みづほ日本 Mizuho Nihon
図1は,「みづほ日本」という雑誌の9月号(昭和29年)だ。発行機関は社団法人愛善みずほ会。月刊みずほ日本(九月号),通巻百六号,とある。表現として,みずほが一般であり,組織名や月刊誌名として,みずほが使われているにもかかわらず,雑誌タイトルは,みづほ日本となっている。
一般社団法人『愛善みずほ会』のWebサイトを見ると,
こうして愛善苑(大本)は「酵素農法」(※注)を中心として、米・麦・甘藷(サツマイモ)などを生産する篤農家を招き、農事講習会を頻繁に開催。昭和22年には本部および全国で、約50回にのぼる農事指導講習会を行っている。特に長野県の稲作研究団体「瑞穂〈みずほ〉会」の指導者、黒沢浄氏を招いたことがきっかけとなり、愛善苑農事課と瑞穂会を発展的に解消し、昭和23年(1948)2月4日、大本の節分大祭当日、「愛善みずほ会」が創立するときを迎えた。
そのころの聖師は、昭和21年8月に体調を崩されてからご静養を続けられていたが、昭和23年1月19日、天恩郷瑞祥館を終〈つい〉のお館としてご昇天になった(享年満77歳6カ月)。
聖師のご本葬は2月2日、綾部梅松苑の彰徳殿内で行われた。天王平〈てんのうだいら〉・奥津城〈おくつき〉でのご埋葬後、火継ぎの神事が厳修され、二代教主が大本の道統をご継承。その2日後の2月4日、節分大祭当日を期して二代目の苑主(大本教主)としてお立ちになった。
そして苑主に就任された大祭当日の午前中に「愛善みずほ会発会式」が行われている。つまり、愛善みずほ会の創立は、二代教主にとっての初の事業であったと言っても過言ではない。
愛善みずほ会活動のまさに原動力であった二代教主(愛善みずほ会初代総裁)は、お土を大切にすることや食物の大切さとありがたさを繰り返しお説きになり、特に農家の人には〝地力づくり〟に尽くして農産物の増産を図るようにと、ことあるごとにお勧めになった。
本会の草創期における活動は、非常に盛んに進められた。黒沢式稲作法や酵素農法、甘藷・蔬菜〈そさい〉の栽培等を指導し、全国的に運動を展開。昭和23年11月12日には「社団法人」として国の認可を受け、発会以来わずか9カ月で会員数12,000人、支部数700を突破。各府県には地区事務所を設置し、遠隔地には地方事務所を置いて、地方組織の充実を図った。
本会が発足した昭和23、24年当時はすでに愛善苑の全国組織も整っていたため、農家信徒はもとより、全国地方機関の役員信徒が全面的に協力し、講習会開催数は2年間で約2,000カ所、一会場で1,000人を超す聴衆を集める会場もあって、受講者数はのべ約50万人。その技術指導活動は当時の日本の食糧難を解決する上で、大きな貢献を果たしたことは間違いない。
などとあるが,「みづほ」の解説は見当たらない。創刊号がいつなのかもわからない。
飯塚弘明さんが運営される王仁DBには,大本七十年史下巻 第7編 第4章 5農事と芸術 には,
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運動の躍進にともない亀岡に本部事務所・講堂の建設が計画され、総工費三五〇万円で、木造二階建延一七五坪・付属建物三〇坪の愛善みずほ会館が昭和二五年五月に完成した。機関誌「愛善新聞」は、九月号より「愛善みずほ新聞」(B5判)と改題され、一九五〇年一月から、べつにグラビア版「農業グラフ」を刊行したが、一九五一(昭和二六)年二月からは右の二つを合併し、「みづほ日本」(B5判)と改題して月刊で刊行することとなった。
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とあって,号数との関係を知る情報がみられる。なぜ,「みづほ」なのかはわからない。出口王仁三郎にゆらいする「みづのみたま」を想起させるのではあるが。
なお,冒頭の写真は三代教主であろうが,発行年月1954年9月からすると,1902年3月7日生まれであるから,52歳ということになる。目力(めぢから)があって,余りに若いように思うのだが。
タニハに,この『みづほ日本』のバックナンバーも結構揃っている。廃棄するかどうか,思案中である。
以上,Feb. 4, 2024記。
もう日が回ったがFeb. 6, 2024にもタニハに行って。資料の整理をした。父が,みずほ会館に机を得て,この運動に大いに関心を持ったのであろう。バックナンバーを収集し,残部を5部単位で購入したようだ。そのうち,2部だけを残して廃棄するなどの作業をした。ちょっと覗くと,確かに,全国的な組織を構築している。図2の建物はぼくも知る「みずほ会館」である。手前の広場はぼくの小学校時代は亀岡高校のテニスコートだった。テニスコートとみずほ会館の間の斜面緑地では,近所の子供たちを引き連れて,つくしんぼうを大量に取って,母に佃煮を作って貰ったことを覚えている。定期的に草刈りがされている場ではツクシやヨモギが繁殖する。図3はその九月号に掲載されている論文であるが山岸会の創始者が執筆している。図4はその表紙を開いて最初のエッセーである。これも連載されている。出口新衛さんはかなりの長寿で最近亡くなったようだ。知見豊かな文章だと感じる。
この時代の表紙は毎号,農業者の魅力ある写真が飾っていた。その一つが図1のものである。どの号にも表紙の写真に関する情報は一切記されていない。三代教主も「密かに」掲載されたようである。三代教主も,氏のエッセーによれば,兵庫県竹田(竹田城は天空の城で有名)で十年ほど農業者として暮らされていたようなので,新しい農業機械に関心もおありであっただろう。
まだ,出てくるだろうから,みづほ日本は整理しておこうと思う。もう少し出てくるだろうから。
以上,Feb. 7, 2024記。