美が実現できえなかったと誤解していたのである。もちろん,愛善荘では直美を四代教主として仰いでいたのであるが,負け惜しみのようにも大本人には見えた筈だし,直美自身はどう考えていたのであろう。人はなかなか自らの観点は持ち得ず,社会的観点に支配されてしまう,そのことで社会的存在を維持しているとも言える。厳瑞二霊のように「自らの存在を持つ人」は稀である。
 なお,今後,三十年サイクルの経綸が引き続いて実現するかどうかはわからない。ただ,霊界物語三神系時代別活動表 に記しているように,『霊界物語』には2020年のほぼ六十年後に,出口宇知麿(その子和明)系と出口直美系が出会って,天恩郷と梅松苑などの聖地に復活する予言(確言)があるので,その時からまた三十年サイクルが実現するかもしれない。

 思えば,この三代教主が四代直美を昭和五十七 (1982) 年に放逐するのは,開教以来,予定されていたことになるのではないか。30年 x 3 = 90年,を経ての,昭和五十七 (1982) 年である。このWebページ作成過程で王仁三郎の数々の確かな予言を見てきたが,この三代教主の教主資格剥奪は,開祖と聖師つまり,厳瑞二霊の組み合わせが成立しての予言と言えるのではないか。この放逐を開祖も聖師ももちろん望んでいた訳ではないが,否応なくそういう世界が見えていたと言えるのではないか。

 以上の議論を踏まえて,次の「図 変性女子神系と変性男子神系の三十年周期時代区分」のように,まとめることができる。

図 変性女子神系と変性男子神系の三十年周期時代区分

 なぜか気になって,昭和三十三 (1958) 年に続く,みろく大祭 [1958 + 30 = 1988,1988 +30 = 2018] の執行履歴を調べてみた。

 やあー,驚いた。「みろく大祭」でウェブ検索すると,次の情報があった。

———————————————— 引用〜現行大本のみろく大祭
ニュース 2023.05.05 「みろく大祭(5月5日)
5月5日、午前10時から、みろくの大神さまをおたたえし、飢えと病と争いのない平和と幸福に満ちた神人和楽の〝みろくの世の成就〟を祈念する開教131年みろく大祭が、出口紅大本教主ご臨席、斎主・成尾陽祭務部長のもと、綾部市梅松苑・長生殿で執行された。
引用〜おわり ————————————————

 五月五日に執行することで,瑞御霊のお祭りが,厳御霊にすり替えられているのである。さらに。みろく大祭は開教年とは関係がないが,みろく大祭と銘打って,開祖の祭りに変質させている。サイト内検索をすると,古いコンテンツが削除されているようで2024年開教132年「みろく大祭」は残っている。この歪められた祭りには,瑞霊はもちろん,厳霊も決して降臨されない。大黒主ぐらいだろう。

 改竄された「現行大本年表」で,昭和六十三 (1988) 年をみると,

———————————————— 引用〜「現行大本年表」
1.23 出口聖子教嗣は教主代行に就任
5.5 みろく下生60周年記念みろく大祭
引用〜おわり ————————————————

 昭和三年新三月三日(旧二月十二日)のみろく大祭は,聖師によって「ミロク三会の暁」を祝って執行されたものである。「みろく下生」は「5.4 ミロク下生」で示したように,大正十二年旧七月十二日であるから,1988 – 1923 = 65年,ゆえに,この「みろく下生60周年記念みろく大祭」を企画した現行大本は「みろく下生」をも認知していない。
 改竄「現行大本年表」には,「平成10 (1998) 年5月5日 みろく下生70 周年慶祝みろく大祭(綾部)」も見えるがその後の情報は手許にはない。「周年」表記も間違っている。周年は英語のanniversaryに対応しており,記念日にあたる。新三月三日または旧二月十二日に執行してこそ,周年と題することができるのである。

 大本信徒連合会の「みろく下生」と題するWebページでも,「瑞の御魂に因縁のある3が3つ並ぶ3年3月3日に、みろくの56歳7カ月を迎えるというのは、まったく神の仕組であるといえるでしょう。この日、王仁三郎は『みろく下生(げしょう)』を宣言し、いよいよ、みろく神業のために現界的活動を開始することになったのです。これは大本神業上、重要な出来事の一つです」,とあって,誤謬を犯している。

 この誤謬の原因は,本Webページの「5. 入蒙前のミロク下生」に記した,王仁三郎生前の杖立温泉ー不動岩とみろく神像ー入蒙後の盧公館での揮毫「弥勒如来精霊下生 印度霊鷲山成長顕現 東瀛天教山将以五拾弐歳」などを理解していないためである。王仁三郎が繰り返し言っても書いても,生き神王仁三郎を前にしながら,周辺は理解しなかった。王仁三郎に出会っていない人々の間でも,『大本七十年史』下巻「みろく大祭」の記事に影響を受けているようだ。この執筆者は権力の取り調べ資料に影響を受けている。聖師を理解していない理事から吹き込まれたのかもしれない。王仁三郎は,周りの親族,奉仕者,信者の低い理解力に辟易しつつ,繰り返し,イベントを立ち上げている。大々的なイベントであっても,瑞霊の経綸を歪めてはならないのではないか。昭和三年三月三日のイベントは,繰り返すが木庭(1969)にあるように,

○昭和三年辰年は此世始まってから,五十六億七千万年に相当する年
  万代よろずよの 常夜とこよの闇も あけはなれ 弥勒三会みろくさんゑの 暁清し(昭和三年三月三日)

 つまり,弥勒三会みろくさんゑの暁を祝うものであった。この日から,「図 変性女子神系と変性男子神系の三十年周期時代区分」に示したように,人のミロク(伊都能売の身霊,伊都能売の御霊)の活動が始まるのである。図でみると,ミロク下生が,変性男子神系の二代教主三十年サイクルの初めに対応しているのは興味深いと思う。開祖管轄の三十年の時代にはミロク下生は難しかったのかも知れない。

