古い水屋の引き出しに (1): 二代様の時代 in the drawings of the old cupboard for tea-things (1): the second hierarch of Oomoto

はじめに  旧亀岡町横町1番地の大阪控訴審裁判事務所(家主はぼくの同級生の中田嬢のお婆さんだった)にそのまま父が住むようになって(追加図1 家賃金領収通),母と結婚して,敗戦を迎えた。この事務所には聖師が中矢田からお一人で父に会うべく時々お訪ねになった場(父の昇天のあとで,父の著作『新月のかけ』,を読んで,ぼくは知ることになるが)であり,この借家を離れるに際しては,家主の中田さんから購入したいと洩らしていた。母のそんなお金がどこにあるのという反論が茶の間でくり返されたことがあった。ぼくの大学時代の頃である。  この家は横町と西竪町と京町,そしておそらく古世町の交差点にあり,外から見ると隣接の畳屋さんと写真屋さんの建物の間の狭い平屋にしか見えなかったらしい。この角の三軒が中田さんの所有だったようだ。母によれば,近所ではわが家は三角の家と評されていたらしい。母がこの話しをした時に,父はワハハと笑って,住んでいる家族は誇らしいのだからそれで良いというニュアンスの反応があった。この会話は,ぼくの中学生時代のことだったか。  高校の時だったか,友人がどうして暮らしているの,というような質問をしたことがあった。二階が畳屋さんの上にあって,台所や井戸などは写真屋さんの裏に続いているというような回答をしたのではなかったか。四人の子供たちは両親を尊敬し,姉は学校で一番の成績を取るほど優秀だったし,亀岡市と大本が協賛する文化祭みたいな場では,姉は,日本舞踊,2弦琴の演奏などで目立っていた。一少年として姉が誇らしかった。  1948年(昭和23年)1月19日には,聖師は満76歳で昇天,そして二代様だけの時代が始まったのであるが,4年後の1952年(昭和27年)3月31日には,二代様は満69歳で昇天されている。すみ子の母である開祖が満81歳での昇天であるから,治安維持法による取り調べと獄中環境のなか,健康を害された故であろう。  三角の家の茶の間に置かれていた小さな水屋には最下部に二つの引き出しがあったが,この水屋は,大本職員アパートの追加的建設にともなって横町から引越した際に,おそらくその頃に,タニハに運ばれて父の物置になった。その水屋の二つの引き出しから,2カ月ほど前だったかに書類などを回収した。その引き出しの中味は,昭和二十年代に父が適当に突っ込んだままになっていた。  父はゴミを捨て得ない人で,割り箸の袋とか使い古した幣紙といった全くのゴミと言えるものもかなり入っていた。全くの未整理状態で積み重なっている。それを整理して,ぼくの現在の目からみて半分ほどか残した。そのうち,もっとものお宝は,父が二代様から聞き書きしたノートであった。全5冊ほどで,第一冊がない。これが,如是我聞『おさながたり』の元原稿であった可能性が高いと思っている。同郷出身で友人の虎雄さんに提供したのではないかと思っている。この引き出しは昭和二十年代の父のタイムカプセルと言えるのである。  隅田さんと山崎さんがタニハのゴタゴタの荷物を整理したいと申し出があって,もちろんお願いした。隅田さんは,二代様から如是我聞の原稿が出てくるのではないかと期待されていた。父は二代様のおそばに居て可愛がられていたことを聴いていたので,そう期待しておられた。いま,ぼくはタニハの掃除を少しずつ進めているのであるが,明らかな父の未使用ではあるが全く役に立たないフィルムや印画紙や万年筆のカートリッジなどなど,段ボール箱に改めて詰め替えられたとおぼしきものがあって,これは隅田さんと山崎さんの仕業と考えられる。ぼくのように不要なものは捨てるという発想ではなく,散らばっているものをただまとめるという遠慮がちの姿勢であったようだ。そういうゴミを大量にぼくは今捨てている。隅田さんらが木庭の自宅から運ばれた水屋の引き出しを開けて整理するという姿勢はなかったのであって,その姿勢からは,到底この二代様からの聞き書きには出会い得なかったのだろう。  この引き出しのものは,大本の事務的なもの,教えに関する父の原稿,手紙類,写真などからなる。簡単に整理して茶封筒に区分する作業をしているが,この報告の第1回目では,他の方には全く関心がないであろうぼくを中心とする記録と,二代様を中心とする冠島沓島参拝の写真を中心に,ここに示したい。 1 元晴の記録  この引き出しが物置に使われた時代を反映してぼくの出生の電報が出てきた。昭和24年4月3日付けの「今朝 男生まる 元気 畑谷」である。畑谷一郎が,出張中の岡山の桐原トシユキさん方の父への電報である。ぼくが小学校四年生の頃,この水屋のそばに座っていた母と,柱を背もたれにしたぼくが,雑談している時に,母が,4月3日は旧の女の子の節句だというようなことを言い,更に,ぼくが4月1日に生まれていたら,早生まれで学校が大変だったと言った。ぼくの出生を遅く届けたというような印象をぼくが持ったので,ぼくは4月3日に生まれたのではないのか,と問いただしたことがあり,そんなことは無いと否定されたのであるが,それ以来,ぼくは4月1日生まれではないか,という疑念を心の片隅に持っていた。  この電報を見て,その疑いは晴れたのである。そして,出産の際には,畑谷一郎が尽力してくれたことを理解した。父が長期出張で不在のことが多く,また家庭を重視する姿勢を持たなかったので,一郎がよく母のサポートをしていたのだと思う。一郎の役割は,母から聞かされていたことでもあった。   次の3枚の写真のうち,図2と図3は,隣家の写真屋さんであった南陽彦さんの撮影ではないだろうか。母の裏書きがあり,図2は「昭和二十五年十月四日晝すぎ,一年七ヶ月」とある。図3も同日の写真で,母の裏書きには「表にて」とある。図4の裏書きには「昭和二十五年七月 二階にて 一年四ヶ月 (橋本さんに撮ってもらった)」とある。橋本さんは,父の部下でよく自宅に遊びに来ておられた。写真が趣味であった。何となく撮影当時を思い出す? そばのセルロイドのだるまさんは好きなおもちゃであった。  図5は何故か母の写真。父が持っていたことになるがいつの写真かわからない。母はこの掲載を嫌がるだろうけど,ぼくとしては捨てることはできない。  引き出しからのものではないが,この当時の父と母。  これは亀岡保育園入園許可証である。昭和28年4月4日入園だから,満4歳になったばかりで入園したことになる。三年保育であった。赤組,桃組,藤組であったが,赤組の担任を覚えていない。