古い水屋の引き出しに (1): 二代様の時代 in the drawings of the old cupboard for tea-things (1): the second hierarch of Oomoto
はじめに
旧亀岡町横町1番地の大阪控訴審裁判事務所(家主はぼくの同級生の中田嬢のお婆さんだった)にそのまま父が住むようになって(追加図1 家賃金領収通),母と結婚して,敗戦を迎えた。この事務所には聖師が中矢田からお一人で父に会うべく時々お訪ねになった場(父の昇天のあとで,父の著作『新月のかけ』,を読んで,ぼくは知ることになるが)であり,この借家を離れるに際しては,家主の中田さんから購入したいと洩らしていた。母のそんなお金がどこにあるのという反論が茶の間でくり返されたことがあった。ぼくの大学時代の頃である。
この家は横町と西竪町と京町,そしておそらく古世町の交差点にあり,外から見ると隣接の畳屋さんと写真屋さんの建物の間の狭い平屋にしか見えなかったらしい。この角の三軒が中田さんの所有だったようだ。母によれば,近所ではわが家は三角の家と評されていたらしい。母がこの話しをした時に,父はワハハと笑って,住んでいる家族は誇らしいのだからそれで良いというニュアンスの反応があった。この会話は,ぼくの中学生時代のことだったか。
高校の時だったか,友人がどうして暮らしているの,というような質問をしたことがあった。二階が畳屋さんの上にあって,台所や井戸などは写真屋さんの裏に続いているというような回答をしたのではなかったか。四人の子供たちは両親を尊敬し,姉は学校で一番の成績を取るほど優秀だったし,亀岡市と大本が協賛する文化祭みたいな場では,姉は,日本舞踊,2弦琴の演奏などで目立っていた。一少年として姉が誇らしかった。
1948年(昭和23年)1月19日には,聖師は満76歳で昇天,そして二代様だけの時代が始まったのであるが,4年後の1952年(昭和27年)3月31日には,二代様は満69歳で昇天されている。すみ子の母である開祖が満81歳での昇天であるから,治安維持法による取り調べと獄中環境のなか,健康を害された故であろう。
三角の家の茶の間に置かれていた小さな水屋には最下部に二つの引き出しがあったが,この水屋は,大本職員アパートの追加的建設にともなって横町から引越した際に,おそらくその頃に,タニハに運ばれて父の物置になった。その水屋の二つの引き出しから,2カ月ほど前だったかに書類などを回収した。その引き出しの中味は,昭和二十年代に父が適当に突っ込んだままになっていた。
父はゴミを捨て得ない人で,割り箸の袋とか使い古した幣紙といった全くのゴミと言えるものもかなり入っていた。全くの未整理状態で積み重なっている。それを整理して,ぼくの現在の目からみて半分ほどか残した。そのうち,もっとものお宝は,父が二代様から聞き書きしたノートであった。全5冊ほどで,第一冊がない。これが,如是我聞『おさながたり』の元原稿であった可能性が高いと思っている。同郷出身で友人の虎雄さんに提供したのではないかと思っている。この引き出しは昭和二十年代の父のタイムカプセルと言えるのである。
隅田さんと山崎さんがタニハのゴタゴタの荷物を整理したいと申し出があって,もちろんお願いした。隅田さんは,二代様から如是我聞の原稿が出てくるのではないかと期待されていた。父は二代様のおそばに居て可愛がられていたことを聴いていたので,そう期待しておられた。いま,ぼくはタニハの掃除を少しずつ進めているのであるが,明らかな父の未使用ではあるが全く役に立たないフィルムや印画紙や万年筆のカートリッジなどなど,段ボール箱に改めて詰め替えられたとおぼしきものがあって,これは隅田さんと山崎さんの仕業と考えられる。ぼくのように不要なものは捨てるという発想ではなく,散らばっているものをただまとめるという遠慮がちの姿勢であったようだ。そういうゴミを大量にぼくは今捨てている。隅田さんらが木庭の自宅から運ばれた水屋の引き出しを開けて整理するという姿勢はなかったのであって,その姿勢からは,到底この二代様からの聞き書きには出会い得なかったのだろう。
