はじめに
このページで論じる観点は,大本教の創始者である出口なお,その娘出口すみの夫出口王仁三郎が立てた教えを信奉そして活動していた父を尊敬するという立ち位置の著者のものである。ぼくは宗教二世にあたるのだろう。ただ,教団には属していない。
宗教二世への信仰の強制が,現在,大きな社会問題になっていることは承知しており,その観点から考えると,三代教主出口直日は,生まれる前から次のなおの神諭に出ているように,自らの人生を選択する余地なく,過酷な運命を背負っていたことは確かなことである。
————————————————(引用1はじめ)
霊界物語 > 第60巻 > 第5篇 金言玉辞 > 第21章 三五神諭(その二)明治三十二年旧七月一日付の出口なおの神諭に,
艮金神大国常立尊の三千年の経綸は、根本の天の岩戸開で有るから、悪の霊魂を往生さして、万古末代善一つの世に致すのであるから、神の国に只の一輪咲いた誠の梅の花の仕組で、木花咲哉姫の霊魂の御加護で、彦火々出見尊とが、守護を遊ばす時節が参りたから、モウ大丈夫であるぞよ。
(引用1おわり)————————————————
とあって,1902年(明治35年)3月7日,王仁三郎と二代すみの間に,出口朝野(後の三代直日)が生まれ,なおと王仁三郎によって,朝野が木花咲耶姫だと宣言された。1928年(昭和3年)には,二番目の夫高見元男(後の出口日出麿)(1897年(明治30年)12月28日生)と結婚し,日出麿が彦火々出見尊,となる。
朝野は三代教主として生まれながらに決定され,それを否応無く引き受けなければならなかったのである。朝野のような優れた人にとって,このような自らの思いとは別のところで,神定めとして決定された境遇は,極めて過酷なものであっただろうが,出口なお,出口澄子,王仁三郎に,教団を託されて,周囲からの期待にも応えて,昇天されるまで,懸命に本人が思うところの世界を繋いできたのであろう。以下,敬称は省略する。
以上,2024/04/26挿入,2024/05/03,修正。
テーマ「三代教主は木の花姫か」は,ぼくにとって重要だ。出口王仁三郎口述『霊界物語』を信じることができるか,延(ひ)いては出口王仁三郎の教えを信じることができるか,に関わっている。三代教主が木の花姫だとすると,ぼくの王仁三郎信仰は瓦解する。
ぼくの三代教主の個人的記憶は,少年時のささいな印象に基づくものであるが,三代教主が普通の人なら全然問題ない。単に,「おばさん」の住居前の庭で目が合っての印象に過ぎない。愛に満たされた神(に近い存在)とされるから,ぼくは拘っている部分もある。
『霊界物語』での木の花姫の活躍は繰り返し述べられている。何らかの成果を謳う文脈で唐突に木の花姫が挿入されることも多々ある。三代教主に木の花姫が宿っているとするなら,『霊界物語』の記述は,単に「大本運動」または「出口家」の宣伝に使用されていると考えざるを得ない。二代苑主(出口すみ,澄子)昇天後だと思うが(創刊号はタニハで見つけたが未だ確かめていない),月刊誌『木の花』が創刊され,タニハの資料整理過程で『木の花』を斜め読みした感想では,三代教主は周辺に大いに盛り立てられてきたようだ。
1. 瑞御霊神業に対する半世紀に及ぶ破壊工作の結実
三代教主は自らの長女直美を神(王仁三郎)定めの教主と認めながらも,直美の夫「栄二」の思想が「社会主義的」であることを理由に,長女直美とともにいわば勘当し,三女の聖子(きよこ)(直近の下の資料参照)を四代教主とした。『ウィキペディア』の出口直日,の項は,現大本本部の捏造が一方的に誌されており,ここでは引用2を削除した。
————————————————(引用2はじめ)
(引用2おわり)————————————————
資料(https://webcatplus.jp/creator/735428):出口 聖子(でぐち きよこ、1935年2月19日 – 2001年4月29日)は、宗教法人大本の四代教主。 昭和10年(1935年)、三代教主出口直日・教主補出口日出麿の三女として出生。三諸齋(いつき)と結婚。昭和55年(1980年)、英国聖公会大主教座教会カンタベリー大聖堂で三代教主名代として能「羽衣」を舞う。 昭和57年(1982年)5月、教嗣となる。昭和63年(1988年)1月、直日の命により教主代行。三代教主のそば近くに長く仕え、その指導と影響を強く受けた。 平成2年(1990年)9月23日、三代教主直日の昇天により道統継承、四代教主となる。(2024/04/23閲覧,現大本本部の記述のようだ)
タニハに10部ほどあった次の冊子を参照した。
書誌:『愛善世界』,No. 91, 1990.11.1,愛善世界(編者山本滋)発行,印刷: 島根印刷株式会社。
この号には,出口王仁三郎が直美を四代教主とした証拠の品やお歌などが披瀝されている。p. 30には,直美の,結婚(昭和20年4月16日)に関わる記事がある。それをそのまま,次に。