桃組は中田?友子さん,藤組は波多野なんだっけ,忘れたなあ。園長は出口光平さん。大本が社会活動の一環で経営していた亀岡唯一の保育園であった。当時幼稚園はない。  玄関は広くて各自の下駄(靴)箱があり,正面には職員室と園長室に向かう階段,その下には紙芝居が収納されていて,よくこの紙芝居を広げて見ていた記憶がある。入ってすぐ左手が赤組の教室,右手に行きほぼ上から下までガラスが張ってあった通路を通って右手が桃組,玄関から真っ直ぐ入って奥の左手が藤組であった。抜けると,運動場が展開していた。  図7と図8は,入園式の案内の表書きと裏書きである。保育用品代200円が見える。横町には何十軒かはあるが,ただ横町で届いている。当時のハガキ5円からすると現在の63円はかなり安い。  保育園と亀岡高校の間には,段丘崖があって,保育園は一段低くなっている。その崖裾に水路が続き,ニセカシアの並木が続いていた。いま,手許には,藍染めの「1988年竣成記念 社会福祉法人 愛善信光会 亀岡保育園」がある。タニハに何枚かあった。それゆえ,現在の保育園は,ぼくの頭の中のものとは異なる。ただ,この外観を見ると,敷地に大きな違いを感じないのであるが。  さて,副園長の川島先生は怖かった。玄関を入って右手の一番奥に,遊戯室があり,ヤマハのグランドピアノがあった。ここで川島先生の指導のもと,子供たちの会話が録音された。その時の情景ははっきりと覚えている。その後,母は川島先生に道で呼び止められて,録音を聴いたらぼくの高い声しか聞こえないというおしかりであったらしい。母はぼくに「恥ずかしかったあ」と小言を言ったのであるが,ぼくとしてはかなり遠慮をしていた記憶があり,もう途方に暮れるしかなかったのである。  波多野先生の名前が出ていないかと,亀岡保育園のWebサイトに初めて入った。http://www.kameho.info/enkaku/rekisi.htmlこのサイトでの歴史の取り扱いは制度に偏り,卒園生にとってはあまり参考になるものではない。ただ,そうなのか,という記事があって一部,引用したい。  1 創立に至る迄の経過: 昭和22年の学制改革で、府立亀岡高等女学校を廃し、これを府立亀岡高等学校(ぼくの出身校)とする事となり、女学校が、補習科学生訓練の場の一つとして附設していた、幼児の保育施設を廃止することとなり、旧亀岡町に幼児の保育をする揚がなくなってしまうこととなった。もともと、昭和10年12月の大本第二次事件まで、大本は「愛善幼稚園」を開設して、亀岡町の幼児保育を行って来たが、事件のため破壊されて、前記高等女学校に移されていたという経過もあって、大本としても、保育園を再建したい意志をもっていた。大本が、昭和20年12月に再出発し、次第にその形を整えて来つつある時でもあった。  2 昭和26年度より〔創立と建設の時代〕: 昭和26年4月1日、児童福祉法による保育施設として誕生。5月12日、開園式を挙行することになり、大本社会事業団の経営で、出口光平園長以下職員11人を任命、当時の定員は180名であった。(中略)第3年目、昭和28年を迎えたが、8月には二階建本館落成、定員も280名となる。(後略)  ぼくの入園は,新制亀岡保育園の3年目に当たっていたのである。いわゆる第一次ベビーブームに対応しえた亀岡保育園であった。  姉祝子(のりこ)の証書も引き出しの中にあった。これによれば,昭和25年11月には姉は入園している。上述の「児童福祉法による保育施設として誕生」前に,「昭和24年になって大本は、大本婦人会に全国募金をもって施設づくりを訴え、昭和25年に、古材をもって木造平屋建、一棟6教室 320㎡の建築にかかり、昭和25年11月に完成した」とあって,この時に祝子は,幸い入園できたようである。 2 二代苑主すみ子の冠沓島参拝  次の図10〜図13(プリントサイズは,図10と図11 50mm x 70mm,図12と図13 69mm x 94mm)は,参拝者に配付されたものらしい。写真の裏書きは印刷されている。 昭和二十五年七月二二日 五十周年記念 冠沓島参拝写真 冠島の全景と沓島の遠望 舞鶴湾を出発間際の参拝者一行  図13の写真のほぼ中央に,二代様が歩いておられる。顔を日差しから覆う左手が白く光っているのでわかる。お生まれが1883年2月3日だから,67歳5ヶ月余りである。険峻な岩場をお一人で歩かれており,健康な日々をお過ごしの頃である。この1年8ヶ月後には昇天されてしまう。 3 第二期教習生  新生大本の息吹を感じる写真である。図14は昭和二十五年十月八日午前十時過ぎに撮影,図15と図16は同年十月二十五日撮影されたものである。父が講師となっての集まりで,裏書きは父本人のものである。二代様はこの1年5ヶ月後に昇天される。早すぎる昇天であった。  父は,図14では人群の最後尾の谷の部分に,図16では最後列左端に見える。図16では中央に,二代様と内丸さま,そしてその間に女の子が見える。現在74歳ぐらいになっている方か。曙さんではないか?  二代様は1952年(昭和27年)3月31日に昇天された。その十日祭の連絡メモもこの引き出しにあった。差出人は「家祭 山川」とある。ぼくの小学生時代の記憶では,山川さんは三代教主と秀麿さまがおられた朝陽館の受付をされていた。おそらく,二代様の近侍としての連絡であったろう。教主といえども,一連のお祭りは出口家の行事という認識で,山川さんが家祭担当ということであろう。二代様の葬列の順序(昭和二七,四,一〇付)のガリ版刷資料も残っているが,この中の「二八 側近者」の中に,米川喜代子,米川清吉,谷前清子,などとともに,山川日出子がある。この方は上の山川氏の奥方である。ぼくの面識がある方としては,森清秀,三浦くに子(同級生の母),南尊福,南陽彦(隣家の南写真店)などの名が見える。 本文を書き出すと, 左記 決定につき,その心得にて手配下さい。    九日 二代教主 十日祭(於瑞祥館) 月次祭に引き続き    十日 葬祭遥拝 午後一時(於瑞祥館)      尚,十日の葬祭執行当日は道場講座は休みとする。                  葬祭本部 サイン(読解不可)道場 木庭主事殿  もちろん,ここでの九日,十日は,4月9日,10日のこと。  この連絡網での位置づけから,先の「2 第二期教習生」での講師としての認識に誤りがないことがわかる。  二代教主御葬祭参列記念資料一枚の両面をスキャンしたものが追加図2と3である。  図19は少し重いファイルである。ぼくの知る宣霊社の竣成そして遷座祭の際の名簿である。