この引き出しのものは,大本の事務的なもの,教えに関する父の原稿,手紙類,写真などからなる。簡単に整理して茶封筒に区分する作業をしているが,この報告の第1回目では,他の方には全く関心がないであろうぼくを中心とする記録と,二代様を中心とする冠島沓島参拝の写真を中心に,ここに示したい。
1 元晴の記録
この引き出しが物置に使われた時代を反映してぼくの出生の電報が出てきた。昭和24年4月3日付けの「今朝 男生まる 元気 畑谷」である。畑谷一郎が,出張中の岡山の桐原トシユキさん方の父への電報である。ぼくが小学校四年生の頃,この水屋のそばに座っていた母と,柱を背もたれにしたぼくが,雑談している時に,母が,4月3日は旧の女の子の節句だというようなことを言い,更に,ぼくが4月1日に生まれていたら,早生まれで学校が大変だったと言った。ぼくの出生を遅く届けたというような印象をぼくが持ったので,ぼくは4月3日に生まれたのではないのか,と問いただしたことがあり,そんなことは無いと否定されたのであるが,それ以来,ぼくは4月1日生まれではないか,という疑念を心の片隅に持っていた。
この電報を見て,その疑いは晴れたのである。そして,出産の際には,畑谷一郎が尽力してくれたことを理解した。父が長期出張で不在のことが多く,また家庭を重視する姿勢を持たなかったので,一郎がよく母のサポートをしていたのだと思う。一郎の役割は,母から聞かされていたことでもあった。
次の3枚の写真のうち,図2と図3は,隣家の写真屋さんであった南陽彦さんの撮影ではないだろうか。母の裏書きがあり,図2は「昭和二十五年十月四日晝すぎ,一年七ヶ月」とある。図3も同日の写真で,母の裏書きには「表にて」とある。図4の裏書きには「昭和二十五年七月 二階にて 一年四ヶ月 (橋本さんに撮ってもらった)」とある。橋本さんは,父の部下でよく自宅に遊びに来ておられた。写真が趣味であった。何となく撮影当時を思い出す? そばのセルロイドのだるまさんは好きなおもちゃであった。
図5は何故か母の写真。父が持っていたことになるがいつの写真かわからない。母はこの掲載を嫌がるだろうけど,ぼくとしては捨てることはできない。
引き出しからのものではないが,この当時の父と母。
これは亀岡保育園入園許可証である。昭和28年4月4日入園だから,満4歳になったばかりで入園したことになる。三年保育であった。赤組,桃組,藤組であったが,赤組の担任を覚えていない。桃組は中田?友子さん,藤組は波多野なんだっけ,忘れたなあ。園長は出口光平さん。大本が社会活動の一環で経営していた亀岡唯一の保育園であった。当時幼稚園はない。
玄関は広くて各自の下駄(靴)箱があり,正面には職員室と園長室に向かう階段,その下には紙芝居が収納されていて,よくこの紙芝居を広げて見ていた記憶がある。入ってすぐ左手が赤組の教室,右手に行きほぼ上から下までガラスが張ってあった通路を通って右手が桃組,玄関から真っ直ぐ入って奥の左手が藤組であった。抜けると,運動場が展開していた。
図7と図8は,入園式の案内の表書きと裏書きである。保育用品代200円が見える。横町には何十軒かはあるが,ただ横町で届いている。当時のハガキ5円からすると現在の63円はかなり安い。
保育園と亀岡高校の間には,段丘崖があって,保育園は一段低くなっている。その崖裾に水路が続き,ニセカシアの並木が続いていた。いま,手許には,藍染めの「1988年竣成記念 社会福祉法人 愛善信光会 亀岡保育園」がある。タニハに何枚かあった。それゆえ,現在の保育園は,ぼくの頭の中のものとは異なる。ただ,この外観を見ると,敷地に大きな違いを感じないのであるが。
