松雲閣まぼろしの門柱 granite gateposts ordered by Deguchi Onisaburo, supposed to be set at Sho-un-kaku
はじめに
松雲閣は霊界物語が最初に口述された場である。口述場所は多忙な王仁三郎の日程に合わせて変わるが,松雲閣が主要な口述場所になっている。霊界物語は二つの大本事件の狭間で口述されたのである。霊界物語が完成し,松雲閣の新たな利用を考えたのか,門柱を注文している。そしてそれを受け取る前に第二次大本事件が勃発し,石屋から大本に届いた時には王仁三郎は獄中の人であった。代金の支払い手がなく,当時綾部で開業していた西崎菐保(かずやす)医師が引き取ることになる。
西崎家はその後,綾部の家屋敷を処分することになり,大本本部に受け入れを要望したが忌避され,そのことを父が西崎医師の娘大槻昭子さんから聞き,霊界物語研鑽のためにタニハ文化研究所を開いた父が大槻昭子さんから受け取って,その門柱をタニハの神殿の真北に設置することになった。
1 松雲閣
松雲閣で口述筆記された巻号は,1,2,7,8,12,14,19,20,21,22,24,25,26,27,50,61,62,73である。霊界物語第二巻の序には,霊界物語口述の経緯が示されている。松雲閣の名の由来が示された最後の段落,そして,その一つ前の霊界物語口述の理由を示した段落を次に引用したい。飯塚弘明のウェブページを利用させていただいた。
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しかるに本年の旧九月八日にいたつて、突然神命は口述者の身魂に降り、いよいよ明治三十一年の如月に、『神より開示しおきたる霊界の消息を発表せよ』との神教に接しましたので、二十四年間わが胸中に蓄蔵せる霊界の物語を発表する決心を定めました。しかるに口述者は、本春以来眼を病み、頭脳を痛めてより、執筆の自由を有せず、かつ強ひて執筆せむとすれば、たちまち眼と頭部に痛苦を覚え如何ともすること能はず、殆んどその取扱ひについて非常に心神を悩めてゐたのであります。その神教降下ありて後、十日を過ぎし十八日の朝にいたり、神教ありて『汝は執筆するを要せず、神は汝の口を藉りて口述すべければ、外山豊二、加藤明子、桜井重雄、谷口正治の四人を招き、汝の口より出づるところの神言(しんげん)を筆録せしめよ』とのことでありました。
そこで自分はいよいよ意を決し、並松(なみまつ)の松雲閣(しよううんかく)に隠棲して霊媒者となり、神示を口伝へすることになつたのであります。二十四年間心に秘めたる霊界の消息も、いよいよ開く時津風、三千世界の梅の花、薫る常磐の松の代の、神の経綸の開け口、開いた口が閉ぼまらぬやうな、不思議な物語、夢かうつつか幻か、神のしらせか、白瀬川、下は音無瀬由良の川、和知川、上林川の清流静かに流れ、その中央の小雲川(こくもがは)、並木(なみき)の老松(らうしよう)川(かは)の辺に影を浸して立ちならぶ、流れも清く、風清く、本宮山(ほんぐうやま)の麓なる、並松(なみまつ)に、新たに建ちし松雲閣(しよううんかく)書斎の間にて五人連れ、口から語る、筆を執る、五人が活気凛々として、神示のままを口述発表することとなつたのであります。
大正十年十一月 旧十月九日 於松雲閣 瑞月 出口王仁三郎誌
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2 西崎医師が門柱を受け取った経緯
大槻昭子さんによれば,この消息を記した西崎医師の文書を木庭次守に預けたという。タニハのどこかにあるのだろうが,いまだぼくは整理に着手できない状況では,全くわからない。
大槻昭子さんからの情報の前に,大槻さんと父から聞き知った黒川忠行さんと肇子さんから得た情報を,第二駐車場の造成に示しているが,これをここに転載する。
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黒川忠行さんから電話 Jan. 4, 2023
年賀状でぼくが質問した件:タニハにある,松雲閣の門柱。西崎医院から鳥取組が運搬。父の話では庭に転がしていたものを持参。
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本日,さらに黒川忠行さんと肇子さんから電話あり。西崎家の門柱として使われてきて,西崎を受け継いだ西崎のお子さんの維持が難しくなったので,この門柱について,大本に購入を打診したが断られていた。その頃に,大槻昭子さんが父に話したのではないか。父が引き受けるということになった。西崎家は東神宮町にあった。四尾山の麓である。(四尾山の東麓には若宮神社がある)
四尾山はシオン山ではないかと,忠行さんに尋ねたら,そうだろうとのこと。
霊界物語第16巻には,聖師が明治32年に大本に呼ばれた時(二回目),聖師が開祖を背負って四尾山に登った,と在るらしい。国武彦が開祖。
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西崎家は松山藩の御殿医だった。聖師に呼ばれて東京から綾部へ。