「聖師様,二代様のお帰りになった中矢田農園は明るさを取り戻した。しかし日本の戦況は日増しに悪化していった。終戦を迎える四カ月前,聖師様が自ら選ばれた栄二先生とお見合いして結婚をされた。直美様は数え年の十七歳という若さであった。」
直美の夫,出口栄二(旧姓家口)を聖師が選んだのは,栄二が有栖川宮熾仁(ありすがわのみやたるひと,直近の下の資料参照)の落とし子の家系の子であることが世間的に認知されていたからのようである。上田喜三郎(出口王仁三郎が出口家に養子に入る前の名前)は,母が宮中に仕えている際に有栖川宮熾仁との間に授かった子供であった。受胎が明らかになり,有栖川宮熾仁から御歌と懐刀を頂いて帰郷している。この歌と懐刀は保管されており,毎日新聞1978年(昭和53年)12月10日号(京都2丹波版)などに紹介されている。ただ,宮内庁「公認」にはなっていないようで,血統のだめ押しというか?そういう考えで,王仁三郎が直美の夫として栄二を選んでいるのである。(かつて,ぼくの質問に父がそう答えている)。
熾仁については次の資料に。なお,この経歴を見ると,間違いなく,北朝系であり,おほもとの言い伝えなどでは南朝系とされる明治天皇以降と異なる。朝日新聞の文化欄でのかつての著名な知識人丸谷才一が現令和天皇に男子の子が無い件で,北朝があるではないか,と書いていたのは印象深い。
資料(国立国会図書館,近代日本人の肖像,熾仁親王): 天保6年2月19日 〜 明治28年1月15日(1835年3月17日 〜 1895年1月15日)。有栖川宮第9世。有栖川宮幟仁親王の第1王子。嘉永元(1848)年仁孝天皇の猶子(メモ:親族または他人の子を自分の子としたもの。養子,義子)となり、翌年親王宣下。4年仁孝天皇皇女和宮と婚約したが、和宮が徳川家茂に降嫁のため沙汰止みとなる。幕末以降国事に奔走し、慶応3(1867)年総裁職に就任し、戊辰戦争では東征大総督となり官軍を率いて東下、江戸に入った。明治10(1877)年西南戦争には征討総督として出征、その後陸軍大将となり、参謀本部長、参謀総長となる。日清戦争中に病没。
最近,仄聞するところによると,昭和六年の満州事変後,昭和七年(元男と朝野結婚後4年ほど後)か,出口日出麿(旧高見元男)は王仁三郎に満州に派遣され,かなり危険な目に遭って,(大本事件の再発を恐れてか),そういう王仁三郎を早期に隠退させるべく策動し,それが王仁三郎に露見したようである。王仁三郎からの怒りを避けるべく,三代とともに列車に乗って日本海沿いに進み,北海道に渡り東部(釧路だったか)に逃れたという。その際,生まれて間もない聖子(後の大本本部の「四代教主」)を懐いていたというから,昭和10年大本事件の年であった。これは徳重高嶺から聞いたということであるが,徳重は大国以都雄(大国美都雄)から得た情報かも知れない。
昭和七年での王仁三郎早期隠退の策謀については,大本七十年史にも誌されていない。
上記『愛善世界』同号には,次の報告が掲載されている。徳重高嶺,1990. 神定四代 出口直美さまとその神業. 『愛善世界』,No. 91, pp. 4-12. この詳細は余りに生々しく,おぞましいので,詳細は省いて事態の流れを示す。関心のある方は,愛善世界社への注文方法 から連絡して,バックナンバーの在庫を問い合わせる選択肢もある。徳重の記述は大本に関わる人々にはかなり広く知られていることのようである。他の情報ソースからもぼくは了解していた。
次の図1の「控訴審 出口王仁三郎氏法廷筆記(全)——大島豊氏はどんな人だったのか——」の一部を書き出そうとしたが,判然とせず敢えて適当な文字を宛てた部分もある。文章として稚拙な部分は修正した。カタカナは頭に入りにくく,カタカナ部分をひらがなで表現した。漢字にルビを振ったり,漢字を今風に替えたり,語尾や句読点を付け加えたところもある。
昭和十六年一月二十三日木曜日 出口王仁三郎控訴公判第七回
問 > 証一〇四二号「聖師登板の日近し出(いで)や」の書面を知るや。井口外(ほか)四名より受けとりしや。その顛末(てんまつ)(や)如何(いかん)。
問 > 大島豊などが,その書面で,お前の隠退を迫ったので(は)ないか。
答(王仁三郎による) > 昭和六年(1931年),建川(少将)さんや泰さんに満州に行ってくれと頼まれた。紅卍字会との提携が出来たという事でした。
その時,餞別として,東京の信者が七,八千円(用立てて)くれ,それを大島が預かって大島も行くつもりで,亀岡に来ました。
(以下に続く)
(続き) 建川も一緒に行こうと言った。この頃は,満州で大本は紅卍字会と活動していました。宣撫班(せんぶはん,占領地での懐柔工作単位)は大本が始めました。十二月八日に発とうとしたのですが,その時,宣撫班の方から「出てくるべからず,身辺危うし」という電信がきました。それで私は中止して,用立ててくれた金を満州に送って,(紅卍字会との提携の)費用に充てました。