祭務係の欄に主任木庭次守の次に1祭員として山川石太郎という名が見える。この方が先のメモの発送者であろう。なお,大道場係の主任として木庭次守の名もある。 4 父は注射していた  引き出しシリーズ第1回を一応はまとめることができた。 誰の筆跡? 図20の原稿が聖師のものかどうか,字体では,ぼくにはわからない。ただ,右上欄外に〔海潮〕原稿用紙とあるので,聖師のものと考えざるを得ない。引き出しのゴタゴタの中に埋もれていたので,父の行動からするとおかしいとは思っているが,もし聖師のものであるなら,二代様から頂いたのものであろう。書き損じとして。父は決して誤魔化さない人だから。  この文章を書いて後に,雑誌「海潮」というものの原稿用紙にも巡りあった。これでは,左下に,雑誌「海潮」とある。  次の図21と図22は,予防接種手帳である。父は注射をしていないものと思っていた。この腸チフス・パラチフスは,かつては,法定伝染病の一つになっていた。この予防接種を受けるのは,かつては,市民の義務であった。『新月のかけ』には,聖師が信者を直そうと思ったが,「注射をしてしまったかあ」と言って助けることができなかった,というようなエピソードがある。ぼくはこれを信じて,父もこれを信じるから,西洋医学の薬も飲まない,注射も受けないと思っていた。実際,ぼくが知る限り,全く頑なに治療拒否によって亡くなったという印象があった。  第二次大本事件での十代の時に厳しい取り調べを受けたために,その体験が高齢になって体力が弱ったが故に,現在のストレスに耐えきれず,吹き出した。なにゆえ,頑なに薬剤を拒否したのか,改めて多少奇異な印象を受けるのである。父の父はスペイン風邪で父が5歳ほどの時に亡くなっている。西洋医学を信頼しても良かったのではないか,と思う。 以上,Apr. 28, 29, 2021記 おわりに  第二次大本事件が権力によって引き起こされたことで,熊本の一介の師範学校の生徒であった父も検挙され,熊本から京都中立売署に護送された。そして,裁判資料を作成する過程で深く教えを理解するようになる。そして父の母との亀岡での出会いがあり,ぼくらが生まれて,ぼくの子供たちが生まれた。ぼくたちは大本事件に感謝せざるを得ないのである。 以上,Apr. 30, 2021記

古い水屋の引き出しに (2): 小幡神社の絵はがき in the drawings of the old cupboard for tea-things (2):picture postcards of the Obata jinja Shrine

はじめに  開化天皇を祭神ウブスナさまとする小幡神社の絵はがきも,引き出しにあった。一応掲載しておいた方がいいだろうと思った。この絵はがきを父が手に入れたのは昭和二十年代であろうが,撮影年次の情報がない。小幡神社では,宮司邸の改築と,拝殿以外は,境内そのものを大きく改変するという工事は行われていないと思っているので,この絵はがきが果たす歴史的役割は小さいと思っている。 絵はがきカタログ 図1には絵はがきを包む袋を示している。図2は絵はがきの表書きであり,個々の絵はがきに小幡神社の手押しの捺印がある。おそらく小幡神社と関わる花などから印形が決められたと思われるが,ぼくには今のところ,わからないが八角形らしく,かなり珍しいと思う。  図10は,京都市と亀岡市の市境の愛宕山からの眺望というが,かなりの望遠レンズを使っての撮影なのか。この写真での建物の特定はぼくには難しい。  なお,何故に愛宕山から撮影されたのか。それは穴太と愛宕山に繋がりがあるからだと思う。図12の北部には高校時代の友人が経営する西田歯科医院がある。彼の父は穴太の神社の宮司であった。彼の兄は全国の愛宕信仰の総本山愛宕神社に居るようだ。 図9は現在の郷神社に当たるようである。  図11の赤い目印は,愛宕山である。図12の小幡神社の北に隣接して郷神社が見える。  小幡神社から西へ嶺伝いに行くと高熊山岩窟に届く。小幡神社は,上古には巌窟そばの,多少広い岩棚にあった。その復元を次のページの図22〜図24に示している。    高熊山と出口王仁三郎ゆかりの地ポストカードとして,図13が掲載されている。図6とおよそ比較すると破壊程度に違いを感じない。図13の撮影アングルはこれまで見たものからすると,なかなか斬新である。「明治31年(1898年)旧2月9日、富士浅間神社の祭神木花咲耶姫命の神使に導かれるままに、この郷里の山の岩窟に篭り、七日七夜にわたる霊的、肉体的ご修行をなされた」というから,旧2月9日は新暦3月1日にあたり,そういう季節に撮影されたものであろう。  この写真も図6でも,この巌窟周辺の岩壁を見ると,3段階の弧状の削剥が見える。図13では,この岩壁の最上部が明るく輝いているがこれが破壊前の岩壁の可能性が最も高い。祭壇上のロウソクで点された2本の献灯を挟む場のすぐ上に磨崖仏があった凹みが見えるが,これより下方に見える2回の弧状の削剥は聖師修行の折より後のものかも知れない。  図14は,愛善苑の霊界物語成立前夜の状況,から抜粋した写真であるが,霊界物語の修行の記述からすると,巌窟内に端坐されていた訳では無いと思う。松葉からの雫が唇に落ちるという記述はありえない。図13や図6の巌窟は聖師修行のみぎりには,弧状の2回の削剥が無かったとしても,図14のようなものでは無かったのではないか。図14は聖師さまの修行らしく見せるサービス精神からでたものではないか。なお,図6の木立の陰影からも見えるが,巌窟はおよそ南面している。  図14の巌窟入り口の屋根部分と図13の屋根部分は類似しているようだが,図13の祭壇が設置された場は直接岩盤ではなかったかと思う。次回,巌窟に参拝した際に,埋没面であるか,岩盤であるか,一応再再度,確認したいとは思っている。  図7と図8の絵馬はいずれもあざやかな彩色画で,ぼくが少年の頃は図5の本殿に向かって右の小屋に掲示されていたが現在は,写真が置かれている。父が盗られるのではないかと参拝の度に心配していた。応挙は穴太の出身で里に帰ると里人にせがまれて作品を提供していたようで,作品が穴太の家々によく見られたという。王仁三郎は応挙の子孫と言っており,その一つの証拠品として図8の絵馬を奉納したのではないだろうか。モンゴルの草原を彷彿とさせる。 図15は,円山応挙の生誕地“穴太”を歩く,から,図16は,どこでも大佐 Hideyuki Sakamoto 2017年,のGoogleの投稿からえている。後者は,大木は伐採されてしまったが,図9丹波穴太鎮座神明社,に一致している。図17は2020年現在のコピー展示のようすである 改めて高熊山巌窟について  この章はMay 2, 2021に挿入した。  