綾部で開業。大本奉仕者は無料とのこと。福知山や舞鶴からも患者が来た。
子供7名(男5名,女2名)。三男(大三郎)はキンダーブックを出していた出版社に勤務。
昭和10年第二次大本事件の際に,聖師が松雲閣の門柱として注文していたものが届いて,西崎家に保管。
この情報を,大槻宝福(しげとみ)さんの嫁さんである(西崎)昭子(あきこ)から,父が聞いて,所望した。その場所は昭子さんの姉(名は不明)の自宅にあった。
なお,宝福さんは大槻鹿三(開祖の娘の一人のお米さんと結婚)の養子になったのであって,??伝吉(開祖の娘の子供)の子供(開祖の孫にあたる)。子供のいない大槻鹿三が跡継ぎとして攫った。
聖師の勧めで,西崎昭子さんは大槻宝福さんと結婚。
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追記 May 23, 2023記: さきほど,西崎家の娘さんの大槻昭子さまから電話を頂いた。ご夫君の20年祭のお玉串をお送りした書留が届いたというご挨拶である。父昇天の際にお世話になって以来の会話である。96歳ながら,頭すっきり,ぼくの方が電話中もうろうとしてしまった。頂いた電話ながら疑問に思っていたことをお尋ねした。
西崎家は四国松山藩の御殿医の家柄で,昭子さんのお父さん西崎菐保(かずやす)さんは八代目。廃藩置県のあと,東京西小川町で開業されていた。大正8年入信して綾部に引っ越しして開業。大本信者には無料で診察されていたという。
大正10年事件の際,昭子さんは8歳。だから詳しいことはわからない。石屋からの門柱の受取人(支払い人)がいないので,西崎菐保さんが支払って西崎家に保管。その後,昭子さんが4人での財産相続を処理すべく,西崎家(敷地)を大本に引き受けて(買って)貰おうと打診したが,大本は拒否。この話を昭子さんが父にして門柱を父が引き受けることに。父と鳥取の人(1名,中西義さんに間違いない)二人で来て,持っていった。門柱の由来を西崎菐保さんが書き残していて,その書類を昭子さんが父に預けたが戻って来ていないという。
タニハにこの門柱を立てた際の記念写真があって,それを昭子さんが持っているという。他の書類もあれば併せて送って頂けるという。
3 大槻昭子さんから届いた写真
6葉の写真のうち5葉がこのテーマと関係がある。折角送って頂いたので,ここにまとめたいと思う。スキャナーは二種ある。1200dpi,Adobe Photoshopで,コントラスト-50,明るさ+52,彩度+33にして,何とか使えるようにしたが,元の写真からかなり質が落ちている。iPhone 12 Proで手撮りした方がよっぽどいいものになった。
図1は門柱が届く前(門柱を譲ることが決まった後)のお祭りの写真と思われる。大槻さんの写真裏書き:霊界物語霊學会タニハ文化祭平成2年10月18日とある。平成2年は1990年だ。図1と,図2図3で,大槻さんご夫妻の服装が違うので,日は異なる。門柱のお祭りは平成2年かその翌年か。斎服の二人は左が木庭次守,右が中西義さん。木庭の左は大槻宝福さん,このすぐ右奥の方が大槻昭子さん。中西さんの右は隅田光さん。木庭次守と中西義さんの間の女性は吉田みち子さん,中西義さんと隅田さんの間の奥の女性は西田雅子さんで西田昌史さんのご母堂,左端二名の左が宗野義勝さん,右奥が吉田長治さん,右端の若い男性は宗野さんのお子さん(カメラマンで自動車事故で急逝),中央の女性4名は,左から中西義さんの奥様?,浅野間喜代子さん,山田光子さん,そして宗野さんの妹さんか?
図3の斎服の右端は山田まさお(光子さんの夫君)さん。木庭次守と中西義の間の奥に吉田ただをさん。宗野さんと長治さんの間の女性は木曽としほさん。吉田みち子さんのお子様は,木曽としほ,吉田長治,吉田ただを,吉田みずほさん,でゆるぎない信仰集団である。坐っている左3名はわからない。最後列の二番目の女性は,次守の長女の木庭祝子。その右手がただをさんの奥さんで松世さん。その右手が山崎由美子さん。この右が大槻昭子さんで,その右手の和服の女性は瀧澤とみ子さん。その右手の女性はわからない。その右手は黒川忠行さん。黒川忠行さんの左奥が大槻宝福さん。立っている人達では宗教学の大学スタッフが6名(女性1名)か。隅田さんの右奥も大学スタッフだろう。図4には浅野間さんが入っている。中西義さんの奥の右はみずほさんか?左は宗野さんの奥さんか?
なお,この記述を通じて,松雲閣の門柱がタニハに届いたのは聖師のお仕組であったように思われるのである。聖師がまことに予言者であれば門柱が届く前に投獄されていることは了解されていた筈である。タニハは父とそれを支える人々の浄財で実現したものである。完成したのは1972年頃だったか。昭和10年は1935年。この門柱はいつタニハに届いたのだろうか。1990年か。大槻昭子さんや黒川忠行さんははっきりと覚えておられるだろう。とにかく,半世紀余り後に霊界物語研鑽の地タニハに届けるには,西崎家経由のような形しかあり得ないのである。
今後,新たな情報が取得できれば追記する。
以上,Jun. 11, 2023記。