この変更に対し,大島は怒って,(私を陥れるべく)婦人関係の中傷をしたのです。大島は,「あんたのやり方はぬるくたい(ぬるまゆてきだ,てぬるい)から,日出麿さんと代われ」と言いつつ,奉書(高位者がその意思・命令などを特定者に伝える際に使うもの)を私に渡して,(私が居た部屋を)出て行きました。大島は,私が行くといいつつ金を出させたのは詐欺のようなものだと怒っていたのです。(以上)
この事件は大島が王仁三郎暗殺を謀ったものかも知れない。それを誤魔化すべく,奉書を作成した可能性がある。なお,
今日,ネット検索中,2024/05/03,『なぜ栄二先生は提訴されたか?』(2005年6月1日発行)PDFファイル,という文献に出会った。この中に,
聖師おろしだけでなく,道統を転覆する流れはその後も続く。二代苑主の時代には,後の三代教主の長男である出口梓(京太郎)を直美に代わって三代教主の次の教祖にする動きがあり,二代苑主の大福帳が次のように紹介されている。
「この神の世継は女にきめてある。筆先にかたくかたく書き残してあるのに,此の間来たる人の話,梓が世継に仕組が変わりたとわ,そりゃ何を申すか,艮の金神様のお筆先を何と思うておるか,これが天地の規則に定まりておるのじゃ曲津めが,」
そういう流れに載っているのが聖子の四代教主擁立であり,これは成功した。昭和57年(1982年)5月26日には,大阪の都ホテル四階朱雀の間で,総長をはじめとする役員によって教嗣変更の諮問委員会が開かれて,道統変更の手続きが取られた。上記資料の「三諸齋と結婚。昭和55年(1980年)、英国聖公会大主教座教会カンタベリー大聖堂で三代教主名代として能「羽衣」を舞う。 昭和57年(1982年)5月、教嗣」という段になるのである。
なお,この諮問委員会の会合には地方の有力メンバーも参加していたが,直美と栄二おろし,は全くの寝耳に水だったようである。それゆえにこそ,この諮問委員会の不埒な内容が広く流布されたのであろう。
この四代教主入れ替えは,聖師おろし以来の勢力がついに目的を果たしたというべきなのだろう。この四代教主入れ替えの悪巧みには,日出麿逃避行の北海道東部(釧路だったか)の関係者も参加して亀岡市保津町の宿に再三集まっていたというのである。
聖師おろしから四代教嗣の入れ替えまでの歴史的一貫性は,いくつかの仄聞と徳重の報告から推定したものである。この事件を『霊界物語』から探し当てたいのであるが読み込みが足りず,その場面に出会えていない。ただ,正しい道統の復活の道筋のぼくの推理は,https://motochan.info/wp/koba-tsugimoris-onisaburo/the-chronological-chart-three-lineages-deities-reikaimonogatari/ に示している。
三代教主が道統転換に追い込まれていった状況は知る由もないが,聖師でさえも,日出麿三代一派の聖師おろしが露見しても,二代教主の次の三代を変更していない。神定めの観点から,聖師でさえも教主の入れ替えは越権行為なのである。その越権行為が三代教主によって成されたのである。
創業家が支配する企業ならばこの種のお家騒動は自然現象といっても良いだろうが,おほもとは,なおと王仁三郎の教えで成立している。その教えを根底から破壊してしまえば,何も残らないのである。この世は人事で決まるのである。
次章に述べるように,出口王仁三郎『霊界物語』第六十巻『瑞祥』は,ぼくにに三代とその周辺による事件を教えてくれた。そして,この事件を通じて,「三代教主は木の花姫か」を知ることになった。父昇天の後のタニハでのお祭りの際に,吉田ただを(2021年6月昇天)さんと二人だけで並んで坐っている時に,ただをさんから父の言葉を聞いた。木の花咲耶姫=木の花神(紙)裂くや姫。なお,『霊界物語』原文引用には,飯塚弘明氏の霊界物語ネットを利用させて頂く。
1. 伯耆国大山での垂訓
1.1 『霊界物語』第六十巻挿入節『瑞祥』
ここに取り上げる第六十巻,昭和四十五年二月十八日発行,には2枚の口絵写真があり,その一つは,聖師の生家があった穴太久兵衛池畔での出口聖師とご生母よね刀自のスナップ写真(大正14年4月6日撮影,部分切り抜き)である。この写真でみる出口朝野は聖師の母親に近い感じがする。
霊界物語 > 第60巻 > 第1篇 天仁和楽 > 第3章 瑞祥,には,この口述の日(大正12年4月5日)か前夜に,皆生温泉浜屋に,二代澄子とのちの三代が訪ねてきたことが次(引用3)のように歌われている。ここでは三代は,「木花姫の御再来,御霊の守る肉の宮」とある。三代=出口直日は1902年(明治35年)3月7日生まれだから,この時は21歳である。聖師と出口直日の間で何らかの蟠(わだかま)りがあって,それが解決した喜びが歌われているようだ。
————————————————(引用3はじめ)