10. 『霊界物語』のストーリー展開は八岐大蛇退治前まで

10.1 鍵「浜屋旅館」から『霊界物語』の舞台を現実と比定

 表2に示したように,『霊界物語』真善美愛第57巻〜第59巻,そして第60巻第1,2篇,の三巻余りは,皆生かいけ温泉「浜屋旅館」で口述筆記されている。この浜屋旅館が『霊界物語』山河草木第71, 72巻に現れる。入江村の「浜屋旅館」である,
 第72巻第1篇の第3章「いづ欵乃ふなうた〔一八一二〕」では,

————————————————(引用87 はじめ)
 豊栄とよさかのぼ旭影あさひかげ いづひかり照国別てるくにわけの つかさ一行いつかうあさまだき まなこさまわたる きよけきハルのうみきし 入江いりえみなと舟出ふなでして うづをしへ照公てるこうや 一度いちどひら梅公別うめこうわけ 玄真坊げんしんばう諸共もろともに さへ芽出度めでたき 常磐丸ときはまるまつをしへ一行いつかうは 艪櫂ろかいあやつ悠々いういうと ハルのみなとすべく(校定版 p. 30, 中略)
照国別『神代かみよむかし天教てんけうの やまれます元津もとつかみ 木花姫このはなひめ神勅みこともて いづ御霊みたま瑞御霊みづみたま をしへ四方よもひらかむと 数多あまたのエンゼルたまひ(校定版 p. 31, 中略) 
ウブスナやま聖場せいぢやうに 斎苑いそやかたたまひ まが霊魂みたまをかされし ひとこころきよめつつ 真人まびとうまかはらしめ 罪科つみとがふか吾々われわれに さへ目出度めでた宣伝使せんでんし 称号しようがうさへもたまはりて 浮瀬うきせちてくるしめる 諸人もろびとすくふべく ハルナのみやこわだかまる 曲津まがつかみ言向ことむけて かみ御国みくに永久とこしへに てむとはかたまひつつ 四方よもつかはす神司かむつかさ(校定版 p. 32, 中略)
照国別『梓弓あづさゆみハルの湖原うなばらけば 百鳥ももどり千鳥ちどり大空おほぞらぶ。 天国てんごくはるにもまがふハルのうみ われさちおほきかな』(校定版 p. 41, 後略)
(引用87 おわり)————————————————

第五章 蛸船たこぶね〔一八一四〕では,
————————————————(引用88 はじめ)
(校定版 p. 70, 前略)常磐丸ときはまる順風じゆんぷうながらスガのみなとしてすすく。
(大正一五・六・二九 旧五・二〇 於天之橋立なかや別館 北村隆光録)
(引用88 おわり)————————————————

とある。さし当たり,必要な情報だけをここに抽出している。

 照国別一行は,入江村「浜屋旅館」で一泊して後,入江港から,常磐ときは丸に乗船し,ハルのうみを渡って,やがてスガの港に上陸することになる。この舞台はトルマン国である。木庭(2010)の小事典によると,トルマン国の「トルマン」はつづめればツマとなり,秀妻ほづまの国の意味で,優れた国の意,とある。前述「8.1 山河草木酉の巻瞥見」のように,木庭(2010: p. 353)によれば,「山河草木酉の巻(補記: 第70巻)のトル○○マン国は日本にゆかりの深い物語で,心をひそめて拝読すべきである」などとしている。

 ぼくが本日発見したことであるが,『霊界物語』中の入江村「浜屋旅館」は,現実の皆生温泉「浜屋旅館」に当たる。『霊界物語』中の「ハルの湖」は現実の「中海」に対応する。「湖」にルビ「うみ」が振られているが,これは現実の名称が中海(なかうみ,または,なかのうみ)故である。この中海は地形学的には砂州さすによって外海から閉じられたラグーン(せきこ湖)になっているので,ハル湖という名称も現実の地形には対応している。

 引用87の終わりに,照国別が「梓弓あづさゆみハルの湖原うなばら」と歌っている。梓弓あづさゆみはハルの枕詞である。『万葉集』では,梓弓は「引く」「春(張る)」の枕詞として使われている。地図帳を見るとわかるが,皆生温泉は,日本海側の美保湾と中海の間の砂州(地形学的には砂嘴さしという)の本州側の付け根(米子市)に位置している。この砂州の美保湾側の砂浜は美しく弓状に弧を描いており,弓ヶ浜または夜見ヶ浜と呼ばれている。夜見ヶ浜は黄泉ヶ浜に由来するものであろう。弓ヶ浜から弓を張るとしてハルの湖原うなばらとなり,大黒主の割拠する都市ハルナにも通じるのである。

 ハルナは,ハル+ナである。ナは何を意味するのか。今朝2024/08/12,国語大辞典を調べたがしっくりくるものが無かった。TVで録画している大谷出場の大リーグの試合を早送りしつつ見終わって,NHKBS放映中の『BS世界のドキュメンタリー”原爆の父”オッペンハイマー 後編: 私は死神となった』を途中から見ていた。オッペンハイマーは原爆投下三ヶ月後には,自らの原爆発明そしてトルーマンによる原爆投下を嘆いて軍縮に軸足を変えて行き,原爆のさらに1000倍の威力を生み出す水爆開発に反対する。オッペンハイマーの弱点を探して自ら彼に取って代わろうとする研究者とFBIによって,学生時代の共産主義関係の交遊を探し出されて,陥れられる。オッペンハイマーは,ともに原爆開発をした友人のアインシュタインの研究室を訪ねて相談する。そこでアインシュタインは,オッペンハイマーに彼の支配的地位を辞することを勧めるが,オッペンハイマーは俺の気持ちがわからないとアインシュタインの助言を撥ね付ける。オッペンハイマーが帰った直後,アインシュタインはそばの秘書につぶやく,「あいつはとんだナーだ」と。ナーとはヘブライ語で,愚か者の意だ。ハル+ナのナはこの意かも知れない。ちなみにオッペンハイマーは当時のマッカーシー(赤狩り)旋風のなか,アインシュタインの研究室での相談の後,彼が築き上げてきた社会的地位の多くは剥奪され,反原水爆,軍縮の意思表明は封殺される。他の優れた研究者もこのオッペンハイマーの惨状を見て,平和主義的意見表明ができなくなってゆくのである。マッカーシー旋風は1950年代から1960年代前半に当たっている。三代教主が出口栄二の平和運動参加ゆえに要職を解任するのは1982年であり,あまりに後追いだ。
 ハル+ナについて上に偶発的所見を示したのであるが,その後,『玉鏡』(加藤編・出口著,1935: p. 111)の「言霊でいえば,ハルは東,ナは地である」に出会った。王仁三郎は『霊界物語』ではハルナをインド半島のボンベイ(現ムンバイ)としているが,実は東方の地,日本なんだよ,と謎をかけているようにも思う。

