木庭次守と,聖師の昇天 Tsugimori, and the ascension of Onisaburo

下記の木庭(2002)のpp. 429-430を次に掲載する。
・木庭次守編,2002. 『出口王仁三郎玉言集 新月のかけ』下巻,八幡書店,454p.+見出し索引18p.

○大本の火継の神事
 更に御昇天の昭和二十三年一月十九日の翌日より、瑞祥館で十日間にわたり、聖師の聖体の近くで聖師著の讃美歌を唱え、『霊界物語』を拝読し徹夜してお通夜に仕えまつり、いよいよ一月三十日午後十二時より天恩郷を出発することとなる。
 聖師の霊爾は天恩郷の瑞祥館から亀岡の町はずれまでは二代教主が更生車にのって抱いてお供された。そこから綾部梅松苑まで出口宇知麿氏がお供された。(行列の順序は、御神燈、霊爾、御柩、お供)
 木庭は瑞祥舘の聖師の霊爾の前に供えられた燈火、カワラケに種油で燈芯にとぼされたお燈火をそのままで錻力でつくられた容器に入れて捧げ持ち、も一つは火縄(火縄は大本開祖より出口王仁三郎聖師への火継に用いられたものを使用)にとぼして歩いて先供として先駆する御用である。天佑で珍しく雪の少ない丹波高原を、聖師の御柩をのせた、飛行機の車輪二つをつけて造られたにわか造りの車を、若い人達が引いて行く、その先登に立って歩くのである。雲の模様の布をかけて、金塗雲車かとフト思いつつ。三の宮で一時間ほど休息。予定より三時間も早く綾部へ着く様子なので。二百余名の大本の宣伝使と信者が無事におともして、夕刻早く、綾部の本宮山麓の彰徳殿に安着し、聖師の御柩を安置した。私の服装は昭和青年会服に、熊本県立師範学校時代に着用していた外套を着し、足は地下足袋に手造りの草鞋をはいて、ゲートルを巻いて十五里を徒歩で先どもをさせて頂いた。
 二月二日の葬祭には、綾部の総本苑から電話ありて着物を着て来るようにとのことで、有合わせの紋服に下駄をはいて奉仕した。彰徳殿の葬祭に参拝して、竹製の炬火に霊前の燈火をうつしてささげて、天王平の奥都城まで再び先駆を仕え、墓前の埋葬祭に奉仕した。炬火をささげもちてかけ足で彰徳殿に持ち帰り、火継ぎの神事の御用に用意された、素焼の釜に炊飯の準備された下におかれた素焼の七輪のかまどに炬火の竹を差し入れて、神事の一端に仕えまつることが出来た。実に有難き極みである。この神事により出口聖師より二代の出口すみ子刀自に道統が惟神のまにまに継承された。
 火継ぎの神事とは、大本の道統の継承者と神定される人が、出口なお大本開祖の血統と出口王仁三郎教祖の血統で、出口の姓を名のる女性が、開祖、教祖、教主の霊前に供えられ、墓前祭で炬火として捧げられし燈火によって、炊きあげられし御飯を食べることによって、大本の教主と神定められる神事である。『大本神諭』に示された「お世継」「御用継」の神定の神事である。ああ惟神霊幸倍坐世。 (昭和二十三年二月二日)

 上記の二月二日の葬祭での,「綾部の総本苑から電話ありて着物を着て来るようにとのことで、有合わせの紋服に下駄をはいて奉仕した。彰徳殿の葬祭に参拝して、竹製の炬火に霊前の燈火をうつしてささげて、天王平の奥都城まで再び先駆を仕え、墓前の埋葬祭に奉仕した」際の写真である。この写真には,数日前に出会った。

出口王仁三郎聖師記念写真集p.32の,「順路 炬火を捧持して」である。

https://www.onisavulo.jp/modules/ond/index.php?content_id=15

中央が木庭次守31歳,右手は伊藤栄蔵45歳

 木庭次守は76歳7ヶ月での昇天で早すぎると感じていたが,不遜ながら,聖師は76歳5ヶ月で,王仁三郎一辺倒だった父は今頃「不思議だなあ」とつぶやいているかもしれない。May 28, 2020記