時しもあれや聖地より,此世の泥を清むてふ,二代澄子と仁斎氏,木花姫の御再来,御霊の守る肉の宮,千代の固めの経綸に,遙々来たる松林,中に立ちたる温泉場,浜屋の二階に対坐して,役員信徒と諸々と,三月三日の瑞御霊,五月五日の厳御霊,三五の月の光をば,いと円満に照らさむと,互ひに誠を語り合ひ,誓ひを立てし,目出度さよ。
(引用3おわり)————————————————
「此世の泥を清」めたのは二代澄子と仁斎氏で,「此世の泥」にまみれたのは木の花姫の肉の宮,ということだろう。「三月三日の瑞御霊,五月五日の厳御霊,三五の月の光をば,いと円満に照らさむと」,というのは厳瑞二霊のおほもとの維持と展開(口述の三五神諭にもある)を意味するのだろう。「互ひに誠を語り合ひ,誓ひを立てし」は尋常では無い。
この歌に続いて,段落を開けて,次の歌(引用4)が続く。
————————————————(引用4はじめ)
スメールの山の麓に二柱,並びて世をば開く今日かな。(メモ: スメール山は,古代インド世界観の中心にそびえる聖なる山であって,この場合は大山にあたり,二柱は,聖師と二代澄子を指している)
世の人を皆生かすてふ温泉場,救ひの船に棹さし進む。(メモ: この場合は,聖師と二代澄子を救う船に,二人が乗っていると考えれば良いのか)
天地の真純の彦の物語,此の世を澄子の司来たれる。
マイトレーヤ御代早かれと松村の(松村真澄),真澄の彦の笑み栄えつつ。
ミロクの世一日も早く北村の(北村隆光),月日の隆き光待ちつつ。
いとた加かき藤の御山の神霊(加藤明子),明したまひぬ常闇の世を。(メモ: 木の花姫の読込)
世を救ふ神の出口の瑞月が(出口瑞月),真純の空に輝き渡る。
マハースターマブラーブタ(大勢至)マンヂュシュリ(文珠師利),アバローキテーシュヷラ(観世音)尊き。
スーラヤ(日天子)やチャンドラデーワブトラ(月天子)やサマンタガン(メモ: 普光天子),守らせ給へ瑞の御霊を。(メモ: 瑞の御霊を守って欲しいと)
ダルタラーストラ・マハーラーヂャ(東方持国天王)ヸルーダカ(南方増長天王),ヸルーバークサ(西方広目天王)ヷイスラワナ(北方多聞天王),守らせ玉へこれの教へを。(メモ: 厳瑞二霊の教えを守って欲しいと)
(大正一二・四・五 旧二・二〇 於皆生温泉浜屋 加藤明子録)
附記 本日は暴風雨烈しく怒濤の声に妨さまたげられ是にて口述中止せり。
(引用4おわり)————————————————
この引用4の部分には,聖師自ら,守らせ給え瑞の御霊を,守らせ給へこれの教を,とあって,大本運動がギリギリの危機に瀕していたことが想像されるのである。附記の「怒濤の声」というのは三代に係わる人々の声だろう。
第五十七巻序文 では幹部連が皆生温泉に集まっている様子が伝えられている。三代に関わる重大な事態に直面していたことがわかり,序や総説ではなく,『霊界物語』口述中の,この第六十巻第三章に,瑞祥〔一五二八〕,と銘打たれて,挿入されていることも,意味深いことである。
この集まりには,『霊界物語』筆記者のうちでも,中核をなす松村真澄,北村隆光,加藤明子,の氏名読み込み歌がある意味は大きい。木の花姫の肉の宮とする三代に関わる事件を目の当たりにしている中核の人々に,理解を求める意図が感じられるのである。
引用3の直前には,次の歌(引用5)があった。
————————————————(引用5はじめ)
綾の聖地を後にして,神洲最初の鎮台と,言ひ伝へたる大山(だいせん)を,救ひの船に乗りながら,眺めて茲に遠つ世の,生物語(いくものがたり)述べて行く。
(引用5おわり)————————————————
神洲最初の鎮台というのは,「日本」最初の軍隊を配備した地方行政官庁ということだろう。玉国別の攻勢に月の国から逃げてきたバラモン教トップの大黒主(おほくろぬし,常世国生まれ,バラモン教教主大国別命没後,バラモン教大教主となってインドハルナの都(現ムンバイ,インド半島西縁)に割拠,八岐大蛇,『霊界物語小事典』より)が,斎苑の館から駆け付けた素戔嗚尊に征伐される。その舞台が大山(だいせん)ということだ。
霊界物語 > 第60巻 > 第2篇 東山霊地 > 第7章 方便 には,
玉国別が月の国(インド)のバラモン教を捧持していた人々の信頼を得て,イヅミの国スマの里の大地主は三五教の神殿を造営し,全財産を村人に分け与える段などが誌されている。父によれば,この玉国別は大本教団を指しており,聖師の思いはここにあることが理解できるのである。関連する文を次(引用6)に。
————————————————(引用6はじめ)
元来スマの里は何れも山野田畠一切、バーチルの富豪に併呑され、里人は何れも小作人の境遇に甘んじてゐた。併し乍ら日歩み月進み星移るに従ひて、彼方此方に不平不満の声が起こり出し、ソシァリストやコンミュニスト等などが現れて来た。中には極端なるマンモニストもあつて、僅かの財産を地底に埋匿くし、吝嗇の限りを尽くす小作人も現はれてゐた。然るに此の度、アヅモス山の御造営完了と共に、一切の資産を開放して郷民に万遍なく分与する事となり、郷民は何れも歓喜して、リパブリックの建設者として、バーチル夫婦を、口を極めて賞揚する事となつた。俄かにスマの里は憤嫉の声なく、おのおの和煦(わく)の色を顔面に湛へて、オブチーミストの安住所となつた。