 照国別一行の目的地であるスガの港のスガは現実の地名とどう係わるのか。容易に須佐之男之命に因縁深い「須賀の宮」を連想させるのである。予言書『古事記』の八岐大蛇退治後の記述を見てみよう。原文は『古事記』全文検索サイトから原文をコピペさせていただいた。この「底本は岩波古典文学大系本(訂正 古訓古事記)」である。同書をぼくは所有しているので,この原文を使って,倉野憲司・武田祐吉校注(1974: p. 89)のみ下し文を使用した。なお,『古事記』は倉野憲司一人が担当している。ぼくは武田祐吉の『古事記』の解釈をより高く評価しているが,ここでは倉野憲司に拠る。

————————————————(引用89 はじめ)
 故是かれこれちて,其の速須佐之男の命、宮造作みやつくるべきところを,出雲の國にぎたまひき。しか須賀すがの地に到り坐して詔りたまひしく,「吾此地あれここに來て,が御心須賀須賀斯すがすがし。」とのりたまひて,其地そこに宮を作りてしき。かれ其地そこをば今に須賀すがと云ふ。の大神,初めて須賀の宮を作りたまひし時,其地より雲立ちのぼりき。爾に御歌をみたまひき。其の歌は、
 八雲やくも立つ 出雲八重垣いづもやへがき 妻籠つまごみに 八重垣作る その八重垣を
(引用89 おわり)————————————————

 『古事記』からの引用89,そしてこれに続く文に描かれているように,スガの地は,須佐之男命が櫛名田比賣くしなだひめと暮らして神生みをした場である。この須賀の宮は,雲南市によって現存する須我神社に比定されているが考古学的成果はみつかっていないようだ。ぼくはこの記録上残る最古の歌について国語学的に分析し,木庭(2022)と Koba (2022)を,キンドル版を発行している。さて,現存の須我神社の住所は,699-1205 島根県雲南市大東町須賀260であるが。出口王仁三郎は八雲山山頂を須賀の宮としている。これに関連して飯塚はオニペディアに整理している。

図8 皆生温泉(『霊界物語』第57〜60巻が口述筆記された浜屋旅館,現存せず),弓ヶ浜,境港,安来港,中海,須我神社,八雲山,大山
右下隅のスケールは3km。図の上方が北。下図は地理院地図Vectorの写真+注記図。

 木庭次守は『古事記』は予言書としている。『古事記』にちなむ「須賀の宮」に比定される神社が存在しているのであるが,これだと,『古事記』が予言書にはならない。出口王仁三郎は八雲山の頂上に歌碑を建てたりしている。先に引用した飯塚の八雲山には,この歴史がまとめられている。 表現を一部変更している。

————————————————
〇 昭和8(1933)年11月10日(旧9月23日): 王仁三郎臨席で八雲神社の秋季大祭が執り行われ、その後「八雲山歌碑」の除幕式が行われた。その歌:八雲たつ出雲の歌のうまれたる須賀の皇居みやゐの八重垣の跡。歌碑傍らには小松が植えられる。その後,王仁三郎はその歌碑の岩の側面と裏にも次の二首を加えている。大山だいせんは御空に霞み海はる出雲の国は錦のあきなり,千早ふる神の聖跡みあとをしたいつつ八雲の山にわが来つるかも。
〇 昭和10 (1935)年:  第二次大本事件突発して,八雲神社や歌碑は破却された。
〇 昭和43 (1968) 年6月24日: 山頂のお宮,再建。
〇 昭和44 (1969) 年10月24日: 歌碑,再建。
————————————————

 次の図9は地理院地図Vectorの白地図(2万5千分の1該当)を切り取ったものである。ほぼ中央に八雲山,南西隅に須我神社,北東隅に熊野大社が見える。八雲山頂上には八雲山歌碑の石碑記号が見える。小縮尺図の図8の南西部を参考にすれば,図9該当位置がわかる。図9を見ていると,東西に見える南北に走る街道に挟まれていて,周囲の山頂群を利用すれば,強固な砦を造ることができるように見える。中世の山城だけでなく,かなり古くから要害の地であったようだ。中海や宍道湖も見える(図10)。さらに,島根半島との通信も可能に見える。

図9 八雲山,熊野大社,須我神社

 王仁三郎のこういう神業は何を意味するのか。『古事記』が予言書であるなら,須佐之男命による八岐大蛇退治はこれから始まる筈とも言えるかも知れない。王仁三郎は歴史というか伝承というか,そういうものに乗って自らが予言者であることを示すお芝居をしているとぼくは考えている。お芝居好きでそれを愉しむ癖がある。信者はそのお芝居を見て救われる。
 なお,昔の人もこの種のお芝居が大好きで,『古事記』に謳われている「須賀の宮」を造ってしまうのである。それに乗っているのが王仁三郎であり,信者である。「須賀の宮」が造られた当時,何らかの伝承があったかも知れない。まあ,これも『古事記』のようなものなのである。