図18に四枚の巌窟の写真を掲載している。上段右の長男とその妻が入る写真だけが新たなものである。〇マークで対応関係を示している。聖師の写真を除くと対応関係は比較的容易に取れる。上段二枚の写真には,神棚が設置されている。外形からするとサイズは同じ可能性が高い。上段両写真だけでなく,下段左の天声社のはがきについて,青色と黄色の〇マークからすると,神棚の土台は,上段左の小幡神社の絵はがきより低かったと考えるのが一番妥当かも知れない。この視点での詳細な観察が必要かと思われる。なお,この地の地質は,20万分の1地質図ではジュラ紀混在層か整然砂岩相に対応しているが,チャート相であったように記憶している。確認する必要がある。  さて,図18の聖師が端坐される写真であるが,洞穴入り口の右にシダ類,左に笹が見える。洞穴内にもシダ類が生えているようである。この洞穴入り口右手の比較的上方には,節理が左下手に走るのが見える。この方向の節理は図18上段の二枚の写真の白色から橙色の〇の方向には,対応している,図18下段左の天声社絵はがきには見えない。下段の2写真では,赤〇白縁マークを敢えて記したのであるが,この対応関係には無理がある。というのは,第二次大本事件の前の聖師の写真では,壁面がカットされていて,これに対して最近の写真である天声社の写真では岩石域が増えていることになる。この洞窟は高熊山では無い可能性が高い。この丹波周辺にはこの程度のマンガン鉱山が多く,その跡地である可能性が高いのである。 おわりに  小幡神社では,父の計らいで宮司上田正昭先生を斎主として,ぼくと家内で,両親四名も揃って,結婚式を挙げることができた。さらに2020年には正昭先生の長女のご子息を斎主として,長男の結婚式を,両親四名も揃って挙げることができた。父は聖師から「あなたの産土様は小幡神社の祭神である」と聞いている。 以上,May 1, 2020記

タニハ神饌用炊事場の掃除 Cleaning-up of the kitchen for offering to God

はじめに 図1には玄関に自生するアカマツとコバノミツバツツジとカローラツーリングであり,図2はコバノミツバツツジの花で,枝が三分岐するのが特徴になっている。撮影は4月10日である。 まさに,里山の植生が現出している。 図3と図4いずれも4月14日撮影のものである。図3から,コバノミツバツツジの名称が理解できる。この小葉は,夏みかんの皮肌のように,組織が小さく分割されている。  図3と図4はいずれもレベル補正によって強調されており,裸眼では注意しないとこの構造を見ることはできない。比較的,図4のように裏面が観察しやすいように感じる。Apr. 14, 2021記 神饌用炊事場付近の掃除  神殿横の神饌用炊事場の掃除は50年間一度もされなかったであろう。道具はただただ玄関まで溢れていた。フィールドワークの前後で考えると一月を隔てて漸く,昨日完成した。窯場からの陶磁器が結構あったが,試し焼きのものが積み上げられてもいた。今後使わないものは全部廃棄した。  図3は,亀岡市横町一番地の時代の神棚の上部である。下部の収納箱は箕面クリーンセンターで処分すべく,今は車中にある。カンナで削ったら板目の部分で深掘りしてしまい,電動サンダーを購入して削り直した。上段の木箱には火打ち石を収めている。この棚はカビも加勢したか真っ黒であったが,甦った。ベニアではこうは再生しない。下部を占めていた収納箱は,神饌用の炊事場を片付けたので,不要となった。  電話がどこでも取れるようにと,電話線が縦横に走っていた。電話線収納ケースを外しても,ヘラやサンダーなどを使ったが,その糊が剥がれない。Locktiteの「シールはがし」を使って言わば浮かせて?,ヘラを主に使って剥がした。最初はシールはがし無しで2時間近く格闘したが不可能だった。  図5の左端近くの写真は王仁三郎の等身大のものである。廊下そして玄関にまで広がっていた道具などもこの神饌用炊事場の棚に収めることができた。これまでは,皿類は神殿下の収納箱に入れて,お宮の前に置く三宝や陶器類はこの炊事場に置いてきた。お宮それぞれの陶器は,未分類で置いてきたが,図6のように,分類して配置することができた。  タニハには,お宮が6宮ある。神殿は広い中央枠,比較的小さな枠がその左右に。中央には,向かって右から,開祖,大天主太神,聖師,そして小幡神社の産土神である開化天皇である。順位としては,大天主太神,開祖,聖師,産土神である。祝詞奏上の神号奉称の際には,大天主太神(おほもとすめおほみかみ),惟神真道弥広大出口国直霊主命(かむながらまみちいやひろおほいつきくになほひぬしのみこと),瑞霊大神(みづみたまのおほかみ),産土大神(うぶすなのおほかみ)を,神号に「守りたまへ幸はへたまへ」を加えて,二回ずつ称える。器には墨またはマジックインクで,それぞれ,大大(大天主),大(天主),主神,小,とある。神殿の右枠には祓戸四柱神,左枠には木庭次守をお祀りしている。父の生前中,左枠は物置になっていた。その付近の廊下に木庭次守のお宮を置いていたが,ぼく元晴が皆さんにお願いし,左枠にお宮を配置させていただいた。木庭の祖霊宮では無い。  父の生前中,中央のお宮は産土さんを入れて3宮であったが,三代教主昇天に合わせて?というか,四宮になったように思う。タニハの賛同者の皆さんはその意味を聞いておられたかも知れない。聖師によれば,「惟神真道弥広大出口国直霊主命」は,開祖の神名とされているが,父に別の機会に尋ねた折りには,少し考えて三代教主もそのなかに入ると答えたと思う。「惟神真道弥広大出口国直霊主命」は,開祖以来の教主の集合的表現なのであろう。  なお,図7では,左枠内には祓戸四柱が祀られ,木庭次守のお宮は外に配置されている。 おわりに  父昇天の後,隅田光氏と山崎由美子さんが中心になって,十五年間,お祭りが年に数回,挙行された。ぼくはお客さん的立場と勝手に感じていて,カワラケに大天主とか主神とか書かれていることに疑問を持ち,皆さんに尋ねたこともあったが,納得行く回答は得られなかった。父の文献を読む中で,お宮の意味が自然とわかるようになった。 以上,Apr. 11, 2021記  

動かない障子の上棧を削る whittle top horizontal muntins of irremovable shoji or fusuma doors

