『霊界物語』の木花姫はなんだあ what is the role of Kono-hana-hime in Reikai-monogatari by Onisaburo ?
はじめに
金沢で生まれた黒川さんは子供時代から教えに熱心で,父は金沢によく出かけ,黒川さんの生家にもよく泊まっていたのであろう。黒川さんの感性や容貌は父に似ているとは感じていたが,黒川さん自身,父に似ていることは周囲から言われていたそうである。
その父の教えをよく理解されている黒川さんから,この6月末にお会いして,最近の大本の教えの流れを聞いて大変驚いた。三代教主はいわば厳瑞二霊を足場にして展開した存在として祭りあげられているらしい。現在の大本教の中心軸は厳瑞二霊ではなく,三代教主になっているようだ。その根拠は『霊界物語』で木の花姫での活動である。
ながく『霊界物語』を読んでいて,木の花姫の位置づけが気になっていた。凄い神力があり物語中に深く関わるのであるが,物語中の初出以降,その働きは物語の中心をなすのにも係わらず,木の花姫の出自が記されていないからである。
さて,この文の準備は全くできていないが,『霊界物語』を理解する上で重要な視点なので,簡単に書き留めておきたいと思う。
1 木の花姫は三代教主
飯塚さんのデータベースの,霊界物語 > 第14巻 > 第3篇 高加索詣 > 第15章 丸木橋,には次の記述がある。
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勝『それは、この夢の実現は数十万年未来の事だ。二十世紀と云ふ悪魔横行の時代が来た時、八尾八頭や金毛九尾の悪霊が再び発動しよつて、常世姫や木常姫の霊魂の憑り易い肉体を使つて、行りよる事だよ。天眼通力によつて調べて見ると、何でもこれから艮の方に当つて、神さまの公園地に、夢の中の男子とか女子とかが現はれて、ミロクの世の活動を開始されるのを、何でも変性男子の系統の肉体に懸り、善の仮面を被つて教への子を食ひ殺し、玉取りをやる事の知らせであらう。アヽ二十世紀と云ふ世の中の人間は実に可憐さうだ。それにつけても、厳霊、瑞霊や金勝要の神、木花姫の呑剣断腸の御苦しみが思ひやられる哩。嗚呼惟神霊幸倍坐世惟神霊幸倍坐世』
与『吾々は過去現在未来の衆生済度のため、この清らかな川辺に落ち込んだのを幸ひに、御禊を修し、神言を奏上してミロク神政の建設の太柱、男子女子をはじめ、金勝要の神、木花姫の霊の鎮まりたまふ肉の宮の為に、祈りませうか。この世の中が万劫末代維持していけるやうに、善ばかりの花の咲くやうに』
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厳霊,瑞霊,金勝要は,それぞれ,出口直(開祖),出口王仁三郎(聖師),出口すみ(二代様)であるから,木花姫は間違いなく,王仁三郎とすみの長女,出口直日(朝野,三代様)になる。『霊界物語』での木の花姫は三代教主になるのである。
王仁三郎が,三五教(あなないきょう,大本教)の「正統性」と我が娘または大本教の今後の展開を願って,『霊界物語』に木の花姫=三代教主を登場活躍せしめたということになる。
三代教主の立ち回りをぼくなりに見てきて,『霊界物語』の木の花姫のかけらも感じることはできない。人格者とも言いがたく全くの普通の人である。聖師と二代様を尊敬し愛する父木庭次守も,『霊界物語』の木の花姫と三代教主との大きなズレをずっと疑問に思っていたことであろう。
吉田ただをさんは,信念ゆるぎない吉田みち子さんの息子さんだ。その信仰を受け継いだ「ただをさん」が,タニハで晩年の父に「今は(ほんとうに)弥勒の世なのでしょうか」と問うた。父は笑って「まちがいなく弥勒の世」だと応えた。ただをさんは納得の行かない顔で笑っておられた。ただをさんは,亀岡本部の食堂の責任者をされていたが,馴染めず退職されて米子市で自営されていた。ただをさんからすると,というか,ただをさんの周辺環境も,世界も到底,弥勒の世と考えらないからの問であった。木庭次守は聖師はもう再来しない。弥勒の世を確立されたから,現在は弥勒の世,だという信念を持っていたのだろう。実際,ただをさんの問に対して応える際にそのようなことを言っていた。