(引用6おわり)————————————————
聖師が求めてきた「おほもと運動」は,現在のマスコミや知識人に類して,どっちつかずの,我関せず焉(われかんせずえん),の三代教主時代の態度とは異なるのである。自らの行動そっちのけで,道徳や倫理を語っても信者の救いにはならない。
以上,2024/04/24。05/01修正。
1.2 『霊界物語』第六十巻追加三篇
この第六十巻には,これまでのストーリーから外れて,全366ページの半分以上に及ぶ三篇が追加されている。第三篇 神の栄光,第四編 善言美詞,第五編 金言玉辞,である。第五編には三五神諭その一〜その六があって,上記事件に係わって,不穏な動きを押し返すなおの神諭が鏤められている。
本巻はじめの序文に続いて,三つのお歌が配されている。
————————————————(引用7はじめ)
天地のなやみを救う神人を,押し込めて見よ ないふるかみなり
愛善の徳に満ちたる神人を,知らずに攻むる,曲津神ども
一人の大気狂ひと,一人の大怪物の,正体を見る時
(引用7おわり)————————————————
以上,2024/04/27。
この三つのお歌にある聖師の思いは,救世主の活動を,ちっちゃな頭の連中が三代を取り込んで,厳瑞二霊神業の破壊を策動し,おほもとを占拠しようとしていることへの,怒りである。瑞御霊が気に入らなければ,ちっちゃな頭の連中は,おほもとを出て,新たに道を開けばいいのである。そうはしない。ちっちゃな空虚な位置にしがみつく連中が居る。
第三篇 神の栄光,第五編 金言玉辞の各編で,この非常事態に直接的に係わると思われる文面を二三,ピックアップしたいと思う。第四編 善言美詞,は,祝詞の保存を意図したものであり,この文脈とは直接つながらない。
1.2.a 第三篇 神の栄光
————————————————(引用8はじめ)
つねにそむき去りし子を,しのび泣く母のごと,神われらをまちたまふ,つみ悔いてかへれよと。
いづと瑞とふたはしら,つみの身もすくふなり,母のおもひ父のあい,くめどもつきぬめぐみを。
つみに汚れしものよ,神にかへり,千座を負はせる,母を見よや,手足の爪なき,御手をひろげ,生きよ栄えよと,まねき玉ふ。
(引用8おわり)————————————————
1.2.b 第五編 金言玉辞
これは出口なおのお筆先を王仁三郎が整頓したのが「おほもと神諭」である。ここでは,三五神諭をおほもと神諭と読ませている。瑞御霊王仁三郎が厳御霊出口なおのお筆先を解読整理した結果ということで,三五神諭と表現したのであろう。引用1は,この第五編に収録されている。
————————————————(引用9はじめ)
明治三十七年旧七月十二日:
変性女子の筆先は信用せぬと申して、肝腎の役員が反対いたして、書いたものを残らず一所へ寄せて灰に致したり、悪魔の守護神ぢやと申して京、伏見、丹波、丹後などを言触に廻りて神の邪魔を致したり、悪神ぢやと申して力一杯反対いたして、四方から苦しめてゐるが、全然自己の眼の玉が眩んでゐるのであるから、自己の事を人の事と思うて、恥とも知らずに、狂人の真似をしたり、馬鹿の真似を致して一廉改信が出来たと申してゐるが、気の毒であるから、何時も女子に気を附けさすと、悪神奴が大本の中へ来て何を吐すのぢや、吾々は悪魔を平げるのが第一の役ぢやと申して、女子を獣類扱ひに致して、箒で叩いたり、塩を振掛けたり、啖唾を吐きかけたり、種々として無礼を致しておるぞよ。是でも神は、何も知らぬ盲聾の人民を改信さして、助けたい一杯であるから、温順しく致して誠を説いて聞かしてやるのを逆様に聞いて居れど、信者の者に言ひ聞かして邪魔を致すので、何時までも神の思惑成就いたさんから、是から皆の役員の目の醒める様に、変性女子の御魂の肉体を、神から大本を出して経綸を致すから、其覚悟で居るがよいぞよ。女子が出たら後は火の消えた如く、一人も立寄る人民無くなるぞよ。さうして見せんと此の中は思ふ様に行かんぞよ。明治四十二年までは神が外へ連れ参りて、経綸の橋掛をいたすから、後に恥かしくないやうに、今一度気を附けて置くぞよ。この大本の中の者が残らず改信いたして、女子の身上が解りて来たら、物事は箱差したやうに進むなれど、今のやうな慢心や誤解ばかりいたしておるもの許りでは、片輪車であるから、一寸も動きが取れん、骨折損の草臥儲けに成るより仕様は無いから、皆の役員の往生いたすまでは神が連出して、外で経綸をいたして見せるから、其時には又出て御出で成されよ、手を引き合ふて神界の御用をいたさすぞよ。
(引用9おわり)————————————————
————————————————(引用10はじめ)
大正三年旧⒎月十一日:
綾部の神宮坪の内の本の宮は出口の入口、竜門館が高天原と相定まりて、天の御三体の大神が天地へ降り昇りを為されて、この世の御守護遊ばすぞよ。この大本は地からは変性男子と変性女子との二つの身魂を現はして、男子には経糸、女子には緯糸の意匠をさして、錦の旗を織らしてあるから、織上りたら立派な模様が出来ておるぞよ。神界の意匠を知らぬ世界の人民は色々と申して疑へども、今度の大事業は人民の知りた事では無いぞよ。神界へ出てお出ます神にも御存知の無いやうな、深い仕組であるから往生いたして神心になりて神の申すやうに致すが一番悧巧であるぞよ。まだ此先でもトコトンのギリギリ迄反対いたして、変性女子を悪く申して、神の仕組を潰さうと掛かる守護神が、京、大阪にも出て来るなれど、もう微躯とも動かぬ仕組が致して神が附添うて御用を為すから、別条は無いぞよ。変性女子の霊魂は月と水との守護であるから、汚いものが参りたら直に濁るから、訳の解らぬ身魂の曇りた守護神は傍へは寄せんやうに、役員が気を附けて下されよ。昔から今度の天の岩戸開の御用致さす為に、坤に落してありた霊魂であるぞよ。此者と出口直との霊魂が揃ふて御用を致さねば、今度の大望は、何程悧巧な人民の考へでも物事出来は致さんぞよ。
(引用10おわり)————————————————
おほもとは,厳御霊と瑞御霊,二霊のみで成立していることの確認である。現代の価値に沿って宗教活動をすればするほど,この厳瑞二霊から遠のいて,おほもとを捨てることになり,世界を救うことにもならない,ということである。
1.3 『霊界物語』第六十巻総説と此の世の泥
本巻の総説は,三代が此の世の泥を被った後に誌されたものである。三代およびその周辺の動きはその二年前の大正10年の大本事件を経た結果ともいえよう。それを踏まえて,この総説が誌されたものと考えられ,この事件を契機に聖師が『霊界物語』口述に踏み切ったことが誌されているのである。この総説のはじめを次の引用11に示す。
————————————————(引用11はじめ)
古人曰ふ、『善願あれば天必ず之を輔く』と。瑞月は神明の随々病躯を駆つて漸く神示の物語原稿用紙七万五千枚約八百五十万言、頁数二万四千、約九箇月の着手日数を要して、茲にいよいよ六十巻を口述編著しました。斯かる阿房多羅に長い物語を書いて識者より冗長粗漫の文章だと失笑さるる恐れ無きには非ざれども、今日の大多数の人々は古人に比して頭悩の活動力最も劣り、容易に深遠なる教義を真解すること能はず、且つ何事も上走りにて誤解し易く、為に三五教の真相や大精神を曲解し終には忌はしき大本事件を喚起するに到つたのは、返す返すも遺憾の至りであります。
017 上根の人は一言聞いて其真相を了解し、至仁至愛の神の大精神や大経綸を正覚すと雖も、中根下根の人々に対しては到底高遠微妙なる文章や言語にては解し得ない而己ならず、却て神意を誤解し、大道を汚濁する虞がある。故に瑞月は現代多数の人々の為に多大の努力と日子を費したのであります。
(引用11おわり)————————————————
1.4 『霊界物語』第六十巻以降の転換
『霊界物語』の真善美愛シリーズが第六十巻で終了して,第六十一巻から第七十二巻までは山河草木となる。その第一巻と第二巻は讃美歌集となっていて,第六三巻から,真善美愛の最終刊第六〇巻のストーリーが受け継がれてゆく。第六〇巻から第六二巻までの,『霊界物語』のストーリーから外れた原因として,三代に係わる騒動が関係しているように思われるのである。
三代に係わる騒動の後,木の花姫の登場の存否を調べると,『霊界物語』については,山河草木寅の巻第六三巻の次の二箇所に限られる。
————————————————(引用12はじめ)
第五章宿縁〔一六一二〕:
伊太彦はスダルマ山の麓に於て暫らく神懸状態となつてより俄に若々しくなり、体の相好から顔の色迄玉の如く美しくなつて了つた。これは木花姫命の御霊が伊太彦に一つの使命を果さすべく、それに就いては大変な大事業であるから御守護になつたからである。併し乍ら伊太彦は自分の顔や姿の優美高尚になつた事は気がつかず、依然として元の蜴蜥面であると自ら信じてゐた。
(引用12おわり)————————————————
————————————————(引用13はじめ)
第一八章 夜の旅〔一六二五〕:
忽ち虚空に音楽聞え、芳香薫じ、カラビンガの祥鳥に取まかれて雲を霞と御姿をかくしたまふた。後振りかへり、伊太彦は幾度となく御空を仰ぎ見て、『木の花の一度に開く伊太彦が,心の空も晴れ渡りけり。天教の山より天降りたまひたる,木花姫の恵尊し,いたづきの身も健かになりにけり,神の恵の深きをぞ知る。
(引用13おわり)————————————————
王仁三郎は強い危機感のもと,まずは,第六〇巻後半の三篇,第六一,六二巻に,讃美歌をまとめたのだろうと思う。
以上,2024/04/28,05/01修正。
2. このはなひめ
2.1 『霊界物語』小事典
木庭次守編,木庭元晴監修,2010. 霊界物語ガイドブック. 八幡書店.