はじめに  タニハでは父が昇天して後,八畳三間のアイランド居間の障子や襖の動きが悪くなり,さて冬になって填めようとすると填まらなくなる現象があり,心にちょっとした重荷を感じつつ,そのまま放置していた。退職後,上棧を削ればいいことを思いつき,40枚の障子と襖の戸にチャレンジすることに。  ネットでみたら,外れない戸は車のジャッキを使えば良いらしい。そして上棧を削るのは際カンナや平カンナなどで。ネットでは簡単にできるように書かれているが実際にやってみると,全くの素人にとっては,ちょっとした工夫が必要であることがわかった。片道50分程度の道を通いつつ,チャレンジ別々の日数で三日目,試行錯誤しつつ,やっと2枚の障子ができた。この時点でわかったことを整理したいと思う。 1. ジャッキアップ  八畳三間のアイランド居間の障子を観察した。写真1のように,上棧戸首の頂部は鴨居の溝に引っ付いている。道理で動かない筈だ。どれほど削ればいいのか。アイランド居間の隣の茶室の障子は全然問題がない。測ると溝と戸首頂部との間に4mmの隙間があった。これが基準になるはずだ。  まずはこの障子を外さないと。 写真2 鴨居に一枚の厚い板きれを,閾には二枚の厚い板きれを並べてその上に中型車の比較的小さなジャッキを置いて,ちょっと細い印象の丸棒で支えて,ジャッキアップした。いずれも近所のコーナンで購入した。前者の板きれが三個で165円 Nov. 5, 2020購入,後者の丸棒が620円 Nov. 3, 2020購入。板きれは,ジャッキ,丸棒,鴨居を支えるのに必須アイテムである。  かなり重く,ジャッキ付属のアーム先を折ってしまった。後で気がついたが,アームを使う必要性は無かった。紹介サイトでは,ジャッキアップが功を奏する頃にはギシギシと音がするらしいけど,当方では無音だった。  まだ障子は外せないと思ったけど,何とか外れた。左の写真では,丸棒が撓っているのがわかる。 以上 Nov. 19, 2020記 2. 道具  作業過程で,道具などを購入または既存のものを使用した。既存のものは,ジャッキ,刃が細かく薄いノコギリ,ノミ,木工用ボンド,軍手,作業用シート,線引きおよび作業中の手を置くための棧板,1m長の木製折れ尺,である。購入したのは,両際(りょうきわ)カンナ,そして後に平カンナ,上記の丸棒と端切れ厚板,厚手4mmゴミ袋798円,スポンジ研磨128円,川勝SK11一般刃物用砥石(何がいいかわからないまま)948円 Oct. 27, 2020である。 写真3 アマゾンで,購入Oct. 27, 2020した。千吉 両際鉋 ふち・入隅・キワ削り用 袋入り。3018円。この使い方が解らなかった。使ってみて,両際カンナというのは左利き,右利き両用と考えたが,それはあさはかであった。次のWebサイトに示されているように,杢目に応じて,左右を使い分けないと,いけないらしい。このサイトBlue Sky は参考になる。  なお,このカンナを進めるにはこの刃の頭の出っ張りを握る必要がある。当初,両刃の切り込み口に指を突っ込んでカンナを進め,右親指,中指,薬指,のそれぞれ腹に切り傷が入った。今も痛いし。軍手は必須だ。  写真3の右下にかすかに見える付属のスライド板は,次のサイトの図にあるように,カンナの進行をガイドする機能があるが,このガイドに装備されている二つの蝶ねじを使って,削り幅に応じて刃を出す必要がある。  写真4に注意されているように,加工を急がないことと杢目に逆らわないこと。刃の出方を大きくしたり,杢目に逆らうと,杢目への食い込みが強すぎて,削り上りがささくれたり,裂けたりする。 3. 工程  写真5には,襖の各部分の名称が記されている。本テーマでは,鴨居下辺の,障子の上棧(じょうさん)の「戸首」と「肩」という用語を使用する。建物の老朽化に伴って鴨居が下がって,障子を下方に圧迫して,障子が動かなくなる。戸首と肩の幾何学的構造をそのまま,削って下げることで,その応急措置が可能となる。最下部の戸尻を削る方が一度で済むと考えもしたが,元の戸尻面と平行に削ることは素人には難しい。戸首と肩を削るのであれば,多少の歪みは,空隙ゆえに吸収してくれる。 3−1. 鉛筆で線引き  まずは,直線を引くためのスケールは必須である。もう製図はしないと,沢山の大型スケールや三角定規を地理学教室に置いてきた。タニハ内をちょっと探したがみつからない。で,偶然,掃除機のそばに角材を見つけて代用することにした。線引きには多少短いが,折れ尺で正確に削り幅を測って,線引きを繋いだ。  写真6の障子の上に,その角材を置いているが,これは同種の障子の棧であった。何故,これがあるのか,(もう)記憶にない。線引きにはちょっと短かったがこれを使って,肩を4mm削るべく,鉛筆で直線を引いた。障子は長机2本上に置いている。畳上には,コーナンでかつて購入し車のトランクに敷いている防水シートを,設置した。これはその後の作業に大いに役だった。大量の鉋屑が出るからである。 3−2. 竪棧は,ノコ切り,そして,ノミで細かく砕く。その後,横棧は両際カンナで削り取る 写真7 このノコの刃は繊細でなかなかいい。写真では,まずは竪棧を横方向に切って,次に縦方向に切っているところである。  前者では,外側から内側,写真では左から右に切ると,竪棧が竪方向に裂けることはない。ただ,2.5枚のうち,トータル2回,裂けてしまい,木工用ボンドで修復した。裂け目にボンドを押し込んで,ビニールテープで留めた。   写真8 竪棧は縦方向に割れやすい。まずはノコで横切りしたあと,ノミで縦方向に割れば良い。両際カンナでは,竪棧を縦方向に裂いてしまう可能性があり,竪棧部分は,ノコとノミで,全部削り取ってしまうのがいいと思う。  この作業は,上棧を両際カンナで削り取る作業に比べると,極めて簡単である。  写真9には,両際カンナによる肩部の4mm厚の鉋屑だけを示している。この作業は,障子を畳と平行に設置しての作業である。障子の上の角材は,左手を置くのに使った。棧は杉の柾目材なので,逆目は回避できている。11月半過ぎではあるが,かなり汗をかいた。この方法とは違って,上棧を畳面に垂直に設置して,重力方向,つまり上から下に両際カンナを使った方が,無理な姿勢が不要で,柾目とは言え厳密な杢目に従った鉋削りが可能かも知れない。杢目に応じて,上棧を180度回転すれば,両際カンナを右手のみで使うことができるように思った。 3−3. 上棧を平鉋で削り取る  カンナは中学校の技術家庭で使って,苦手感があり,ノコ切りのみで上棧を切るつもりであった。 写真10 ノコで幅4mmを縦方向に長く切り取るのは難しい。断面は段々になっていて,深ぞりを伴う断面が出来て,のちのち怪我をしそう。 