10.2 大黒主退治からウラナイ教の一時的追放に転換

 出口王仁三郎著『霊界物語』は一般には,全八十一巻とされるが,六十四巻は二巻に分冊され,校定版では,王仁三郎の口述当初の意図に沿って,特別篇「入蒙記」も『霊界物語』に編入されている。『霊界物語』第73〜81巻は,シリーズ名「天祥地瑞」としてまとまっており,他巻とは違って,正座の上,口述されており,地球上とは思えない全く別世界が描かれているのである。第72巻までについても,挿話的な第六十四巻上下巻,讃美歌集などからなる第六十巻後半,第六十一巻,第六十二巻がある。
 このような異質の部分を除くと,『霊界物語』のメーンストーリーが進む最終号は第七十二巻ということになる。この第七十二巻は,「舎身活躍」寅の巻(『霊界物語』第三十九巻)以来の主に邪神大黒主神に対する三五教の宣伝使たちの活躍する一連のエピソードが収束する最終巻となっているのである。

 それゆえ, この前節で述べたことがらに含意されるように,スガの港到着後の八岐大蛇退治が期待されたのであるが,八岐大蛇である大黒主神は全く登場しないのである。木庭(2010)の山河草木亥の巻=『霊界物語』第七十二巻の梗概では,如意宝珠卯の巻=『霊界物語』第十六巻から説きおこされているのである。どうも木庭次守は王仁三郎の本巻,言い換えると『霊界物語』全巻の意図を了解していて,その意図を明らかにすることなく,暗示する形で幾つかのヒントを掲載している。明らかにすることで個々の読者の『霊界物語』との関係がこわれることを危惧した,言い換えると,発表すべきで無いと考えていたようである。

 ぼくは何度か『霊界物語』を読んでいて,それに気付くことはこれまでなかった。三代教主の活動に拘ってこのウェブページを作成してきたことで,発見することができたのである。その意味では三代教主に感謝したい。ぼくは,この第七十二巻では,卑近なところでは,現在の大本の混乱が予言され,さらには大本の今後の新たな展開も予言されていると感じられたのである。先に言ってしまえば,いまだ八岐大蛇は退治されていないのである。みろくの世到来は近づいているのだろうか。父は自らは厳しい状況ではあったが,吉田ただをさんの切実な質問に,笑みを浮かべて,もうみろくの世だと告げている。もちろん,吉田さんは納得がいかない様子だった。木庭(2010)のこの第七十二巻の梗概では,みろくの世の到来は全く記されていない。

 文脈を短く記述しても理解は難しいので,木庭(2010)の「梗概」の最後の部分と「特徴」を次の「引用〜第七十二巻梗概と特徴」に示す。『霊界物語』を読んだ方ならこの場面を思いだされることであろう。

———————————————— 引用〜第七十二巻梗概と特徴
梗概の最後の部分: 
高姫は得意満面で表を眺めていると,一昨日叩き出したヨリコ姫,玉清別その他三五教の宣伝使一行が問答所の広庭に山車をとめ玄関口に上がり,高姫に対してヨリコ姫が「貴女はキズはないか」と念をおす。梅公別の合図でつづらの蓋をあけると,白装束のフクエと岸子が立ち上がった。梅公別が「これでも貴女は身に欠点がないと言われましょうか」と問いただすと,高姫は忽ち顔色蒼白となる。
 梅公別が口笛を吹くと,数十頭の猛犬が現われ,百雷の一時に轟くごとき声がひびいた。妖玄坊の杢助はたまりかね,正体を現わし雲を霞と消え去る。高姫もたちまち金毛九尾と還元し,雲を呼び雨を起こし,大高山めがけ電(補記: 読みはいなずまで,稲妻に同じ)のごとく中空をかけり姿を消した。
 玉清別は元のごとくスガの宮の神司を勤め,ダリヤ姫は大道場の司となり,アル,エスの両人を掃除番となしおき,ヨリコ姫,花香姫は照国別一行と共に宣伝の旅におもむくこととなった。
特徴:
〇言霊別の化身たる梅公別の千変万化の活動が中心であることを留意されたい。
引用〜おわり ————————————————

 『霊界物語』の最終巻の最後がこれで終わっているのである。この引用部分では高姫や妖玄坊に対し,数々のこれまでの悪事ではなく,直前の悪事を示すことで,悪霊の改心を迫るのではあるが,本性を現して逃げ去る。追いかけて滅ぼしたりはしない。またぞろ,悪事を働くのである。際限が無い。ここで『霊界物語』が終わっていることには,驚かざるを得ないのである。なお,スガの宮は卑近なところでは現在の大本で,玉清別とダリヤ姫が誰に相当するかは読者の判断に任したい。
 この部分のストーリーでは,ウラナイ教の高姫(悪霊がかかった者)が,自らの過去の悪事を差し置いて,他人を攻撃して,お宮や道場などからなる聖地を占領するのであるが,言霊別,つまりは,聖師が奪還するという予言になっているのである。卑近なところでは,聖師の活動による今後の聖地奪還である。これは霊界物語三神系時代別活動表に示している。ほぼ今から60年後である。

以上,2024/07/18。

追記 2024/08/16: 昨日はタニハ館での父のお祭りの準備をしていた。玉串などのお松を用意し,涼を取るべく,南庭に面するガラス戸に設置する網戸などの掃除をし,窓際の猫の糞跡の掃除などもした。書架の窪田英樹『八雲琴の調べ』(窪田,1986)が目について,この一冊だけ自宅に持ち帰った。そこには,「第八章 竜蛇神と竜宮信仰」があった。この章の「二,木庭論文を巡って」に,加藤明子編,出口王仁三郎著(1930)『如是我聞 月鏡』の「大黒主と八岐大蛇」(pp. 37-38)が引用されていた。そこには『霊界物語』のメーンストーリーが進む最終号の第七十二巻にぼくが期待した成果が印されていたのである。全文を次に。この本の第四刷のあとがきには,大本教学資料編纂所による修正が実施されているがルビなどに問題を感じるのでその部分だけ修正している。