さて,副園長の川島先生は怖かった。玄関を入って右手の一番奥に,遊戯室があり,ヤマハのグランドピアノがあった。ここで川島先生の指導のもと,子供たちの会話が録音された。その時の情景ははっきりと覚えている。その後,母は川島先生に道で呼び止められて,録音を聴いたらぼくの高い声しか聞こえないというおしかりであったらしい。母はぼくに「恥ずかしかったあ」と小言を言ったのであるが,ぼくとしてはかなり遠慮をしていた記憶があり,もう途方に暮れるしかなかったのである。
波多野先生の名前が出ていないかと,亀岡保育園のWebサイトに初めて入った。
http://www.kameho.info/enkaku/rekisi.html
このサイトでの歴史の取り扱いは制度に偏り,卒園生にとってはあまり参考になるものではない。ただ,そうなのか,という記事があって一部,引用したい。
1 創立に至る迄の経過: 昭和22年の学制改革で、府立亀岡高等女学校を廃し、これを府立亀岡高等学校(ぼくの出身校)とする事となり、女学校が、補習科学生訓練の場の一つとして附設していた、幼児の保育施設を廃止することとなり、旧亀岡町に幼児の保育をする揚がなくなってしまうこととなった。もともと、昭和10年12月の大本第二次事件まで、大本は「愛善幼稚園」を開設して、亀岡町の幼児保育を行って来たが、事件のため破壊されて、前記高等女学校に移されていたという経過もあって、大本としても、保育園を再建したい意志をもっていた。
大本が、昭和20年12月に再出発し、次第にその形を整えて来つつある時でもあった。
2 昭和26年度より〔創立と建設の時代〕: 昭和26年4月1日、児童福祉法による保育施設として誕生。5月12日、開園式を挙行することになり、大本社会事業団の経営で、出口光平園長以下職員11人を任命、当時の定員は180名であった。(中略)第3年目、昭和28年を迎えたが、8月には二階建本館落成、定員も280名となる。(後略)
ぼくの入園は,新制亀岡保育園の3年目に当たっていたのである。いわゆる第一次ベビーブームに対応しえた亀岡保育園であった。
姉祝子(のりこ)の証書も引き出しの中にあった。これによれば,昭和25年11月には姉は入園している。上述の「児童福祉法による保育施設として誕生」前に,「昭和24年になって大本は、大本婦人会に全国募金をもって施設づくりを訴え、昭和25年に、古材をもって木造平屋建、一棟6教室 320㎡の建築にかかり、昭和25年11月に完成した」とあって,この時に祝子は,幸い入園できたようである。
2 二代苑主すみ子の冠沓島参拝
次の図10〜図13(プリントサイズは,図10と図11 50mm x 70mm,図12と図13 69mm x 94mm)は,参拝者に配付されたものらしい。写真の裏書きは印刷されている。
昭和二十五年七月二二日 五十周年記念 冠沓島参拝写真 冠島の全景と沓島の遠望
舞鶴湾を出発間際の参拝者一行
図13の写真のほぼ中央に,二代様が歩いておられる。顔を日差しから覆う左手が白く光っているのでわかる。お生まれが1883年2月3日だから,67歳5ヶ月余りである。険峻な岩場をお一人で歩かれており,健康な日々をお過ごしの頃である。この1年8ヶ月後には昇天されてしまう。
3 第二期教習生
新生大本の息吹を感じる写真である。図14は昭和二十五年十月八日午前十時過ぎに撮影,図15と図16は同年十月二十五日撮影されたものである。父が講師となっての集まりで,裏書きは父本人のものである。二代様はこの1年5ヶ月後に昇天される。早すぎる昇天であった。
父は,図14では人群の最後尾の谷の部分に,図16では最後列左端に見える。図16では中央に,二代様と内丸さま,そしてその間に女の子が見える。現在74歳ぐらいになっている方か。曙さんではないか?