写真10 平カンナを中学校以来だろうか,久しぶりに使ったが,刃の出を最小限にすれば,スリスリと気持ち良く削れる。ノコギリはやめて,平カンナで削り取るのがいいようだ。両際カンナほど,時間がかからず,あまり負担ではないが,これも,障子を畳面に垂直にすれば,削りやすいかも知れない。 写真11 やってみて,そうではなかった。縦置きよりも横置きがカンナを使い易い。なお,平鉋の場合は,手の位置は刃よりも進む方向側に置く必要があった。刃を以て引くと,巻き上がってくる鉋屑が排出されない。以上,Nov. 26, 2020 写真12 サンドペーパーの写真のものをサラッと使用した。平カンナで削った面がつるつるになった。#240が何を意味するかわからないが,適当にコーナンで購入したものが良かったようである。商品の説明によれば,紙やすりに付着した木屑は水洗いして取り除くことができるとのことである。 おわりに  まだ,40枚中,2.5枚。だけど,このページを作成することで,両際カンナの使い方を知り,障子を畳面に垂直の置くアイデアが浮かんだ。今後,気がついたことがあれば,またこのページに追加したいと思っている。 以上,NOv. 20, 2020  Nov. 24, 2020にやってみて,垂直に置くメリットはなかった。水平に置く方が作業上,楽であった。垂直に置くと,鉋屑などは障子を置いた付近に集まるメリットはあるが,水平に置いても,スリッパを履いてやれば,靴下への付着は気にならなくなった。なお,ノコギリを引くときには粉末が飛ぶのでマスクを着用する必要がある。鉋屑は問題がない。以上,Nov. 26, 2020 追加 Nov. 29, 2020  本日で,東の間の北面,東面,中の間の北面の12枚の障子が完成。うち,東の間北面の1枚は問題が無かった。  中の間北面の4枚の障子は全部動かなかったので,機械的に天棧を5mm削ったが問題が生じた。    中の間の4枚の障子の上桟の削り落としが完成したが,この4枚のうち,右の2枚は右端に引くと外れそうであった。右の2枚と左の2枚を交換することでなんとか外れそうでは無くなった。 今後は,この可能性を考慮して,削る必要があるのではあるが,次の写真のように,障子1枚分で敷居と鴨居の距離が1cm変わるので,対処するのは難しいことではある。 写真14 4枚の障子のうちの左端の障子上桟と鴨居の間の隙間を示している。両際カンナで削った断面が白く横に見えている。この左端の障子の敷居から鴨居までの高さは,左端でおよそ177cm,右端でおよそ176cmであった。  4枚の障子の中央部分でも176cm。敷居から鴨居までの高さは,柱に支えられている4枚の障子域の,左端と右端で177cmであり,それから中央よりに襖一枚でもう176cmとなるように鴨居が垂れ下がっているのである。  襖4枚は3間のパーティションとなっている。幸い,8枚とも,何とか問題無く動いたので,削らなくて良いことになった。2枚は何十年も外したままにしていたがその理由は動かないことであったのだが。    見にくいかもしれないが,襖の上桟は竪桟のみ肩があるが,横桟には肩はないことがわかった。それゆえ,上桟を削り込むのは平カンナだけの作業でいいことになる。  湿気が多い時は動かない可能性がある。  本日,Nov. 29, 2020,調べたら,中の間の南面の4枚の障子はめでたく動いた。障子も問題がない。さしあたり人の移動を考えると,西の間の西面のチェックが必要。それが完了したら,東の間の南面,西の間の北面,南面のチェックだ。 追加 Nov. 30, 2020  連続のタニハはきついけど,気になって訪問。結局,アイランド三間での上棧の削り落としはこれ以上はほぼ不要と考えた。昨日の体験で,削る意欲が失せたこともある。タニハの設計図はあるだろうが,まだ邂逅していない。結局,アイランド三間について,上棧の削り落としが必要だったのは,赤色の矩形部分で,いずれも不具合が生じる前の使用頻度が最も高い場所であった。屋根などの荷重が原因と考えてきたが,ちょっと判断できない。  アイランド三間の南方には廊下を隔てて,4枚×3のガラス戸があり,それぞれ,4枚のガラス戸のうち,両脇のガラス戸の間には網戸が用意されている。アイランド三間の周囲には回廊があるが,本棚があって,事実上使えるのは中之間の南方の二枚である。この2枚のうち1枚は使えるが,それを使わずにこれまで上棧の削りが無いと使えない網戸を立てかけて使ってきた。その使えない網戸も使える網戸を上に重ねて計測し,同じサイズになるよう上棧を削った。    上の三枚の写真18,19,20は網戸に関わるものである。このアイランド三間の南方のガラス戸に合わせては,築後,網戸が6枚作成され,そのうちの2枚がこの中央のガラス戸4枚のそばに立てかけてあった。その2枚の内,1枚は簡単に填まり,もう1枚は大きすぎた。今思えば,残りの4枚からこの中央のガラスに当て嵌まるものがあったかも知れない。  とにかく,写真18のように,二枚重ねた内の下の方を上のものに合わせて削るということである。写真19はもう片方から撮った写真で,前者が5mmほど長く,後者は3mmほど長かった。そして両際カンナと平カンナで削り,写真20のように見事,填まったのである。Nov. 30, 2020 追加 Dec. 2, 2020  今日は,中之間の南方のガラス戸4枚のうち,3枚をやっとこさ,外すことができた。特に最後の1枚を外すのに1時間は懸かったと思う。レールを外すか,右端なので放置して固定するかと考えもした。カローラのジャッキが小さく壊れる寸前,何とか外すことができた。南側の庭は草刈を全くしていない。鬱蒼としている。この廊下も不注意で油が沁みている。取れないものかなあ?  ガラス戸4枚1間の中央にジャッキを設置しても全く機能しなかった。それで右端ガラス戸の範囲で,ジャッキのハンドルを回すことができるぎりぎりの場所に置いて,閾から外した廊下面に設置して鴨居側に斜めになる形でジャッキと柱を設置した。斜めなのでどうしてもジャッキが安定しないので,タオルでジャッキ面が外側になるように配置して何とか,ガラス戸を,外側に移動して,外すことができた。  ガラス戸左側2枚の中央よりのガラス戸を外した際に,鍵穴が壊れてしまった。このように写真を撮って,明日,コーナンで調達したいと思っている。 外したガラス戸のサイズを念のために測ってみた。左右の縦棧の長さはいずれも一致した。当然か。上棧頂部から下棧底の距離は1765mm,肩の下りは15mmであった。Dec. 2, 2020 追加 Dec. 7, 2020  このところ,二日に1回のペースでタニハに行っている。