父の昇天ののち,タニハのお祭りのあるとき,ただをさんから父の言葉を聞いた。父は笑いながら,「三代さまは,木花咲耶姫というより木花裂くや姫だ」と言ったという。「作るより破壊する」を意味するのだと思う。それほど,父は三代様を評価していなかったのである。
何を破壊しているのか,厳霊,瑞霊,金勝要神が築いた「独善的・観念的な」世界(後述)の破壊である。小さな頭で社会に阿(おもね)る「普通」の婦人の行動が,「木花裂くや姫」なのである。
2 三代教主の思い
三代教主が『霊界物語』を読めば,父王仁三郎の「思いの形」は,およそは伝わったことであろう。二代教主が昇天されたのは,1952年3月31日。火継の神事を経て,三代教主になる。三代教主の生年月日は,1918年11月6日。33歳での就任である。三代教主は教主たる指針を求めて,当然『霊界物語』も読まれたことであろう。ここに現れる木の花姫が三代教主本人とは似ても似つかない存在であり,違和感,さらには父王仁三郎に敵意さえ感じたかも知れない。
ウィキペディアには,「昭和27年(1952年)の教主就任後は独善的・観念的におちいりやすい信仰生活者をいましめ、「脚下照顧」を旨とした教風をうちたてる。幼少より日本伝統文化に精進した。書道・茶道・能楽・短歌・八雲琴・陶芸など、たゆみない習練を続けて来た体験から、日本の伝統文化の世界的地位を説き、日本民族としての誇りと自覚を高め、高い教養を身につけ、生涯精進をおこたらなかった。信徒はもとより文化人を招き清談を交わすなど、“花鳥風月”を友とし身をもって日本の心を説いた。著書は『私の手帖』『聴雪記』『寸葉集』など。信仰のあるべき姿や文明批評、自然や歴史についてなど、豊かな感性と豊潤な筆による随想を数多く著した。歌集も多い。」とある。「出口直日」の変更履歴をみると,編集作業が繰り返されており,教団関係者の協議の上での編集である可能性が高い。
上記引用のうち,「昭和27年(1952年)の教主就任後は独善的・観念的におちいりやすい信仰生活者をいましめ、『脚下照顧』を旨とした教風をうちたてる」,とある。「脚下照顧」は,精選版 日本国語大辞典によれば,〘名〙 禅宗で、足元に気をつけよ、の意。自己反省、日常生活の直視をうながす語。〔大川普済禅師語録〕,という。三代教主が自らを,信仰生活者と考えていたものと考えられるが,当然ながら父王仁三郎に近づくこともできないし,理解すら難しいものであろう。
木庭次守は1917年1月1日生まれであるから,三代様とほぼ同年である。木庭次守は第二次大本事件勃発の昭和10年に熊本から京都に官憲によって護送されてきた。結果的には亀岡に出てきた木庭次守は裁判資料の作成活動に熱中した。
ウィキペディア出口王仁三郎 によれば,
1942年(昭和17年)7月31日の第二審判決では高野綱雄裁判長は判決文の中で「大本は宇宙観・神観・人生観等理路整然たる教義を持つ宗教である」として、重大な意味を持つ治安維持法については全員無罪の判決を言い渡した。不敬罪の懲役5年(最高刑)は残ったものの、6年8ヶ月(2453日)ぶりに71歳で保釈出所となった。
聖師と二代様の仮出所のあと,木庭次守は聖師と二代様のおそばで,その言動を記録している。三代教主にとって,木庭次守のような「煙たくて観念的な存在」は鬱陶しかったことであろう。
3 王仁三郎の思い
『霊界物語』の木の花姫は三代教主を指す。余りに神力に懸隔がある。敗戦後の大本教団の世界反核平和運動などは三代教主が聖師と二代教主の活動を継承したものである。王仁三郎の秘書的存在であった出口内丸氏の指導があったものと想像される。
大本教団の平和活動については,次のような記述がある。
大本は開教当初から、神は元は一株、万教同根(ばんきょうどうこん)の教えを説き、1925(大正14)年に北京で世界宗教連合会を発会し、世界人類の恒久平和を目指す宗教的な平和運動として、人類愛善会を創立しました。その前後からアジアの諸宗教やヨーロッパの神霊主義的な精神団体との提携を進めましたが、政府から2度にわたり弾圧を受け、一切の活動が停止。そして第2次世界大戦後、再発足してから、諸団体との交流を再開しました