これは,霊界物語ガイドブック pp. 1-434,霊界物語小事典 pp. 1-154,の二篇からなっている。
『霊界物語小事典』は1972年(昭和四十七年)五月五日に大本教典刊行会(代表出口うちまる)から発行されている。
上記の霊界物語小事典の次の項目を再掲する。『霊界物語』巻番号 を踏まえて,その『霊界物語』のその該当と思われる部分を,小事典の説明の後ろに,飯塚弘明氏のサイトからコピペしている。
このはな〔木の花〕 梅の花。【『霊界物語』巻番号 6-24】——
木花とは梅の花の意なり。梅の花は花の兄と云ひ、兄をこのかみと云ふ。現代人は木の花と云へば、桜の花と思ひゐるなり。節分の夜を期して隠れたまひし、国祖国治立の大神以下の神人は、再び時節到来し、煎豆の花の咲くてふ節分の夜に、地獄の釜の蓋を開けて、再び茲に神国の長閑な御世を建てさせ玉ふ。故に梅の花は節分をもつて花の唇を開くなり。桜の花は一月後れに弥生の空にはじめて花の唇を開くを見ても、木の花とは桜の花に非ざる事を窺ひ知らるるなり。
このはなさくやひめ〔木の花咲耶姫〕 富士浅間神社の御祭神で神使松岡芙蓉仙人を派遣して,出口聖師に高熊山修行を命じ玉うた神さま。神人和合の神で,報身ミロクの神業に奉仕される。【『霊界物語』巻号 1-1, 1-28】——
明治卅一年如月の九日[※]、富士浅間神社の祭神、木花咲耶姫命の天使、松岡芙蓉仙人に導かれて、当山に自分が一週間の修業を命ぜられた
このはなひめ〔木の花姫〕 富士山の神霊で,天地人和合の神。仏名は観世音菩薩,最勝妙如来,観自在天。【『霊界物語』巻番号 6-24】——
智仁勇の三徳を兼備して、顕幽神の三界を守らせたまふ木花姫の事を、仏者は称して観世音菩薩といひ、最勝妙如来ともいひ、観自在天ともいふ。また観世音菩薩を、西国三十三箇所に配し祭りたるも、三十三相に顕現したまふ神徳の惟神的に表示されしもの。
このはなひめ〔木花姫〕 五六七大神の一部または全部のご活動をされる,木の花咲耶姫の御本霊。【『霊界物語』巻番号 1-31, 40-6】——
『木花姫の神様も矢張り五六七大神様の一部又は全部の御活動を遊ばすのだよ。又天照大御神と顕現遊ばすこともあり、棚機姫と現はれたり、或は木花咲耶姫と現はれたり、観自在天となつたり、観世音菩薩となつたり、或は蚊取別、蚊々虎、カール、丹州等と現はれ給ふ事もあり、素盞嗚尊となる事もあり、神様は申すに及ばず、人間にも獣にも、虫族にも、草木にも変現して万有を済度し給ふのが五六七大神様の御真相だ。要するに五六七大神は大和魂の根源神とも云ふべき神様だ』
このはなひめ,の項は二つあって,音は一致しつつ,漢字表記に仮名「の」を挿入するかしないか,で区別されているが,『霊界物語』では漢字表記の場合,仮名「の」の表記は無いようだ。なにゆえ,このような区別がされているのか,わからない。言霊学的観点からの区分とは想像されるのであるが。
このように見てくると,出口なおが引用1のように,明治三十二年に,神の国に只の一輪咲いた誠の梅の花の仕組で、木花咲哉姫の霊魂の御加護で,という予言は,上記事典の,このはなひめ〔木花姫〕,の活動の一形態の,木の花咲耶姫,であることになり,五六七大神の一活動ということになるのである。ただ,聖師がそれを受けて,三代を,木花姫の肉の宮,としたことには疑問が生まれる。
聖師は,木花咲耶姫と木の花姫と木花姫を区別していない。聖師の発言なので,区別はない,と考えて良いのかもしれない。
なお,文献的には木花開耶姫または木花之佐久夜毘売があって木花姫または木の花姫はない。聖師の援用的な表現と言える。
2.2 報身みろく
次の報告には,木の花姫論考がある。上記の霊界物語事典より発行時期は遡るが,読者の理解の便宜上,このように配列した。
木庭次守著,1964年(昭和39年)9月1日,大本事件解決の鍵 −日出麿先生の荒行ー. おほもと,Vol. 16, No. 9(通巻181号),pp. 52-57.