————————————————(引用?? はじめ)
 大黒主は月の国の都ハルナを三五教の宣伝使のために追われ,ふたたび日本に逃げきたり,夜見ヶ浜なる境港さかいみなとより上陸し,大山だいせんにひそんだのである。素戔嗚尊はこれを追跡して安来港やすぎみなとに上陸したまい,いわゆる大蛇退治をあそばされたのであるが,大黒主は大山において八岐大蛇の正体をあらわしたのである。後世,大蛇のことを池ノ主とか山ノ主とか呼んで主の字をつけるのは,大黒主の主より来たるものである。
(引用?? おわり)————————————————

 これを書き写していて,かつてこの一文を読んでいたことを思いだした。この記憶があったから,実際の第72巻の内容に違和感を感じたようである。上陸地点の違いが何を意味するのか,わからないが,外洋から上陸するより,夜見(弓)ヶ浜と島根半島の間の水道から中海に入って安来港から上陸する方が,大山にアプローチするには都合が良い。素戔嗚尊が大山に蟠る大黒主をターゲットにするのであれば,このアプローチは極めて適切と思われる。大黒主が境港より上陸したというのは,水道から中海に入るルートを知らなかった,つまり地理不案内を意味することになる。
 ちなみに,現在の境港は近代に開発された砂州の掘込み港であり,古来の境港は図8に示したように境港水道の入り口部分に当たっている。この古来の港は現在も漁港として利用されている。地形からすると,安来港は現在よりも東方の黒井田付近であったろう。現在の安来港は飯梨川の三角州扇状地の土砂を避けるべく造成されているようである。

 北西季節風が吹き荒れる冬季であっても,それ以外の季節であっても,潮流シミュレーションから見ると島根半島東端の地蔵崎から潮流は島根半島南縁沿いに向きを西流に換えて,やがて流れはほぼ消え去る,それゆえ,潮流に流されて何とか島根半島北縁の岩礁を回避できた舟は比較的容易に地蔵崎から美保湾の島根半島南縁に留まることができるのである。大黒主も素戔嗚尊も同じ海上水路を辿ったことになるのである。

図10 伯耆大山の西方の沿岸域からの眺望の可能性 右下の枠図は眺望方向を示す

 図10を日本シームレス地質図から作成した。東手の伯耆大山から西手の三瓶山の距離は90kmほどである。色は地質を表現している。伯耆大山は海抜1729mで中国地方では最高峰をなすが2000mほどの火山であったが地すべりなどで崩壊して現山体になったのであるが,崩壊の時代の特定はできていないようである。わかっている最新の火山活動は2万年前であり(山元,2017),日本の火山認定は過去1万年以降のものとされており,火山の定義からは外れている。
 なお,図10に見られるように,八雲山は伯耆大山と三瓶山火山のほぼ中央にあって,弓ヶ浜,出雲大社,地蔵岬,さらには島根半島の先も遠望することが出来る防衛上,すぐれた立地をなしているのである。

 大黒主の目的地が伯耆大山であれば,天候にもよるが対馬南岸を越えて幾ばくか進んだあたりから微かに遠望できるかも知れない。図10のように遠方からの眺望を遮る山体はない。地蔵崎を回って境港に辿りついて,弓なりの弓ヶ浜の先に伯耆大山が威圧しているのであるから,当然上陸して,弓ヶ浜から伯耆大山を目指すであろう。その当時の大山の山体が現状に近いものか崩壊前かはわからない。
 境港後背の水道は人工水路である。成立は北前船による(弓ヶ浜砂州で展開した綿作から得た綿花や鳥取藩米の)積出港として発展した時代にはもちろんであるが,遠く古代にまで遡る可能性はある。大黒主到来が水路成立前で,素戔嗚尊の大黒主追撃の時代には水路が開鑿されていた可能性もある。

 さて,すでに述べてきたように,『霊界物語』第72巻では,照国別一行の宿泊した浜屋旅館は入江村にあった。皆生温泉は美保湾に面しているので,王仁三郎は入江村という表現によって,『霊界物語』の浜屋旅館は中海に面していたことを示唆したと思われる。『月鏡』からすると,『霊界物語』の浜屋旅館は,現在の安来よりも東方の黒井田付近の港に面して立地していたとも想定できるのである。

おわりに

 王仁三郎創作の耀盌ようわんが日本さらには世界で評価される契機が,王仁三郎が大本内で救世主の評価の定まった神島開きから数えて,瑞御霊に因む三十三年であった,という形は,大本人からすると経綸または仕組しぐみと言う。これはキリスト教の経綸主義や天啓主義の考えを取り込んだもののようで,造物主が用意している歴史を指したり,天啓=神勅が降りた場合に適宜その対応で異なる経過を辿るというような歴史観である。

 このウェブページは,まずは受動的に口頭で得た情報と,このページを作成する過程で時々刻々現れる文献をもとに作成した。このウェブページでの登場人物の多くは鬼籍に入った人々である。そういうステージだからこそ,このウェブページの作成が可能なのだとは思う。ぼくは大本のゴタゴタには全く関心がなかった。三代教主は木の花姫か,というテーマで記述を始めたことであったが,父の生きた時代を知ることもできたし,三代教主が半世紀以上に亘って権力の罠に捉えられていたことにも触れることができた。
 父そして父に近しかった優れた人々にも影が伸びて,組織内でより楽に生きるべく父から離れた人々も居たし,大本を離れた人々も居た。少年時代に観察したことであったが,いま,その理由を片鱗ではあるが知ることができた。