世界連邦運動に関しても、大本・人類愛善会は中核的な役割を果たしてきました。1949(昭和24)年、出口すみこ二代教主のもと、世界連邦運動の推進を決定し、この運動を具体的に推進することになります。1950(昭和25)年、大本の聖地がある綾部市は全国初の世界連邦都市宣言をし、2年後、亀岡市も同宣言をしました。そして1966(昭和42)年、唯一の被爆国である日本では、戦争のない新しい世界秩序システム「世界連邦」の運動に宗教者が積極的に協力していこうと、「世界連邦日本宗教委員会」が発足。
例えば,このような平和運動に係わるのは,木の花姫と関連なくはない。三代教主に宗教者としてのモデルを聖師が提示したとも言える。木の花姫は三代教主だけではなく,累代の大本教主の指針と考えるべきなのだろう。そう考えざるを得ない。
4 『霊界物語』の読み方
『霊界物語』の神力無双の木の花姫が,現実の三代教主だと『霊界物語』に記されている。これは『霊界物語』を神示の書として見てきた父木庭次守はどう心の整理をしていたのだろうか。父のこれまでの著作を知る必要がある。
で,ぼくはどうすればいいのか。『霊界物語』は出口家の宣伝書に過ぎないのか。残された時間は短いが,このテーマの追求はぼくの課題の一つになる。
5 木の花姫の出自
『霊界物語』のはじめに「芙蓉仙人に導かれて」,とか,「本田翁の天然笛」などの係わりで富士浅間神社など,が出ており,『霊界物語』での天教山の主宰者である木の花姫の出現について大きな違和感はない。しかし,瑞霊二神による世界観が根幹にある『霊界物語』からすると,木の花姫は分裂的分散的要因になっている。
次の文献には木の花姫の由来が記紀と伝承との関連で推定されている。
日本神話にみえる大山祇神の娘。『古事記』には,木花之佐久夜毘売と記される。瓊瓊杵尊(ニニギノミコト)と結婚する。神吾田鹿葦津姫(『古事記』は神阿多都比売)の別名。本名のアタは薩摩国阿多郡(鹿児島県西部)にちなむ名で,カシも薩摩の地名という。『日本書紀』によれば,コノハナノサクヤヒメは,高天原から天降ったニニギに求婚され父に告げたところ,父はサクヤヒメに添えて姉の磐長姫(イワナガヒメ)も差し出した。しかしニニギはイワナガヒメが醜かったので送り返し,美人の妹と結婚した。姉はそれを恨み,「わたしをお召しになれば,子供は岩のように長生きしたでしょうに。妹だけをお選びしたからには,生まれる子供は木の花のようにはかなく散ってしまうでしょう」と呪った。サクヤヒメは,ニニギと一夜を共にして妊娠するが,ニニギが自分の子供かどうか疑ったので,産屋に火を放って出産し,天つ神の子であることを証明したという。 姉の呪いは,人間の命が短いことの由来とされているが,この姉妹の話は,インドネシアやニューギニア方面に広く分布する神話とよく似ている。それは,人間が神から石とバナナを贈られ,バナナだけを受け取ったので,人間の命は石のように長くは続かず,バナナのようにはかないものになったという神話で,バナナ型と呼ばれている。日本の神話でバナナが女性に変わっているのは,もともと,ニニギとカシツヒメの結婚話として形成されていた神話にバナナ型の要素を組み込ませ,生まれる子供の命の短さを語ろうとしたから。『古事記』では天皇の命のはかなさの起源とされているが,これはサクヤヒメが彦火火出見尊を生み,その孫に神武天皇が現れるという展開による。コノハナは桜の花といわれるが命のはかなさを象徴するには,バナナとくらべていかにも日本人の感性に合っている。サクヤヒメは,山の神の娘であることから富士山麓の浅間神社などに祭られ,はるか南方起源のこのバナナ型神話は,日本の自然と風土にみごとに溶け込んでいる。<参考文献>吉井巌『天皇の神話と系譜』 (西條勉)
三代教主を木の花姫と聖師がしたのは,自らの天皇家との関係がバックグラウンドにあると考えられる。
以上,Aug. 18, 2023未完。Aug. 21増補。