この報告のテーマは,大本事件が三代の夫日出麿の発病によって,聖師などの保釈が早まったということであるが,神界の経綸の観点から論じられており,このはなひめ論はその中心をなす。次にその論点を簡潔に示す。
大本神諭の中に「大本は三代の経綸である」とあって,法身みろくは開祖で基礎的神業,応身みろくは聖師で宗教としての要素の完成,そして,開祖と聖師の直系として三代教主は報身みろくにあたる。その神名は開祖の大本神諭には木花咲耶姫命,聖師の著書には木花姫命とも示されている。三代教主は,真神の神格,神徳の完成した五六七大神の一部の顕現,また全部の顕現として,弥勒の神業を完成する活動をされるという。
ものすごいことになってしまったのであるが,開祖と聖師の書きおきではそういうまとめ方に行きついてしまう。開祖と聖師が次世代に大本運動が恙なく受け継がれるべく,三代教主の時代を保証する思いの反映と言える。
2.3 大本史とのずれ
木庭次守編,1971年(昭和46年)9月8日,大本教義. 研究資料2, 大本本部青年部. 44p.
には,大本教旨,大本三大学則,大本四大綱領,大本四大主義,がまとめられているが,すべて聖師が打ち立てたものである。三代教主によって新たに追加されたものはない。追加してはならない権威がある。三代教主が,「真神の神格,神徳の完成した五六七大神の一部の顕現,また全部の顕現として,弥勒の神業を完成する活動をされる」という記述は,聖師の文献から抽出することはできるが,大本史とは大きなずれがある。「木の花姫=報身弥勒」宣言は,前節で述べたように「開祖と聖師が次世代に大本運動が恙なく受け継がれるべく,三代教主の時代を保証する思いの反映」なのである。
3. 倫理的世界の限界
3.1 なお神諭,日出麿随筆,直日随筆
大本の月刊誌として最も発行部数の多いものは,おほもと誌ではないだろうか。これを読み込んだことはかつて無く,本ページに関係すると考えて手許に置いていた,月刊おほもと,Vol. 16, No. 9(通巻181号)から,思うところをここに示したい。
開祖出口なお おほもとしんゆ 明治三十六年旧四月十七日 p. 18
————————————————(引用14はじめ)
木の花咲耶姫どのは,一人なりと分かりておらん神に言い聞かしなされて,和合させるおん役であるから,彦火々見(ひこほほでみ)の命どのもお手伝いをなされよ。
(引用14おわり)————————————————
出口日出麿 信仰覚書 p. 21
————————————————(引用15はじめ)
キリストの言いしごとく,真に幼児のごとくならざれば,天国には入り得ざるものぞ。幼児のごとくとは,一口に言えば,邪気なきなり,陰謀存せざるなり。つねに精霊に導かれてあるなり。俗衒(ぞくげん)の気なきなり。いまの世を基本にものを判断せざるなり。恥ずべきを恥じ,恥ずべからざるを恥じざるなり。わが持てる智識(ちしき)が,毫も邪魔になることなく,ますます身を益し,人を利する一方なるなり。実に実に,かかる人にのみ天国は開かる。よく人を観,よく吾を観るべし。
(引用15おわり)————————————————
三代教主出口直日 随想塵塚 p. 23, 25
————————————————(引用16はじめ)
平和運動に先鞭をつけさしてもらったことは,意義のあることでした。しかし今は,世間では騒いでも,大本の信仰をさしていただいている者は,平和を叫ぶのではなく,心の中に養うことで,”平和の霊府”とならしていただくことです。
教をしっかり受けとって,心の立替え立直しをすることで,神さまのなさる立替え立直しのご用に奉仕さしていただけるのです。外に向かって立替えを叫ぶことは,その方の人に任しておけばよいので,それがやりたいのであれば,その方にまわってもらうことが結構です。(以上,p. 23)
(中略)
私の祈りの一番の眼目は,世界中の人々が仕合せになってもろうことです。そのためには,世界を大きく二つに分けている共産主義と資本主義の両陣営が,お互いに相手の行方を理解し合う,両方がそういう心になって歩みよってもろうことが一番大切だと思います。それで私は,何よりもそのことを,日夜,祈らずにはおられないのです。
大本という所は,どちらの陣営にも偏ることは許されないところです。そのことは,開祖さまのお筆先を丹念に,一つ一つ,しっかりと頂いてもらえば,大本がどういうところか,何をするところかということが分かってくるとともに,はっきりします。 (以上,p. 25)
(引用16おわり)————————————————
3.2 実現性は
4. 結論は出た
これから書き込みが必要だが,今日,タニハに出かけて,智恵を貰えて,結論は出た。ストーリーは今後書き込んで行く。
大正12年4月の三代事件,木の花姫の代々教主セオリー崩壊,昭和4年(1929年)7月30日に直美誕生,転覆を避けるために,木の花姫より上位の厳霊再来とした,それでも転覆。三代の澤田姫再来はすでに第二七巻に誌されていて,聖師は承知済み。聖師を導いた木の花姫を代々教主に懸かるという形を作ろうとしたが変えることはできなかった。
その結果,代々教主の対応神を描くことができなくなった。木の花姫は,大本教主のお手本だった。
以上,2024/04/29。