 ぼく自身も職場での影を何回か経験してはいるが,それを誰にも話さなかった。潔しとしないからである。話すことで自ら泥沼に入ってしまうことはわかっている。父も家族には具体的には何も漏らさなかったが,残念ながら,父は宗教(団体)の特性ゆえに,自ら破綻していったとは思っている。8.3 神島開きと耀盌,にも出ているが,王仁三郎聖師の三代教主への愛は誰に対してよりも深い。それを知る父からすると三代教主をどうしても否定できない。優れた信者であった吉田ただをさんに信仰を失わせないために,「木の花(神)紙裂くや姫」とダジャレを言ったとしても,三代教主を否定できない。木庭次守の大本文献には,悲しいほどに,三代教主を讃える文しかみつからない。『霊界物語』には,王仁三郎聖師の予言が多数鏤められているが,公開できないと思うものには知らんふりしている。父が今生きていたとしてもぼくの疑問には答えてくれないだろう。微笑んで,『霊界物語』を読みなさい,知恵を貰いなさい,というだけだろう。

 このウェブページを作成する過程で四代直美が,三代教主と京太郎一派から七十年代半ばから外されているように感じた。それで,昨日,大本信徒連合会のウェブサイトから,直美の自伝(散文または和歌)のようなものの存否を質問し,「しずはた(倭文機)」(昭和61 (1986)年)の随筆部分のPDFを添付頂いた。どうも執筆は結婚後まもない時期のものである。少女時代の家族の思い出であった。ぼくの子供時代の家族の思い出に類するものだが,登場人物が,爺王仁三郎,婆二代,父日出麿,母三代,という配役の違いがある。第二次大本事件がらみのエピソードもあるが少女の視点が示されているだけであった。外的な後付けの文は一切ない。ぼくは混乱期の四代としての何らかの思いを知りたかったのだが,その情報には出会えなかった。
 「しずはた(倭文機)」の登場人物は,このウェブページで登場する名優ではなく,ふつうの人々であった。ふつうの人々ではあるが,信者の前では,名優になる。観客も本気で神劇に魅入る,魅入られる。不思議な世界である。

 幸い,この七月末に知人から出口直美歌集『はた織る日日』(出口直美,2006)が届いた。この見返しの見開き頁には,二代教主出口澄子が糸を手繰ってレンズに微笑む写真,出口澄子の二つの歌,そして直日書の「つる山おり工房」の揮毫,がみえる。見事な直美作の色鮮やかで繊細な数々の着物の写真と日常の写真が記録されている。幾つかの歌を次に列挙したい。
————————————————
椿散る 山下の道は 祖母の背を 押して機場に 通ひたる道 (二代教主との思い出)
僅かしか 織れぬと言ふに 塵も積もればとはげましを 言ひて諭しぬ (孫娘の春日と)
実のならば 染料にせむ 川縁に くさぎの花白く 咲くをみつけぬ (草木染めの原料を求めて)
機を織る 頭上に蜂の飛びをれど 若き日のごと 口笛吹けず
織り疲れ 暑き機場に 横になる 傍らの糸枠を 枕になして
織物部の 会合にをり 家を離れてをれば 煩わしきを 聞かずすむなり
機の道具の 間を避けて 走りゆく 電話近くに 夫はをれども
鋏あり 待ち針ありて 危うし危うし この頃機場に 入りくるおさな
————————————————

 機織りを祖母からならい,その生業なりわいが直美から娘,孫娘に受け継がれる。熱心と暖かな家庭の暮らしがてらい無く描かれている。自らのわざに係わる人間関係に安らぎの時も幸い得ていたようである。

 「あとがき」のはじめの部分を次に。
————————————————
 昭和三十九年(一九六四年),二代さまの「つる山織り草木染」のみあとを継がせていだだき,ここ梅松苑ではた織りをはじめましてより今日まで,本宮山(鶴山)の麓から湧き出る鉱泉で,染めた糸を発色させ,また色止めし,機を織りつづけてまいりました。
 ことに,第三次事件がおこりましてより二十四年にもなりますが,その間,何かといやな妨害もある中,機を織ることによって,私は元気をいただき,慰められてまいりました。(後略)
平成十八年(二〇〇六年)十月八日 つる山おり工房にて 出口直美
————————————————

 直美が三代教主のように愚痴を連ねていたらどうだろう。いまぼくが持つ敬愛の念は失われるだろう。人情というのはそういうものなんだろう。実際の男性は碌なものでないが国語的意味で「男らしい」,つまりは,開祖の再生と言って良いのだろうと思う。開祖の神懸かり前の人格を受け継いでおられるのであろう。出口雅子(2019)『星座記念:出口家族「獄中への家族写真」』には,出口直美の子供時代の写真が多数見られるが,他の子供達よりも一際背が高く,素朴でおじさん顔をしており,ぼくが「見たことのある」直美とはかなり違う印象で笑ってしまうほどであった。

 このウェブページは,王仁三郎聖師直弟子の父を慕う者の戯言であることに違いない。もう,この種のテーマはどうでもいい。しかし,父を介した王仁三郎信仰を捨てるか捨てないかの瀬戸際であった。乗り越えなければならない課題であった。このぼくの悩みを抱えている「信者」も多数いらっしゃると思う。ぼくのこのウェブページを読んで頂いて,著者のぼくと同様,少しは気が晴れたのではないだろうか。
 周囲から発表を見合わせた方が良いという助言もあったが,これこそ大黒主の影だと思っている。このウェブページを作成する過程で,行き詰まる時は何度もあったが,適宜,目の前にヒントをもたらす父の文献や『霊界物語』のシーンが現れる。これに勇気づけられてここまでやってきたのである。読者は大袈裟と思われるかも知れないが,父はもちろん,ぼくも敬愛する王仁三郎とナオの娘二代の間の,娘三代教主の言動をこういった形で取り上げることはかなり困難なことであった。しかし,『霊界物語』に大本の現状は,はっきりと予言されているし,それが卑近な形で実現して,主役が鬼籍に入ってしまった今こそ,発表時期が熟したのではないかと思うのである。
 このウェブページをキンドル版での公開を予定している。このウェブページをMicrosoft Word用に出力して,図表などを多少改善して,キンドル版発行となるのであるが,その過程でも,繰り返し編集してゆくので,このウェブページとは多少異なるものになるだろう。ただその結果をこのウェブページにフィードバックすることはしない。このウェブページはあくまでも下書きであった。

以上,2024/07/13, 18, 21,/08/14。

参照文献リスト

 著者名あいうえお順+発行年次順に配列する。なお,出口王仁三郎著『霊界物語』の引用についてはここには,再掲しない。ネット上に公開されている文献はリンクを設定している。なお,本文中の情報で文献情報を得ることができる場合もここには掲載する必要がないのであるが,このリストそのものが主張する側面もあるので,敢えて掲載した文献もある。

愛善苑事務局,1990MS. 研鑽資料: 座談会 三代時代をふりかえって ——よつぎとは何であったか——.