その成果?を。  ガラス戸の鍵を交換した。折れた部分の前側だけ交換しようとしたが,結局,後側も交換した。コーナンプロで購入,712円。今後,他の鍵も折れる可能性があり,ここに記録を留めた。東大阪市の和気産業製「真鍮メッキ中折ネジ締30mm」VA-183, http://www.waki-diy.co.jp/contact/contact/。  後の部分の木に深く溝が入っている。鍵を完全に抜かずに開け閉めした結果ですなあ。 写真27では2枚のガラス戸の長さを比較している。下のものはこの中央枠も右端のガラス戸である。ジャッキアップでも取り出すのに苦労したもの。肩と上端を5mmずつ削ったが,これに隣接する中央よりのガラス戸の長さと同じになった。  この1間枠の右端のガラス戸をさらに5mmずつ削ったら,言い換えるとトータルで10mmずつ削って,やっと枠に収まった。もちろん中央よりのガラス戸は5mmずつだけ削ってうまく行った。 […]

和室敷居設置コンセントの更新 Renewal of sockets on Japanese threshold sills

はじめに  写真1のように,敷居コンセントがかなり劣化している。問題無く使用出来るが,火災などが心配である。そこで,スケールの下方に見えるようにプラスチック板を外してみた。  本体を抜こうとしたが,大工さんだろうか,余りにキッチリと穴開けされていて,大きな工具を使って外そうとしたが外れない。畳を外して,側面から対処しないと外せないようだ。  日和って,プラスチック板だけ交換も考えているが,本体を含めたものより高い。楽天では送料で儲けているとしか思えないニッチなビジネスをしている。楽天の社長が送料無料とぶち上げた理由もわかる。楽天のお店はかなり怪しいものが多い。アマゾンやヨドバシの方が安いのだが,プラスチック板だけは販売されていない。  作業の準備  写真2と写真3は,パナソニック(Panasonic) 扉付和室コンセント ミルキーホワイト WF2000W,でアマゾンで検索した際に現れるページから拝借した。このページが一番安い。660円で送料は原則無料。楽天やモノタロウなどはこの2倍だ。  思えば,写真2がもともとのコンセントの姿であった。写真3の設置ガイドからすると単に電線を底の穴に入れるだけだ。配電盤のヒューズを切って作業すればいいのだが。写真4の図面の単位はmmである。  畳を剥がすのが億劫。次のサイト,畳の剥がし方教えてください,から抽出した文が次のもの。 畳の際の部分、角部分に、畳と畳の間に、ハサミを2,3センチ差し込み、釘を抜く様な感じでこねて見て下さい、畳の角部分が持ち上がります、指にの引っ掛かりが少ない場合は、10センチ位横にずらす同様に、ハサミでこねます、後は素手で持ち上げます。あまり深くハサミを差し込むとハサミが折れる事も有ります、注意して下さい。(ハサミは子供用の紙切りハサミで大丈夫です) 追加 Dec. 23, 2020: ピンぼけだけど,畳上げ専用?の金具をタニハの道具箱から見つけて,畳の角に入れて,少しずらした写真。簡単に畳上げができた。上記アドバイスは正解である。ハサミでもやってみたが,この専用の薄い金具が当然ながら,簡単であった。  さて,前述のアマゾンのページから注文しようとすると,送料が410円で,計1076円となった。ヨドバシカメラで探すと,710円で送料無料を見つけた,パナソニック Panasonic WF2000W [扉付和室コンセント ホワイト]。同じヨドバシカメラでも,¥499 + ¥680 配送料,もあるので注意だな。 以上,Dec. 15, 2020。 交換実施  昨日,昨日,試行錯誤しながら,交換した。今後はこの作業はできるようになったが,たぶん,もうしないだろう。交換過程でわかったが,本体の劣化は全く無かった。それで上面のプラスチック板だけ交換することにした。アイランド三間の南側にそれぞれ2個設置されていて,中之間の2個と,西之間と東之間の中之間寄りのそれぞれ1個,計4個が風化している。1個は昨日交換したので,あと3個。ネットで検索しなおし,パナソニックにもプラスチック板だけでもメーカーが省エネの観点から販売すべきでないかといったご注意を申し上げたりした。  モノタロウからDec. 22に玄関レールや戸車などを注文しており,今月の注文の送料が無料になる。ヨドバシではなくて,モノタロウのサイトで検索すると,「パナソニック電工 扉付和室コンセント WF2000W ミルキーホワイト 1個」が,税抜¥599であった。3個だと300円以上,安い。本日,注文した。以下,交換過程を示す。  写真6のように,本体はキッチリと埋め込まれている。このコンセント本体を外すこと自体苦労した。この写真のコンセントのそばには,二つのビスが見える。これは本体から抜いたものである。コンセント本体を外すには,まずはこのビスを抜く必要がある。このビスを抜いた跡のネジ穴は,中央のプラグ差し込み口に近接した二つの丸穴に当たる。この2本のビスを外すと,電極ストッパーが組み込まれた銅板の爪を,電極銅線からリリースすることになる。  ズボラをして,新たなコンセントを電極に刺そうとしたら,パチンと大きな音が発声。仕方なく,写真7の配電場に向かった。ブレーカーのサブスウィッチの対応関係がわからない。下段の左から三番目の本館というマジックインクのメモのサブブレーカーを切ると,敷居コンセント6個すべてで,通電しなくなった。  写真8は本体を外したところである。敷居の凹みには,銅線の二つの電極が見える。  写真9では新たなコンセントを入れようとしたが余りに窮屈で入らない様子を示している。そこで,写真10に見えるように,写真に見える本体下方をノミで削りおとした。ただその結果,本体を設置できたが,本体を敷居で留める木ネジ穴の余裕がかなり厳しくなった。  写真9の本体上面のプラグ差込口に近接して,本体軸方向の外側には銅板が見え,そこにはそれぞれビス穴がみえる。この穴に近接して本体軸のより外側の同銅板上により小さな穴があり,電極である銅線が飛び出している。ここでの説明は,上述の写真6で説明したビス穴であり,電極である。この銅線の最下方が写真9の下部に見えている。新たなコンセントに銅線を入れるには,本体を逆さまにして,電極穴に電極の銅線をガイドする必要がある。設置当初時は銅線は長く,ガイドは容易であったろう。その時には,ガイドの後に銅線を切断したものと思われるからである。 おわりに  写真11のように何とか新しいコンセントを設置した。なお,フタの位置決めの際には,プラグを差して,最も適当な場所を模索する必要がある。前述のように,あとは3個のコンセントのプラスチックのフタを交換することで済む。 Dec. 23, 2020

