古い水屋の引き出しに (2): 小幡神社の絵はがき in the drawings of the old cupboard for tea-things (2):picture postcards of the Obata jinja Shrine

はじめに

 開化天皇を祭神ウブスナさまとする小幡神社の絵はがきも,引き出しにあった。一応掲載しておいた方がいいだろうと思った。この絵はがきを父が手に入れたのは昭和二十年代であろうが,撮影年次の情報がない。小幡神社では,宮司邸の改築と,拝殿以外は,境内そのものを大きく改変するという工事は行われていないと思っているので,この絵はがきが果たす歴史的役割は小さいと思っている。

絵はがきカタログ

図1 絵はがき袋
図2 表書き

図1には絵はがきを包む袋を示している。図2は絵はがきの表書きであり,個々の絵はがきに小幡神社の手押しの捺印がある。おそらく小幡神社と関わる花などから印形が決められたと思われるが,ぼくには今のところ,わからないが八角形らしく,かなり珍しいと思う。

図3 正面入り口
図4 拝殿
図5 本殿
図6 高熊山巌窟
図7 応挙奉納絵馬
図8 王仁三郎奉納絵馬
図9 丹波穴太鎮座神明社
図10 愛宕山上より見た西穴太

 図10は,京都市と亀岡市の市境の愛宕山からの眺望というが,かなりの望遠レンズを使っての撮影なのか。この写真での建物の特定はぼくには難しい。

 なお,何故に愛宕山から撮影されたのか。それは穴太と愛宕山に繋がりがあるからだと思う。図12の北部には高校時代の友人が経営する西田歯科医院がある。彼の父は穴太の神社の宮司であった。彼の兄は全国の愛宕信仰の総本山愛宕神社に居るようだ。
 図9は現在の郷神社に当たるようである。

図11 京都盆地と亀岡盆地間の愛宕山から見える小幡神社,高熊山岩窟方面
図12 小幡神社と郷神社

 図11の赤い目印は,愛宕山である。図12の小幡神社の北に隣接して郷神社が見える。

 小幡神社から西へ嶺伝いに行くと高熊山岩窟に届く。小幡神社は,上古には巌窟そばの,多少広い岩棚にあった。その復元を次のページの図22〜図24に示している。

図12 巡礼ルートに関連して

 

図13 

 高熊山と出口王仁三郎ゆかりの地ポストカードとして,図13が掲載されている。図6とおよそ比較すると破壊程度に違いを感じない。図13の撮影アングルはこれまで見たものからすると,なかなか斬新である。「明治31年(1898年)旧2月9日、富士浅間神社の祭神木花咲耶姫命の神使に導かれるままに、この郷里の山の岩窟に篭り、七日七夜にわたる霊的、肉体的ご修行をなされた」というから,旧2月9日は新暦3月1日にあたり,そういう季節に撮影されたものであろう。

 この写真も図6でも,この巌窟周辺の岩壁を見ると,3段階の弧状の削剥が見える。図13では,この岩壁の最上部が明るく輝いているがこれが破壊前の岩壁の可能性が最も高い。祭壇上のロウソクで点された2本の献灯を挟む場のすぐ上に磨崖仏があった凹みが見えるが,これより下方に見える2回の弧状の削剥は聖師修行の折より後のものかも知れない。

図14 聖師による修行の再現 

 図14は,愛善苑の霊界物語成立前夜の状況,から抜粋した写真であるが,霊界物語の修行の記述からすると,巌窟内に端坐されていた訳では無いと思う。松葉からの雫が唇に落ちるという記述はありえない。図13や図6の巌窟は聖師修行のみぎりには,弧状の2回の削剥が無かったとしても,図14のようなものでは無かったのではないか。図14は聖師さまの修行らしく見せるサービス精神からでたものではないか。なお,図6の木立の陰影からも見えるが,巌窟はおよそ南面している。

 図14の巌窟入り口の屋根部分と図13の屋根部分は類似しているようだが,図13の祭壇が設置された場は直接岩盤ではなかったかと思う。次回,巌窟に参拝した際に,埋没面であるか,岩盤であるか,一応再再度,確認したいとは思っている。

 図7と図8の絵馬はいずれもあざやかな彩色画で,ぼくが少年の頃は図5の本殿に向かって右の小屋に掲示されていたが現在は,写真が置かれている。父が盗られるのではないかと参拝の度に心配していた。応挙は穴太の出身で里に帰ると里人にせがまれて作品を提供していたようで,作品が穴太の家々によく見られたという。王仁三郎は応挙の子孫と言っており,その一つの証拠品として図8の絵馬を奉納したのではないだろうか。モンゴルの草原を彷彿とさせる。

図15 応挙の絵馬
図16 郷神社
図17 2020年現在の展示

図15は,円山応挙の生誕地“穴太”を歩く,から,図16は,どこでも大佐 Hideyuki Sakamoto 2017年,のGoogleの投稿からえている。後者は,大木は伐採されてしまったが,図9丹波穴太鎮座神明社,に一致している。図17は2020年現在のコピー展示のようすである

改めて高熊山巌窟について

 この章はMay 2, 2021に挿入した。

図18 高熊山巌窟への疑問

 図18に四枚の巌窟の写真を掲載している。上段右の長男とその妻が入る写真だけが新たなものである。〇マークで対応関係を示している。聖師の写真を除くと対応関係は比較的容易に取れる。上段二枚の写真には,神棚が設置されている。外形からするとサイズは同じ可能性が高い。上段両写真だけでなく,下段左の天声社のはがきについて,青色と黄色の〇マークからすると,神棚の土台は,上段左の小幡神社の絵はがきより低かったと考えるのが一番妥当かも知れない。この視点での詳細な観察が必要かと思われる。なお,この地の地質は,20万分の1地質図ではジュラ紀混在層か整然砂岩相に対応しているが,チャート相であったように記憶している。確認する必要がある。

 さて,図18の聖師が端坐される写真であるが,洞穴入り口の右にシダ類,左に笹が見える。洞穴内にもシダ類が生えているようである。この洞穴入り口右手の比較的上方には,節理が左下手に走るのが見える。この方向の節理は図18上段の二枚の写真の白色から橙色の〇の方向には,対応している,図18下段左の天声社絵はがきには見えない。下段の2写真では,赤〇白縁マークを敢えて記したのであるが,この対応関係には無理がある。というのは,第二次大本事件の前の聖師の写真では,壁面がカットされていて,これに対して最近の写真である天声社の写真では岩石域が増えていることになる。この洞窟は高熊山では無い可能性が高い。この丹波周辺にはこの程度のマンガン鉱山が多く,その跡地である可能性が高いのである。

おわりに

 小幡神社では,父の計らいで宮司上田正昭先生を斎主として,ぼくと家内で,両親四名も揃って,結婚式を挙げることができた。さらに2020年には正昭先生の長女のご子息を斎主として,長男の結婚式を,両親四名も揃って挙げることができた。父は聖師から「あなたの産土様は小幡神社の祭神である」と聞いている。

以上,May 1, 2020記