愛善世界編集部,1992. 大本神の斎場ゆにわを破壊する暴挙. 愛善世界, No. 107, 1992年3月号付録,見出しと目次 + pp. 1-16. (なお,著者が明記されていない出版形式は出来れば避けて頂きたいが大本本部による危害を避けるためなのだろうか)

植村彰, 矢野照雄,余田幸男,1983. 三局長座談会: 形は小さくとも水晶の世の鑑を. おほもと,Vol. 35, No. 1, pp. 32-41.

宇佐美龍堂, 1983. 編集長インタビュー①: ご神命のまにまに. おほもと,Vol. 35, No. 1, pp. 25-31.

梅園浩,1991. 広島は火の海になる. 「座談会 聖師を語る ご聖誕百二十周年を記念して」,愛善世界, No. 100, 1991年8月号(聖師御聖誕120周年記念号),pp. 48-57.

大石栄, 1963. 日の出の神のご因縁. おほもと,Vol. 15,No. 12 (172 issues), pp. 22-32.

大國以都雄,伊藤栄蔵,三村光郎,木庭次守,西村為三郎,桜井重雄(司会),1955. 座談会: 救世主問題を語る. 神の国,Vol. 7,No. 8(72 issues), pp. 41-51.

大本教学研鑽所編,1977. 表の神諭 ——「神霊界」誌覆刻——. 別冊大本教学(教学研鑽資料(三)),560p.

大本教学研鑽所編,1995. 大本略年表. 51p.

大本信徒連合会特別委員会, 2005. 第一部 なぜ栄二先生は提訴されたか? 大本第三次事件資料 3, pp. 1-16; 第二部 栄二先生処分の根拠とした十二項目について. 大本第三次事件資料 3, pp. 17-25.
https://www.omt.gr.jp/o387
https://www.omt.gr.jp/pdf/dai3ji/dai3jioomotojiken_3.pdf

大本七十年史編纂会, 1964. 『大本七十年史』上巻. 827p.+ 編纂会スタッフ.

大本七十年史編纂会, 1967. 『大本七十年史』下巻. 1319p. + あとがき,編集スタッフ,エス語要約など.

加藤明子, 1923. 筑紫潟 二代教主・三代教主補 九州巡教随行記(飯塚弘明さんのWebサイト). 神の国誌の第六信(大正12年1月10日号, p.9〜),第六信続きと第七信(1月25日号,p. 12〜).

加藤明子編,出口王仁三郎著,1928. 『如是我聞 水鏡』 昭和3 (1928) 年初版,昭和51 (1976) 年改訂覆刻,昭和59 (1984) 年第四刷,天声社. [『神の国』誌の大正14 (1925) 年8月号から昭和3年10月号まで発表 ]

加藤明子編,出口王仁三郎著,1930. 『如是我聞 月鏡』 昭和5 (1930) 年初版,昭和51 (1976) 年改訂覆刻,昭和60 (1985) 年第四刷,天声社. [『神の国』誌の昭和3年11月号から昭和5年9月号まで発表 ]

加藤明子編,出口王仁三郎著,1935. 『如是我聞 玉鏡』 昭和10 (1935) 年初版,昭和51 (1976) 年改訂覆刻,昭和59 (1984) 年第五刷,天声社. [『神の国』誌の昭和5年10月号から昭和9年?月号まで発表 ]

河津雄, 1923. 瑞月氏西遊随行記. 神の国,大正十二年九月二十五日号, pp. 25-30. (飯塚弘明より。愛善苑研修資料「出口王仁三郎聖師 九州小国杖立温泉と山鹿の不動岩」pp. 38-43.)

窪田英樹,1986. 『八雲琴の調べ -神話とその心-』 東方出版,280p.

熊本県教育委員会,1978. 熊本県の中世城跡. 熊本県文化財調査報告, 第30集,401p.

倉野憲司・武田祐吉校注, 1974 (第18-2刷). 倉野『古事記』, 武田『祝詞』 日本古典文學大系1, 岩波書店.

木庭次守,1955a MS. 『如是我聞 新月の影』 272p.(邦文タイプ簡易印刷製本版で自らの交遊関係者に配られた。いま,木庭元晴が見ているのは隅田光の遺品) 

木庭次守,1955b MS. 出口王仁三郎著 第十三歌集 霊界物語余白お歌集. 大本教学院,159p. (邦文タイプ簡易印刷製本版) 

木庭次守,1964. 大本事件解決の鍵 −日出麿先生の荒行ー. おほもと,Vol. 16, No. 9(181 issues),pp. 52-57.

木庭次守,1969. 弥勒神について. 大本教学, No. 5, pp. 36-45.

木庭次守,1970. 第二次大本事件裁判事務所. 大本教学, No. 8, pp. 72-88.

木庭次守編,1971a. 大本教義. 研究資料2, 大本本部青年部. 44p.

木庭次守編,1971b. 皆神山参拝のしおり. 大本三大教主碑建設委員会, 表紙2枚+16p.

木庭次守,1971c. 山容あらたまる皆神山. おほもと,Vol. 23, No. 6, pp. 74-76.