電気コタツのヒーター交換 Renewal of an electric heater attached to the underside of the table

はじめに  父の生前から使ってきた家具調電気コタツが遂にお釈迦になった。ヒーターは問題なくリモコンの故障のようだが,この際,ヒーターユニットを更新することにした。ネット検索をすると取付枠がかなり限定されていて,コタツ全部を更新することも考えたが,幸い,コイズミのKHH-6180が使えるように思えた。金具を用意したり,木枠に手を加えるつもりで,まずは注文した。 https://www.koizumiseiki.jp/products/detail/599  一昨日にアマゾンから注文して,今朝,玄関に置いてあったので,早速,金具なども用意して,亀岡市本梅町のタニハにでかけた Dec. 14, 2020。東芝の家具調コタツのヒーターと関連部分を外して,コイズミのヒーターを装着した。東芝製は35年ほど前のものと比べて,コイズミのあまりに単純な構造に驚いた。メジャーのメーカーはいつの頃からはわからないが,製造から撤退したようだ。この技術はもう数十年前で止まったようである。 東芝家具調コタツKY-260FC with やぐらコントローラーkYM-38の取り外し 上の3枚の写真は東芝家具調コタツのヒーターの撤去過程の一部を示す。左端は撤去前,中央は中心部を外したところ,右端は全部外した後で天板が見えている。ネジ数は数十個に及んだ。 コイズミのヒーターの設置  中央の写真に見られるように,東芝の木枠に手を加えることなく,まずは,取付金具にビスを通して,目一杯ヒーターの穴に回し込んだ。その後,木枠の長辺35.5cm長の4個所で位置決めをして,木ねじを木枠長辺に押し込んだ。器具用プラグ受けは,東芝の木枠を利用することは可能であったが,これを実現するには工作が必要で,これを回避すべく,ビスー取付金具ー木ネジのセットを木枠にただ載せる形にした。 おわりに  以上,作業を簡潔に示したが,パズル的な多少の工夫があって,省力できたと思っている。東芝のヒーターを外す際に,ファン付近にかなりの綿埃が入っていた。交換したものにも当然ファンが附いているので,この付近の掃除が必要であることを認識した。  注意すること: 0. はじめて使用する際には塗料の臭いがするが使用してゆく中で消えて行く(15分間外気でONし続けたが改善ししなかった),ファンの音がするが異常ではない(気にならない),リモコンをコタツ布団の中に入れないこと,1. 電源プラグの掃除,2. 時々,取付金具の緩みを締めること。以上,Dec. 15, 2020記

タニハ環境整備1 environment equipment renewal of Taniha Cultural Inst. 1

 父の昇天の後,長くほぼ放置状態だった父のタニハ文化研究所の整備を開始している。先日,道路隔てて真向かいにある特別擁護老人ホームの代表の方から,入居者またはスタッフが新型コロナに感染した場合の協力,つまり当方の施設を利用したい旨,依頼された。できるだけの協力を惜しまないことを告げた。この施設はぼくの小学校1年と2年の担任だった先生の夫と,それを引き続いて,息子さんが中心的に運営されている。偶然の出合いであった。  屋根はトタン張りで430平米ある。この塗り替えを10年近く前に実施したが,業者が悪くて,塗り替えて数ヶ月で,みるみる剥げだして破片が屋根周辺に再現なく落下している。知人から助けてやって欲しいという依頼で,お願いした結果がこれである。壁もその業者にお願いしたが,剥げ落ちて惨憺たる状況である。今,業者選定中である。  他方,自分でもできることを始めている。 ムサシ RITEX 7W×2灯 LEDセンサーライト 「AC電源タイプ」 防雨タイプ LED-AC314 玄関外構にあった和式の蛍光灯の代替である。二カ所にあったものの代替をこれ一つで代用する。LEDライト2本があり,回転できる。電球が切れた段階で廃棄するとある。センサーは気温の増加に対してで,人間以外の動物にも反応する。点灯を,昼夜共か夜のみ,の選択ができる。点灯時間も5秒〜5分の選択が可能。コーナンで税抜き5980円であった。 設置終わって,玄関の出入りしていると小鳥が来たので,iphoneを取りに行って戻ってきてもまだ居てくれた。その写真である。写真のほぼ中央の黒い鳥影である。時々,来るようになったが,とまったのは,初めて。 左の聚楽壁の和風照明跡はもう使わないので,ケースをここに釘付けしたいと思っている。 隅田光さんと山崎由美子さんが,茅ヶ崎から足繁く通っておられる頃は,タニハには少なくとも年7タームほど,出かけていたが,ご両人退役後の2,3年,タニハには,ほぼ年3ターム程のペース。今春の退職後からは,生きる姿勢の変化か,よく出かけるようになった。神棚用の炊事場には,なぜか昨夏のお祭りで使った三宝上の米,塩,酒(これだけは飲み乾されていた)がそのままで,特に塩が凄くて,泡状になって三宝に溢れ三宝の縁板を越えていた。土器(かわらけ)の洗浄については,僕が専任であった。このシンクは台所と共に父昇天後,コーナンに依頼して更新したものである。 一回のお祭りで,洗い物の量はかなりのものになり,大皿など百点に及ぶだろうが,水道水をザーザーと流すほどの洗い物ではなかった。もともと汚れていないので。今回のような汚れは初めての体験で,これまでになく,大量の水を使った。ふと足下を見ると,足下は大洪水。左の写真はちり取りと棕櫚箒で水と掬い取って乾いたタオルで拭き取った跡の様子である。このような使い方をシンク更新後したことが無かったので,コーナンによる設置ミスと考えた。購入した筈のコーナンプロ箕面坊島店は無くなっている。自宅そばの別のコーナンプロ今宮店に電話した。 購入後の時間は経っているが,生活の場所でないので,工事ミスに気づく機会が無かった。手抜き工事を見て欲しい。出張費や修理費は支払うと宣言した。コーナン本体の業務部が対応してくれることになっている。 Jun. 29, 2020記 午後8時前,タニハから出ると,上限の月がほぼ南中。タニハの外には,今日設置した人感LEDライティング,玄関内も前回設置したLED人感ライティング。午後二時過ぎに来たらこの玄関にイタチのウンコらしい物があったので,その防御になるかも知れないなあ。 TVアンテナ外さないとねえ。