二代様は1952年(昭和27年)3月31日に昇天された。その十日祭の連絡メモもこの引き出しにあった。差出人は「家祭 山川」とある。ぼくの小学生時代の記憶では,山川さんは三代教主と秀麿さまがおられた朝陽館の受付をされていた。おそらく,二代様の近侍としての連絡であったろう。教主といえども,一連のお祭りは出口家の行事という認識で,山川さんが家祭担当ということであろう。二代様の葬列の順序(昭和二七,四,一〇付)のガリ版刷資料も残っているが,この中の「二八 側近者」の中に,米川喜代子,米川清吉,谷前清子,などとともに,山川日出子がある。この方は上の山川氏の奥方である。ぼくの面識がある方としては,森清秀,三浦くに子(同級生の母),南尊福,南陽彦(隣家の南写真店)などの名が見える。
本文を書き出すと,
左記 決定につき,その心得にて手配下さい。
九日 二代教主 十日祭(於瑞祥館) 月次祭に引き続き
十日 葬祭遥拝 午後一時(於瑞祥館)
尚,十日の葬祭執行当日は道場講座は休みとする。
葬祭本部 サイン(読解不可)
道場 木庭主事殿
もちろん,ここでの九日,十日は,4月9日,10日のこと。
この連絡網での位置づけから,先の「2 第二期教習生」での講師としての認識に誤りがないことがわかる。
二代教主御葬祭参列記念資料一枚の両面をスキャンしたものが追加図2と3である。
図19は少し重いファイルである。ぼくの知る宣霊社の竣成そして遷座祭の際の名簿である。祭務係の欄に主任木庭次守の次に1祭員として山川石太郎という名が見える。この方が先のメモの発送者であろう。なお,大道場係の主任として木庭次守の名もある。
4 父は注射していた
引き出しシリーズ第1回を一応はまとめることができた。
誰の筆跡? 図20の原稿が聖師のものかどうか,字体では,ぼくにはわからない。ただ,右上欄外に〔海潮〕原稿用紙とあるので,聖師のものと考えざるを得ない。引き出しのゴタゴタの中に埋もれていたので,父の行動からするとおかしいとは思っているが,もし聖師のものであるなら,二代様から頂いたのものであろう。書き損じとして。父は決して誤魔化さない人だから。
この文章を書いて後に,雑誌「海潮」というものの原稿用紙にも巡りあった。これでは,左下に,雑誌「海潮」とある。
次の図21と図22は,予防接種手帳である。父は注射をしていないものと思っていた。この腸チフス・パラチフスは,かつては,法定伝染病の一つになっていた。この予防接種を受けるのは,かつては,市民の義務であった。『新月のかけ』には,聖師が信者を直そうと思ったが,「注射をしてしまったかあ」と言って助けることができなかった,というようなエピソードがある。ぼくはこれを信じて,父もこれを信じるから,西洋医学の薬も飲まない,注射も受けないと思っていた。実際,ぼくが知る限り,全く頑なに治療拒否によって亡くなったという印象があった。
第二次大本事件での十代の時に厳しい取り調べを受けたために,その体験が高齢になって体力が弱ったが故に,現在のストレスに耐えきれず,吹き出した。なにゆえ,頑なに薬剤を拒否したのか,改めて多少奇異な印象を受けるのである。父の父はスペイン風邪で父が5歳ほどの時に亡くなっている。西洋医学を信頼しても良かったのではないか,と思う。
以上,Apr. 28, 29, 2021記
おわりに
第二次大本事件が権力によって引き起こされたことで,熊本の一介の師範学校の生徒であった父も検挙され,熊本から京都中立売署に護送された。そして,裁判資料を作成する過程で深く教えを理解するようになる。そして父の母との亀岡での出会いがあり,ぼくらが生まれて,ぼくの子供たちが生まれた。ぼくたちは大本事件に感謝せざるを得ないのである。
以上,Apr. 30, 2021記