木庭次守編,1972. 聖場瑞泉郷参拝のしおり. 霊界物語拝読研修会, 14p.

木庭次守,1972b. 『耀盌』創造の密意. 木の花,復刊 Vol. 1, No. 3(77 issues), pp. 16-21.

木庭次守,筧邦麿(ききて),1974. 聖地再考:神秘の国丹波 <盛夏放談>. 木の花,復刊Vol. 3, No. 8, pp. 8-13.

木庭次守,鈴木勇(対談),1975. 続々耀盌顕現の経綸的布石. 木の花,復刊 Vol. 4, No. 9, pp. 14-20. (リレー新耀盌入門5)

木庭次守, 1988. 『霊界物語啓示の世界 新月のかけ 出口王仁三郎玉言集』 フォーゲル企画株式会社制作,日本タニハ文化研究所, 604p.
 本書は武田崇元氏のご厚意で,木庭(2002a, b)のように,再版(上下巻)することができた。

木庭次守編,2002a. 『出口王仁三郎玉言集 新月の光』 上巻, 八幡書店, 365p.

木庭次守編,2002b. 『出口王仁三郎玉言集 新月の光』 下巻, 八幡書店, 454p. + 見出し索引 18p.

木庭次守編,木庭元晴監修,2010. 霊界物語ガイドブック. 八幡書店.

木庭元晴, 2012a. 第三章 明治時代以降の森の変遷. 新修茨木市史, 第一巻, pp.116-154 + 植生図。

木庭元晴, 2012b. 第四章 花粉分析から得られた完新世後期の植生変遷. 新修茨木市史, 第一巻, pp.155-177.

木庭元晴,2022. 記紀スサノヲの歌に隠されたレトリック — 日本タニハ文化研究所 (教養) Kindle版. 日本タニハ文化研究所.

Koba, Motoharu, 2022. ENGLISH ABSTRACT Recondite rhetoric in the first tanka chanted by Susanowo in the Kojiki and Nihon-shoki in Japanese — Reports of Nihon Taniha Cultural Institute (教養) Kindle版. Nihon Taniha Cultural Institute.

五味文彦・鳥海靖編, 2010. 『もいちど読む山川日本史』 山川出版. (1版1刷 2009.8.30, 1版7刷 2010.1.25)

サルトル, ジャン ポール , シモーヌ ド ボーヴォワール,加藤周一, 白井浩司, 日高六郎, 平井啓之 他, 1967. 『サルトルとの対話』 人文書院.

塩津晴彦, 2008a. 「錦の土産」全文の公開にあたって. 神の国(1980年第三種郵便物認可,愛善苑), 2008年1月号(本誌第333号),pp. 19-46. 霊界物語.ネット 王仁三郎「錦の土産」

塩津晴彦, 2008b. 大本事件の裁判について. 神の国(1980年第三種郵便物認可,愛善苑), 2008年8月号(本誌第340号),pp. 50-52. 

尚学図書編,1989. 国語大辞典(新装版). 小学館発行,1981年第一版第一刷,1989年第一版新装第三刷.

武田光弘編,1989. 木庭・木場一族. 日本家系協会(東京都中央区銀座).(限定100部のNo. 61で随時発行日が記されているようだ)

田辺謙二, 2023. 大本と芸術. 京都新聞(平成23年11月から17回連載). (https://oomoto.or.jp/wp/oomotoart/ のみ閲覧)

玉置文弥,2021. 道院・世界紅卍字会と大本教 : 提携初期における協力の実態と「満蒙」.  現代中国研究, No. 46, pp. 66-91.

玉置文弥,2023. 第二次大本事件が残したもの: 日中戦争・「大東亜戦争」下における道院・世界紅卍字会の「日本化」. コモンズ,2023 巻 ,2 号, pp. 95-131.

出口うちまる(伊佐男),1971. 聖雄の面影 ——聖師聖誕満百年におもう——. おほもと,Vol. 23, No. 4, pp. 20-26.

出口王仁三郎(大正13, 1924MS). 錦の土産.

出口王仁三郎,1934. 出口王仁三郎全集 第二巻 宗教・教育編. 非賣品,萬有社,東京, 638p.

出口王仁三郎,1985. 『道の栞』(大本教学編纂所編,天声社発行,昭和60 (1985) 年11月6日 第十一刷増補版). (出口王仁三郎による明治30年代後半に執筆された『道の栞』から編集されている。pp. 273-277の編者による「あとがき」参照のこと)

出口すみ子,1951. みろく様のご因縁 (昭和26年4月8日みろく大祭ご挨拶). 神の国誌, 昭和26 (1951) 年6月号(『愛善世界』聖師御生誕120周年記念号,1991年8月号,pp. 20-24 に再掲されたもの)

出口直日,梅野,八重野,尚江,住之江,1962. 座談会 第二次大本事件回顧 「有悲」之碑. おほもと, Vol. 14, No. 8 & 9(合併号), pp. 36-47.

出口直日,1964. 随想塵塚. おほもと, Vol. 16, No. 9, pp. 23-25.

出口直美,1986. 『しずはた(倭文機)』, 出口直美作品集, (株)鴻出版. (現在在庫なし,随筆部分のみ参照)

出口直美,2006. 『はた織る日日』,出口直美歌集, つる山おり工房. (絶版)

出口雅子,2019. 『星座記念:出口家族「獄中への家族写真」』改訂版(自費出版)

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出口禮子,2008b. この天地の大いなる謎 ——日の出別神考——. 連載②, 神の国(1980年第三種郵便物認可,愛善苑), 2008年2月号,pp. 34-39.

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 次のWebページ参照:道院が日本に伝わるまでの経緯(出口王仁三郎聖師との提携 )

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山藤暁,1978. 神の宇宙創造 ー救世経綸の大要ー. 木庭次守編『霊界物語の啓示の世界』日本タニハ文化研究所備付,pp. 13-18.(初出不明)

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以 上